人間は考える足である 解決編
龍造寺悟は赤ら顔の中年男性だった。
じっと顔を見ていると、頭に「博多どんたく」という単語が浮かんでくるような男だった。
「なるほど。これは興味深い事件ですね」龍造寺はそう言って笑った。
龍造寺悟は探偵である。
九州ではなく都内某所に事務所を構えているが、見るからの貧乏所帯で、助手を一人雇っていることが不思議なほどである。
「しかし私にかかれば、たいした問題ではありません。謎は解けましたよ」
「解けたのですか」ADの今井はテーブルに身を乗り出した。
「こんなにも早く」
「私にとってはたいした問題ではありません」探偵はそうくり返すと、イスにふんぞり返った。壊れかけのイスがぎしぎしと悲鳴を上げる。
「犯人の奥田氏はいかにして雪に閉ざされた密室を抜けだしたのか――その謎を解く鍵は、足跡です」
「足跡、ですか」そんなことは解っていると言いたげに今井は鼻を鳴らした。
「被害者の天野晴天の切り取られた足跡だけが、雪を踏み密室を出ていき、犯人の奥田の姿が密室から消えた理由を、あなたは見抜いたというのですね」
「もちろんです」探偵は重々しくうなずき、この映像をご覧くださいと、DVDのリモコンを動かした。
モニターに映されているのは、あの日、天野晴天の死体を発見した後に宇野が撮影した映像である。突然の殺人事件にも動じず、宇野は嬉々としてカメラを回し、仙人インタビュー番組を実録犯罪番組に作りかえたのだ。
殺人事件の直後に、現場で当事者たちが撮影した取材ビデオ。
捜査中の事件ということで、まだ放映こそ見送られているものの、いざオンエアされれば話題をさらうことは間違いない。
「ここに注目してください」龍造寺は天野晴天の足跡がアップになったところで、ビデオを一時停止させた。
宇野カメラマン一世一代の映像は、足の指紋までも鮮明に映しだしている。
「ご覧なさい。なにかに気づきませんか」
「さあ? 僕にはよく」
「現代を生きる仙人――天野晴天はたいへんに大柄な男でした」今井の返事をみなまで聞かず、探偵は講釈を始める。どうやら自分の推理に酔っているようだった。
「大柄な彼は、当然ながら足も大きかった。そこに追いつめられた奥田氏は目を付けたのです」
「と言いますと」
「こんな言葉があります。"木の葉は森に隠せ"。小さなものは大きなものの中に隠してしまうのが一番なのです。今回の事件はさしずめ"足跡は足跡に隠せ"と申しましょうか。そうです。奥田氏は天野晴天の足跡の中に、自分の足跡を隠したのです!」
「はあ」熱弁する探偵とは逆に、今井は気のない返事をした。
「でも龍造寺さん、それは」
「奥田氏は、切り取った天野晴天の足をまるでハンコのように使い、足跡を右、左と順にスタンプしていったのです。そして、自分は天野晴天の足跡の中を歩いていったのです!」
龍造寺悟は真犯人を示すように、今井の鼻先に指を突きつけた。
その指をうるさそうに払い、今井はため息をつく。
「龍造寺さん。残念ながらそれは無理です」絶対に無理ですと今井は言った。
「は?」
「奥田は――でかいんです。でかいんですよ。師匠の天野晴天よりもずっと」
「……はい?」
「だから、天野晴天の足跡の中に、自分の足跡を隠せません。確実にはみ出します」
「そ――そんなのアンフェアじゃないか!」探偵は絶叫した。
「どこにそんなヒントがあったんだ!? どこにも"奥田は実はでかい"なんて伏線は張られてなかったぞ!! 認めん! 俺は断固としてこんなミステリは認めんぞ!!」
「伏線は張られてなかったけど、ミスディレクションなら張られていましたよ」激昂する探偵の助手は、空の茶碗にお茶を注ぎながら静かに言った。
龍造寺探偵事務所の紅一点、大神涼子である。
「大神さん、ミスディ…というのは?」今井は目を白黒させながら尋ねた。
「ミスディレクション。誤導とも言います。読者を謝った推理へと誘導する、偽の手がかりのことです。今回の場合は"弟子の奥田さんが小柄だと見せかけるミスディレクション"ですね。たとえば――」
奥田は正座したままの姿勢で飛び上がり、あわてて駆けだしていった。
あの仙人の弟子とは思えないほど、彼は気弱だった。いつもなにかにびくびくと怯えていて、天野晴天にも、いいようにこきつかわれていた。
奥田はしくしくと泣き出した。
奥田はめそめそと泣き出した。
「どれも、奥田さんを気弱で小心な小坊主さんだと思わせる罠です」
「そんなものミスディレクションなんて言えるもんか」探偵の怒りは収まらない。
「そもそもミステリというものはだな、フェアプレイ精神に貫かれているものであって――」
「探偵さん、ミステリ談義はどうでもいいですから、この事件の謎は解けないんですか」今井がすげなく言った。
「ぐふっ。ええと……。そ、そうだ。奥田氏はでかい男だったんですね。ひょっとして奥田氏は、30メートルくらいの大男だったのではないですか。それなら、お堂から寺までをひとまたぎに――」
「奥田は2メートルでした」今井は耳をかきながら言った。
「30メートルの人間なんていると思ってるんですか? 馬鹿らしい」
「……」
「でも、足跡に着目した所長はさすがでしたね」灰皿をテーブルに置きながら、大神はさりげなく言った。
「だって、この事件を解く鍵は足跡にあったんですから」
タバコに火を点けようとした姿勢のまま、今井は固まった。
「――大神さん。あなたはひょっとして、この謎が解けたんですか」
「ええ。おそらく」大神は首をかしげて微笑む。
「所長の間違った推理を聞いていたらひらめきました」
「それは本当か大神君!?」助手の胸ぐらをつかまんばかりの勢いで探偵は詰め寄った。
「言いなさい。もったいぶらずに今すぐ言いなさい。さあ言うんだ大神君」
「その前に一つ、お願いがあります」大神は今井を見つめ、ふと眼を細くした。
「そのカメラ、止めてもらえますか?」
「え?」
声を上げたのは龍造寺だった。今井はまばたきをやめ、じっと大神の眼を見つめ返している。
龍造寺は助手とADを交互に見やり、ゆっくりとDVDのリモコンに手を伸ばした。
「所長」大神は今井をにらみながら冷たく言う。「そっちじゃありません。今井さんの持っている、隠しカメラの方です」
大神の眼が今井を離れ、彼が座るソファの上に何気なく置いた、バッグに移る。
そのチャックがわずかに開き、中からはレンズが覗いていた。
「ばれちゃいましたか」今井は悪びれた様子もなく、鼻を鳴らすとソファにふんぞり返る。
「ちぇっ。もうちょっと楽しみたかったんだけどなあ」
「趣味が悪すぎます」
「やっぱり放送するのも駄目ですか?」
「駄目です」
「ち、ちょっと待ってくれ」探偵が割り込んだ。「さっきから何を話してるんだいったい」
「見ての通りです。今井さんは所長の迷推理を盗撮してたんです」
「お、俺の名推理を?」
「字が違います。名推理ではなく迷推理です。仙人の取材も実録犯罪も失敗したので、ドッキリ番組に方針転換したんでしょう」
「迷推理で有名な探偵さんがいると聞いて、わざわざ取材に来たんですよ」今井が恩着せがましく言う。
「でも名推理ができる美人助手さんがいるとは知らなかった。改めてそっちで取材させてもらってもいいですか?」
「お断りです」大神はすげなく言うと、今井のバッグのチャックを固く閉め、その手に握らせた。
「出口はあちらです。お帰り下さい」
「わかりましたよ。でも、また何かありましたら、さっきの名刺までいつでも連絡くださいね」朗らかに言う今井の背中を押すようにして、大神は丁重に出口まで案内する。ドアを閉めると音立てて鍵を掛け、わざわざ塩をひとつかみ持ってきて、玄関口に投げつけた。相当怒っている。
「な、何がなんだか良くわからないが、とにかく助かったみたいだな」
「まったく馬鹿にした話です。せっかく久々の依頼者だと思ったのに」大神は乱暴にソファに腰掛け、足を組む。
「それはそうと、大神君……」龍造寺は上目遣いに助手の顔をうかがう。
「さっきの謎なんだけど、解けたんなら教えてくれないか」
「足跡の謎ですか? あれも馬鹿げた話です」大神はDVDのリモコンを操作し、映像を探す。
「そういえばこれ忘れて行きましたね。まあ、ダビングしてあるでしょうけど。――あった、ここです」
映像を止め、大神は画面を指差す。仙人の足跡が雪に点々と刻まれている場面だった。
「問題の足跡だろう? それがどうしたんだ」
「足跡はいくつありますか?」
「へ? そりゃ見ての通り、2つだ」
「そう、2つだけです。足跡は点々と刻まれた、2つ切りしかないんです」
「え? そんなわけはないだろう。これは足跡をアップにしただけで、お堂と寺の間には点々と足跡が刻まれて――」
「ですから、点々と刻まれているだけです。点々々々々々々と刻まれているのではなく、点々と刻まれていると、ずっとそう言われてるじゃないですか」
「…………じ、じゃあ、仙人を殺した奥田がお堂を出て行った方法は」
「ジャンプしたか、それとも2メートルの体格なら単にまたいだのでしょう」
仙人の籠もっていたお堂と、取材班の寝泊まりしていたお寺。その2つがどれだけ離れていたか、どこにも記されていなかった。
きっと、点々と足跡を刻む程度の幅しか無かったのだろう。
「だから今井さんは、所長に依頼に来たんです。このままではなんの番組も作れない。このくだらない事件で所長を騙して、迷推理を披露させて、それを隠し撮りし、あわよくば番組に仕立て上げるために」
「そ、そうだったのか……」龍造寺は天を仰いだ。
「それにしても大神君、よくそれに気付いたね。やっぱり、あの映像を見て、不自然に感じたのかい?」
「いいえ」大神は首を振り、きっぱりと言った。
「最初から不自然でした。だって、所長に殺人事件の捜査依頼なんて、来るわけないじゃないですか」