《束縛》5
巳虎兎が目を覚ますとそこはどこか建物内だった。部屋の中は何かが暴れ回ったように荒れていて、いたる所に傷がついた大部屋。
ここはどこだろう、と思いながら起き上がろうとすると、ガチャリ、と鉄の音と同時に上手く身体が動かなかった。一体どうして? と思いながら視線を下げて見ると、自分の身体が鎖で拘束されていることに気づいた。
「目を覚ましたか」
声に反応し、視線をそちらへと移すとそこにいたのは綱光。今は鎖の怪物の姿を戻し人間体の姿。どこにでもいそうな、巳虎兎よりも年上の中高生。
巳虎兎は綱光の姿を発見すると気絶する前の事をハッキリと思い出す。身体が震え上がり、綱光が怪物の姿でなくとも恐怖心が芽生えた。あ、あ、あ、と言葉になっていない声を出す。目元に涙が込み上げてくる。まるでピンチに瀕した小動物のような有様だ。
巳虎兎の様子を不機嫌そうな目で向けていた綱光は視線を逸らし、投げやりな口調で言う。
「安心しろ、お前はただの人質だ。何もしねえよ」
「……うち、そんなに……お金ないです」
「身代金要求の誘拐じゃあねえ。アイツの、シロノスを釣るための餌だ。それさえできればお前は開放する」
しろのす? と一体何のことだろうか、と知らない名前を出されて困惑する巳虎兎だったが気絶する前のことを思い出し、それがなごみのことを指しているのだと理解した。
(けれど、なんでなごみちゃんのことをシロノスって言っているんだろう? 確かに、なごみちゃんの肌は白いけど)
不思議に思ったが、現状で気にする事ではないと思い返す。
「な、なんで、……ですか?」
思わず訊ねてしまった。口にするつもりはなかったけれど、思考と共に自然と口から零してしまった。
なんでこんなことをするんですか? なんでなごみちゃんを呼ぶんですか? なごみちゃんに何をするつもりなんですか? どうしてなごみちゃんを呼ぶのに私を人質にしたんですか? 本当に私を開放してもらえるんですか?
様々な思考が合い余って中途半端な形で訊いてしまったのだ。
バン! と部屋に響き渡る大きな衝撃。綱光が壁を思いっきり殴り付けたのだ。突然の暴行に、ヒィ、と怯え、ごめんなさいごめんなさい! と泣きながら謝るが、それも癪に障ったのか、もう一度バン! と殴りつける。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
「泣くな、静かにしていろ!」
怒鳴り、殺気を込めて凄んでくる綱光に対してさらに身が竦んで、ごめんなさい、と謝罪の言葉を口に出そうになりそうになったが、今度は壁ではなく自分が殴られると身の危険を感じ、開きかけた口を慌てて閉じた。
悲鳴じみた謝罪の声を抑えられたが目には涙を浮かべたまま。綱光は泣くな、ともう一度だけ忠告し、巳虎兎から目を逸らす。
向けた視線の先は壁しかなかった。綱光はそれをただ静かに睨みつけていた。特に壁に何かがあるわけでもなく、向けた目の先にあったのが壁だっただけのようだ。
二人の間に静寂が訪れる。
怪物の姿へと変えられる誘拐犯と自分に自信のない少女。
互いに無言の時間が流れる。綱光の心情はどうなのかは不明だが、誘拐された側の巳虎兎にとってはこの静寂の重い空気が不安を募らせていく。さらに怪物であり、誘拐犯である綱光と同じ空間にいることは気が気でない。
不安だけで心が壊れてしまいそうになるほど。
正直、自分がどうして誘拐されたのか分からない。いや、判明はしている。実際に犯人である綱光が先ほど自ら告げたではないか。なごみを呼び寄せるためだと。
(なごみちゃん、あなたは一体何者なの?)
なごみへの謎も増えていく。
折角なごみについて忘却の彼方へと消え去ろうとしていたのに蘇ってしまった。
もう何度目になるのか分からない、頭の中に様々な疑問で埋め尽くされていく感覚を覚え、頭が痛くなっていく。
頭が痛くなる一方で思考をいくら回してもその答えは導かされなかった。
数分にも数時間にも感じられる息が詰まるような時間は流れていく。両者は黙ったまま、巳虎兎だけが緊張感と思考の回路のせいで消耗していく。
チリチリとした耳鳴りが締め付けるように頭痛が襲い、心は強大な闇に襲うような不安感に胸が圧し潰されそうになり、心なしか呼吸も上手くできずにいた。
このまま何もしないままで時間ばかり経過していく様に我慢できず、悩みに悩んだ巳虎兎は勇気を出して緊張して震える口元を必死で制御して声を発した。
「……た、たぶん、な、なごみちゃん……来てく、れ、…くれません、よ」
「なんでだ?」
内容が内容だけにか、黙れ、などと拒絶する発言することはなく、巳虎兎の言葉に反応する綱光。流石に待ち人が来ないなどと言われれば当然の反応だろう。
睨みつけてくる綱光の視線に身震いして目を逸らして、必死で開けた口が思わず閉じてしまう。だけど、気になる一言を発しておきながらその後黙ったままでいると何をされるか分からない。
今更ながら緊張感に耐えきれず何も考えずに喋ってしまったことを激しく後悔する。
何とか、折れてしまいそうな心に、頑張れ頑張れ私! と心細い応援で無理矢理立ち直らせて、言葉を続けた。
「え~と、その~……まだ会ったばかりで、……そんなに仲良く……ないかもです」
綱光の圧のある視線に耐え切れずに目を逸らしたまま、巳虎兎は伝えたい言葉は絞り出すことはできた。
それに対して綱光はふーん、とどうでもよさそうに。
「友達を斬り捨てるなんて随分な奴だな」
「…………」
何故だか、その言葉にはムッとし、小さな火を灯したような怒りに似た不満を覚えた。
しかしその火も風前の灯で、気弱な巳虎兎が宿したものは綱光が「なんだ?」と威圧された一声で簡単に消えてしまう。
なんて弱いんだ私は、と思うのと同時に少し前までなごみの事を忘れようとしていた、自分は綱光を責める資格は……なごみを友達と名乗る資格はない。
……そもそもまだ友達と呼べる仲でもなかったのかもしれない。
出会って間もなく、言葉を交わし、少しの間一緒に遊んだだけの関係。もしかしたらあのまま何もなければ友達になっていたかもしれない。あの、笑顔が輝いた真っ白な少女と友達に。
でもそれはもう叶わないものだ。
目の間にいる人物と同じように怪物みたいな、異形な姿へと変える彼女に怯え、恐怖のあまり存在そのものを忘れようとしていた自分が、助けてくれた彼女のことを拒絶した自分が、彼女のことを友達などと呼べるわけがない。呼んで言い訳がない。
自然と視線が下へと落ちる。
落とした視線の先に何らかのひっかいたような真新しい傷跡を存在し、それを指で軽くなぞった。
「別にお前で誘い出せないならそれでいい。もう一つの方法で呼び出すだけだ」
「もうひとつ……?」
綱光の意味深な言葉に反応し、下へと落としていた視線を戻す。巳虎兎はエサになごみを呼び出そうという計画だったのだが、自分はあまりエサとして効果がない。だが、他にも手が存在するという。それは何か?
巳虎兎は脳裏にある人物たちの姿を思い浮かべ、叫ぶ。
「もしかして、……子供達の方を!?」
思い至ったのは昨日なごみと一緒にいた子供達の拓弥、慧太、茉実の三人。巳虎兎はこの三人ならば自分よりもなごみを呼び出すには十分な人質になる可能性が高いと考えた。自分よりもなごみと関係が深く、それに子供である彼らならばあり得る話だった。
嫌な想像、自分が攫われる今の状況よりも最悪な事態になることを想像した巳虎兎、そんなことになったらどうしたらいい、と今までとは違う恐怖に硬直する。
だが、そんな事態を心配するのは杞憂だった。
「子供達? ……ああ、アイツらか。探し出すのが面倒だ。お前だって、偶然見つけたから人質にしただけだ」
あっさりと、それでいて素っ気ない否定して話すと綱光はぷい、と視線を巳虎兎から外して天井を見上げる。もう話す気がないという態度だ。
綱光の言葉を聞いて、ほー、と小さく息を吐いた。よかった、彼らを巻き込むことになる事態にはならなくて、そう安堵する。
安心からか、ずっと考え込んでいた頭は一度思考が切れて、余裕とはまではいかないがほんのちょっぴりだけ整理がついて落ち着きを取り戻す。そうすることで余裕ができた巳虎兎は、すると同時にある疑問がよぎる。
(待って、私を人質にするのはいいけど、それならどうやってなごみちゃんを呼び出すつもりなんだろう?)
テレビドラマとかでよくある、誘拐事件の際に犯人は誘拐した子供の自宅に電話して親に身代金を要求してくるといったものだ。だが、巳虎兎はなごみの家の電話番号どころか、居場所とすら知らない。本当に誘拐された人質としての最低限の意味をなしていない状態。
さらに先ほど自身が告げた、なごみとの友好度は低いと発言したために人質としての価値はないと自白してしまった。
自分で自分の首を絞めてしまったことに気づいた巳虎兎は顔を真っ青になりながらあわあわと口を震わせて、ビクビクと綱光の様子を窺う。けれど綱光は相変わらず、じっと天井を静かに見つめているだけで動くような気配はない。
(…………待っているの、かな?)
綱光の様子から察するに、なごみとの連絡の手段は済ませてあって、今はそれを待っているということなのだろうか。一体どうやって連絡を取ったのだろうか? 綱光の手口に新たな疑問を抱いたがそれは頭の隅に置いておく。
それ以上に気掛かりな、身の安全について知りたかった。
「……なごみちゃんが来なかった場合、私、どうなるんだろう?」
小さく呟きながら、はあー、と息を吐いては何気なく綱光の方を見る。
「………………」
天井を見上げていたはずの綱光の視線は巳虎兎へと向けられた。
「………………………………あ」
あ、と気づいた時に遅かった。思わず考えていたことを口から漏らしてしまっていた。
極限の緊張感からか、またあれやこれやと不安の種が多く抱えてしまい精神的に参ってしまっている状態だったからか、巳虎兎に対しての綱光の警戒心が強くなかったためか、本人の前では絶対に話してはいけないことを言葉にしてしまった。
口を両手で抑えつけて、恐る恐る綱光の様子を疑う。綱光は目を細めたまま巳虎兎を見る。先ほどの威圧はなく、何か考えているようだった。
一分ほどの審議の時間。
綱光は自身の掌を見て、ゆっくりと確かめるかのように指を曲げ、拳を作り、告げる。
「その時はお前にもう用はない」
低い声だった。脅す時の圧はないが、それでもハッキリとした意志を持っていることが伝わるもの。
用はない。けれどそれは開放するという意味でもない。
そう、綱光の発する圧からして察した言葉の意味を良い意味に受け取れなかった巳虎兎は怯えながらも言い返す。
「だ、誰にも言いませんから!」
「関係ない」
「な、なごみちゃんが来たら開放するって」
「来たら、の話だ。お前が言うようにアイツが来なかったらお前に価値はない。お前を消す」
「酷い……!」
自分から誘拐をしておいて意味がないと判ったら亡き者にする、と理不尽な言い分に異議を申し立てたたかったが、言った瞬間に巳虎兎への攻撃を実行されることを予想ができたので言葉を呑み込んだ。
「お願い、です! 助けて、ください!」
「…………」
代わりに縋るようにしてもう一度助けを請うが綱光は無視する。決定事項だと態度。
そ、そんな、と絶望の淵に落ちる。
ポタポタと両目から、これまで耐えていた涙が零れ落ちていく。
「な、なんで、ど、どうして、こんなことに………、わたしは、……私は」
巳虎兎は今まで我慢してきたものが崩れ落ちていくかのようにして泣き震える。
昨日、今日起こったことだけではない、これまでの出来事に対してもだ。
子供の頃から内気な性格で周囲と上手く馴染めずにいた巳虎兎。ようやく気が許せる友達できても中学に上がればその友達とも学校は別れ離ればなれになり、また孤立する。
ただ孤立するだけならば慣れているからまだ大丈夫。本を読んで、絵を描いて、自分の世界に閉じこもっていればそれでいい。少しだけ寂しい気持ちが覚えるが、心の平穏は保たれる、はずだった。
だけど、世の中とはそんなに都合良くできておらず、きっかけが何だったのか覚えていない。実際に自分がそこまでのことした自覚はない。だからきっと些細なことだった。ちょっとしたすれ違いが自分と周りとの見えない壁ができたのは。
クラスに馴染めず、夢を馬鹿にされ、踏みにじられ、苛められた。
涙を零して、助けて欲しくても誰も助けてくれずに心が締め付けられるような苦しみ、どうすればこの苦しみから解放されるのか分からず、クラスメイトから何で苛められるのか不安で毎日毎日神経が擦り減らされていく日々。
どうして……、私が何をしたっていうの! 何もしていないのに。私は何も悪いことはしてないのに。絵本作家の何が悪いって言うんだ! なんで子供の頃から描いてきた夢を子供っぽいというだけで糾弾されなければならないんだ!
恨み辛みを零しながら泣き啜ってきた、一年間。今まで溜め込んできたものがあふれ出る。
「…………私は何も悪くないのに、……私は何も、何もしていないのに! なんで? どうして? どうしてみんなそんなに意地悪するの? なんでそんな風に笑うの? 私何かおかしいの? おかしいならおかしいってちゃんと教えてよ!!」
頭を抱えようにして蹲る。身体を鎖で縛られているために両手は封じられていたが、解放されていたら髪の毛をぐしゃぐしゃになるまで乱暴にしていただろう態度だ。
「絵本作家になりたいことがそんなにおかしいことなの? 子供っぽいの? 中学生になったら絵本を読んだら変なの? 誰とも喋らないで一人で絵を描いていたら悪いの? ……だってしょうがないじゃん!! 人と仲良くなるってよく分からないんだもん!!」
「…………………」
巳虎兎の叫びに、泣き出そうと喚こうとしても無関心を務めようと考えていた綱光だったが、最後の言葉に反応して巳虎兎の方へと視線を戻す。
顔を床へと向けている巳虎兎は綱光が自身を見ていることに気づいていない。気づかずにとどめないこれまでの溜まっていた鬱憤の数々を吐き続いていた。
「昔はもっと簡単だったのに……、皆仲良くが当たり前だったのに……、それなのに成長すると価値観とか関係性とかそんなのが色々複雑になっていくだもん! 楽しかったことや面白いことや良いこととか、……そんなのが、全部が全部、子供と大人の境界線ってやつで無くしちゃうんだもん! 消しちゃうんだもん! 離れていくだもん!! 大事だと思ってたのが………違うものに……なっちゃうんだもん」
子供と大人の境界線。歳を重ねていく内に出てくる、子供っぽいや大人向けといった価値観の相違。小中学生の思春期によくある現象だ。
玩具やテレビアニメは卒業だとか、本格的にスポーツに打ち込もうとか、将来のために勉強しようとか、ブラックコーヒーが飲めるとか、ブリーフパンツは恥ずかしいとか、化粧して綺麗になろうとか、キャラもの道具は嫌だとか、……そういった様々な思想や嗜好の心の変化が訪れ、成長している。
だが、それと同時に大人に近づいている自分と他者を見比べて幼稚なことをしていると小馬鹿にした態度を取るようになる。所謂『お前まだやっているの?』『俺は卒業した』というやつだ。
他者を見下し、自分の方が勝っていると思い込んでしまうのが常だ。
子供から大人へと成長していく過程の段階。
巳虎兎はそれに決して乗り遅れた訳ではない。
巳虎兎だって普通の女の子だ。幼稚なデザインのものが嫌いになった訳ではないが、少し恥ずかしいといった感情は存在している。価値観は少しずつ昔とは違うものに変わってきている。子供から大人へと考え方は変わりつつあるのだ。
だけど、
「………どうして、ずっと好きじゃあいけないの? ……私は、………捨てたくないよ…………」
離れられない。ずっと大切にしてかけがえのない思い出に結びついて、夢へと繋げてきた、この想いを巳虎兎は捨てられなかった。
巳虎兎だけではない。本当は皆、誰しも似たようなことに悩みを抱いて、考え、自分のわだかまりが存在しているのだ。
巳虎兎は思う。
ああ、なぜ、この世界は絵本のようにきれいな世界にできていないんだろうか。優しく、皆が仲良く笑いあえる、幸せな世界に。
「私は…………」
言いたいことを言うだけ言って、顔をくしゃくしゃになるほど泣きじゃくって意気消沈の状態になった巳虎兎、それでも文句を出そうと思えば出せる。けれど、それが何だというんだ。自分はここで終わるんだから嘆くだけ無駄なのだ、と。
興奮して泣き叫んだことで、溜まっていた鬱憤がスッキリとしたことで一旦落ち着いて冷静になった頭が、無意味なことだと判断する。
そして、その考えが間違っていなかったかと証明するようにして、泣き叫んでいた巳虎兎の言葉に耳を傾け、眉を顰めては何か思い出しているかのような難しい趣きでいた綱光が立ち上がる。
ほんの数メートル開いていた巳虎兎との距離を一気に詰め寄って地面へと顔を伏せていた巳虎兎の頭を乱暴に掴んで、ドン! と壁へと投げつけられる。きゃあ、と悲鳴は鈍痛が奔る。痛みに蹲る巳虎兎を無理矢理起こしあげる。
「うっぜえよ、……お前」
充血した涙目と殺気に溢れた、目と目が合う。
酷く苛ついた声色は怒りと同時に何故か何らかを拒絶しているように巳虎兎に聞こえたが、そんな考えもすぐに消えた。
引っ張られた髪、壁にぶつけられた衝撃、そして体を竦ませるほどの鋭い眼光。その三つによって泣き叫んで吹っ切れていた恐怖が再び舞い戻ってきた。
「ご、ごめんなさい! い、痛くしないで、……許して! お、お願い!」
慌てて震えた声で謝罪し懇願するけれど、綱光に巳虎兎の言葉は届かず遮るようにして口を開いた。
「聞いていればなんだ? 周りがお前の好きなことを馬鹿にされて傷ついた。……それがなんだ?」
「……………え?」
綱光から出てきた言葉は予想外のものだった。巳虎兎は言葉の真意が分からずに恐怖心が一瞬消え、困惑する。状況と、綱光のこれまでの傾向からして「お前の話なんて知らん」と一喝され殴られることを想像していたが。
呆気を取られたような顔をする巳虎兎だが綱光など気にも止めず、怒気を強め、続ける。
「お前はただ大切なものに縋っているだけで何もしない! ただ甘えているだけだ! 世界が悪いと謳っているだけの社会不適合者だ! 本当に大事だったなら、大切なら……ちゃんと努力してみろ、誰から何を言われようと無視して全力で貫いてみろよ、自分は弱いって言い訳して逃げてんじゃあねえよ!」
掴んでいた髪の毛をさらに強く、引っ張り上げるようにして握り締め、荒ぶるような声で叱咤する。そのまま視線を下げて何かを思い出したかのように辛そうな顔をする綱光。
巳虎兎は頭の痛みも恐怖心もなく、ただただ呆然とする。
瞬きするほどの間弛緩した空気が部屋を支配する。
二、三回ほど目をパチクリさせ、綱光の様子を窺う。
綱光は顔を上げて、パッと掴んでいた巳虎兎の髪を開放する。巳虎兎から体を背けて距離を取り、重い腰を下ろしてその場に座り込むと、はあ~~~、クソデカいため息を吐き出して、頭を乱暴に掻き毟る。
「……まあ、それでもお前は俺に比べればマシなんだよ」
「ど、どういうことですか」
先ほどとは違って沈んだテンションになった綱光は諦めたような調子でそう告げる。思わず巳虎兎は聞き返してしまうが、訊ねてみてから聞いてよかったのだろうか、この人の心に踏み込むようなことをしてしまって、と後悔と不安を募らせた。
けれど、心配は杞憂。綱光はほんの一分ほど考えるようして黙り込む。答える気がないのかと、今の沈黙が返答なのかと思っていた時、ぽつりと零した。
「オレはなあ………母親に裏切られたんだよ」
「え?」
母親に裏切られた? それはどういうこと? 言葉が出てくる前に綱光が先に口を開いた
「一緒に頑張ろうって言ったのに、父さんが仕事先の事故で行方不明になったから二人で頑張ろうって、周りから同情の目なんて向けられないくらい強くなろうって約束したのに」
「オレは頑張ったさ! 友達を作ることも、遊ぶことも、テレビを見ること、そういう皆がやっていることを我慢して、何かもを犠牲にして! 必死に勉強していい成績を取って、良い学校にも入って、そのまま高校も大学も会社だっていい所に入って、母さんを楽させたかった! 喜んでもらいたかったんだ!!」
「なのに、あの女は裏切ったんだ! オレが頑張って勉強を頑張っている間、母さんも仕事を頑張っていると思っていたのに、蓋を開けてみれば旨いもの食べて、遊んで、あげくの果てに俺の塾の講師と隠れて付き合っていやがった!」
「旨いもの食べるのはいいさ、綺麗な服を買って着るのも、映画を見るのだって、好きなことするのはいいさ、母さんが頑張ってきたのは俺が一番知っているから、自分へのご褒美ってことで納得できる。……だけど、父さんを裏切るのは違うだろ!!! 生きていることを信じてなかったのかよ! いつか必ず帰ってくるからって言ったアレは嘘だったのかよ!!!」
「嘘つきは罰するべきだ、裏切りは罰するべきだ! あの女はオレと父さんの約束を反故にした。それ相応の報いを受けるべきだ。だからオレはこの手で母さんを縛り上げたんだ!」
「分かるかお前に! かけがえのない大切なものを護ろうと思ってずっと頑張ってきたのに、……母さんは、大切な人はそんなオレを騙して裏切っていた俺の気持ちが! 信じてきた人はオレを縛りつけるだけ縛って、自分は自由気ままにいたことがどれだけ最悪だったか、……お前に分かるか!!」
有無を言わせぬほどの気迫。殺気にまみれた充血した赤い瞳に、喉を傷めるほどの声量で吐いた綱光自身の事実。それを知って言葉を失う。
事故で父親を行方不明となり、突如として母と二人になった彼ら親子。周囲から同情と憐みが合わさった目を向けられた。
戸惑い、悲しみ、屈辱、焦り、嫌気、怒り、プレッシャー、一体どれだけの感情が渦巻いて心に闇を抱えたことか。幼かった綱光にはまだ理解し難くてそれほど感じなかったのかもしれなかったが、綱光の母親は明白にそれを感じ取っていた。
絶望的な状況でマイナスの感情を何とか抑えつけ、綱光の母親は自身を奮い立たせてシングルマザーの道を突き進んだ。綱光の教育は厳しくあたり、誰の目から見ても恥ずかしくない優秀な息子とするために。決して父親がいないという理由だけでまともに育たなかったなどと陰口を叩かれないために。
もしかしたらこの厳しさは八つ当たりに近いものだったかもしれない。シングルマザーの不安と恐怖を、息子にぶつけて誤魔化しているだけの最低の行為だったのかもしれなかった。
幸いだったのは幼かった綱光は母の気持ちに全てではないが、察していたためにその教育を受け入れられたこと。そして、厳しいノルマも努力してこなしてみせたこと。
綱光に当たることで自分の精神を安定させる母親と、親の八つ当たりを叱咤激励と思いながら励む息子。それは悪循環と共依存が合わさった人として醜悪な形で、この親子の繋がり。
執念といった壊れた親子二人の絆で培ってやってきたことで叶った、有名中学の入学、そして高校受験を控えた三年生という大切に時期に差し掛かった。
このまま何事もなくなければ、もしかしたら、二人が望んでいた未来が待っていたのかもしれない。が、残念ながら現実はそうはいかなかった。
これまでの細い糸で繋がれていたような緊張感のラインが、綱光の母親はずっと感じていたプレッシャーに堪えられなかった。精神的な疲弊にしても肉体的な疲労にしてもギリギリだった。綱光に当たるだけでも安定できない彼女はそれまで自制してきた快楽に手を伸ばした。
初めは、ちょっと高いお店の美味しいものを食べるくらいだった。それだけ満足できたまた頑張ろうと思えた。だけど、一度開放してしまった欲望は収まることなどなくて。
小さな穴だったものは小さな欲望が通るにはよかったが、通る欲望が少し大きくなるだけでそれだけで穴は広がっていって、それが続いて徐々に大きなもの穴になっていく。
ガス抜きのつもりのはずが、気づいたら大きな欲望のままに行動を起こしてしまったのだ。そして、それが綱光の目に最悪な形で見つかってしまった。
綱光は思う。
劣等者の力を与えた、帽子の男は言ってきた自分の感情は嫉妬から来るものだと。……ああ、そうだ。俺はずっと母さんに嫉妬していた。
美味しいもの食べることを、綺麗な服やアクセサリーとか買っていることを、面白い映画やドラマを隠れて観ていることを、……全部知っていた。俺は勉強しろと言っているくせに自分は隠れてコソコソ何か、楽しいことをしているのを。
我慢させて、抑圧して、散々縛り付けていながら、内緒で自由に楽しんでいたことを、ずっと嫉妬していた。
だけど……別に良かったんだ。
確かに知った時は、なんでと戸惑い、裏切られたことへの怒りと悲しみが湧いてきたが、最終的にはそれも諦めと安堵の入り混じった感情に落ち着いた。
それは彼が、母親のしてきたことをよく理解しているから。女手一つで子供を育てることがどんなに辛く、大変なことか一番近くで見てきたから。母の努力と懸命な頑張りを理解しているから。だから嫉妬してもそれを許すことが出来た。
(でも母さん、アンタは間違いを犯してしまった。踏み込んではいけない所に踏み込んでしまった)
綱光の感情がドス黒いものに塗りつぶされていく。
母がやってきたことに対してのわだかまり、嫉妬心は消えないものの、自分の中で冷静さがあれば整理がつく。一時期的な怒りだと、十分抑えられる。
(父さんがいなくて寂しいのは俺だって同じだよ。……でも、それは駄目だろう! 他の何かは良くてもそれだけは駄目だろう!)
だが、父親を裏切ったことは許すことができない。綱光を裏切ったのは許容できても父親への裏切りは許容できない。
大切な家族を、もう八年以上行方知らずの父親を、もう生存について綱光自身もあまり自信をもって生きていると信じられない人を、最愛である夫を裏切ったことだけは許せなかった。
そして、綱光は悲しみの怒りは同時に今まで我慢してきた感情が爆発した綱光は、母親と生まれて初めての喧嘩をして家を飛び出して、帽子の男から劣等者の力を手に入れ、母と塾の講師二人を粛正したのだった。
それが綱光の事の真相だ。
そして巳虎兎とは言うと、
「…………っ」
大きく跳ね上がった心蔵の鼓動を抑えるように息を呑んだ。
綱光の事情について理解したからではない、綱光の言葉が酷く胸に刺さったからだ。
(……この人ずっと一人で戦ってきたんだ。悩んで、苦しんで、事情はあんまり分からないけど、この人はずっと負けずにいたんだ)
彼の身の上に起きた出来事についてちゃんとできたわけではない。だけど、悲惨な目に遭ったことだけは伝わった。だけど彼はこれまで苦難に負けず、耐えて、頑張って、必死にやってきたことを理解するには十分の事だった。
そして結果は最悪な形なものになってしまったけれど、それでも彼の頑張りは本物だ、と巳虎兎は確信した。
ならば私は? 己に問うてみる。
答えは否と。
この人に言われた通りだ、と巳虎兎は眉間に大きな皺を寄せ、唇を噛みしめた。
(私はずっと、自分は耐えていると思ってた。クラスの皆から苛められても辛い思いをしても頑張っているって思ってた)
いつも一人でいる教室。何かが面白いのかよく分からないで騒ぐクラスメート達に、自分一人だけが無機質な物体にでもなったような空虚な感情が包んでいく。
これが自身を守るには最善だといつの頃からか気づいて、学校にいる間はずっとその状態でいた。
苛めに対して何も思わないように努める。辛いことに耐えて、無心であり続けることが頑張っているというのが巳虎兎の認識だった。
(だけど違った。この人は私よりももっと辛い思いや、嫌な思いをいっぱい抱えて、それでもお母さんのために頑張ってきたんだ……)
それは……巳虎兎にはできなかったことだ。弱い自分には決してできない。
胸が締め付けられるような感覚、それは今までに感じたことがない感情によって起こった。
嫉妬? 羨望? 同情? 後悔? 憤怒? 好意? 愛慕? 罪悪感? ……分からない。
様々な感情が複雑に混ざったようなものだし、どれも違うものなのかもしれない。だが、どうしてもこの感情を言葉にするというのならば、たぶん、これは………
(……劣等感)
巳虎兎がしてきたことよりも綱光がしてきたことの方が上だと感じた。
本来ならが別にこれは優劣をつけることではないはず、巳虎兎の事と綱光の事は全く別の問題。だけどどうしても、巳虎兎の中で惨めな自分と壊れそうな心でも踏ん張り続ける彼とで比べてしまう。
自分は弱い人間だと。
(私は結局……誰かに助けて欲しいと願っていたんだ)
心の奥底で密かに思っていたこと。今はこの嫌な現実から私を助けてくれる絵本の中に出てくるようなヒーローの存在がこの状況を、私を救ってくれる、と。そんな夢みたいなことを願っていた。甘えていたのだ。
でも、それは違った。
誰かが助けてくれることを待っていても駄目なんだ。本当は自分の力で頑張らなくちゃいけないんだ。恐怖を抑えつけて、心を奮い立たせて、自分と、自分の大事なものを護らなくちゃいけないんだ。
巳虎兎は今まで自分を恥じて反省し、そして勇気の真理に気づいたのだ。
求めて立ち止まっているのではなく、自ら立ち上がり行動を起こさなくてならない事に。
…………………………………………………………………。
(………………………だけど、本当に、それが私にできるの?)
できない。無理だ。私は強くはない。
今までの自分を鑑みて出てきた答えだ、自分には無理だと。
人間とはそう簡単には変われないし、どうやれば変われるのか分からなかった。
もし、今までとは違った何かしらの行動を起こすことができたとして、それがうまくいかなかったら? 今の状況より酷いことになってしまったら?
怖い。
変わろうとして失敗してしまうのが。
変えられない現実が。
何もかもが怖くてしょうがない。
結局巳虎兎は自ら動くことができなかった。
気が弱くて、何事にも消極的で、自分に甘いだけの人間。そんな人間が綱光のような強い人間になれるはずがないのだ。
辛いことにも耐える強さも、酷い目に遭う覚悟も持てない自分は、
(それができない私は)
なら、いっそうのこと、
(私はここで)
今この瞬間、
(この人の手で)
全部終わらせてしまおう。
(……死んだほうがマシなんだ)
巳虎兎は何もかも諦めてしまった。諦めて最悪な結論を導きだした。
死という名の究極の逃避。絶対の致命傷を以ってこれ以上傷つくことのない選択を。
巳虎兎の想いが伝わったように、過去のトラウマによってかき乱されていた心が落ち着いた綱光は虚ろな瞳で巳虎兎を見つめながら告げる。
「あ~~~、もう、お前いいや。人質の価値がないから、ここで殺す」
巳虎兎を覗いてきた目は壊れた綱光の瞳は光を失った、壊れた人間のそれだった。酷くくすんでいて絶望にひたりきっていた。
綱光に見詰められ、巳虎兎には恐怖はあったが、それ以上にあったことといえば「あ、終わる」という諦めと安堵の二つだった。
これで終わるんだ、何もかもが終わるんだ、と。
巳虎兎はそっと目を閉じてその時を待った。
「みこと~、ここにいるの~、どこにいるの~!?」