第3話『この村の“空気”は、優しくなんてなかった』
納屋の扉を開けたとき、ほんの少しだけ足がすくんだ。
新しい世界の光が、肌に刺さるほど眩しかった。
焼け焦げた都市の空ではなかった。
警告音やドローンの羽音の代わりに聞こえるのは、鳥の鳴き声と草を揺らす風の音。
——静かだった。怖いほどに、穏やかだった。
俺は、納屋の軒下から一歩、外へ踏み出した。
土の感触が靴底から伝わる。柔らかい。乾いてはいるが、表面だけ。
朝露が残っているのか、ところどころぬかるんでいた。
視線を感じる。あちこちから。
人影はない。けれど、いる。窓の隙間。扉の陰。気配がこちらを探っていた。
「……見世物かよ」
そう呟いても、誰も答えない。
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村は思ったより広かった。
木と石で作られた家々が並び、家畜の鳴き声や井戸の音がそこかしこに響く。
村人たちは、俺を避けるように道を開けた。
でも、すれ違う瞬間だけ、じっと、目を向けてくる。
「異物だってさ」「喋るらしいぞ」「神の意志か、災いか」
そんな囁きが、俺の背中を追いかけてくる。
見られるのは慣れている。
だが、見られているだけで“決めつけられる”のは……やっぱり、気分が悪い。
(また、か)
あの頃の自分が、どこかでうずく。
「除外候補Cランク」という言葉が、耳の奥で蘇った。
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「ユウトー!」
唐突に、明るい声が飛び込んできた。
振り返ると、リーネが笑顔で走ってきた。俺を見つけるなり、手を振っている。
「外、出たんだ! すごい、ちゃんと歩いてる!」
俺は答えない。
代わりに一歩だけ歩を進めた。逃げない意思を、黙って見せる。
「ね、ちょっとだけ付き合ってよ」
そう言うと、彼女は俺の腕をつかんで、ずるずると引っ張っていった。
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たどり着いたのは、小さな畑だった。
場所は村の裏手、川の近く。畝がきちんと並んでいて、芽吹いたばかりの野菜が規則正しく植えられている。
「ここ、うちの畑。あたしと、ばあちゃんが手入れしてるの。最近ね、土の匂いが変なの。祈祷師様が言ってた」
「匂い、で?」
「そう。水っぽいっていうか……重い感じ?」
リーネはしゃがみこみ、土をすくい上げた。
俺も隣に座り、指先で土をつまむ。
やわらかい。でも、確かに湿りすぎている。
粘り気がある。空気が抜けきっていない。
「水が溜まってるな。排水が甘い」
「……それって悪いこと?」
「根が腐る。呼吸できない」
「根が、呼吸……?」
俺は少し黙ってから、別の箇所の土を掘って見せた。
「植物も、呼吸する。土に空気がないと、窒息する」
リーネは目をまるくして頷いた。
「すごい……そんなの、祈祷師様は言ってなかった」
当然だ。感覚で生きるのがこの村の知恵なら、理屈で生きてきたのが俺の過去だ。
どちらが正しいかなんて、簡単には決められない。
「木炭はあるか」
「えっ?」
「焼いた木の粉。余ったやつでいい」
「あると思う……え、それ、なにに使うの?」
「混ぜる。水を抜き、空気を入れる」
リーネはしばらく考えてから、立ち上がった。
「持ってくる! ほんとにそれで良くなるの?」
「……試せ」
その一言に、リーネは笑って頷いた。
そして、走っていった。
彼女の後ろ姿を見ながら、俺は、ようやく深く息を吐いた。
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この村の空気は、優しくない。
でも——少しだけ、俺の言葉を聞こうとする人間が、ここにはいるのかもしれない。