第9話『境界の揺れは、静かに始まる』
朝。濃い霧が村を包み、屋根の輪郭をぼやけさせていた。空気は冷たく、肌に張り付くような湿気を含んでいる。まだ太陽の姿はなく、曇った空の下で村全体が薄暗いまま、静かに眠っているようだった。
ユウトは納屋の裏に設置されたろ過装置へと歩を進めた。草に覆われた足元を踏みしめるたび、濡れた地面がしっとりと音を立てる。装置の脇にしゃがみこみ、炭の層に指を添えると、わずかに湿り気が残っていた。昨日よりも乾いている──それは気温が少しずつ上昇している証拠でもあった。空気の匂いも変わった気がする。夜の冷え込みが緩み、季節がゆっくりと動いているのだと、五感が伝えてきた。
「ユウト、おはよう!」
その声が霧の向こうから聞こえてきたとき、ユウトは振り返った。リーネが古びた秤を大事そうに抱え、小走りでこちらに近づいてくる。霧のなかにぼんやりと現れるその姿は、夢から抜け出してきたかのようだった。
「それは……?」
「ばあちゃんの。薬草を量るときに使ってたやつ。納屋の奥で見つけて……ちゃんと動くか試してみようと思って」
木製の台座に、くすんだ金属の皿。そして手作りの重り。年月の経過を感じさせるその道具は、しかし不思議と気品を帯びていた。リーネが丁寧に磨き上げたことが、その佇まいから見て取れた。
その日から、リーネは「測る」ことに熱を上げはじめた。朝に汲んだ水、天日干しにした草、拾った石、火にかけた炭の前後。あらゆるものを秤にかけ、記録し、変化を観察していった。
「見た目じゃ分からないことが、“数”で分かるんだね」
「数は、見えないものを“比べる”ための道具だからな」
昼下がり、装置のそばでリーネは紙に向かって黙々とスケッチをしていた。彼女の眉は真剣に寄せられ、髪の先が風に揺れても、視線は微動だにしない。
「……最近、水を通したあと、上の方に草の匂いが残るような気がして」
彼女が差し出した紙には、ろ過装置の断面図が描かれていた。その構造のなかに、ネバ草を上下二層に分けて配置するという、これまでにない発想が記されている。
「上で匂いを抑えて、下で菌を整える。そんなふうに働いてくれたらって思って」
ユウトはその図をじっと見つめ、感心を隠せずに頷いた。
「これは理にかなってる。順序も構造も筋が通ってる。……空気の成分に着目したのは、正直、俺でも思いつかなかった」
「ほんとに……? もし違ってたら、ちょっと恥ずかしいなって思ってた」
「違っててもいい。“考えた”ってことが、すでにすごいんだ」
リーネは照れたように笑ったが、その目は確かに輝いていた。
午後、納屋の脇に広げられた簡易教室では、“重さ”と“時間”をテーマにした観察が行われた。子どもたちは順番に炭を秤に乗せ、前日との違いに目を見張っていた。
「昨日のより軽い!」「ほんとだ、乾くと軽くなるんだ!」
笑いと歓声が教室に満ち、空気が少し柔らかくなる。そのなかで、ひとりの少年がぽつりと手を挙げた。
「先生、“火”って……重さあるの?」
ユウトは一瞬だけ空を見た。流れる雲の切れ間から、薄い光が差し込んでいる。
「火そのものは量れない。でも、火が“何かを変えたあと”なら、それは量れる」
授業が終わった後、子どもたちは散り散りに帰っていった。道具を片付けながら、リーネがそっと隣に立った。
「ねえ、ユウト。……ちょっと、聞いてもいい?」
「どうした」
「……ユウトって、どこから来たの?」
その問いに、ユウトは少しだけ手を止めた。
リーネの声には、長く押しとどめていた感情がにじんでいた。言葉にするにはためらいがあり、それでも聞かずにはいられない──そんな揺らぎが、目の奥に灯っていた。
ユウトは静かに彼女の問いを受け止めた。
「気になるのは当然だ。でも……まだ言葉がちゃんとまとまらなくて。……もう少しだけ時間をくれたら、ちゃんと話す」
リーネは、短く息を吸い込んでから頷いた。
「うん。……待つ。だけど、逃げないで」
夜が更け、祈祷師ナグナ婆は縁側に腰を下ろし、静かに月を仰いでいた。焚き火の残り火が、ぱちぱちと小さく音を立てている。
ふいに、遠くから微かな金属の揺れる音が風に乗って届いた。ナグナ婆の眉がわずかに動き、耳をそばだてる。
「……あの音、どこかで……」
口に出した瞬間、その記憶の輪郭は霧のようにぼやけていった。