《束縛》6
「みこと~、ここにいるの~、どこにいるの~!?」
「「!!!??」」
重く、暗く、冷たく張り詰めていた空間に突然割って入ってきたのは、聞き覚えのある無邪気な声、それに二人は反応した。四つの瞳が部屋の出入り口へと向けられる。ドアは存在せず、強引にぶち破られたような跡が残っており、豪快に解放された状態だ。
しばしの間、息を呑んで二人は待つ。その間も声は聞こえ、「ここかしら?」「きっとここね!」といったかくれんぼでもしているような楽し気なものだ。着々と部屋に近づいてき、そして。
「あ、みこと! ここにいたのね。探したわ」
現れた真っ白な少女ことなごみだった。
「なごみちゃん! ………な、なんで」
なんで来たの? と巳虎兎はここに来てくれたのかと理由を訊ねたが、なごみは違う意味で受け取って答えてくる。
「お絵かき帳! 昨日忘れたでしょ? 持ってきたわよ!」
スケッチブックを上へと持ち上げて言ってくる。スケッチブックが目に入るとそれが自分の物だと巳虎兎は理解した。
「じゃなくて、どうしてここに?」
「歩いて」
「そうでもなくて……、どうしてここの事を知ったの?」
「親切なボウシの人が教えてくれたの」
親切な帽子の人? それって一体誰? そしてなんでその人がここのことや私のことを知っているの?
疑問が湧いてくる巳虎兎は聞き返そうとするけれど、それよりも先に綱光が動いた。
「シロノス! 待っていたぞ」
好戦的に一歩前へと出て、ギラギラした瞳でなごみを睨みつける。巳虎兎なら怯える形相なのだが、なごみは驚くような顔をせず、まじまじと綱光を見つめ返すと。
「? あなた、誰? ……たろう?」
「違う! 誰だ、太郎、思いつきで適当に名前を付けるな!」
綱光を見ると、なごみは心底不思議そうな顔をしながらもとりあえず顔立ちだけで判断した名前を出して返してみるが、綱光は即座に否定する。
だが、間違えるのも仕方がない。今の綱光は本来の姿である人間体だったため、昨日対面した時の鎖の怪物だとは気づか―――
「う~ん、なんだか、昨日のかいぶつさんと同じ声ね」
―――ないわけでもなかった。声だけでも十分当てられた。
「あ、もしかしてかいぶつさんの兄弟なの? 似てないわね」
「本人だ!!」
と思ったがやっぱり分かっていなかった。全力で突っ込む綱光。やはりなごみはどこか抜けていた。
なごみが現れて、数分もしない間に重々しかった空気が、間抜けなやり取りで一気に空気が一変してしまった。
綱光は落ち着け、と自身に命じて冷静さを取り戻そうとする。その間にもなごみは綱光の言葉を信じられずに「え、嘘。本当に? 怪物さんと姿が全然違うわよ」と指摘しながら綱光を疑り深く観察する。
なごみの視線が煩わしいと思ったのか、懐から鍵を取り出した。
「面倒だ、証拠を見せてやるよ」
「証拠?」
瞬間、綱光の身体にハートの形をした鍵穴が出現し、そこへ取り出した鍵を挿し込んで回す。途端に綱光の身体に変化が訪れ、人間体から怪物の姿へと変貌する。
鎖の怪物こと《束縛》の劣等者の姿へと。
わあ、と驚きの声を漏らすなごみの反応に満足いったように鼻で笑い、巳虎兎の方へと体を向ける。
綱光が手を前に出す仕草をし、何かされる、と巳虎兎は反射的に身構えつつも恐怖で目を瞑った。
パリッ、と何か弾ける音が鳴る。
え? と体を締め付けていた鎖の感覚が消えるのを感じ、恐る恐ると目を開いてみると案の定拘束されていた鎖が断ち切られていた。
『予定とはだいぶ違ったが、結果的にシロノスを誘い出してくれたからな。もう出て行っていいぞ。あと、このこと誰にも話すな』
それだけ告げると最早巳虎兎について完全に興味を失せたか、巳虎兎のことを放っておいてなごみの方へと向き直る。
なごみは楽しそうに目を光らせていた。
「あなたもあたしと同じだったわけね」
「少し違うらしいがな。お前も変身しろ。昨日のようにいかないぞ」
リターンマッチ。先日の屈辱を晴らすのが今の綱光の望み。
鬼気迫った空気を醸し出す綱光は見る者をひるませる凄みを感じさせるもの。巳虎兎ならば気迫に負けていた。
対するなごみはというと、
「え? なんで? いやよ」
空気を読めない白い娘っ子はその希望についてはあっさりと却下された。
チギィ、舌打ちと歯切りの混ざった音が小さく響いた。近くにいたために聞き取れた巳虎兎は嫌な汗を流す。なごみと綱光を交互に様子を探りつつ、体を引きずる形で綱光との距離を置く。
できれば今すぐにこの場を逃げ去りたいのだが、腰が抜けて上手く動けなかったのだ。開放してもらった意味がない。
『……いいから変身しろ、そしてオレと戦え』
綱光は苛立ちを抑えつつ、なごみに変身するように促す。けれど、なごみは綱光の言う事に従う気はなく、なんで? と繰り返す。そんなことも一々言わないといけないのか、と更に苛立ちを募らせる。
もう、いっそうのこと先手を打って無理矢理戦闘態勢を取らせるか、と安易な方法を取ろうかと思案していると、なごみは何ともないといった調子で告げてくるのだ。
「? 別に変身しなくても一緒に遊びたいならこのままでいいじゃあない」
『…………』
言葉を失い、思考が一瞬停止し、目の前の景色が白黒だけの色に変わった。
放たれたなごみの言葉が頭の中で幾度も反芻する。
別に変身しなくてもいい。一緒に遊ぶ。このままでいい。
ふ、
『ふざけるな!!!』
はちきれんばかりの怒声とともに全身に巻きついた鎖がまるで意思の持った蛇のような唸り荒ぶる動きでなごみへと襲い掛かる。素早く、鋭く、空を裂く。一撃一撃が強力さを秘めていて当たれば服や肌を裂くなど優しいレベルではない。それはコンクリートの壁を易々と貫通し、割ることも容易い。
およ? と可愛らしい驚きの声を漏らすなごみは向かってくる鎖の蛇を先日もみせた脅威的な反射神経と身体能力で躱す。
フットワークの軽さからくる動きは型にはまっておらず、着ているパンクの利いた服と相まってまるでストリートダンスでも踊っているかのような大胆さと華麗さがあり、危険な攻撃も脅威には感じさせない。むしろこれは一種のパフォーマンスを思わせるほどの凄さ。
だが、それはなごみにだけ限った話。
「きゃあ!」
「あ、みこと!?」
鎖の攻撃を回避する自体は身体能力の高いなごみにとっては容易いことだったけれど、その場に同席し逃げ遅れてしまった巳虎兎はそうはいかない。元々、運動神経は平均よりも下の方であり、今現在腰を抜かして上手く動けない状態。
流れた鎖の攻撃が巳虎兎の近くに当たり、それに驚いて悲鳴を上げた。巳虎兎自体には怪我は負っていなかった。
頭を抱えて俯いている巳虎兎の姿を見たなごみは数多の鎖の攻撃を掻い潜り、急いで巳虎兎の所へと向かう。
「な、なごみちゃん」
「みこと、こっち」
巳虎兎の手を掴んでなごみは走り出す。自分よりも小柄な少女に強引に引っ張られ、抜けていた腰が元に戻り、されるがまま足を運んで、駆け出していく。
『逃げるな!!』
なごみ達が逃げていく様子に綱光は激怒し、鎖で捕まえようとする。ヒュン、ヒュンと鋭く空を切る音が背後から迫ってくるのが耳に入り、巳虎兎の恐怖心が煽られる。
その場にしゃがみ込んで身を護る姿勢になりたかったが、巳虎兎を引っ張ってくれるなごみによってそれはできない。
握られた小さな手、目の前の小さな背中。巳虎兎はそれを頼りに、勇気を振り絞って必死に足を動かした。
ドアが壊れて豪快に開けっ広げられた部屋の出入り口から抜け出すと、なごみは巳虎兎を出るとすぐに出入り口の隅へとやり、近くにあった元はドアだった残骸を拾って投げるようにして出口を固める。
しかし、向かってきていた鎖によっていとも簡単に貫通し、その壁は壊されてしまった。
ドアを貫いた鎖はそのままなごみへと特攻するかのように思えたが、それはなかった。貫通した先になごみはいなかった。
『! しまった!』
なごみが消えた。
いや、別に忽然と姿を消したわけではない。部屋から廊下へと出て、ドアを盾にした瞬間、それが綱光の死角になったために姿を見失ってしまったのだ。
ようはドアを投げたのは鎖の攻撃を受け止めるための防御ではなく、一瞬だけでも綱光の視界から逃れるために投げたものだった。
そもそも鎖は綱光が操っているために、綱光が目に入る範囲でしか操作はできない。獲物を自動マーキングして追うことはできないのだ。
単純な事に綱光は慌てて廊下へと出るが、どこにもなごみ達の姿は見当たらない。
『どこだ! どこにいる、シロノス!!! 出ててこおおいいい!!!』
雄叫びとともに全身の鎖を四方八方とデタラメな方向に振りまいてなごみ達をあぶりだそうとする。壁を砕き、窓を割り、地面を裂き、天井を破る。荒ぶる破壊神のように。
『戦え、戦え、戦え、戦え、戦え、戦え、……オレとたたかえ!!!』
狂乱の雄叫びを上げながら鎖を振るい、なごみを探す。
そのなごみはというと。
「凄いわね、かいぶつさんのなわとび。でも、あれケガするからみんなと遊べないわね。もう少しカゲンが利かないのかしら? ねえ、みこと」
「………そういうことじゃあないと思うよ」
巳虎兎と共に二つ先の部屋に隠れていた。綱光の視界から逃れ、すぐに身を隠せる場所など限られていた。
だが、それも見つかるのも時間の問題、数分もしない内に見つかることは間違いない。なごみ一人ならばその運動能力の高さからして綱光の目を盗み、逃げられたかもしれなかったが巳虎兎がいる以上それは難しい。
部屋の中に窓が存在したためそこから逃げられないかと確認してみたが、窓の外の景色は距離間のある灰色の壁。向かい側は何かの工業所なのだろう、そんな建築物が見える。視線を落としてみるとこのビルは四階か五階ほどの高さだと判るが、整備されていないこと分かる、ボウボウと生えた草が存在し、その先のグリーンのフェンスを越えた向かいの建物とこのビルの間に流れる川が存在した。
アクション映画なら悪者から逃げるためにここから飛び降りてしまいそうなものだが、残念ながら普通の女子中学生の巳虎兎には不可能だ。それに川はだいぶ浅瀬だ。衝撃を緩和しそうにない、と考えた巳虎兎。
そもそも水があっても飛び降り入水はそれなりに痛いし、下手をすると死んでしまうことよく分かっていない巳虎兎だった。
なごみちゃん、と巳虎兎は不安そうな声で名前を呼んでなごみは、なに? と普段と変わらない調子の楽しそうな明るい返事をしてくる。
「………なごみちゃんは、その……しないの?」
「何を?」
「その、変身を」
変身。あの、拘束された天使のような光々しい姿へと。
昨日はその姿で綱光を圧倒した。勝てるはずなのに、今は変身して戦おうとしないのは何故なのか、疑問を抱いた巳虎兎は思い切って訊ねてみた。すると、なごみは何ともないといった調子で答える。
「いつかがかいぶつさんに会ったら逃げろって」
「いつか? それって誰?」
「いつかはいつかよ」
……答えになっていない。いつかって人は一体誰だろう? と戸惑うも、注意を受けているために、たぶん親か姉といった保護者なのだろうかと予想する。
「あたしも危ないし、友達にキケンな目にあわせることになるからって」
「それって、………友達って……私のこと?」
「? そうよ。当たり前じゃない」
当然といった態度で応答してくるなごみに巳虎兎は少し戸惑った。
昨日今日出会ったばかりの、少し遊んだだけの関係。たったそれだけの繋がりを友達といっていいのか巳虎兎には曖昧だ。それくらいならばまだ、『知り合い』といった方が正しいような気がした。
だけど、なごみから友達と言われて心の中では嬉しいと思う気持ちが強かった。
けれど今はそんな場合ではない、と自分に言い聞かせて、必死に冷静さを取り戻そうとする。
今のなごみは逸夏との約束事によって戦意自体はないらしい。どうにかして二人で逃げなくてはと考えようとする。
ガギン! ドギン! バギン!!
鎖が壁や地面を叩きつける音が響いて渡ってくる。同時に地獄の亡者を連想させる綱光の『どこだシロノス! オレと戦え!!』の叫喚が続く。
巳虎兎は自分に言われている訳でもないのに、先ほどまでの恐怖をぶり返してしまい、身を丸めながら震わせる。
嫌だ、怖い、こっち来ないで……。心の中で懇願する。
怖がっている巳虎兎に対し、隣のなごみは、う~んと呑気な調子で唸り声を上げながら素朴な疑問を投げかけるかのように呟いた。
「かいぶつさんはなんでこんなことするの? なんであんなに怒っているの? 勝負するのはあたしも別にいいけど、あんな怒っている状態じゃあ楽しくないのに」
綱光の怒りの原因が何なのか、とそれがよく分かっていない様子。その様子に巳虎兎は少し考えてからそっと口を開いた。
なごみの疑問に巳虎兎は答えた。
「たぶん…………どうすればいいのか、分からない……んだと思う」
「わからない?」
巳虎兎が漏らした言葉を聞き、なごみは首を傾げながら巳虎兎へと注目する。巳虎兎は先ほどの綱光の事を思い出しながら、言葉を探して言葉を紡いでいく。
「なごみちゃんは、その、……嫌なことや辛いことって何かある?」
「別にないわ」
即答だった。あまりの速さに驚く巳虎兎だったが同時に、やっぱり、と何となく予想できた答えが返ってきたことに心を曇らせ、なごみちゃんはだろうね、と冷えた少し強めの語調で頷く。
巳虎兎のあからさまな態度が気になったのか、みこと? と不思議そうな顔をしてなごみに訊き返される。名前を呼ばれてハッとした。
普段の自分では考えられない物言いに驚きつつ、慌てて、何でもない、と誤魔化すようにして無理矢理話を進める。
「あの人はね、そういうのがいっぱいあったらしいの。嫌なことや辛いことが。だけど、いつも我慢して、頑張って、一生懸命で。その、嫌なことや辛いことの先に幸せがあると信じていたから。でも、実際にそれはなかったの」
「どうして?」
「……分からない。本当にどうしてなんだろうね?」
含みの入った自虐で答える。
綱光の事を分かっているような口ぶりで話すけれど巳虎兎自身も詳細は知らない。綱光が感情のままに口走った断片的なものでしか知らないのだ。
今言葉が出てくるのは自分と彼を重なっている部分を都合よく出しているだけだった。
なんでこの言い方をしてしまうのか。なごみに理解してもらうため、本当は同情してもらうため、あるいは弱い人間について知ってもらうためか。
巳虎兎の心中は自分でも不明なまま、続けて、自分の口から出てくる言葉を紡いだ。
「色々と上手くいかないんだよ。自分一人じゃあどうしようもできなくて……周りの人に助けて欲しかったんだけど、助けてもらうにはどうしたらいいのか分からないし、……ううん、そもそもあの人は助けること自体望んでいなかったのかも」
「そうなの?」
「そうかもしれない」
話の中では、綱光は誰かに頼ってならないという縛りがあった。片親の子供でも周囲と子供達とも変わらない子であることを遵守されていたのだ。彼には他人を頼る選択肢など殆どなかったのだろう、と巳虎兎は予想する。
「たった一人だけ、大切で、信じている人もいたけどその人からも裏切られて、それでさらにもっと自分でもどうしていいのか分かんなくなっちゃったんだ、と思うの……」
「なんでその人はかいぶつさんを裏切ったの?」
「分かんない。……けど、その人もその人で色々な悩みがあったみたいなの、だからつい魔が差したっちゃったのかな?」
ふ~ん、と話をイマイチ理解できていない調子のなごみに、無理もないかと悟る。自分の要領の得ない説明の悪さもあるが、それ以外にもなごみはこれまでの彼女の性格などから考えて、悩みを抱えている人間について理解できない節があると考えていた。
明るく前を向いて生きている彼女が、暗く下向いて生きている自分達のような者の事なぞ分かるはずがない。
巳虎兎はなごみとの間に線を引いた。
「………ごめんね、こんなこと話して。よく分からなかったよね」
なごみに謝罪し、この話を無理矢理打ち止めるが、なごみは何か気掛かりがあるのか、ん~、と唸り声を上げ、両腕を組んで頭を傾げて考えているポーズを取っていた。
一体何を考えているのか、なごみちゃん? と名前を呼ぶが瞬間、バババン!と壁に穴が開いた。
『ここにいたか』
その穴から覗かせるギラギラと目を光らせた綱光が嗤うように言い、穴から目を離してゆっくりと歩いて移動し部屋の中へと入ってきた。
逃げないと、と思い立ち上がるもそこから動くことはできなかった。恐怖で足がくすんでしまって動けなかった訳ではない。純粋に逃げ道を塞がれてしまったのだ。
この部屋には出入口は一つだけ。それも今、綱光が正面立っているため逃げられない。いや、あとは逃げられそうな場所は窓だけだがそこから先ほど説明した通り逃げ出すことは不可能。
さらに綱光はフンと手を前へとかざすとそれを合図に、鎖を這わせて唯一の出入り口と窓を、鎖を使って蜘蛛の巣のような形で塞いだ。
これで脱出は不可能になった。
『もう逃げられないぞ、シロノス! オレと戦え!』
綱光は真っ直ぐなごみの方へと見据えてそう告げる。巳虎兎も不安な眼差しでなごみの方を見ると、なごみは一歩前へと出て、巳虎兎を護るようして綱光と対面する。
「みこと、ごめん。あなた言う通りあたしにはよく分からないわ、それ」
唐突に告げられたたなごみの言葉に、え? と疑問符を浮かべた巳虎兎だったが、その内容が先ほどまでの話の続きだということに気づく。
なごみの言葉の意味を理解した巳虎兎は陰が差した。
ああ、やっぱり彼女には理解できないんだ、と。
別に分かってくれると期待していた訳ではなかった。自分だって全てが分かっている訳でもない。綱光の事情について共感できるところを見つけ出して言葉を紡いだだけだ。なごみに分かるはずがない。
弱い人間の気持ちなど、強い彼女には分かるはずがないのだ。
巳虎兎は不思議なほどになごみに落胆してしまった。心のどこかでは何かを期待していたのかもしれない。
分かってくれて、同情してくれて、慰めの言葉を求めていたのかもしれない。なんて自分は浅はかなかまってちゃんなのだろうか。自虐する。
虚しくなりながら、自分よりも少しだけ小さな背中を眺める。そこまで距離はないはずなのにどうしても遠く感じてしまうその背中は、唐突に「でも分かることもあったわ」と告げてきた。
「分かることはかいぶつさんの近くに自分が悲しくて辛くて困っている時に元気にしてもらえる人が近くにいなかった。寂しい時に一緒に傍にいて遊んでくれる人がいなかった。うん、友達がいなかったのね。うん、よく分からないけど、よく分かったわ」
「……え?」
意味が分からなかった。私の話をちゃんと聞いていたのだろうかこの子は、と目を大きく見開いてなごみを見る。なごみはうんうん、何かに納得したように頷きながら二歩三歩と前へと出て怪物のへと手を伸ばしながら告げるのだ。
「うん、あたしが友達になるわ。かいぶつさんと一緒に遊びましょう」
差し伸べる温かな白い手。あ~そ~ぼ~、と小さい子供が遊びに誘うかのような無邪気なそれはどこにでもあるありふれたものだ。
その光景を目の当たりにして巳虎兎は呆然とし、そして何故か涙が一筋流れた。
(な、なんで、私、涙が……)
慌てて目元を拭い去っていると
『訳の分からないこと言ってんじゃあねえよ! お前にオレの何が分かる! 友達になるだぁ? ふざけてんじゃあねえ! 俺と戦え、シロノス!!』
「いやよ」
吠える綱光になごみは即座に断った。
「戦うんじゃなくて、一緒に遊びましょう。友達になりま―――」
「なごみちゃん!!」
なごみが言い終わるより先に鎖を放ってきた。首を狩り取る死神の鎌のような横薙ぎの攻撃になごみは身体を反らせてギリギリで回避した。
なごみはそのままただで体を起こすことなどはせず、ダン、地面を蹴り出してバク宙というか、まるで格闘漫画のワンシーンみたいな流れで態勢を戻す。
……特に意味もない。ただ身体能力が改めて凄いと思わせるだけだった。
『変身しろ! そして戦え!!』
「そんなことよりもなわとびしましょうよ。あなたならとびっきりのなわとび職人になれると思うわ」
戦え、と雄叫びを上げながら鎖を振り回して挑発を誘うもなごみはそれには乗らず、攻撃を避けながら遊ぼうと和平を求める。
二人の話は平行線。冷静さを無くなって意固地になっている綱光とマイペースを崩さないなごみとでは相性が最悪だった。
そんな二人のやり取りを傍からそれを悲観な顔で傍観していた巳虎兎は、目を瞑って二人の言葉の意味を、思いを、巡らせていた。
自身の悩みに苦痛の日々に募った行き場のない思いをようやく晴らしたと思ったら、そこに新たな不穏の存在であるなごみが現れた。あの眩しいくらいの笑顔に当てられれば羨ましく、そして妬ましい。
自分は笑えないのに、笑い方を忘れてしまったのに、あんなに笑える存在は許せなかったのだろう。巳虎兎も一歩出会いを間違っていたならば綱光と同じになっていたかもしれない。
でもそうならなかったのは、巳虎兎はなごみの笑顔に救われたからだ。
なごみちゃんは私に手を伸ばしてくれた。私だけじゃない。今この時だって、彼に向って手を伸ばしている。歩み寄ろうとしている。本気で友達になろうとしているんだ。
巳虎兎はなごみが知っている、そして同時に綱光のことも理解できる。
なごみがどんな性格なのか、どういう子なのかということを。綱光がどんな悩んでいるのか、どれだけ苦しんでいるのか。出会って間もない関係であるが、それでも二人の事を知るには十分だ。
目を開けて、景色を見る。
相変わらず熾烈な鎖の猛攻を避けまくるなごみ。まるで暴れ牛を華麗にさばく闘牛士のような光景が広がっていた。
戦え。友達になりましょう。変身しろ。一緒に遊びましょうよ。と会話になっていないやり取りが続いていた。
えい、と空中に跳んで鎖を躱したなごみに追撃を放ってくる。空中ではなごみの自慢の素早い動きは使えないと踏んだのだろう。
なごみは飛んでくる鎖の軌道を目で追い、鎖を掴んでは猿が枝から枝へと飛び移るように鎖を躱し切った。
ちょうど降りてきた場所が巳虎兎の近くであり、なごみから顔を上げると巳虎兎と目が合う。
「ねえ、みこと。かいぶつさんがちっとも話を聞いてくれないわ。どうすればいいと思う?」
と話が平行線なのに少し嫌気が差したのかそんなことを投げてくる。巳虎兎は少し困った顔を浮かべ、言葉が詰まりつつも言うべか言わないべきか迷った。
返答がないことか、それとも困惑した表情に気づいたのか、「みこと~?」と名前を呼ぶ。
様々な葛藤と迷いの最中、おずおずと巳虎兎は口を開いた。
「………戦って、なごみちゃん! お願い」
「駄目よ。戦ったら友達になれないじゃない」
勇気を振り絞って言った言葉は即座に断られた。相変わらず戦う気はさらさらないと意思を示してくる。
「ううん、違うの、なごみちゃん。戦うことは確かにいけない事で、誰かを傷つけることはやってはいけないことなんだけど、でも、戦って!」
「でも」
それでも渋る返答をするなごみに対して食い下がった。
「私、その、上手く言えないけど、でもあの人は今苦しんでいるの! 怖くて辛くて、自分でもどうすればいいのか分からなくてなって自暴自棄になっているの! 人はね、誰もがみんななごみちゃんのように強くないから。いっぱい悩んで、いっぱい困って、いっぱい迷って、答えを探しているの! でも間違った答えを選んでしまうことが多いの! 本当は誰かがその答えを教えてくれたり、助けてくれたりしてくれればいいんだけど。本当、どうして助けてくれないんだろう」
説得しようとしているのにどうしても自分の事と重なり言葉が詰まってしまう。今はそれどころじゃあないのに! と唇を噛みしめる。
思い浮かべた、俯いて涙を堪えている自分の姿に頭を振り払って、必死に国語力を働かせて言葉を探す。
「そうね。あたしもよく間違ったりするわ。そのたび皆から教えて貰っているわね」
「! そう、そうなの!!」
巳虎兎が見つけ出すより早くシロノスは納得できる答えを見つけ出した。
「あの人は間違えているの。間違った答えに辿り着いているから。もう後戻りできないくらい追い詰められているから。だから、戦って! そして勝って、それを間違えだって教えてあげて!」
「………」
熱いものが目元に溜まってくるのを感じた。喉に引っかかりを覚えて言葉が詰まる。次の言葉が出てこない。
言いたいことは、伝えたいことはあるのに言葉が出てこない。本当はもっと別の事を上手く伝えたいのに。
私はあなたが手を伸ばしてくれたことがとっても嬉しかった。笑顔で話しかけたことが嬉しかった。たったそれだけのこと。たったそれだけのことがすごく特別なことのように思えたのだ。
友達だと言われたことがどれだけ救われた思いになったのか。
そして、彼は私と似ている。形は違えど周囲が敷いたルールに縛られて、目を気にする日々を送ってどす黒い感情に体に支配される感覚。
そんな中でも縋る存在があった。巳虎兎にとっては絵本や昔の友の言葉、綱光には勉強あるいは母親の存在だ。だが、それは支えではなく一種の逃避の手段でしかなかったのではないのか、と巳虎兎は時に思うのだ。
そのことを思うとはいつも自分に嫌気が差して、泣きたくなる思いを抱えながら、結局それから逃れようと絵を描くのだ。
嫌事があってそれから逃げるように絵を描いて、逃避だと自覚すると嫌になってさらに絵を描いて、悪循環の堂々巡りしていることに疲れて、結局は筆を落としてしまった。
ああ、駄目だ。うまく言葉がまとまらない。だから自分のことではないのだ。彼についてだ。感情ばかり先走って話の整合性が作ることが出来ない。なんて自分はこんなにも愚図なんだろうか。こんなでよく絵本作家になりたいなんて言えたんだ!
涙が零さずにいられない。伝えたい言葉がちゃんと出てこないもどかしさに吐き気と頭痛すらしてきた。視界が不安定で、自分の足でちゃんと立っているのかもわからない。
周囲の音もちゃんと聞こえなくなって、だけどドクンドクン、と速くて大きな自身の鼓動だけがやけにうるさかった。
(駄目、もう……)
倒れかけそうになったその時、スッと、両手に暖かい柔らかな感触が伝わってきた。
ぼやけていたはずの視界に映ったのは真っ白な少女。少女が優し気な目を向けて言うのだ。
「みこと、大丈夫。あたしちゃんと聞くわ」
あ、と途端に緊張の糸が、不安感が消えた。
飾った言葉はいらない。綺麗で上手な言葉はいらない。前置きは説明ももう十分だ。
今はただ、心の底から想っている言葉をそのまま告げれば彼女は答えてくれる。
だから、なごみちゃんお願い。
「お願い、助けて! あの人を……助けてあげて!!」
呪縛に囚われて自分を見失っている彼を、そして弱い私を、
助けて!
心の底から想いを伝えると、なごみはニッ、と眩しいくらいの真っ白な笑顔を浮かべて、少女は応えた。
「みことの言う事はよくわからないけど、よくわかったわ。うん、心に響いた」
―――任せて。
ナンバーロックの首輪の数字を七、五、三、とセットし、鍵を挿し込んで回しながら叫ぶ。変身! と。