(8)一番怖いのは計算間違いで全ての数字が狂うこと
公私混同気味なのについては目を瞑ろう。だが、食材というものは有限なのだ。無制限に増殖するわけではない。いや、していたらしていたで恐ろしいのだが……心霊的なものではなく、帳簿が合わなくなるという意味で。
ぶっちゃけ言うと経理を担当している主計科にとっては、自分たちの知らぬ間に増えた食材のせいで帳尻が合わなくなって最初からもう一度計算……となる方が下手な怪談話よりも恐怖を誘う。
なにせ当時は電卓などという文明の利器は存在しない。原始的な電算機でさえ、この十年ほど後に発明されるのを待っていた状態なのだ。
電子機器など存在しない、たとえ存在してても国家機密送りになっていたであろう昭和五年。主計科はそろばんを弾いて人力で全ての計算を行っていた。
「アナタの思うがままにされたらよろしいと思うのですが……どのようにして、その数少ない牛肉を不満が出ないように分散させるのでしょうか」
さて、お手並み拝見といこう。
肉じゃが、と名がついているのに牛肉が少ないのならそれはもう詐欺のようなものだし、ビーフシチューでもまた同じ。
どうやって不満を出さずにその辺りの問題を解決するのか見物だった。
「それについては安心してや。おれに考えがあるさかい」
「考え……?」
と思いきや、既に策を用意していたらしい。やけに自信ありげにふんぞり返って鼻息を荒くする睦郎を、赤岡は胡散臭そうな目でじっと見た。
睦郎がニヤリと人の悪い表情を浮かべ、指で輪っかを作りながら手の甲を向けてくる。
少々ばかりいやらしいポーズだ。そのような下衆の表情で、睦郎は二人にそっと静かに囁いた。
「実はな、大豆がごっつ余っとんねん」
「ほう、それで?」
「さらに都合がエエことにな。海軍の艦には豆腐を量産できる機材が揃っとんねん」
「あっ」
鶴田が何かを察したらしい。掌をパッと口に当て、思わず漏れそうになった声を塞き止めることに成功した。
ちなみに海軍では艦上で豆腐などの加工品も作れるようになっており、それらの作り方も烹炊員は心得ている。
そしてここは海の上。豆腐を固めるために必要なにがりはいくらでも採取可能。
つまり大豆が有り余っている今、その気になれば「古鷹」の烹炊所は豆腐を大量に作り出すことができるのだ。
「なるほど、良く判りました。何をするのか理解したので、これ以上は口に出さなくて結構です」
これ以上言葉にして誰か、特に兵に聞かれでもしたら非常に拙い。
赤岡は人間に甘言を吹き込む悪魔のような顔をしている睦郎に地味なショックを受けつつ、誰にも聞かれなかったか確認するために周囲をさりげなく見渡した。
幸いなことに周辺にはこの“三長官”以外に誰もいない。将校も兵も全員午後の業務に向かっているし、従兵も別の場所で作業をしている。
よって、睦郎の企みはどこにも漏れなかった。それにホッと一息吐くより先に呆れ返って、赤岡は視線を天井辺りに向ける。
「ちょっとしっかり目に作った木綿豆腐をな、大きめに切って肉じゃがに放り込んだるねん。そうしたら、大抵の人間は茶色の中で目立つ白い豆腐の方に目が行って、肉が少ないことに気ぃつかへん」
「そんなに上手く行くものですかね」
「せやからここで一工夫や。まずな、その豆腐入り肉じゃがを……ここに入れるで」
睦郎がスッと指したのは、空欄になっていた献立の、水曜日の夕食の分。
なぜ週の真ん中にそれを入れるのだ、と胡乱そうな表情をする赤岡。鶴田も訳が判らず困惑気味になっていた。
二人の反応を存分に目に収めた後、睦郎は自分の真意を喉から引きずり出してくる。
「そんで、木曜日の夜にビーフシチューを持ってくる。ええか? 人っちゅうんは、終わりにええ思いしたらそれまでの嫌なことはぜーんぶ忘れて、ええ思い出にすり代わんねんで。それを応用してやな……」
旅の話をしよう。一日目に泊まった宿が微妙でも、二日目に泊まった宿で手厚い歓迎を受けると、人はその旅の思い出をころっと良かったものにすり替えるもの。
睦郎はそれを献立で再現しようとしているらしい。博打じみたとんでもない発想だが、果たしてそれは上手くいくのやら……
「大丈夫、大丈夫! どうせ二十一日からジョンベラの半分は休暇になっておらんし、それに木曜日は……えーっと、なんや。クリスマスとかいうメリケンの行事があったやろ」
「そうですがそれが何か?」
「せやからな。それにかこつけてビーフシチューを作ってみましたぁ、っちゅうことにしといたるねん。娯楽の少ない海の上やさかい、新しいもんにはみんな食いついてくれるで。でもみぃんな、ホンマのクリスマスっちゅうもんを知らんから……そういうもんやって思てくれるやろ?」
当時はそれほどクリスマスという概念は日本に浸透していなかった。なので、クリスマスと言われてもそれほどピンとこない。ただ、西洋の行事らしいということだけ。
知らないということは、逆に言えばこちらの都合に良いことを刷り込みやすいということだ。そのあたりをしっかり読み取って、睦郎はそんな戦略を建ててきたのだろうか。
「うぅむ……悔しいが納得しちまう自分がいる……」
「そうですやろ? じゃ、ここはこれで採用~」
空欄にそれぞれ「肉じゃが」と「ビーフシチュー」と書き込み、睦郎は一仕事負えたとばかりの爽やかな表情を浮かべる。
先程までの下衆のような顔とは大違いだ。あまりの温度差に風邪を引きそうになった。
「あとは適当に引っ張ってきて……」
「もう少し西洋食と日本食と中華を分散させた方がよろしいのでは?」
「じゃあここを入れ換えて……ほい、でけた」
どうやら来週の分の献立が全て埋まったらしい。完成した献立の予定案を持って睦郎がガタッと椅子から立ち上がる。
「ほな、副長に提出してきますー」
「早めに行って来て差し上げて。アナタ、先週も提出期限ギリギリでやっと作り上げた身の上でしょう? 副長も今回は慈悲を出して下さったのですから、次はこのようなことを起こさぬよう注意しなさい」
「はぁい。以後、気をつけまぁす」
反省しているのだろか。いや、この分だと聞いちゃいない。
この男の悪癖はいつになっても治らない。と、半ば諦め気味の赤岡であった。
「鶴田はんも今日はありがとぉございます。また何かあったらよろしゅう頼んますわ」
「ま、良いってことよ」
部屋を辞す前、睦郎はしっかり鶴田に挨拶をして去っていった。
後に残ったのは、軍医長と機関長のみ。
「おう、赤岡さんや」
「なにか」
「前から聞きたかったんだがなぁ、赤岡さん。あんた、睦さんとはこの艦に来る前から知り合いだったのかい?」
ふ、と。鶴田は思い付いたことを口にしてみる。
赤岡はどこか迷惑そうな表情で、隣の機関長を見た。
「……なぜ、そう思われたので?」
「いやぁ。公私混同はしない主義のはずのあんたが、睦さんに対してだけは妙に馴れ馴れしいと思ってな」
その言葉だけは意外なものだったらしい。赤岡が珍しくきょとんとしていた。
赤岡自身は、いつもと全く変わらぬ態度で接していたつもりだ。しかし、どうも他人の目から見るとそうでは無かったらしい。
「ええ、そうです。彼とは海軍に入るより前から知り合いでしたよ」
ここは包み隠さず大っぴらに言ってしまった方が良い。下手に渋ると余計な詮索を招いてしまう。
短時間でさっと考え、総合的に判断した結果。赤岡はあっさり口を割るという選択を取った。
「へぇ! そりゃまたえらい偶然もあったもんだぁ」
赤岡の目論見通り、鶴田はその言葉をそっくりそのまま受け取ったらしい。自分の予想が当たって喜んでいる。
「……二十年前。私がしがない医学生をやっていた頃に、彼は私が通っていた帝大の食堂で給仕の仕事をしていたのでね。何度か話している内に顔見知りになったというだけです」
「ふぅん……本当にそれだけ?」
「それだけですが何か?」
しれっ、と。自らの本音などおくびにも出さず、赤岡は椅子からスッと立ち上がった。
「それでは、私もこれで失礼しますよ。機関長、そろそろ部下の方に顔を見せてやってくださいな」
「んー? ……まあ、良い時間だしな。そろそろ戻るか」
赤岡の態度に妙な引っ掛かりを覚えたが、今は勤務中だ。
腕時計を確認すると、ちょうど良い時間だったこともあってか、鶴田も自分の根城に戻ってやらねばならないことに思いを馳せながら席を立つ。
「そんじゃまあ、一応俺からの忠告な」
「……何です」
「あまり意識しすぎるのもどうかと思うがね、俺は。あんたも睦さんも、自然体のままでいるのが難しいなら……そうだな、一度衝突してみんのも手だぜ」
じゃあな、と。それだけ言って機関長は去っていった。
後に残されたのは、鶴田の言葉で固まる赤岡だけ──
昭和五年十二月十九日。
鷹山少佐は赤岡中佐と娑婆にいた頃からの知り合いだそうだ。赤岡中佐はなんとも思っちゃいねぇと言っていたが、おそらくあれは建前だろう。
引き続き、経過を観察していく。