第5話『“役に立つ”と呼ばれた日』
三日目の朝。まだ太陽は村の屋根を越えきっていない時間だった。
納屋の扉の前で、軽いノックと共に聞き慣れた声が響く。
「ユウト、起きてる? 今日、畑、見に行こうよ!」
リーネだ。あの軽やかな声は、こんな朝にも変わらず明るい。
俺は布団をたぐり寄せる手を止めて、ゆっくりと体を起こす。
少しだけ重たい頭と、鈍く痛む腰。それでも昨日よりずっと、動くのが億劫じゃなかった。
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畑にはもう、何人かの村人が集まっていた。
俺とリーネが木炭を混ぜた区画の前。そこだけ、土の色が他と違っていた。
乾いている。土の表面がほぐれて、湿気が奥に引いている。
そして、その中央には——芽が出ていた。
小さい。けれど明らかに、他の畝にはなかった“命の兆し”だった。
「見て、やっぱり芽が出てる。昨日の夜にはなかったのに……!」
リーネが興奮したように囁き、俺の袖を掴んだ。
その声に反応するように、周囲の村人たちも近寄ってきた。
「これは……」「生きてるのか、これ?」
ざわめきが広がる中、俺は無言で畝にしゃがみ込んだ。
指先で土を掬う。軽い。乾いているのに、しっとりとした粘りは残っている。
「炭が水分を吸って、空気を残す。根が呼吸できるようになる」
誰にともなく呟いたその言葉に、いくつかの視線が集まった。
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「これ、お前がやったのか?」
年配の男が問いかけてきた。
その目は、疑いと驚きと、ほんの少しの警戒で濁っていた。
俺は立ち上がり、はっきりと言った。
「ああ。数日前、ここの土を見て、湿気が多すぎると感じた。木炭で調整しただけだ」
「そんなやり方、聞いたこともねえ……祈祷師様に話は通したのか?」
言葉が硬くなるのを、ぐっと抑えた。
必要なのは怒鳴り返すことじゃない。見せることだ。
「この芽が、結果だ」
ただ、それだけ言った。
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そのとき、コツコツと小さな足音が聞こえた。
杖の音だ。ナグナ婆だった。
祈祷師は人混みをかき分けるように前に出て、俺の横でしゃがみ込んだ。
土に指を突き立て、静かに、ゆっくりと掬い上げる。
長い沈黙のあと、ぽつりと漏らした。
「……土が、息をしておるな」
その一言で、場の空気が変わった。
それは肯定でも否定でもなかったけれど、誰もそれを無視することはできなかった。
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村人たちは徐々に散っていった。
けれど、視線だけはずっと俺の背中に残っていた。
ある男が、すれ違いざまにぼそりと呟いた。
「……ありがとな」
俺は返事をしなかった。というより、できなかった。
胸の奥に、何かが詰まったようで、言葉が出てこなかった。
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昼過ぎ、畑に残ったのは俺とリーネだけだった。
彼女は空になった水瓶を抱えて、俺に話しかけてきた。
「ねえ、ユウト。これが“知識”ってやつ?」
「……かもしれないな」
「かもって……なんでそんな言い方なの」
「知識だけなら、地球にも山ほどあった。でもそれが人を救ったかといえば、そんなことはない」
「でも、今、あたしの畑、助かったよ?」
リーネの声には、子どもじみた素直さと、芯のある意志が混ざっていた。
俺はそれを正面から受け止めるだけの準備が、ようやくでき始めていた。
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夕方、納屋に戻って、自分の手を見た。
炭と土で黒ずんだ手のひら。爪の隙間に詰まった泥。
科学者でも、兵士でもない。
ただの逃げてきた男の、手だ。
でもその手で、誰かの役に立ったかもしれない。
「……そんな日が来るとはな」
独り言をこぼして、寝床に横になった。
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扉の向こうから、また声がした。
「明日も、畑、お願いね!」
リーネの声だ。
俺は、少し間を置いてから返した。
「……ああ」
その一言に込めた気持ちは、きっと昨日よりも多かった。