第30話 真夏とエリー
初のジブリ映画を体験した後日。
真夏は夜遅く帰ったこともあり、寝坊をした。
八時過ぎに目を覚まし、急いで身支度を整える。
が、リビングに行くと神楽坂宗次とその妻、神楽坂京と共に朝食を口にする母の姿があった。
「おはよう真夏。話があるの」
久しぶりのロシア語だ。
忘れているかと思っていたが、案外覚えているものだ。
「なに? お母さん」
真夏が薄気味悪い笑顔で答えると、そこに京の声が差しいる。
「エリー、真夏と朝食をとってからにしない?」
母は口を出されると思っていなかったのか、目を丸くした。
真夏の母エリザベータ・バザロフはロシア人夫婦のもとで生まれた。
その夫婦が離婚し、父に引き取られたエリザベータは、父の日本人女性との再婚により、京という姉が出来た。
京が必死にロシア語を勉強してくれたこともあり、日常会話程度ならば意思疎通を図れるようで、そんな姉をエリザベータは尊敬していた。
「そ、そうね。そうするわ」
「ほら、真夏ちゃんも一緒にどうかしら?」
「はい。じゃあ……いただきます」
久しぶりに、母の隣に座る。
緊張しているのか、真夏の箸はなかなか動かない。
目の前には、白米に魚と野菜、味噌汁、オムレツにウィンナーまで備わっている。
「真夏ちゃん、湊は元気にしている?」
如何せん、宗次がロシア語を知らないため、彼は京のロシア語に不服そうに眉根を寄せた。
「はい。先生は、私とたくさん遊んでくれます」
「私、一度しか息子と会ったことがないから……」
一度しか会っていない。
京がその言葉を口にしたのは、これで何度目だろう。
彼女は食べ物に視線を落とし、オムレツをすくって食べた。
真夏もそれを模倣する。
「真夏、あなたまた他人に迷惑かけたの? 私はいつも他人に迷惑を――」
「ほらエリー。今は朝食の時間よ?」
「うん……」
母が容易く食い下がり、真夏は少し驚く。
エリーの小言は簡単には止まない。
毎日浴びせられる針のある言葉に、真夏の心は次第に穴だらけとなっていった。
「真夏ちゃんも、ちゃんと食べるのよ?」
「はい、ありがとう、ございます……」
と、宗次が「ごちそうさま」と席を立つ。
土曜日だが、これから仕事があるようで彼はスーツ姿だった。
「俺は仕事があるから、京、あとは頼む」
「ええ、分かっていますよ」
「ありがとう」
「こちらこそ」
真夏は二人のやり取りを見る。
宗次と京には深い絆で通じ合っている風に思えた。
隣を見る。
エリーはやせ細った頬に、生気のない瞳で見返した。
「……なに?」
「ううん。なんでもない」
「そう」
はやく湊先生の家に行きたい。
ただ今は我慢して、静かに朝食を食べることに専念した。
歯を磨き終え、スマホと財布を持った天音は玄関に向かう。
その途中。
「マナツ、待ちなさい。今日は話があるの」
母が娘を呼び止めた。
「……どうしてもダメ?」
「そう言っているでしょう。母の言うことは聞くものよ」
「……うん」
真夏はおずおずと母の後ろをつきていき、リビングのソファーに座らされる。
そこには京の姿もあり、将来のことを話し合う重要な事案だと気づく。
以前短い間お世話になったときも、この話し合いで、エリーと真夏は出ていくことになった。
そう、二度目なのだ。
こうしてお世話になるのは。
「マナツ。端的に言うわ。ロシアに帰るわよ」
「!?」
「エリー……」
京は最初から知っていたようで、苦い顔をしていた。
「私は――」
「祖父の家に帰るわよ」
「でも――」
「日本でのロシア人に対する風当たりもなにもないし、私たちの故郷でしょ?」
真夏の言葉をかき消すように話すエリーの言葉に、今度こそ反論する。
「ううん。私の故郷は日本だよ」
「マナツはまだ父親のことを言うの!?」
エリーが怒り狂うように、怒号を発した。
「ううん。違くて――」
「そうじゃない!」
エリーは涙を零しながら続ける。
「だって、私は、私は、……」
嗚咽が漏れ、真夏ですらも、その雰囲気に吞まれそうになる。
決して、エリーが嘘泣きをしているのではない。
エリーも、真夏と同じく、心に深く傷を負っているのだ。
「エリーちゃん。落ち着いて」
京はそんなエリーの背中を優しくさすった。
「真夏ちゃん。あなたはどうしたい?」
「私は…………」
幾ら傷つけられようと、母親との別れというのはどうしようもなく悲しい。
それは、家族の呪いでもあった。
血が繋がり、一瞬でも幸せに過ごした経験が、そうさせるのだ。
「お母さんと一緒にいたい」
「でも真夏ちゃんは、エリーには悪いけれど、ここ最近ずっと避けているじゃない」
京は日本語で語った。
エリーは日本語を得意としていない。
無論、話せるには話せるが。
少しでも、妹の耳から遠ざけたいという京の気遣いなのだろう。
「うん。でも、お母さんが全部悪いってわけじゃないから」
「そう……それでも私は反対だわ」
「ケイ……?」
心配そうなエリーの上目遣いが、京に刺さる。
だが京は逃げずにロシア語できちんと伝える。
「ううん。エリーちゃん、知っているでしょう? ロシアが今、どんな状況にあるのかを」
ニュースでも度々話題に上がるのは、ロシアと近隣国との紛争だ。
歴史に名を刻んで新しい事柄だけに、余計行くべきではないと否定する京。
「……でも父さんは郊外は大丈夫だって」
「そういう話をしているんじゃないの」
「でもケイ。私、お父さんに相談したら帰って来いって……」
「ずっとここに居てもいいのよ」
「ううん。京には迷惑かけられない」
だって、とエリーは語る。
「日本ですら、ロシア人に対する風評が厳しくなっているの。だから真夏は!」
エリーは真夏を見る。
こんなにも可愛い娘を、これ以上傷つけたくない。
エリーはあの日以来、真夏に厳しい態度をとるようになった。
それでも、後になって後悔するくらいには、娘を想っているのだ。
「……お母さん」
二人が抱き合う様子を見て、京は簡単に口を出せるような状況ではなくなった。
エリーが娘の耳元で囁いた。
「三日後に、モスクワ行きのフライトをとったわ。ねえマナツ、一緒に帰りましょ。これ以上、お母さんも小言を言わないから、お願い」
「……でも私、日本にも友達ができたの」
「また日本に帰ってこれるわ」
「でも、会えなくなるのは寂しいよ」
「大丈夫、ロシアにもマナツは沢山友達がいたでしょ?」
「……うん」
「今日は一緒に、過ごさせて」
「お母さん、わかった」
「ありがとう」
肩に締まる力が、更に強まる。
真夏は耐えるように笑った。




