第一話 『こ、コレは純然なる復讐の旅であり、あ、あいつは関係ないのである!?』 その七
……怖い!!怖い!!怖い!!
叫びながら洞窟熊に迫るリエル・ハーヴェルの内心は、そんな感情で一杯であった。四メートル以上もある巨大な獣と、15才のエルフの少女だ。あまりにも、その大きさが違い過ぎる。
まるで風車にケンカを売るような感覚だった。
だが。間違いだったとは思っていない。この洞窟熊を引きつける必要性があった。
『囮』になる必要があった。他の三人には近寄らせてはならないのだ。そして、リエルを持ってしても正面からの攻撃では、この洞窟熊を一瞬で仕留めることは難しい。
弓ではムリだった。
だから。
リエルはミドルソードを抜いている。
四メートルの巨獣と、接近戦をしようというのだ。あまりにも無謀とも言えるが、洞窟熊を自分に誘導することには成功していた。
無言の獣が、その巨大な前脚をリエル目掛けて叩き込んでくる!!
「お、おねえさまあああああッッ!!」
美しい声が割れてしまっていた。アルカの叫びが、リエルの耳に届く。心配させているのか。やれやれ、私のカリスマも、まだまだではないか―――。
ブオオオオオオオオオオオオオンンンッ!!
洞穴熊の大きな爪が、リエルの影を切り裂いていた。エルフの弓姫は、その熊の巨腕の一撃を素早い横っ跳びで躱している。
突撃と見せかけた、フェイントだった?洞穴熊の攻撃性を利用しての……?アルカはそう考えていた。
しかし。真実は少し異なる。
リエルは怯えてしまっていた。『捨て身の攻撃』を当てるつもりであった。
あの洞穴熊の攻撃を、潜るようにして躱す。
そうしながら、あのクマの胴体に一撃を当てて、そのまま横に逃げるつもりだった。
魔術を刃に宿しての必殺の一撃なら。あの巨獣にも十分な深手を与えることが可能である。死に限界まで近づくのがコツだ。その方が深く刃を叩き込める。
洞穴熊の腹に頭がつくほどに飛び込み、そこからの必殺の一撃なら?……十分に仕留められる。
だが、恐怖がその作戦を消し飛ばしていた。あと一歩飛び込めば良かったのに、その一歩が踏めなかった。
……あいつになるつもりだった。
あいつのように、『捨て身の攻撃』を放ち、コイツを仕留めて、もちろん私も生き残るつもりだったのに。
うむ。こ、怖くて……出来なかったぞ……ッ。
その事実に、リエルのプライドは傷つけられていた。しかし、落ち込んでいる場合ではない。洞穴熊は、己の間合いに飛び込んできたリエルに対して、猛攻を始めたのだから。
巨大な腕が、ブオン!ブオン!と唸りを上げて、少女を目掛けて振り回されてくる。
「……っ!!」
だが、リエルは軽やかな身のこなしで、花畑のなかを妖精のように踊った。踊りながら、ギリギリのところで攻撃を避けている。
……『捨て身の攻撃』を実践する勇気は起きなかったが、リエルの運動能力ならば、この洞穴熊から逃れることは容易いのだ。
蛮勇になれなかったことは、ショックであった。
だが、これもまたリエルの才能にあった戦い方である―――いや、むしろ、こちらの方が今回は優れている。
『囮』として、洞穴熊を引きつけることに成功していた。獣は、あとわずかで自分の攻撃を避けてしまうリエルに対し、必死となって襲いかかっている。
だから、その他のことには意識が回らない。
アルカの呼び声に向かって走る、チロルとルチルのことを洞穴熊は完全に意識から外している。
結果としてリエルは、完璧に三人を守っていた。戦いには勝利してはいないが、果たすべき目的を達成している。
「早く!避難するのよ!!お姉さまが、アイツを引きつけているうちに、急いで!!」
「う、うん!!」
「は、はーい!!」
アルカは二人を連れて後退することを優先する。興奮して暴れている洞穴熊から、距離を取るために走る。
そうしながらもアルカはエルフの耳にだけ聞こえる、魔笛をその小さな口にくわえていた。
走りながら、その魔笛に空気を注ぎ込む。『みんなたすけて/救援要請』の合図を奏でるために!
ぴーぴ、ぴぴぴー!!
エルフの耳にしか聞き取れない歌が、禁忌の森に響いて行く。チロルとルチルを探して、森に入っているエルフの戦士たちにも、この音が届くはずだ。
「お姉さま!……もうしばらく、がんばって!!すぐに、皆が来てくれるから!!」
聖樹に祈りを捧げる時と、全く同じ気持ちになりながら、アルカは姉の無事を願った。願いつつも姉の援護を選ばない。
洞穴熊と姉姫の戦いから子供たちを離していく。アルカならともかく、子供たちは本当に足手まといにしかならない。
全力で走っていた。とにかく、早く離れることで、せめて姉を自由に動けるようにしてやりたい。その一身で、アルカは子供たちの手を引いて、花畑を駆けていく……。
……一方。
リエルは、息も切らしていなかった。
右に左にと、あまりにも軽やかに動き回るリエルに対して、どうにも巨大過ぎる巨獣は、とてもじゃないが追いつけていけない。
瞬発力ならばエルフと競えても、それは一瞬のことである。
長時間の動きになれば、エルフには……とくに、森のエルフの中で、最も強いリエルに対して、洞窟熊の動きは無力である。アルカのおかげで、守るべき者たちもいない。
今のリエルは自由に動けた。
必殺の攻撃をリエルは持たないが、リエルには洞窟熊の攻撃は絶対に当たらない。リエルは全力で動いてもいない。ギリギリで避けていることが、その証だった。
洞窟熊の猛攻を見切っている。だから、あえてギリギリで避けつづけて、自分のスタミナの消耗を抑えていた。
これはリエルが経験で導き出した戦い方ではなかった。森のエルフは、こんな危険な戦い方をするものではない。だが、リエルの類い希なる戦士としての本能が、体を動かしていた……。
あいつが、少し力を貸してくれているようだ。
あいつの真似は完全には出来なかった。けれど、今は、今まで以上に敵が見えている。当たれば死につながる爪が、今は怖くない。
大きな爪の嵐を、踊りながら躱す。その動きを続けつつ、リエルは自信を取り戻している。100%、負けることはない相手だと悟り、彼女は冷静になった。
守らなければならない妹たちも完全に撤退した。だから、逃げようと思えば、いつでも逃げられる。
さすがは、私だな!……完璧に、任務を達成したぞ!……そうだ、上出来だ。このクマは、私に翻弄され過ぎて、息が切れ始めている。攻撃の鋭さは、もう、ずいぶんと失われた。
空振りする度に、洞穴熊は疲れていく。4メートル以上もある巨体では、さすがに体が重すぎた。いつまでも激しく動き続けられるほどのスタミナは、その重量に宿ることは出来なかった。
追い詰められた時、リエルは本能の中から最善を導き出せていたのである。
それは、誇るべきことなのだと、リエルは理解する。本能に導かれるままに、森のエルフの技ではない動きを選び、体は勝手にそれを使いこなしているのだから。
しかし。
しかし、それでもプライドには傷が入っていた。
……『あいつ』にはなれなかった。炎で、風で、雷でもある、あいつには。
……なりたかったのに。
あんな風になれたなら、きっと、一瞬で、仕留められたのだ。
そうなれば、アルカたちを心配させるのも、一瞬だったというのに……っ。
若すぎるリエルには、まだ理想の高みを夢見る資格がある。『成長』という大きな可能性があった。だから、まだまだ強くなれる。
しかし、現状では……あの特攻を選ぶべきではなかった。
15才の体では、洞穴熊を一撃で仕留めるほどの力は使いこなせない。やれたとしても、体が壊れていたかもしれないのだ。
「……不服ではあるが、我が本能の導きに……従おうではないか!」
リエルは暴れる巨獣の目の前で、右へ左へと体を躱し続けていく……。
洞窟熊の限界が訪れるまでには、そう長くはかからなかった。
『が、がるるう……っ!』
暴れすぎた洞窟熊が、その動きを止める。半開きにした口から、疲れ切った呼吸を見せていた。ゴフウゴフウと洞窟から夕方に吹き出してくるような音を、その大きな牙が並ぶ口から放つ。
疲れ切っている。だから、花畑に腰を下ろしていた。洞穴熊には、もう暴れられる体力はないのだ。
腰をぺたんと地面に付けた洞穴熊の前で、リエルもまた立ち止まる。そして、王族の義務としてのドヤ顔を浮かべつつ、その長くて細い腕を胸の前で交差させた。仁王立ちである。
「フフフ!……もう終わりか?」
『がるる……』
エルフでもクマ語は分からない。しかし、グッタリとしている洞穴熊を見ていると、もう一歩だって動きたくないぞというメッセージは伝わって来た。洞穴熊は、あきらめたのだ。この戦いを。
爪が当たらぬのであれば、勝ち目もない。それに、相手が攻撃して来ないのならば、野生の獣としては、戦う理由もなくなっていた。
捕らえられぬゴハン。
襲って来ない敵。
そんなものに、長い時間を費やすほど、野生はヒマではなかった。花畑にぺたんと座ってしまった、お疲れ熊さんに。エルフの姫は語りかける。
「……先ほどは、うちの小さい者どもが、無礼を働いたな。ヤツらは小さく未熟なのだ。お前は、唸っていてくれたのにな。素早く、立ち去り、距離を開ければ、この衝突はなかった」
『がるう……』
「うむ。あの者たちも、森の『掟』を実践するということの厳しさを学んだ。いい経験となり、あの者たちを、少し大きくするだろう……」
『……がる』
「フフフ。何を言っているのか、分からんが。通じているような気もするな」
繰り返すが、森のエルフ族にもクマ語など分からない。リエルは、自分勝手な解釈をしているに過ぎないのである。
それでも、洞穴熊からは敵意は消えていた。
それから数十秒ほど無言のまま休んだあとで、彼はゆっくりと腰を上げると、そのままリエルに背を向けて、禁忌の森の奥へと向かい歩き始めた。
のっしのっしと左右に揺れる背中を見送りながら、リエルもまた踵を返す。森のあちこちから、魔笛に導かれてエルフの戦士たちが、この花畑に集まって来ていた。
洞穴熊は、この戦士たちとの接触を嫌ったのだ。誰もが、死にたがらない。それが、森の『掟』であった。リエルは花畑から、己の弓を拾い上げていく……。
弓を長い腕に絡め取りながら、リエルは去りゆく洞穴熊に、敵意が無いことをあらためて確認する。野生は時に嘘をつく。この確認は必要だった。
これで良いのだ。そう思う。アレを食べても美味しくはないし、子供たちも無事だったのだから。
……そして。
……私に、未熟さを教えてくれたしな。
「なかなか、あいつに追いつくのは難しそうだな。あはは、あはははは!!」
「お姉さま、何を笑っておられるんですか?」
子供たちを撤退させるのに体力を使ったアルカは、ぐったりと疲れた顔で姉姫の前に現れていた。
「いや。ちょっと、あいつのことを考えていて―――」
――その言葉に、アルカの恋愛脳が大いなる反応を示していた。表情からは疲れが消え去り、まるで花畑でも見つけた時のように、エルフの弓姫の可憐な美しさが大輪の笑顔を咲かせる。
「あいつって!!あの赤毛の方ですよね!!」
リエルの顔が夕日の空よりも赤くなる。あの長いエルフの耳までも!
「ち、ちがう!!ちがうのだ!!断じて違うのだ!!あいつとは、あいつではない、あいつである!?」
「誰なんですか。えー、ひょっとして、想い人がたくさん、おられるんですか!?」
「は、はしたないことを、言うでない!!お、想い人など、エルフの乙女には、ひ、一人で十分なのだ!!」
「じゃあ!!やっぱり、赤毛のヒトのことを!!」
「ち、ちが!?……うぬぬぅ!!あ、姉をからかうでなーい!!」
リエルの指がアルカのほほのお肉を、むぎゅーっと引っ張った。
「いたたたたたっ!!」
エルフの姫のほほは、びよーんとよく伸びるものらしく、それは何とも愉快に伸びてしまう。リエルは、おお!と好奇心をくすぐられていた。
「うおう。の、伸びておるな……っ。我々のほほは、こ、こんなに伸びるのか……っ」
「ご、ご自分で、お試しください!」
「うぎゅー!?」
アルカの指が、リエルのほほをつまんでいた。姉妹姫たちが、いつものじゃれ合うようなケンカを始めたものだから、エルフの戦士たちは、その微笑ましさに、皆で笑っていた。
……このケンカも見納めだろう。長らく、時が経つまでは……戦士たちは、そう考えていたから。いつもは止めるタイミングであっても、なかなか弓姫姉妹のケンカを止めなかったそうな……。