第1話 記憶図書館の司書
静寂が支配する空間だった。
図書館、と呼ぶにはあまりに途方もない場所。壁も天井もなく、ただ延々と続く書架には、この世界に生まれた全ての人間、全ての生物、全ての物体の「記憶」が、淡い光を放つ書物となって並んでいた。
アリスは、この途方もない場所で働く司書の一人だ。彼女の仕事は、書架から零れ落ちそうになる記憶の断片を拾い上げ、埃を払い、元の場所に戻すこと。しかし、彼女には特別な能力があった。触れただけで、その本の持ち主の記憶を読み取ることができるのだ。
今日もまた、彼女は古びた一冊を手に取り、そっとページを開いた。 目の前に広がったのは、市場の活気、肉を焼く香ばしい匂い、そして売り子の男の、金銭への執着と家族を思う優しい声。アリスは、男の心の奥底に隠された「本音」まで読み取ってしまう自分の能力に、いつもわずかな息苦しさを感じていた。
「アリス、また人の記憶を覗いているのかい?」
優しい声がして、顔を上げると、上司のアルバスが微笑んでいた。彼は、彼女の孤独を唯一理解してくれる存在だった。
「…すみません。つい、手癖で」
「君の能力は素晴らしい。だが、知りすぎると疲れるだろう。たまには、自分の記憶だけを整理してみるのもいい」
アルバスの言葉に、アリスは曖昧に頷いた。彼女の完璧な記憶力は、図書館の仕事では重宝されたが、プライベートでは何の役にも立たない。むしろ、過去の辛い出来事や、他人に向けられた悪意を鮮明に覚えてしまうため、人との関わりを避ける理由の一つになっていた。
その日の午後、記憶図書館に、一人の男が運び込まれた。黒い髪に、翡翠のような瞳。上質な服を身につけたその男は、ひどく混乱した様子で、ただ一点を見つめている。
「彼が?」
「ああ。国の第一王子、ライオス殿下だ。何者かに記憶を全て消されてしまったらしい」
アルバスは難しい顔で言った。記憶を消す魔法は、禁忌とされている。その魔法を使い、王位継承者である王子を狙った者がいる。事態は想像以上に深刻だった。
「君にしか頼めない仕事だ、アリス。殿下の記憶の断片を読み取り、消された記憶を復元してほしい」
王子の記憶を覗く? 他人の、しかも王族の心の奥底まで知ってしまうことに、アリスはためらいを覚えた。だが、アルバスの真剣な瞳に、彼女はゆっくりと頷いた。
「…承知いたしました。私にできる限りのことを、やってみます」
アリスは、意識が朦朧としているライオス王子の手に、そっと触れた。王子の記憶は、まるで白い霧の中にいるようだった。何も見えない。何も感じられない。 しかし、その霧の奥底から、かすかに聴こえてくる音があった。
それは、雨の日の寂しげな歌声だった。