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(6)機関科との確執については元帥の名で検索

 返事も待たずにやってきた口ひげの男。作業服のままだったので階級は不明だが、顔を見たら誰なのかは判る。


「あ、機関長」


 現れたのは重巡「古鷹」の機関長である鶴田(つるた)翔一(しょういち)中佐だ。

 何か作業でもしていたのか、頬や服などに若干煤が着いていた。しかしそんなことなど気にも止めず、鶴田は睦郎に話しかけようと口を開き……そこでようやく、睦郎と机を挟んだ向い側に座っていた赤岡の姿を認めて目を丸くする。


「ちょっと聞きたいことあったんだが……おっと、すまん。取り込み中だったかい」

「いいえ、お気になさらず機関長」


 いつもの調子で特段変わった様子も無く、赤岡はあっけらかんと返答した。

 鶴田の方も、赤岡の訪問の理由をなんとなく察したためか特に驚くことは無い。大方、献立の予定を編成していたのだろうと辺りを付けて、それ以上の追求は行わないことにする。

 ただ、大仕事をしていたであろう二人の邪魔をするのはどうかと一瞬悩んだだけだ。しかしそれも、当事者である赤岡本人からの一言によって問題なくなった。

 だが、ここで邪魔をするのも悪いだろうと思って、鶴田は手短に済まそうと書類を持って睦郎の横に立つ。


「この間の冷凍庫の修理の件なんだがな……」

「あぁ、はいはい。あれね。見積書、お預かりしますー」


 どうやら鶴田が来訪した目的は、先日の冷凍庫の修理の件だったらしい。

 機関長は器用なお方なので、大抵のものなら自力で直してしまう。もちろん、部品の交換が必要だったら、その都度経費で落として貰うのだが。


 冷凍庫の調子が悪かったとは聞いていたが、まさか部品の交換が必要なくらいに酷かったのだろうか。手早く話を付ける二人のやりとりをぼんやり眺めつつ、赤岡はそんなことを思っていた。


 餅は餅屋に。機械のメンテナンスは機関科に。それぞれ得手不得手があるのだから、任せられる所は全力で甘えて任せてしまえばいい。

 そこはかとなく頼り無さそうなのが、手を貸してしまいたくなる要因になるのか。睦郎はその手の才能にも非常に秀でていた。まあ、これは生まれ持っての処世術というやつだ。天賦の才なのだから、利用するだけ利用するまで。


「そんで、えーっと……お前さん、ここに来て何日目だったかな」

「もうじき一ヶ月どすー」

「早いな。もうそんなに経つのか」


 睦郎が「古鷹」の主計長となってから早一ヶ月。そろそろ職場の人間関係も落ち着いてきた頃合いだろう。


「まあなんだ。最近の新顔はウチのケプ(艦長)が裏で手を回して、直接引っこ抜いてきた連中が多いって話だ」

「そぉなんどすか?」

「おうさ。ほら、出港前に「長門」からこっちに異動になった……えーっと、テッポウ(砲術科)の瀧本って大尉。あいつは確か……噂だと、どっかの偉いさんのコーペル(娘さん)とのルッキング(見合い)を断って、僻地に飛ばされかかったのをウチのケプが拾ったんだとよ」

「へぇ。そりゃまた……えらいことしょったもんですなぁ」


 海軍社会というものは、非常に狭いもの。一度でも不興を買ったら、不味いことになるのは目に見えているというのに……とんだ命知らずもいたものである。


「人事課相手に詐欺同然の手法を使ったとか何とかもっぱらの噂だぁ。真相は判らねぇが、あの“大名士”の艦長だったらそんくらいのこと、平気でやりかねんよ」

「あぁー……そういや艦長、日露戦争の時に陸サン相手にやらかしたとかで有名になったお方でしたっけ」


 さもありなん。と、鶴田は鼻の下に蓄えた口ひげを指先でなぞりながら、自らの艦を率いる艦長のことを思い浮かべていた。

 ……あの御仁が腹の内で何を考えているのかイマイチ読めないが、それでも艦の雰囲気がこれほど良いのだ。鶴田が今まで乗り込んできた艦の中でも、ここは飛び抜けて居心地が良かった。これはひとえに、この艦を率いる艦長の人徳によるものだろうと確信している。


 軍艦の中はひとつの独立した国。そして艦長は一国一城の主。城主が無能なら人心は離れていく一方だが、逆に有能で、しかも人柄も良しとなれば、必然的に城内の空気もギスギスせずに良くなっていくというもの。

 なので鶴田も、現在の職場にさしたる不満は無い。


「そんで話は変わるが、睦さんは赤岡さんと献立考えとる真っ最中だったんかね」

「ええ、そうです。献立の相談は軍医科の業務ですのでね。もうしばし時間が取れるので、夕食の前までには決めてしまおうかと思っていた所です」


 二人のやりとりをつまらなさそうに見ていた赤岡から一言飛んでくる。言葉尻に若干の棘があった気がしないでもないが、あえて気付かなかったふりをして流してやるのが大人の対応だ。


「はーん……なるほど。見たところ、取り掛かり始めたばっかってところか」

「いやぁ、鶴田はん。ちょぉ行き詰まっとる最中や」


 ひょい、と鶴田が睦郎の手元にある作成中の献立を見ると、まだ空欄が目立つ。

 この様子だと初めてそれほど時間は経っていないだろうが、煮詰まっているのは本当の話らしい。


「はぁー……大変なんだなぁ、あんたも」

「はぁい。大変どすー」

「そんじゃあ、まあ。ちょっくら時間もあるし、気分転換がてら付き合おうかね」


 よっこら、とその辺から空いている椅子を失敬してきた鶴田が席に着く。もちろん空気を読んで、睦郎の横ではなく斜め前。赤岡と睦郎が対面で座っているので、間に座るような形で落ち着いた。


「よろしいので?」

「ああ、良いんだ良いんだ。どうせ帰っても鬱陶しがられるだけだからな」


 どうやら、上司がいないと部下が伸び伸びするのはどこも同じらしい。上官である自分がいない方が部下も適度に肩の力を抜いて緊張を解除できるのだと知っていた機関長は、二人の見物がてらしばらく留まろうと決めたようだ。


 ところでこんな話をご存じだろうか。帝国海軍には艦の機関長、軍医長、そして主計長を指す"三長官"という俗称が存在していることを。

 一般的に言われる陸軍のそれとは違い、海軍内の俗称で"三長官"と言えばこの三人のことを指していた。なおこれは偉いとかそういう奴では決して無く、むしろ逆である。


 つまるところ三長官とは海軍の、特に艦隊勤務者にとっては「平時にやることのない暇の代名詞」という不名誉極まりない俗称なのだ。


 今、席に集まっている三人にとっては、なんともまあ解せない話だが。


「ところで、艦長の日露戦争時のやらかし(・・・・)とはあれ(・・)のことですか?」

「ああ、そうそう。さすがに有名な話だからなぁ。赤岡さんも知ってたか」

「それはもちろん。海軍内で知らぬ者などいませんよ」

「だよな!」

「ウソかホンマかよぉ判らん話ですけどね」


 彼らが乗り組む重巡「古鷹」の将兵を率いている艦長には、嘘か真かまったく判らぬ伝説がいくつも存在している。

 ちなみに“名士”というのは、日本海軍の中では「変人」という意味だ。そこに“大”という字が付くのだから、彼らの艦長の人柄はだいたいお察しできるだろう。


 なお、彼らが話している内容はこんなものだ。

 重巡「古鷹」の艦長は、日露戦争でも激戦と名高い旅順港の戦いにおいて、海軍側から派遣された援軍である重砲兵隊の連絡将校に任命されていた。ところがこの男、当時はまだしがない少尉だったのだが、海軍の作業服に階級章が着いていないことを利用してとんでもないことをやらかしてくれた。そう、階級がわからずどう扱って良いのか戸惑う陸軍のお偉いさん方相手に横柄に振る舞うという階級詐欺をしでかしたのだ。

 こんな振る舞い、すぐにバレると思うだろう。しかし、まったくバレなかった。

 最終的に少尉だった頃の艦長は開城式の日まで自分の階級を隠し切り、見事ふんぞり返っていた陸軍のお偉いさん方の鼻っ柱をへし折ったそうだ。陸軍の参謀たちに地団駄踏ませた海軍少尉は、後にも先にも彼一人だけだろう。


「にしても、えらい肝がすわっとりますなぁ。ウチの艦長。おれ、絶対にできませんで。陸サンとこのお偉いさん相手にそんなことすんの。絶対に途中でバレますもん」

「そうですね。アナタ、すぐに顔に出てしまいますもの」

「そりゃそうだ。ハハハハ! ウチのケプほど肝が座った奴なんざ早々いねぇさ」


 大きく口を開けてゲラ笑いする鶴田。


「しかしまあ、日露戦争も三十年近く前のことなんだなぁ。東郷元帥がまだご存命なんで、中々実感が湧かないんだが」


 しみじみといった風に呟く鶴田の脳裏に浮かぶのは、かの元帥のこと。

 かの元帥と機関科についてはありとあらゆる確執があって、複雑な関係なのだが……それはそれとして、軍神としての憧れはある。


「……中佐、機関科は東郷元帥と確執があったのでは?」

「まー……うん、まあ……俺が機関学校に入る前の話だしな。ぶっちゃけ実感がないから、元帥に対しては何とも思ってないな!」


 わははは、と豪快に笑う鶴田。

 日本海軍では、モデルとなった英国海軍同様に兵科と機関科の間にかなり大きな溝が存在していた。

 そも、海軍内では元々部署の間に大きな溝ができるようなシステムとなっている。兵科と機関科の問題、そして軍医科や主計科などの将校相当官が軽視される問題。

 スマート、かつ紳士的。まず真っ先にそのイメージが先行される。が、内部で様々な爆弾を抱えていたのが日本海軍という組織だろう。

 そのなかでも、それほど差別意識が蔓延していないこの「古鷹」はかなり特殊な例である。

 真性サドとして恐れられる赤岡に、危なっかしくて放っておけない睦郎。そして基本は鷹揚としてどっしり構えている鶴田。馴れ合いというわけではないが、“三長官”の仲がそこそこ良好なのがその証拠だ。


「それじゃあ、まあ。今回は東郷元帥にあやかって、金曜日の夜は肉じゃがにしてみるのはどうだい、睦さん」


 ふ、と。良いことを思い付いたとばかりに、鶴田が献立の空欄を指差しながらそんなことを言ってきた。

 まさか鶴田からそんな提案があるとは思っていなかったのか。睦郎は目を瞬かせてきょとんとする。



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