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軍艦乗りの献立表─海軍主計科こぼれ噺─  作者: しゅんらん
第十週「入港ぜんざい」
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(45)主計長と私物の出刃包丁

 軍隊における経理の業務というものは、一般社会のそれよりも範囲が広いものである。


 なぜなら彼ら経理担当部署の仕事には、給養──即ち食事に関するあれやこれも含まれていたからだ。通常の経理や会計処理に加えて、彼ら経理部門は戦闘員・要員問わずに所属する者全ての口の世話もしてやらねばならなかった。


 近代戦とは、一人の戦闘員を三人から四人の要員での手厚い介護で支えて初めて成り立つものなのである。その辺りを決して忘れてはいけない。

 そこで鉄砲を持って最前線に従事している者の背後には、三倍から四倍の数の非戦闘員が存在するのだ。勇敢な兵士の精神論だけで軍隊は語れない。どんな仕事であれ、前線に立って戦う者の背後には見えない苦労人達が存在している。

 質の良い組織とはなにか。前線で戦う者がそれ単体で優秀なだけでなく、背後に控える後方支援担当部署と円滑な連携を取れていること。


 軍隊でも他の例に漏れず、後方支援に該当している部署はそれ相応の数が存在していた。軍隊というのはひとつの国のようなものなのだから、当たり前と言えば当たり前だが。


 耳にタコができるくらいに何度も言うが、戦闘員だけでは軍隊は成り立たない。そこには必ず、彼らを支えている影の功労者たちがいるのだ。

 人間の怪我や病気を診るための医者。法律を破った者を裁く法務の者。海軍ならば造船専門の設計者たち。陸軍ならば軍馬の調子を診る獣医師。

 そして組織内での金の流れ全般と、そして何よりも大事な食事に関するあれこれを一手に担う者達。その名は主計科。特に海軍の主計科に属している調理専門の兵員、烹炊員たちの腕前は一級品であった。


 これはそんな、海の男たちの食事事情を掌握していた海軍主計科のお話──


「──どこぞの阿保が舷窓からFU()を棄てよった」


 ……そしてこの、血走った目を皿のように丸くして瞳孔をかっぴらきながら無表情を晒している人物こそが、ここ重巡洋艦「古鷹」で主計科の長を務める鷹山睦郎主計少佐である。


「……落ち着いてください、怖いです」


 怒りを表現する方法として、これほど怖いものはかつて存在しただろうか。いいや、無い。普段が愛嬌があって親しみやすい分、余計に恐怖が際立った。

 彼は何に対してそれほどの怒りを爆発させているのだろうか。とりあえず、深淵を覗いたような表情が怖くなったらしい軍医長の赤岡がやんわりと睦郎を諭す。


「おれは今だかつてないほど落ち着いてますねん……」

「寝言は鏡を見てきてから言いなさい」

「冷静やなかったら判断を誤りますやん……」


 口答えをしてきた睦郎の主張をピシャッと否定してみたが、しかし彼は赤岡に窘められてなおその表情を止めなかった。

 冷静じゃなかったら判断を誤るとか、そんな使い古されにされまくって擦り切れ気味の台詞を生で聞ける日が来るとは。いやはや、人生とはよく判らないものである。そんなことを思考の片隅でぼんやり考え始めた赤岡は、自分が現実逃避をし始めているのにまったく気付いていないようだった。


「アナタ、自分が今どのような表情をしているのか自覚はありますか。無ければいくらでも教えて差し上げます。今のアナタは、山道で夕方に旅人が通りかかるのを見た山姥のような表情をしていますよ」


 そんな表情をしているような人間が、果たして落ち着いていると言えるのだろうか。

 陽も暮れて夜の世界がやって来る逢魔が時に、自宅の前を通り掛かる旅人の姿を見ている山姥。それがどのような表情をしているかなんて、何となく想像は付くだろう。つまり、怖いということである。


「……おれ、そんなに怖い顔をしてますん?」

「従兵、従兵。一寸(ちょっと)手鏡を探して持ってきてくれないか」

「おーい、従兵。手鏡はエエからな。おれの私室の右の棚の下から二番目の引き出し開けて、そこに入っとる出刃包丁持ってきてくれぇ」


 赤岡が従兵に手鏡を要求した瞬間、それを睦郎が別の物に変更させた。丁度近くを通り掛かった運の悪い従兵が、睦郎の表情を見て怯えたように「ひっ」と悲鳴を漏らしている。

 この場合はどちらの命令に従えば良いのだろう。階級は赤岡が上だが、優先順位で言えば主計科の睦郎にある。いや、それ以前にこの状態の睦郎の要求を断ったら後が怖くてたまらない。


「従わなくてよろしい。主計長は現在、乱心しておりますから何を言っても無駄です。手鏡も持ってこなくてよろしい。少佐にはしばらく頭を冷やす時間が必要ですので、アナタは下がりなさい」

「は、はい……」


 赤岡からの命令を受け取った従兵が、助かったとばかりにそそくさその場から立ち去っていった。こんな妖怪のような表情をしている睦郎を見たら、誰だって回れ右をして逃げて行きたくなるだろう。それでも逃げない赤岡には、賞賛の眼差しを向けて差し上げたいほどだ。


「ところで主計長。アナタ、なんて物を艦内に持ち込んでいるのです」

「へ……? なに、」

「出刃包丁って何です。なぜそのような物が、アナタの私室にあるのです」

「おれの私物どすえ」

「そういうことを聞いているのでは無い」


 なぜこの男は私物で出刃包丁など持っているのだ。それで何をするつもりだったのだ。頼むから、料理(本来の用途)のために持ち込んだのだと言ってほしい。むしろそれ以外の使い方などあってたまるか。


「アナタが料理もできる最高の主計将校なことは重々理解していますが、さすがに普段から出刃包丁を持ち歩いているのはどうかと思いますよ」

「軍人が料理できてなにが悪いんどす……」

「だから、落ち着けと言っているだろう」


 そろそろ怒りを鎮火させて頂きたい。話がちっとも進まないではないか。


「睦、君は最高の男だよ。数字にも強いし、それに料理だってできる。それのどこが悪いんだ。他の誰もが君を馬鹿にしようとも、僕は君を賞賛し続けるさ」


 この時代は男が台所に立つなどもっての他とされた時代だ。その上彼らは軍隊という、ある種もっとも「男らしい」職場に勤めているのだ。軍人や兵隊がエプロン付けて調理場を駆けずり回っているなんてみっとも無い、というのが当時の価値観である。時代によって価値観など大きく変わる実例だろうか。

 睦郎はこの時代の、しかも海軍の士官だなんて社会的地位の高い職業に従事する男性にしては非常に珍しく、料理を得意としていたのだ。


「……それホンマ?」

「当たり前だろう」

「ほうかぁ……」


 赤岡から褒められた睦郎が、強張らせていた表情をポヤンと弛める。どうやら無事に説得に成功したらしい。いつもの睦郎が戻ってきて、赤岡はホッと一息胸を撫で下ろす。


「ところで、おれはなんで怒って……ああ、そうやった。舷窓からFU()をポイ捨てした阿保がいよったんやっけ」


 軍艦に乗ってる水兵は、洗濯の日になるとちゃんと褌も洗って再利用する。たまに干している最中に盗まれるが、それもまた軍隊ならではの風習。


 では士官はどうだったか。まさか洗うのか、いいやそんなことはない。士官達の褌は、使用後に各自で細かく刻んで棄てられていたそうだ。

 もったいないと思うかもしれないが、これが正式な処分方法なので仕方がない。大体、金銭感覚には鷹揚とした態度でいるべしと徹底して叩き込まれる海軍士官が、酒保で一本二銭かそこらで購入できる褌をケチったりしないだろう。

 もちろんだが褌は細かく刻んで棄てろという規則があるので、破ればれっきとした規律違反である。


 ただでさえ会計監査前で主計科は気が立っているというのに、よくぞそんなことができるものだ。とんだ命知らずもいたものである。



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