プロローグ
視界に収まりきらないほどの巨大な体躯を持つ大蛇が視界不良の湿地帯で縦横無尽に暴れるがの如く、人生の道筋というものは予想もつかないことの連続である。
それが私、アンブラ辺境伯が三男であるリョウレイン・スエズヘルム・アンブラの本日の感想である。
ここで本題からは少し外れる。
我がアンブラ家は大陸南西に位置するルーフィニス王国の東側、スエズヘルムと呼ばれる国境にして軍事防衛線の第四地区を任されている歴史ある貴族である。
代々軍人家系であるアンブラ家で生を受けた私は兄弟と同じように幼少の頃からルーフィニス王国に仕えるための教育を授けられていた。
軍事訓練や礼儀作法、国家情勢に世界情勢。
庶人であれば一生涯教わらないような事柄を必要な知識、経験として教わったのだ。
その価値は、人によっては黄金よりも遥かに高いものになるだろう。
故に私は将来辺境伯を継ぐであろう嫡男の補佐として、更にルーフィニス王国に所属する軍人として、黄金以上の価値を与えられた者として、生きて行く人生なのだろうと考えていた。
その人生は決して嫌ではなかった、長男は少し頭の固い部分はあるがアンブラ家次期当主として申し分無い努力、結果を出しており尊敬に値する人物だ。
次男は少々、いや過多の割合で個人の武勇にのみ特化したところがあり心配な点はあるが長男と私が脇を支えれば敵から恐れられ味方を鼓舞する歴史に名を残すような勇猛な将軍になるかもしれない。
父上も最前線は退いたとはいえ、スエズヘルムの悪夢と呼ばれたその手腕は健在であり三十年以上領地を守ってきた経験は恐らくルーフィニスでも敵うものはいない防衛戦の名手だろう。
尊敬する彼らと肩を並べて祖国の平穏と安寧を守る礎となる、私にとってはそれは誇らしい生涯になっていただろう。
しかし、今私はといえば届いたばかりの一枚の羊皮紙を前に苦悩で頭を抱えていた。
それは今朝早くのことだった。
成人の義を終えてから約六年の歳月、急務などが無い限りは続けている日課の走り込みを終え、スエズヘルツの城壁にある隊舎に戻る道すがら顔見知りである配達係の兵士から呼び止められた。
赤い髪に歳五つは下に見られそうな童顔、鼻頭に尋常性座痕が目立つ彼の名はアイル・クラベルだ。
ルーフィニス王国の王都から三日に一度やってくる補給物資輸送部隊員の一人であり、物資と共に送られてくる兵士達個人宛の手紙や王都からの重要書類などを隊舎に運ぶ役割を担っている。
爵位を持たない一般兵士ではあるがその役目は重要で、時には国の命運を分けるような物品を取り扱うこともあるので輸送任務中も歩兵用直剣を腰に差しルーフィニス軍の軽装鎧を着ている。
…正直に言ってしまえば緑を基調とした綿入りの下地に鎖帷子を着込んだその姿は、童顔であり中肉中背の彼には絶望的なまでに似合っていない。
まるで歳の離れた兄の装備を無断で持ち出した悪戯好きの若者にしか見えない。
そんなアイルが私を見つけ呼び止めると普段の軽薄な面持ちとは一変して真剣な顔つきで一枚の封筒を静かに差し出してきた。
私は訝しげにその封筒を一瞥した瞬間、悪寒にも似た衝撃が背筋に高速で走ったのを感じる。
手紙に封をする朱色の蝋に押された封蝋印。
雄々しく角が生えた牡鹿の横に上級貴族が社交の場などで使用する、所謂貴族杯が描かれている。
ルーフィニス王国でこの封蝋印を使用することができる人物は私の知る中で一人しかいない。
第十八代目現国王、アーノルド・クリスタル・ラグラン・ルーフィニス様その人である。
―――詰まる所この封蝋印は、国王印だ。
勿論、国王印を見たのは初めてではない。
私の家はアンブラ辺境伯家であり、現在もなお最大の激戦区であるスエズヘルツ第四地区を任されている歴史ある貴族だ。
国王陛下直々の命令書も受け取ったことがある。
しかしそれは代々仕えてきた辺境伯に向けて送られた封書であり、断じて今回の封筒に書かれているような私個人宛などではない。
…そして今現在の状況に戻るわけだ。
アーノルド国王からの書状の内容は単純明快でありそれでいて私の頭を猛烈に悩ませるものだった。
この羊皮紙は確かに私個人宛、故に絶対拒否できないだけの権限を内包している命令書。
どのような内容であれ国王印が押されている時点で私には拒否権というものが欠片も存在しない、ただ命令を遂行する義務だけが発生するという羊皮紙である。
リョウレイン・スエズヘルツ・アンブラ。
上記の者をルーフィニス王国王位継承権第十三位、マリアローズ・ルビナス・ラグラン・ルーフィニスの守護騎士に任命し、新設される第七王女聖歌騎士団の隊長に就任させる。
―――これは私にとって一切望まぬ結果であり、しかし辺境伯の三男であるリョウレインとしては普通ではありえないほど異例の出世であった。