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シロノス~真っ白な絵本~  作者: 夜ノ雨
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《束縛》

 彼女と出会ったのは梅雨が明けて、夏が始まろうとしていた時期だった。


 暑いというよりも蒸し暑いといった方が正しい七月の初め。少女、御香祁巳虎兎はその日は期末テストも終え、学校の帰り道に図書館に寄っていくつか興味のあった本を借りた後、図書館の近くにある公園へと足を運んだ。


 公園に大きな水場が存在し、今日のような暑い日には子供達がそこで水遊びをして涼んで過ごしている、ひと夏の風景がそこに存在した。公園のベンチに腰掛けてバックからスケッチブックを取り出して絵を描き始める。


 巳虎兎がそれに目が惹かれてペンを走らせたと聞かれれば、その通りなのだが巳虎兎の目に惹かれたのはその中にある一人の少女に目が惹かれたのだ。


 その少女は子供達の中では異質に映り込んでいた。一緒に遊んでいる他の子供達と比べて年齢は高く、巳虎兎と同じぐらい見た目の年代……中学生くらいもの。


 白い髪と白い肌をしており、服装はペンキをぶちまけたようなパンクが利いたド派手なオフショルダーと赤のタンクトップ、下も古びたショートパンツと、一見、バンドマンのような服装をした恰好だが、しかしその少女にはあまり不釣り合いなものに思えた。


 というのも、その少女は童顔で子供達と水で戯れる、無邪気な姿から天真爛漫な天使のような輝きのある彼女からバンドマンのような、とてもハードコアな印象は感じさせない。


 けれど、衣装自体は別に似合っていないわけではない。あえて言うならば、『似合っている』言葉はまだ早いといった方がいい。『孫にも衣装』と言うべきか。


 もしかしたら、彼女の衣装の色が少しクズンでいることから、姉などの存在から貰ったお古なのかもしれない。


 そんな少し不思議を感じさせる少女が目に入り、巳虎兎は思わず筆を取りたくなってしまった。


 シャーペンを走らせ、白紙のページにモノクロの少女が映し出されていく。


(………うん、いい感じかも……。この子はきっと……)


 きっと、と巳虎兎の頭に幾つかの空想が思い浮かばせていく。


 少女が子供達と駆け回る光景を、少女が動物達と戯れる風景を、少女が歌っている所を、少女が明るい笑顔を誰にでも振りまく姿を。そして笑顔が似合う彼女の周りにいる人間もまた釣られて笑顔になる。


 そんな空想が広がっていくことを愉しみ、その気持ちのままにペンを動かす。


 巳虎兎にとって空想とは、その名の通りに想いが空へと飛んでいくようなものだった。


 どこまでも青く広い大空に、想像の翼を広げ、高く高く飛翔していき、その広い空を思う存分どこまでも飛び回り自分の気持ちを羽ばたかせる。


 久しぶりの感覚だった。テスト期間中だったから絵を描けなかったこともあったが、それ以上に巳虎兎は絵を描けない……描く気持ちになれなかったのだ。


 その理由は……。


『ダッサ。中学にもなって絵本とか……』


「…………」


 熱が籠って走り出していたペンが途端に止まる。


 どこまでも高く、遠くへと飛んでいけると思っていた想像の翼は、まるでかけられていた魔法が解けたかのように消え去り、巳虎兎の気持ちと共に墜落していく。


 自由に羽ばたいていたはずの浮遊感は無くなり、縛られたように地面へと重く沈んでいく。


 ただの純粋に好きなもので、趣味で、そしていつしか絵本作家になりたいという将来の夢になっていた。


 それなのに中学生に上がった途端、周囲からは幼稚だと冷ややかな反応で返ってきた。


 中学に上がって最初の頃はそれなりに平穏だった。元々人付き合いはあまり得意な方ではなかったために一人でいることが多かった巳虎兎だったけれど、図書室で借りた本に絵本だったことや、休み時間にノートに絵を描いていたことをクラスの中でもリーダーシップのあるグループから目が入ったことが始まりだった。


 それ以来クラスから苛めの対象となってしまった。


 陰口のようにコソコソと嘲笑され、事あることにネタにさらされ、酷い時は知らない内にノートに描いていたオリジナルの絵本に落書きされていたりなど陰湿なもの。


 苛めというよりも弄りに近いか。


 それを見かねた担任からクラス全体に注意があったが、けれどそれもせいぜい苛めに対してものというよりも、悪ふざけ程度に対しての注意だった。問題自体を大きくは取り上げなかった。それはより事を大きくしないためだったのかもしれない。


 巳虎兎への弄りは一時期的に治まったが、安息の日は長くはなかった。


 苛めや弄りというものは存外、無意識化の日常の行為の一つ。あれば自然と手が伸び、なければ別に構いはしない。注意を受けてしばしの間だけは意識して巳虎兎への関心を向けなかったが、時間が経てば注意自体されたことも薄れていき、やがて再発する。


 ネタとして弄られ、囃し立てられて、笑いものにされる。そして再び教師から注意を受ける。


 だが、それもあまり意味がなかった。最初の頃は注意してくれた教師も苛めではなく、弄り程度の軽いものだと判断したのか、「それくらいにしておけ」とクラスの中のいつものやりとりとして切り流すものに変わっていった。


 いつの間にか、日常の風景の一つへと写り込んでいった。


 違っていたはずのいつもが、いつの間にか当たり前のそれに変わって。


 周囲にとっては些細な日常の変化なのかもしれないが、当事者である巳虎兎自身にとってはたまったものではない。


 悩みを抱え、次第にストレスで絵を描けなくなってしまっていた。


 子供の頃に絵本作家になりたい、そう夢を思い描いて続けていた絵。


 だが、周りから笑われ自信消失によって描くことが止まってしまった。このまま何も描けなくなって、自分は大人になっていくんだろうか。


 描けないでいる自分はいったい誰なんだろう? なりたいと思って頑張ってきて、でもそれは周りから見れば恥ずかしい幼稚な行いでしかなかった。


 だんだんと周りの目を気にしてできなくなっていく。そしてこの状態が続いていく、絵を描けないでいるが一生続く。


 周りに怯え、毎日ビクビクしてやりたいことを素直にできない、自分は本当に私?


 漠然とした不安感が巳虎兎の心を支配していく。そんな気を逸らすようにベンチの背もたれに寄りかかり空を見上げる。照りつける太陽と清々しい澄んだ青空。その対照的に巳虎兎の心は黒ずんだ曇天。


 どうすれば自分の心はこの空のように晴れ渡るのだろうか。


「それってもしかしてあたし?」


「わあ!?」


 気分が落ち込んでいた所に後ろから突然声をかけられたことに驚き、ベンチから飛び退いてスケッチブックを両手で守るようにして振り返る。持っていたペンは取りこぼして、カラコロと転がっていく。


 振り返った先にいたのは、ついさっきまで水場で子供達と遊んでいたはずのパンクの利いた恰好の白い少女だった。


「こんにちは! おどろかせてごめんなさい」


「……え、あ、うん……こんにちは」


 巳虎兎は驚きのあまりなんて言っていいのか分からず、彼女から挨拶されたことだけは頭の中に残っていたため反射的に挨拶だけ返した。


 うん、と満足そうに大きく頷いた少女は笑みを浮かべ、ベンチを跳び箱の要領で飛び越えて巳虎兎との距離を一気に詰め寄る。


「ねえ、それお絵かき帳よね? あたしを描いていたわよね?」


「あ、えーと、……ご、ごめんなさい……勝手に描いちゃって」


 許可を取らずに絵を描いていたことに対して抗議だと思った巳虎兎は彼女にすぐに謝罪の言葉を出るが、少女は気にした様子はなく、むしろ不思議そうに首を傾げた。


「? なんで? 謝るの? 別に気にしてないわよ、あたし。……あ、もしかして描いてもらいた時のポーズがあると思ったの? なら大丈夫よ! 絵を描いてくれるだけであたしは嬉しいわ!」


 少女から何故かそんな的外れな返答が返ってきてしまった。


 そういうことじゃなくて、と、否定するものの後から続ける言葉が浮かばずに目を泳がせて声が段々小さくとなっていた。


 そんな巳虎兎の言葉をちゃんと耳に入っているのかいないのか、少女はまた何か思い付いたように言う。


「あ! あなたって動いているあたしを描いていたのよね? それって難しいことじゃない? 動けば描いていたものと違うものになるものになるでしょ? それでちゃんと絵が描けるの?」


「え、あ、うん。……ちょっとしたコツ、というか慣れというか……」


「見せて見せて!」


 両手を広げて無邪気に巳虎兎へせがんでくる少女。その勢いに呑まれるような形で巳虎兎は反射的に持っていたスケッチブックを少女へと渡してしまった。


 すぐに、ハッと我に返って「あ、待って」と手を伸ばしてスケッチブックを取り戻そうとするも遅かった。少女はスケッチブックの絵の鑑賞を始めていた。


「あら? ……あ」


 何か気づいたような呟きを漏らした少女だったが、巳虎兎がひったくるようにして絵を取り返す。取り戻したスケッチブックを両手で大事そうに抱える。


「だ、駄目! これは「ごめんなさい」


 え? と巳虎兎は少女から謝罪の言葉が返ってきたことに疑問に思った。彼女は一体何を謝っているのだろうか、と思っていると少女の方からすぐに答えてくる。


「ごめんなさい。折角の絵、あたしが驚かせたから絵が変な線が入ったのね」


「え?」


 少女から言われて巳虎兎は取り返したスケッチブックを覗いてみると少女が描かれたはずの絵には、一本のヘリ曲がった薄黒い太い線が入って台無しになっていた。先ほど取りこぼした鉛筆が誤って走って描かれたものだ。


 けれど、まだ下書きの段階だったため修正自体は可能なものだ。


 巳虎兎は絵と彼女を見比べながら、恐る恐るといった調子で首を横に振る。


「ううん、大丈夫。これくらいなら。……私の方こそごめんね。その、勝手にモデルにして」


「そうなの? ならよかったわ。折角描いてもらったのに、台無ししちゃったらとても悪いから」


 巳虎兎の言葉を聞くと少女は安心したように笑みを浮かべる。


「でも、なんであなたも謝るの?」


「えーと、……勝手に描いたら、その、嫌がる人もいるからかな」


「そうなの? こんなに上手に描いているのに、嫌がる人がいるの?」


「えーと……それは……」


 少女の言葉に巳虎兎は声を詰まらせる。


 絵を褒めてくれたのは素直に嬉しかったし、自分でもそれなりに描けている自信はあった。けれど、だからといって勝手にモデルにされれば普通に嫌がる人はいるだろうし、下手すると、肖像権の侵害だ、と訴えられるのかもしれないのだ。


 中学生の趣味程度のデッサンくらいで、肖像権どうの話は少し大げさかもしれないが、もしも少女のような純粋な人間ではなく、神経質で厳しい人間だったならばそれもないとは言い切れない。


 それに少女や巳虎兎の基準では『上手い』や『出来ている』かもしれないが、基準が高い人にとっては『下手』と言い捨てられる可能性だってある。


 世の中とは冷たくて非道なことが多い。


 巳虎兎はそれをその身で実感して、悩んでいた。


 だからだろうか、巳虎兎が少女の絵を描きたいとペンを走らせたのは。


 優しさを忘れ、非道で残酷な冷たい社会を知らない、真っ白なキャンパスのようなまっさらで純粋な少女の笑顔を描きたいと思ったのは。


 描きたいと衝動に駆られて走らせた絵だったが、巳虎兎自信の真理の中では実は一種の逃避からの行動だったのかもしれない。


 深く考え込んで言葉に詰まっていた巳虎兎に対して、少女はどうしたの? 声をかけられて意識を取り戻した巳虎兎が応答しようとするが、その前に複数の声が上がった。


「おーい、ねーちゃん、何やってんのさ?」


「いきなり離れでないでよ~」


「そっちは友達なの?」


 複数の声の正体は先ほどまで白い少女と遊んでいた子供達だった。一緒に遊んでいたはずの少女が急に離れたのを気づいたのか、それぞれ反応をみせる。


 あ、ちょっと待って、すぐに行くから! と少女は子供達に大きく手を振って答えると、こちらへと振り返ってくる。


「ねえ、あなたも一緒に遊ばない? 今私たち、水かけで遊んでいるの。とっても気持ちいわよ!」


「え? な、なんで?」


 突然の少女からの申し出に困惑する。少女はその疑問に当然と言わんばかりの態度で返した。


「みんなで遊んだ方が楽しいからよ。あ、そうだわ」


 何か気づいたように声を漏らした少女は人差し指を巳虎兎の胸元へと指し示してくる。一体なんだろう、と構えたが、少女が指差しているのは自身ではなく、大事に抱きかかえているスケッチブックのことだと気づいた。


 やはり絵のことが気に入らなかったのか、と不安に覚えたが少女が続けた言葉は巳虎兎が抱いた不安とは逆のものだった。


「その絵、あたしだけじゃなく、たくや、まみ、けいたもみんなを描いてちょうだい。そっちの方がもっと良くなると思うわ。だって、遊んでいる時って一人よりもみんなのほうがもっと楽しいもの。絵の中のあたしもきっとそう思っているわ」


 一瞬、言い放たれた少女の言葉の意味が分からなかったが、しかし、頭の中では少女の言葉が重複して遅まきにその意味が理解できた。……ような気がした。


 自分以外も、友達を描いて欲しい。


 簡潔に言えばただそれだけのこと。だけど、少女の言葉は巳虎兎にはそれだけじゃないような気がした。


(自分だけじゃなくて友達も一緒に、か……。なんか、いいなそれ)


 最初は白い少女が、何とも言えない眩しいほどに輝いた存在のように思えたから思わず、ペンを走らせた巳虎兎だったが、そんな少女の輝いて見えたものの正体は友達と楽しく遊んでいた、からかもしれない。


 友達と一緒に遊ぶことは何よりも楽しかったのは、巳虎兎でも知っている。……そう、楽しかったのを覚えている。


 クラスに馴染めずに一人でいる巳虎兎だったがそれでも昔は友達もちゃんといた。今は受験の時にその友達とは中学が別になって離ればなれになってしまった。


 その友人の事を思い出す。


 一緒にいるととても楽しかった。遊んで、おしゃべりをして、お菓子を食べて、大したことのない何気ないことでも面白く感じ、一緒に笑えた日々を。


 友達と楽しく遊ぶことなど、今の巳虎兎には程遠いことで、少女たちの楽しそうな姿が眩しく思えたのは、羨ましかったのかもしれない。


「あ、もしかして絵を描くから一緒に遊べないの? なら描き終わってからでもいいわよ」


 そんなことを考えて黙り込んでいた巳虎兎を見ては、そう思ったのか、少女は巳虎兎に気遣いの言葉をかけられて、ハッと意識が戻る。


 そうだ、今自分は遊びに誘われたのだ。そう思い出す。


 遊びに誘ってもらえる、それもだいぶ久しぶりなことだった。


 心が小さく、ハッキリと高鳴り、高揚感が身体の温度を上げていく。


 何時しかぶりに伸ばされた手、それに伸ばし返して握るのは巳虎兎にとっては勇気がいることだ。今まで何度握りそびれて人と接する機会を失ってきたことか、何度最初の人付き合いを失敗して、友達ができなかったことか。


 自分から言う勇気がなくて、他人から来てもらうことをいつも待っていた。


 だから、勇気を出して巳虎兎は踏み込んだ。


 真っ白な少女と友達になりたくて。


「ううん、……じゃ、じゃあ、私も一緒に……遊んでいいかな?」


 しどろもどろ態度、まるでビクビクと小動物が震えているような、そんな遠慮がちな怯えた声で訊ねると、少女は答える。


「ええ、もちろんよ。一緒に遊びましょう! あ、あなたの名前はなんて言うの?」


 少女から名前を聞かれて、慌てて自分の名前を告げた。


「私は、巳虎兎……御香祁巳虎兎」


 そう、みことっていうのね、巳虎兎の名前を確認するように呟いて、真っ白な明るい笑顔で少女も答える。


「あたしはなごみ! よろしく、みこと!」



 × × ×



 自由が欲しかった。


 彼の願いはそれだった。


 幼い頃、彼に与えられたのは勉強ドリルと筆記用具だった。最初の、もう記憶が曖昧なくらいほどの昔、最初に与えられたのは五十音の字や数字をなぞるだけの簡単な子供向けのドリル。


 幼かった彼は字をなぞる、書く、たったそれだけのことが楽しくて、そして大人の仲間入りしたみたいでとてもうれしかったことを覚えている。


 初めはお手本を見て『あ』の形を覚え、続く灰色で書かれた『あ』と書き順を表す赤い矢印の誘わるがままに灰色の文字に鉛筆を動かし、黒くなって一つ出来上がる。『あ』だ。


 その下に続くのは灰色の『あ』もなぞって書き上げていく。さらに続くその下は難問だ、灰色の文字はなく、空白の四角。練習の二回の後の本番。


 お手本の前の字とよく見比べて書き順通りに書いていく。ブサイクで、バランスの悪い『あ』が出来上がった。


 お手本と自分の字をムム、と眉を寄せて真剣に見比べながら自分の字が汚いことに少し不満を覚えた。


(違う、こんなじゃない。もっときれいな字だもん)


 書けるだけでも十分合格点だというのに、意識が高かった彼は次の空白の欄に『あ』を書き込んでいく。今度はお手本をよく見て、ゆっくりと鉛筆を動かして、大きさを、長さを、止めを、形を、曲線を、最後に流して完成。『あ』だ。


 完成したものをもう一度見比べてみる。……今度はまあまあだ。


 最後の空白の欄―――練習用のなぞりが二個、本番用の空白が三つ合計で五回書ける―――に取り掛かる。先ほどの感覚を忘れず、さらにもっときれいな字を心がけて鉛筆を動かす。


 よし、一番最後のが一番きれいだ。だけど、お手本に比べるとまだまだだ。


 そう自己評価を下して、次の文字へと移る。『い』に。


『い』が終われば『う』。『う』が終われば『え』。『え』が終われば『お』。『お』が終われば……、それの繰り返し。


 文字を書く。たったそれだけのことだったが楽しくて仕方がなかった。自分の中で何かが生まれていくような感覚が彼の中にはあった。


 それは成長の実感。


 文字が書けるようになったら、言葉の練習を『あい』『うえ』『おか』『きく』し、言葉を覚えたら漢字の練習を、『愛』『上』『丘』『菊』(……もちろん例えであって、この通り勉強しているわけではないが)。


 一通りの漢字まで覚えたら次のステップに上がる。


 文章の理解。文節の使い方や意味、主語述語、構成、用法。そこからの読解力や作文作成など。また詩や俳句、短歌といったものの触れた。


 国語だけではない。算数は足し算引き算掛け算割り算、時間、重さなどを、理科は生物や植物、電気、光、磁力、宇宙。社会は都道府県、国、世界の歴史、日本の歴史……などといった具合に。


 歳を重ねることに新たなことを学び、ドリルは増えていった。


 勉強自体は別にそこまで苦痛ではなかった。むしろ、面白かったほどだ。問題を読み解き、それが正解すれば頭の中がスッとするような爽快感が生まれ、自分の心を満たされていた。


 そして、何よりも母親が喜んでくれた。


 勉強すればするほど母が喜んでくれた。正解すればするほど笑ってくれた。それだけで嬉しかった。


 幼い子供が親を喜ばせる、期待や信頼に応えることが唯一の手段だったのだ。


 たぶん、まだここまでは良かったのかもしれない。ありふれた幸せな家族の図。勉強が好きな頭の良い子供とその成長を喜ぶ両親。


 だが、それもある日を境に幸せだった日常が崩れた。


 その日以来、母は変貌したように教育が厳しくなった。ドリルの難易度は跳ね上がり、自主学習だけではなく、塾へと通わせられるようにもなった。


 急な生活の変化に戸惑いを覚えたものの、真面目で素直な彼は母の教育に従い、それをこなしていった。大変であったものの勉強自体は好きだったことには変わらなかった。


 変わらなかったことが救いだったかどうかは彼自身には分からない。


 彼は勉強すればするほど成績は上がっていき、相応の結果を残していった。同時に母からの期待のハードルも上がっていた。


 母からの期待を応えるべく、一日の勉強を費やす時間が増えていくのと同時に、当然のように彼に自由な時間と呼べるものも減少していった。


 遊ぶ時間、テレビを見る時間、友達と話す時間、眠る時間……彼は大半を勉強へと時間を回した。


 疲弊感があった。身体がぐったりと重く、頭がボーとして白昼夢の中にいるような何も身が入らない時もあった。そんな節、垣間見る同年代の子供達が楽しそうに遊んでいる姿を見て、思うものがあった。自分もその中に入れたら、と。


 だけど、彼はそれをせず、少しの睡眠で身体を休めた後に筆を取った。


 学校のクラスメートも勉強に取りつかれたように一人でいる彼を見て、思うことはあったが、勉強を続けて一人でいる彼に掛ける言葉はなく、彼とクラスメートとの溝は深まり距離は遠のいていった。


 それに問題や支障自体はあまりなかった。友達ではなくてもクラスメートとしては接してくれた。班での活動や体育のペアなど誘ってくれるなど、孤立がちの彼を輪へと入れる優しきクラスメート。


 彼はそのことを理解していなかった。


 母からはクラスメート達とはあまり接するな、と言い聞かされてきた。彼はその言葉通りに従い、クラスメートから距離を置いていた。そして、学校の人間よりも同じ塾にいる人間を、ライバルに競り勝て、と。


 故に彼は勉強に打ち込んだ。周囲が楽しそうに遊ぶ姿が目に入っても、一緒に遊ぼうと誘われても、彼は振り向かずに勉強へと精を出して、同じ塾の人間達と競い合った。


 塾自体は彼と似たようなタイプの人間が多かったために、彼は学校の人間よりも理解できた。


 そんな勉強付けの生活で小学校を終え、勉強の甲斐あって中学は有名な進学校に入学することに成功した。


 その後も彼の生活は続いた。何の違和感もなく、失敗という失敗もなく、彼は勉強ができる、どこにでもいるような優秀な中学生。


 そのまま彼は中学に引き続き、有名な高校に入学し、大学に行き、有名会社に入社するような順風満帆な生活が待っていただろう。


 しかし、実際のところどうなろうか。有名な学校に出て、有名企業に入った所で順風満帆な生活は待っていたのだろうか? 人生とはそんなに簡単に出来ているのだろうか? 少なくとも母からそう教わった彼はそのことを信じていた。


 このまま自分は成功の道へと進んで行くのだと。


 だけど、やはり人生とはそう甘くはなかった。


 そして、今年の六月、高校受験を間近に迫った大切な時期、それは起きた。


 彼は塾をサボった。


 塾を休んだからといって何かをするわけでもなく、ぶらぶらと遊び歩くわけでも趣味に没頭するなどせず、そもそも趣味がなかった。静かにベンチに腰かけて何も考えず一日を過ごした。ただ休んだ。


 その姿はまるで今まで勉強に費やしてきた分、疲れ果てた身体を休めているように見える姿だった。


 当然、そんなことを彼の母が許す訳もなく、彼が帰宅すると同時に母は彼を怒鳴り散らした。


 どうして無断で休んだの! 毎日勉強しなきゃあ駄目でしょ! 今が大切な時期でしょうが!


 ヒステリックを起こしたような恫喝の数々。けれど、これもここ数年では見慣れた光景だった。母は大したことでもないことでも雷を落とすのが日常だった。それに彼は微妙な笑みを浮かべながら謝罪の言葉を告げ宥め機嫌を取る。いつもそうだった。


 そうすることを母も分かっていたためにいつも以上に怒り込めて、決して言葉巧みに誘導されないように気を引き締めて、説教しようとした。


 いつもとは違った。


 彼が言い返したのだ。今まで母の言うことに順応だった彼が初めて逆らったのだ。


 母は言葉を失った。我が子が初めて自分に歯向かったことに驚いた。けれど、続く彼の言葉に怒りが再燃し、罵詈雑言の嵐。初めて親子喧嘩。


 喧嘩の勢いで彼は家を飛び出した。


 初めての親子喧嘩、初めての家出、産まれて初めての反抗期だった。


 勢いのあまりに出てきたものの勉強ばかりしていた彼にはこういう時にどこに行けばいいのか分からず、行く場所もなく結局昼間いた公園にたどり着いて路頭に迷っていると、


「これはこれは、迷子迷子の不良少年くぅん、一体どうした? 悩み事か? あ?」


 突然声が聞こえてきた。若い男の声だった。だけど、声の主の姿はどこにも見えず、闇の中から親しみと共にニヤニヤと嘲笑うかような悪魔じみた声で語り掛けてくる。


「どうした? 話してみろよ、お兄さんが聞いてやるぞ」


 言葉の調子と姿を見せないところから、明らかに胡散臭さと怪しさのある男だったが、彼の精神は自暴自棄だったためにどうにでもなれと思いで、男に今までの事を全て話した。


 からかい半分ではあったが意外なことに男は親身に聞いてくれた。姿は見せてはくれなかったが。年上の余裕のような調子の口振りと、男の雰囲気に釣られて話しやすかった。


 事情を話し終えると男は、なるほどな、と納得としたように言葉を区切った。


「お前はずっと、母親が許せなかった。お前には自由はなく勉強ばかりの息苦しい生活。周囲は遊び、笑い、楽しむのに対してお前にはそんな周りが普通に味わっている娯楽を一切手に触れることはできなかった。だから羨ましかった。いつも欲していた。けれど、母親の言葉に逆らうことができなかった」


 ―――母親の言葉に縛り付けられて生きていた。


「お前にとって母親は全てだった。だからこれまで何も疑わずに素直に従ってきた。母親の敷いた優等生のレールに乗ってきた」


 彼のこれまでのことを簡潔にまとめて確認を取るように問いかける。彼は男の言葉には返答はせずに眉を顰めるだけだった。男はそれを肯定として受け取った。


「けれど、その信頼は母も自分と同じように縛られて生きていたと、思っていたからだ。そんな母親だからこそ、裏切りが許せなかった。自分とは違い、縛られずにやりたいことをやっていた姿を見てしまったお前は初めての迷いが生まれた」


 ―――これまでの自分がしてきたことは何だっただと。


 彼はその言葉を聞いては顔を逸らす。それを見た男は、ハッ、と鼻で笑った。


 男の態度に彼は馬鹿にされたことに怒りを覚え、ムッと睨みつけようとするが、男の姿は相変わらず見当たらない。


 からかって悪かったって、そう怒るな、と宥められる。


「母親の裏切りに対し、どうしていいのか分からないお前だったが、母親の言葉にようやく怒りを覚えた。憎い、ムカつく、許せない、そんな感情がお前の中で支配した」


 先ほどまでの行動を思い返してみて、そうだったとここでようやく気付いた。自分が母を怒っていたことに。


 冷静ではなかった。現実から目を逸らそうとして思考を止め続けていた。そして全てを忘れ去って、今まで通りに過ごそうと思っていた。塾を無断で休んだことに激怒している母を何とか宥め、謝って、そしてそのまま何もなかったようにいつも通りに過ごしたかったはずなのに。そう思っていたはずなのに。まさか自分があんなにも感情的になるなんて。


 彼はそのことに驚き、戸惑い、そして何よりもやってしまったという後悔が胸を締め付けた。


(なんでなかったことにできなかったんだ、オレは!)


 思い詰めた顔をして膝を崩す彼に対して男は、おいおい、と指摘する。


「何をそんなに思い詰める必要がある? お前はようやく成長できたんだぜ。母からの《束縛》に理解してそれを破ろうとしている、立派な成長だ。お前は自由になろうとしている。喜べよ」


 後悔で思い詰めている彼に対して、逆に男は焚きつけるような祝福を述べた。反抗期がくることは立派になった証だと。


 間違いではなかった。思春期真っ盛りである彼が親に対して反抗を覚えるのは自然のことであり、誰しも訪れるものことだった。


 だけど、彼は男が言うことにとても納得はできなかった。これまで母に従ってきたことがまだ帯を引いているのだ。


 そのことに気づいた男は、はあ~、とわざとらしく大きなため息を吐き出しては、悩み続ける彼の正面へと姿を現わす。顔を落としていた彼は目の前に何者か気配があることに気づき、顔を上げてみる。


 時間帯が夜ということもあり、また帽子を深く被って影で顔を認識できなかったが、それでも声の調子から予想を立てていた年齢と同じ若さ、……少なくとも十九は越えていて二十代前半ほどの若い年齢。


 帽子の男が彼を無理矢理立たせて、自分は膝を少し曲げて互いの視線を合わせる。


「母親への反抗に戸惑いを覚えて、罪悪感で悩むのはまだお前の心が弱いからだ。劣等感がお前の成長を妨げているんだ。母親の《束縛》がお前を縛っている」


 肩に手を置き、しっかりと見据えるように対面させ、話してかけてくる。まるで兄が弟に言い聞かせているような趣だった。


「もっと自由を謳歌しろよ。別に気にしなくていいだろ、母親の言葉に縛られる必要はない。お前はせっかく自我が目覚めたんだ。今まで我慢してきた分やりたいようにやるといい」


 優しく、だけどどこか怪しさのある堕落の道へと誘うような悪魔の声色。言葉に誘われるがままに今までとは異なる道へと踏み出してもいいのではないかとすら思い始めた。だが、彼はギリギリの所で理性が踏みとどまり、魔力を秘めたような男の言葉から逃れるようにして肩に置かれた手を振り払って男から距離を取る。


 男は肩を竦める。振り払われたことに対しては特に気にした様子はない。彼の行動に呆れたような態度だ。


 これ以上男の言葉を耳にする必要はない、と判断した少年はそのまま何も言わずに男の前から立ち去ろうとする。が、男は「待て」と停止をかける。


「どこへ行くつもりだ? 家に帰るのか? 帰ればまた母親からの束縛される日々に戻るだけだぞ」


 尤もだった。行く場がないから今ここにいるのだ。


 家に帰ればどうしても母親が存在する。帰れば怒り狂った母の説教を受けるのは間違いない。しかも初めて反抗し、家まで飛び出てしまったのだ、母の怒りは今までないくらい激しいものに違いない。激怒する母の雷は受けるのはいい。自分はそれだけのことしたのだから。


 だが、その怒りが静まった所でたぶん、何も変わらない。


(そうだ、……結局オレはお母さんのものなんだ)


 心が暗転し、遠くを見るような目になる。諦めの境地であり、同時に一生自分がいるべき場所であるという確信だった。


 失意に堕ちていく彼に畳みかけるようにして男は言葉を続けた。


「思い返しみろよ、今までの散々な日々を。母親から押し付けられてきた勉強。最初は楽しかったみたいに言ったけど、毎日そればかりじゃあ嫌になるだろ? クラスメートから遊びに誘われたけど断った。ホントは行きたい気持ちはあったはずだぞ。だから楽しそうにする人間を羨望していたんだろ」


 頭の中に思い浮かべる自分の過去の光景。勉強の楽しさや面白さはあったがそれは何時しかは薄れていき、ただの日課でしかなくなった。そんな毎日だったから周りの楽しそうな姿を見て羨ましく思ったことがあったことに偽りはない。


「お前はずっと嫉妬していたんだ、周りに、母親に。好きなことを好きなようにできることに対して」


 嫉妬、と言われて初めて彼は気づいた。自分が嫉妬をしていたことに。


 自分にできないことをできている周囲に対して、嫉妬。


 ………………。


 頭を抱えるようにしてガシガシと強く掻き毟ってギィ、と歯を噛みしめた。違う! と大声で否定する。


「違う違う違う違う、違う! オレは嫉妬なんかしていない!」


 強く否定する彼。その様子を見ながら、やれやれといった調子で見守る男は、仕方ねえな、と面倒くさそうな一言漏らしながらも帽子に隠れたその瞳は笑っていた。良いもの見つけた目利きのように光らせる。


「否定するのは自覚があるからだ。認めていけないと考えるのは根っこの所が完全に侵食しているからだ。怯え、震え、騙し、誤魔化そうとするのは心が弱い証拠、まさに劣等」


 男の姿が変わる。人間の姿をしていたはずの男は怪物のような外見へと変化していく。


 異形の姿へと変貌した男の姿を見て、彼は恐怖の感情よりも先に、変化したことに対しての驚きだけが先行して言葉を失った。


 怪物となった男は接近してくる。逃げなければ! と頭の中で危険信号が強烈に鳴り響くが体はまるで蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。


 男は彼に近づくともう一度肩を抱き上げて、自分との視線を合わせる。


「その劣等を克服しろ」


 男はその一言を告げると同時に手を伸ばされる。伸びた手の先は彼の胸元。そこにまるでずっと閉まっていた鍵を開けるように。


 途端に彼の身体にある変化が起きた。


 胸元が苦しく、とても痛い。まるで鎖か何かに締め付けられるような感覚。いや、感じるのではない、実際に彼の胸を中心に全身へと鎖が巻き付いて彼を縛り上げていた。だけど、そんな捕縛も一瞬だった。


 全身を包むようにして巻き付かれた鎖は解き放たれ、現れた彼の姿は怪物の姿に成り果てていた。


 自分の変化した姿に驚いた彼だったが、すぐに気にならなくなる。何故なら今まで味わったことのないほど全身に力が溢れ出てくる。


 気分は高揚し、今まで締め付けられてきた悩みに開放されたような心地いい気分が彼を支配していた。


「なんだこれは?」


 彼は男に訊ねた。男は怪物の姿から人間の姿へ戻っており、笑いながら答えた。


劣等者(コンプレッサー)。まあ、お前の心の反映した力、っていうところか」


(コンプレッサー? 劣等感を持つ者ってことか?)


 ニュアンスからしてそういう意味か、と判断する。少なくともエアコンなどの装置の類ではないことだけは分かる。


 自分の姿を一瞥する。


 劣等感を抱いていた故に体現した姿。母親に縛られて生きていた自分だからこそ《束縛》された姿。言い得て妙だ、と自虐の笑みを浮かべる。


「だが、ソイツはあくまでもきっかけだ。本当に劣等を克服するつもりなら、お前がやるべきことは一つだろ」


「なんだ?」


 ―――お前に劣等を植え付けた奴への復讐。


 ゾッと背筋が奔った。


 悪寒ではない、どちらかというとそれは活気。心がゾクゾクと疼いて、血が騒ぐ。こんな感覚は初めてだった。


 彼はその後男と別れ、家へと帰る。当然そこには怒り狂って待ち構えていた母親の姿がいた。が、母は彼の姿を見て驚きのあまり声を失った。彼はそのまま母を打ちのめし縛り上げた。


 産まれてこの方、母に反抗どころか誰かに手を上げたこともなかった彼は、その日初めて暴力を体験した。悪い気分はなかった。……だからといって良かったわけでもなかった。


 今までの散々自分の自由を奪ったことへの復讐として、怪物となった力のままに母をいたぶり、傷つけた。最初は、何をするの! と怒りのままに反抗してきた母だったが、傷つく度にその勢いは衰えて、泣き叫び、謝罪の言葉を繰り返す。


 怒りをまき散らして、勉強を強制させ、自分の自由を奪っていた、あの気丈の高かったあの母が、今は見るのも情けない哀れな姿になって謝罪を繰り返していた。


 その様子を見て、気が削がれていく。怪物の姿になって沸き起こってきた母に対して向けていた怒りが、憎しみが、恨みが、削がれていく。


 だけど、遺恨は消えずにいた。


 翌日、彼は自分の通っている塾へと出向き、担任を母と同じような目に遭わせた。母の時とは違い、気持ちは晴れわたるものを感じた。


 その後、高揚した気持ちのまま町の中を散策した。今まで我慢していた分を取り戻そうと思い、これからは遊び回ろう、好きなこといっぱいしよう、何物にも縛られずに自由を謳歌しよう、そう、決め込んだ彼は町の中を半日中歩き回って……結局何もできずに半日を過ごした。


 今まで勉強に縛られた彼は遊び方を知らなかったのだ。


 解放された気分のままに飛び出たものの、最初こそ今まで従ってきた道とは違う、未知なる体験、勉学ではない道に感動と興奮を覚えたが、けれど何していいのか分からずにただ無駄な時間を過ごすだけの結果になってしまった。


 最終的に行きついたのは帽子の男と出会った公園だった。


 遊び人風格のある男だったから、こういう時何をしたらいいのか、アドバイスをくれるのではないのか、と期待を込めてやってきた(その発想からして彼は優等生である証明であり、自由とは程遠い価値観なのだが、そのことに彼は気づいていない)のだが、男の姿はない。


 はあ~、と大きなため息を吐き出し公園のベンチに腰かけ、これからどうすればいいのか、冷静になった頭を抱え考え込んでいると、ハハハ、と楽しそうな笑い声が聞こえてきた。


 彼の目に入った光景は公園で楽しそうに遊んでいる子供の姿。三人は小学生くらい、もう二人は自分よりも下だろう、小中学生五人組。バレーボール……というよりもただのパスを回して、落としたものの負け、と子供がよくあるシンプルなボール遊びをしていた。


 楽しそうにボール遊びを続ける子供達をジッと見つめ、言葉が零れた。


「いいよな、子供は」


 子供達の楽しそうな姿は正直羨ましく、妬ましかった。


 自分よりも年下の子供達ですら遊び方を知っている、やりたいことに素直に従っているというのに、何もできないでいる自分が余計に惨めに思えてくる。そんな自虐の感情が彼の心を縛る。


 勉強しかしてこなかった。勉強することだけの毎日。友達を作ることを許されず、遊ぶことを許されず、自由を許されなかった日々。息苦しかった日常から解放され、望んでいたはずの自由を手に入れたはずが、己自身に何もないことに気づいて……絶望。


 まっさらになったはずの心が黒いものに塗りつぶされていく。


 アハハ、アハハ、アハハ!!


 子供達の楽し気な笑い声が、遊びに夢中で面白くてたまらないというような笑い声であるはずが、今の彼にはまるで何もできない自分を笑われている気がして、煩わしくてたまらない。憎くてたまらない。


『あんたは勉強していなさい! あんたには勉強しかないんだから!!』


「あ~~~!!! オレを縛るなよ! もううんざりなんだよ」


 ―――オレを縛り付けるなら、お前の自由はもうない!


 心に鍵を挿して、自分の心を閉ざした彼―――弐代綱光の姿はもう存在せず、そこには今まで縛られていたことを体現したかのような鎖の化け物の姿が存在した。


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