第一話 『こ、コレは純然なる復讐の旅であり、あ、あいつは関係ないのである!?』 その六
弓姫たちは走る。その花畑の奥には、邪悪な気配が立ち込めている。エルフの耳が低い唸りの音を聞く……。
それは低く、地の底から響いてくるような音であった。リエルもアルカも低く身を倒しながら、風をまとうように軽やかに走った。
経験が、リエルに語りかけている。
―――威嚇の声だ。獣が、威嚇の声を使ってくれる内は、まだ安全だ。相手がコミュニケーションを取ろうとしてくれている。脅せば、威嚇すれば、逃げると考えている。本当に危険なのは、その『対話』が終わったとき……っ。
翡翠色に輝く双眸が、花畑の中に岩を見つける。水車小屋ほどの大岩だ。そこに、チロルとルチルがいた。金色の髪に、青瞳。小さな10才児のエルフたちである。
「こ、こっちに来るなー!!」
「き、来ちゃだめー!!」
小さな声で、エルフの子供たちは叫んでいる。良くないことだと、リエルは考えていた。獣を刺激することになる。
困ったことに、森のエルフ族は勇敢であった。10才の子供たちであったとしても、その身には戦士の血と勇気が流れている。小さな弓を構え、それに矢をつがえている。岩の周りをうろついている獣に対して、狙いを定めている。
だが。
威力が足りないのは明白だった。その獣は巨大すぎる。洞穴熊。禁忌の森に棲む、巨大で俊敏な熊。子供の使う、キツネ狩りがやっとの弓では、怒らせることはあっても、仕留めることなど夢のまた夢である。
傷つければ『対話』は終わる。あの洞穴熊は迷いを消し去り、脅威を排除するために荒ぶる力を解放する……あんな岩になど、瞬時に登り、爪やら牙で―――。
「う、うつぞ!!」
「う、うっちゃうんだから!!」
「お、愚か者どもめ!う、撃つなああああああああああああああああああああああああああああッッ!!」
リエルの美しい声は雷のように禁忌の森の空を揺らす。しかし、洞穴熊を睨みつけ、全身全霊を攻撃のために捧げているチロルとルチルには、届くことはない。
天性の弓使いとして備わっている集中力の高さ。最強の射手になるために、森のエルフの血と魂に宿る資質が災いしていた。
幼くとも、エルフの弓使いは、森の王者だ。
獣などに負けてなるものかという誇りが、二人の幼い弓使いの指を操っていた。矢を絞っていた小さな指が、敵意と共に動き―――矢は突風のように速く、洞穴熊に放たれていた。
ザク!グサ!
二人の矢は、それぞれが思い描いていた通りの軌道を描いていた。矢が洞穴熊の大きな体に刺さった。
「やった!」
「当たった!」
―――違う。
リエルは雷のように荒々しく加速しながら、左手に弓を、右手に矢を握る。鼻を蹴散らしながら、その美しい顔には怒りと焦りが浮かんでいた。
―――攻撃は、当たるだけでは、意味がないのだ、チロル、ルチル。敵に、有効でなければならない。
そうだった。子供たちの矢は、ただ当たっただけに過ぎない。洞穴熊の分厚い毛皮を貫いて、深手を与えているかのように見えもするが。しかし、事実は違う。
二人の矢は、毛皮のすぐ下にある洞穴熊の骨に受け止められていた。
小さな弓では、キツネを仕留める威力は出せたとしても……。
熊の強固な骨を射抜く力は出せない。それも、4メートル以上もある、洞穴熊の頭蓋骨ともなれば!!
その攻撃は、洞穴熊を激怒させることはあっても、ダメージと言えるほどの傷を負わせるには至らなかったのだ。
獣は、『対話』を断たれたことを悟る。
そうなれば?
むろん、野生の『掟』に従い―――敵を排除する。それが、森の王者エルフの子供たちであろうとも、洞穴熊に迷いなどなかった。闘争心が、彼を無口にして。無音の中に殺意を隠す。
「……ねえ。こいつ、黙ったよ……っ?」
「……うん。こいつ、死んだの……ッ?」
リエルは舌打ちしながら、里の子らに叫ぶのだ。
「左右に飛べ!!そいつは、飛ぶ気なのだあああああああああああああああッッ!!」
「っ!!」
「ッ!!」
エルフの血が反応していた。幼さのなかにも脈打つ森の王者の狩猟本能が、危険を嗅ぎつけた。リエルの声に揺り起こされた本能が、チロルとルチルの体を動かす。
大岩の上から、二人の子供エルフが、花畑に飛んだ。
その直後である。
無音の殺し屋が、4メートルを超える黒い砲弾となって大岩の上に跳びかかっていた。巨大な爪も、強靭な牙も。空振りする。一瞬前まで、二人の子供エルフたちがいた場所に、獣の必殺の武器は届いていた。
避けなければ、死んでいた。
「よくぞ避けた!!」
そう言いながら、リエルは花畑を蹴るようにして、その疾走にブレーキをかける。花片をブーツが踏み散らしながらも、リエルは素早く射撃体勢を整えた。
弓を構える。そして、その美しくも小さな右の細指たちが、犬鷲製の矢羽根が生える矢を弦につがえた。
リエルは天性の才に任せて、速射を放つ!……矢は稲妻のような勢いで飛び、洞穴熊の背中を射抜いていた。
「ぐるううううッッ!?」
……そこは、背中だった。洞穴熊を一撃で倒すための秘伝の場所だ。その部位からならば、この角度ならば。矢は必殺の深みへと突き刺さる。
まだ、急停止の揺れが収まらない体勢での射撃ではあったが。リエルの矢は、洞穴熊の背を射抜き、その強く分厚い骨のあいだを貫き、心臓に達する―――ハズであった。
しかし。
体勢が甘くて腕の引きが甘かったのか、あるいは焦りから照準を揺らしてしまったのか。必殺の深さまでには、矢の先が到達することはなかった。
洞穴熊はリエルの矢の一撃に、耐えてしまっていた。ダメージはある。大きなダメージではあるが、あの大岩の上で、その身をひるがえして無表情な顔をリエルに見せていた。
獣は。
本気で攻撃しようとするとき、表情を消すという事実をリエルは理解している。
「……参ったぞ。ヤツの正面からでは、矢が通らないのだがな……っ」
しかも。
洞穴熊は本気を出せば、短時間ならばエルフ並みに速い。
リエルと洞穴熊のあいだには、子供たちがいる。背後には、だいぶ、引き離してしまったがアルカもいる。
いい位置関係ではないぞ。困った。
熊の殺意から外れることは容易いが、そうすれば、あの脅威は他の三者に向かうかもしれない。
アルカは、全力で走っている。急に踊るような戦い方で、ヤツの背中は取れぬだろう。子供たちにいたっては、リエルから見ればよちよち歩きも同じこと。
……なぜ、未熟な者たちを、巻き込むような形にした?……必死になり過ぎて、皆、ろくに動けん。もっと的確な指示を、出せば良かったのに……?
守るためには。
守るためには。
ど、どうしたら……いいのだ―――!?
無言の獣が、大岩を飛ぶ。そして、花畑に着地すると、素早く走ってくる。どうすればいいのだろう?……リエルは頼ろうとする、経験を検索する。しかし、薄っぺらい経験の中には、戦いの知恵は、まだ余りにも少ない。
頭が真っ白になる。
真っ白になって……思い出す。
強くなったのは。
守るためだった。敵を倒すためだけじゃない。勝っても、誰かを死なせてはならんのだ。誰かを死なせて勝っても、それは負けにも等しい勝ちである。守るためには、守るためには―――。
―――『あいつ』に、なろう!!
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!!」
リエルが叫んだ!!
炎のように叫ぶ、その身を奔る血に、力を宿すために!!
風のように走る、弓を捨てて矢を捨てて、身軽さを武器に選ぶために!!
迫り来る無言の巨獣に、こちらからも走っていく、雷のようにただただ鋭く!!
「お、お姉さま!?」
「り、リエルさま!?」
「り、リエルさま!?」
齢15にして、森のエルフ最強の戦士と呼ばれるリエル・ハーヴェルは、そのとき、一族の伝統である狩猟戦術を捨て去り、本能と才能任せに巨獣に挑む!!




