序章
序章 偉大なるエルフ、気がつく。
物見台の上に座り、リエル・ハーヴェルは侵略の傷痕から立ち戻りつつある故郷の森を見ていた。
人間族の侵略者どもの攻撃は苛烈なもので、森のエルフたちの魔力を奪うために、木々に火を放つことを厭わなかった。
しかし、オーガルルの霊木たちは、半ば焼けたところで命を失うことはない。
半身が焼け焦げてしまったとしても、その焦げた部分をエルフたちの繊細な手で取り除いてやり、祝福と霊薬を使うことで新芽が再び生えてくれる。
多少は歪な形となってしまうが、オーガルルの霊木たちは復活している。新緑の季節になり、太陽の光が森のエルフの隠れ里には降り注ぐ。
この季節は、オーガルルの葉が呼ぶ、魔力の霧が薄まるのだ……景色は、いつにも増して良くなる。
「―――また、この季節がやって来たのだな」
里を見下ろせる物見台の上で、エルフの少女は足を組みつつ、遠く高い場所を流れる雲を追いかける。
……もう4年も前になるのか。
オーガルルの葉が呼ぶ霧の魔力が消えた頃、人間族の兵士たちがこの隠れ里に侵入して来た。
大それたことに、霊木の森に火を放ちながら。そして、虐殺は行われた。エルフの弓兵たちは戦い抜いたが、あまりにも敵の数は多かった。
侵略者どもは何が目的だったのか?
この土地そのものだった。
大陸全土にその影響力を広げているファリス帝国。その帝国では、人間族以外の亜人種を弾圧しているという……。
傲慢な人間族らしい。
穢らわしく、破壊的で、忌まわしい。
戦士たちは、その人間族どもに殺されていった。そして、女たちを捕まえ始めた。奴隷にして、どこかに売り飛ばすというのだ!……リエルも、その下品な貌で笑う人間族の兵士たちに捕まってしまう。
今ならば、簡単に殺してやったのに。
4年間の鍛錬は、彼女を森のエルフ最強の戦士に変えていたが、9才の少女の腕は、そのときまだ短く、押さえつけてくる兵士の腕に勝てなかった。
地面に押さえつけられた。リエルの一族を斬り殺したときに浴びた返り血に汚れたまま、人間族は下品な貌で笑っていた。
幼いリエルには、そのとき兵士がどんな欲望を抱いていたのか、知る術はない。今もって理解はしてはいまい。
だが、おぞましいことが起きると、4年前でも理解はしていた―――こんなヤツに、好きなようにされるぐらいなら、死を選ぼうか。
森のエルフの姫君は、その気高い心で舌を噛み切ろうとまで考えていたのだが。
そいつは、いきなり現れていた。
巨大な剣を振り回す、大きな赤毛の男だった。
リエルを押さえつける兵士を斬り捨てると、獣のように叫びながら、次から次に侵略者どもを斬りまくっていった。
侵略者たちは、その赤毛の猛攻に成す術がないようだった―――圧倒的な強さだった。圧倒的な強さではあったが、赤毛も傷を負わされていく。
それでも気にしていないようだった。
どんなに傷を負っても、恐れることはなく。
剣と共に暴れ狂っていた。
助けられたのは理解できた。でも、アレは、自分たち森のエルフを助けるためだけの行いではないのだと、幼いリエルは理解していた。
そうだ。
あの赤毛は、侵略者どもを斬ることこそが目的であったのだ。
だから、笑っていた。
傷を負わされながら、お構いなしに剣を振り回す。それゆえに強かったのだ。何故ならば、その強さの前に、侵略者どもを恐怖し、及び腰になってしまう。
震える指では、居竦んでしまった魂では。
荒ぶる赤毛の男の大剣を、受け止めることなどムリだった。
赤毛は強い上に―――捨て身だったのだから。
どうあれ、その赤毛が大勢の敵を斬ってくれたから、森のエルフ族は体勢を整え直すことが出来たのである。
やがて、狩りに出ていた若者たちも戻って来た。彼らと里の生き残り、そして赤毛が協力することで、ようやく侵略者たちを追い払うことが出来たのである……。
そう。赤毛こそが英雄だった。
この赤毛の彼が、エルフ族でさえあれば、問題など無かったのだが……。
困ったことに、その男もまた人間族なのであった。森を焼き、エルフの戦士を殺して里を襲った残酷な殺し屋どもと同じ、短い耳のマヌケどもの一員である。
それでも。
たしかに、彼はこの里を救ってくれた人物には違いなかった。それに……リエルには分かったのだ。あの炎のような赤い髪を持つ男が、ただの人間族ではないことが。
強いから?
それもある。
常人離れした強さだし、心も狂気と復讐心に染まっている。
剣を振るう様子を見ていれば、幼いリエルにさえも理解することが出来る程に、彼の怒りは尋常なものではなかった。
故郷を焼かれたばかりのリエルよりも、彼の怒りは深かったのかもしれない。
力も心も強く、攻撃的である。
森に棲むどの獣よりも、あの男は獣のようであった。
その上、その男の左の瞳は、金色に輝いている。魔物の一種が、そこには宿っているのだと、エルフたちの優れた勘は悟っていた。怒りに狂う、金色の瞳。それは異形であり、狂気であり―――とても怖かった。
……救われたはずの、森のエルフたちでさえも恐れていたのだ。自分たちよりも強かった侵略者を、簡単に斬り捨ててしまった、その金色の怒りに燃える瞳を持つ異形の人間族のことが……。
あまりにも強く、狂暴な力に対して、エルフたちは警戒を解くことを出来なかったのである。
でも。
リエルは知っていた。もう片方の瞳は、フツーだった。よくある青い瞳だ。よく晴れた、空のような瞳。そして、何故だか分からないが、とても悲しげな瞳だった。
彼は復讐者だろう。つまり、何らかの被害者でもあるのだろう。リエルはそう感じている。
だから。
つまり。
これは。
……『同情』なのだろう。
今、物見台にリエルは座っている。あのときよりもずっと長くなった脚を組んで。エルフの弓姫は、その長い腕に聖樹より切り出した弓を抱きしめながら、そう結論している。
そうそう。同情、同情、同情だ。
……あの瞳を思い出すと、何だか、心がざわめいてしまうのだが。
……うむ。
……それも、同情なのだ。
なにせ、かわいそうなことをした。
ろくなお礼もすることなく、森のエルフ族は恩人である彼のことを里から旅立たせてしまった。
追い出したわけではない。森のエルフは、そこまで愚かじゃない。作法ぐらいはわきまえている。
だが、あの男の方から去って行った。
何かを探し求めているようだった。
まだ若い男だったが、まるで年老いた狼のように孤独で、彷徨っている。
金色の瞳から、魔物の業を放ちながら、何かを探して、ろくな手当もさせてくれないままに旅立ってしまった。
―――良かったな。
その短い言葉だけを、残して消えた。
リエルの銀色の髪を撫でながら、たったそれだけ言い残して、どこかにふらりと消えて行ったのだ。なんとも。風みたいなヤツで、炎みたいなヤツで、雷みたいなヤツだった。
あの悲しい青と。
あの激しい金色。
それらの瞳が、どんな感情を抱いていたのかを、リエルはよく考えるようになった。
年月が経てば、思い出など薄まるものだと、じいやからは聞かされていたが。そうではない。狩りの天才である、マグナ・シーデルトにも見抜けぬことがあったようだ。
そうだ。
時が経つにつれて、色褪せるばかりか……。
どんどん、知りたいという気持ちが募っているようだ。
……なぜ。
……復讐すべき人間族の。
……しかも、たった一時間しか、この里にいなかった男のことなどが、気になってしかたがないのだろうか?
復讐の旅に発つために、技を磨いて、魔術を習得した。聖樹から弓を切り出し、秘薬の製法も伝授された。最強の狩人として、最強の復讐者として、森のエルフの弓姫として、ファリス帝国という侵略者どもに罰を与える日は近い。
完成された戦士である。
13才だ。
あと2年もすれば、外に出て、ファリス帝国の侵略者たちを追い詰める旅に出られる。里を襲った人間族を、一人残らず倒してやるのだ!……そうだ!そのはずの旅であるからして、けっして、あの赤毛で、金色で、青いヤツのことを探したいわけではなく…………。
…………。
…………。
…………!!
そのとき、森のエルフの弓姫、偉大なるリエル・ハーヴェルは気がついてしまったのだ。
あまりの事実に、愕然して、挙動不審となり、体をゴロゴロとその場で転がすほどに身もだえして、物見台から落っこちそうになってしまう。
危うく、13メートルの高さから墜落して、若き身空で命を散らしかけていたが、類い希なる身体能力と鍛錬のおかげで助かっていた。指一本で、物見台のふちを掴んでいたから。
「……も、森のエルフで、良かった……っ」
自身の血に感謝しながらも、リエルは物見台の上に戻る。顔が熱い。きっと、鏡で見れば真っ赤になっているだろう。間違いなく、夏のトマトのように爆発しそうなほど!
「むー……ちがうー……ちがうのだ。それでは、いかんだろう?……部族以外の者を。ましてや、仇でもある人間族を…………っ」
リエルは空を見上げていた。悲しい青い瞳を、そこに見て、顔どころか耳まで赤くなる。
心臓が高鳴り、体が震える。
そうだ。認めよう。これは、その……探しているのだ、あの赤毛と同じように。自分もまた探して、追い求める者なのである。
狩人だから!!
狩人だから、いつもいつもいつも、赤毛のことを探している。空を見上げるだけでも、あいつの瞳を思うほどに。きっと、きっと、これも仮にだから……。
……。
……いいや、だからでもない。
そうだ。
うむ。
ああ。
いい加減、認めてしまおう。
もう私は、気がついてしまっている。
私は、あの赤毛の人間族のことが、好きだ。
「…………つ、つまり。こ、これが、世に言う……っ。は、は、は……初恋だったのか……ッ」
……偉大なるリエル・ハーヴェルは、ようやく認められたのだ。
あの赤毛の人間族のことに、惚れてしまっていたことに、4年もかかって気がついていた。
「…………いや、よ、4年も、かかってしまうとは、わ、私は、なんと、繊細で奥手な、慎ましい、美少女エルフさんなのであろうか……っ」
自分が鈍感なのか?いいや、そうではあるまい。何故ならば、誰も教えてくれなかった。本で読んだものとも異なるぞ。
あんな獣よりも獣で、侵略者よりも激しくて、バカみたいに強くて、片目が金色に光る男になんて、どんなお姫さまも、惚れたりしないではないか!!
……そうだった。彼女の初恋は、ややワイルドで、とても血なまぐさく。なかなか珍しい形であり、穏やかで甘酸っぱい初恋なんてモノではなかったが。
たしかに、彼女の心はあの日から、炎のような、風のような、雷のような、赤くて、青くて、金色の異種族の男に、深い愛情を抱いていたのである―――。
―――リエルは、この初恋を、誰にも悟られないようにするため、誓うのだ。太陽を浴びて輝く、森の奥にある聖樹に向かって誓っていた。
「これは、生涯の秘密にします、聖樹よ!!私は、人間族のことなんて……あの、名前も知らぬ、変な男のことなんか…………あ、あ、あ、あ、愛していたりしないもーん!!」
……森の奥で弓姫さまが叫ぶものだから、その声は当然のように風に乗り、森のエルフの里まで響いていたそうな……。
エルフの弓姫リエルの冒険をお楽しみください。