試合開始
「川瀬 亜門…格闘技経験はアマレスとボクシングねぇ…フ~ン」
奥堂コーチは奴が書く誓約書を上からヒョイと覗き込むと、耳をほじりながら興味無さそうに呟いた。
「なんやオッサン、こっちの手の内を知っといて策を練ろぅってか?」
「フンッ!アホ言え…そんな紙切れに書いとる事見たくらいでどうこう出来る程ケンカは甘ぁ無いやろが」
奥堂コーチが鼻で笑う。
「おやぁ?これは正式な試合やったんちゃうんけ?そう聞かされたからコレ書いたんやけどのぅ…」
「アホゥ…ワシからしたら試合もケンカも一緒じゃい。ワレには解らんやろから、その身体にたっぷり教えたるわいな」
「ハンッ!そりゃ楽しみなこって♪それはそうと‥とりあえず着替えさせてくれるか?」
「いっちゃん奥に簡易シャワーがあるさかい、そこを使えばええ」
スポーツバッグを肩に担いだ川瀬に、奥堂コーチがアゴでクイッと奥を差し示した。
………5分後………
「しっかしボロいシャワールームやのぅ…」
そんな事を呟きながら川瀬が出て来た。
上半身裸に濃紺のショートスパッツ。
拳には赤いオープンフィンガーグローブを着用している。
川瀬はボディビルダーみたいな筋肉や無く、上からうっすら脂肪の乗ったいわゆる俺達プロレスラーみたいな体型をしとった。
とてもボクサーの身体には程遠い…
奥堂コーチもそう思ったらしく
「なんや兄ちゃん…ボクサーにしてはちぃ~と肉つき過ぎとちゃうかぁ?」
「あん?勘違いすなや、俺は別にボクサーや無いで。経験があるってだけや」
「なるほどねぇ…さっ!くっちゃべるんはこれくらいにして、そろそろ始めよかぁ」
そう言って奥堂コーチが先にリングへ上がった。
「おいオッサン…まさかその格好で闘ろうっちゅうんちゃうやろな?」
団体のTシャツに短パン…確かにコーチの格好は試合する様な姿やあらへん。
どっからどう見ても休日のお父さん…や。
「ん?何か問題あるかぁ?」
「いや…問題って…ありありやろっ!?こっちは試合用にわざわざ着替えてんぞっ!?それやのにオッサンときたら丸っきりオッサンやんけっ!
オッサン中のオッサンやんけっ!!
もう休日に部屋で寛ぐ親父にしか見えへんどっ!」
あ…俺と同じ事思ったみたいね。
気が合いますやん♪
「オッサンオッサンて何回言うねん…そない繰り返さんでも、ちゃ~んと自覚しとるわいな。
それにさっきも言うたやろ…これは〝大人の事情〟ってやつで試合って事にしとるが、ワシにとってはケンカや。ケンカっちゅうのは普段着でするもんやろがい?」
「グヌッ…ま、まぁええわっ!それよりルールはどないするんや?」
「ルール?そんなもんどっちかがブッ倒れるか参ったするまでや」
「リングアウトもロープブレイクも無しやぞ?」
「んなもん当然やがな♪」
マ、マジか奥堂コーチ…
相手は総合格闘技として1番バランスの取れた、アマレスとボクシングの組み合わせ…しかもコーチより遥かに若い。丸っきり親子くらいの年齢差やのに…
そのルールやとスタミナは勿論、色々な面で不利やろぅよ。
ちゃんと簡易的にでもルールを決めた方が…
俺がそんな不安を感じてる間に川瀬もリングへ上がっとった。
「後悔すんなよ…オッサン」
アカン…川瀬の奴、軽くキレてはるわ。
それに対して奥堂コーチは、ニヤニヤした顔でその様子を眺めてはる…
なんにせよ、耳がブロッコリーとなった2人の男がリングの上で向かい合ったんや。
もう止まらへん…あとは見届けるしかない…
「オラッ!ひよっこ共っ!!プロレスラーのケンカのやり方ってのを教えたるからちゃ~んと見とけよっ!!」
「オ、オスッ!!」
「よっしゃ!なら始めるとすっか…兄ちゃんも準備はええか?」
「準備やったらここに来る前から出来とるわいっ!」
「上等や…オイッ!誰かゴング鳴らせやっ!!」
「ウスッ!」
返事と共に喜界の奴が小走りでゴングの場所へと向かう。
そして数秒後、透き通る様な鐘の音が響いた。
川瀬がクラウチングスタイルに構える。
対する奥堂コーチは…
ノ、ノーガードッ!?
い、いやいやっ!
そ、それはいくら何でもアカンやろっ!!
ほ~ら…川瀬の米噛みに血管が浮きましたやん…
「俺もナメられたもんやのぅ…」
ボソリと言った川瀬が、その場で3度ほど跳ねてから左サイドに大きくステップを踏んだ。
そこからどない出る?
右に踏み込んでの左フック?
それとも右の大振りフックでそのまま飛び込むんか?
流石に奥堂コーチも反応して頭部をガードで固める。
「ヘンッ!甘いでオッサンよっ!!」
川瀬が言った直後、鞭で打った様な破裂音が響いた。
見ると、奥堂コーチの左脇腹に川瀬の右足がめり込んどるっ!
け、蹴り…やとっ!?
こいつ…最初から狙っとったな…
パンチに行くと見せガードを上げさせといて、がら空きになった脇腹への蹴りをっ!
「おお~スマンスマン♪誓約書に書くん忘れとったわ…俺が1番得意なんは空手でのぅ♪」
くっ…!し、白々しいっ!!
パンチと組技を警戒させる様にアマレスとボクシングを書いといて、蹴りに目を向けさせへん為にワザと書かへんかったくせにっ!!
でも…これも作戦やったんやな…
実際に奥堂コーチは術中にハマった訳やし…
こいつ…気をつけな、なかなかの策士やで。
クフ~…
コフ~…
息がつまったらしく奥堂コーチの口からは、か細い呼吸音だけが漏れとる…
たった1発のミドルキックで脇腹は赤く腫れあがってるし、まだ殆んど動いてないのに額には大量の脂汗も…
効いてるんや…さっきの蹴りが…
せやけどコーチの眼光は鋭いままやし、口元には相変わらず笑みも見える…まだ全然大丈夫やっ!
「そっかそっか…書き忘れかいな…
人間やからのぅ忘れる事くらいあるわいな、まぁ気にすんなや♪」
ようやく呼吸の整った奥堂コーチはそう言うと、更にこない続けた…
「それよりワシこそ謝らんとのぅ…兄ちゃんの事ナメてしもてスマンかったな…3割くらいの力で十分勝てると踏んどったけど、どうやら5割は出さなアカンみたいやのぅ…」
言い終えた奥堂コーチは、この闘いで初めての〝構え〟を見せた…
半身で重心をたっぷり落とし、右手は頭部に添えて左手は目の高さより少し低い位置にある。
レスリングの構えに似てるけども、完全にそうかと言えばどこかが違う。
喩えるなら…そう…その構えはまるで、獲物を狙って草むらに身を潜める肉食獣の様やったんや。




