第1章19話:ルナの葛藤
私は授業を終えて放課後になると、腕を伸ばして立ち上がった。
隣にいたオーク、後ろにいたカナエ、そのどちらも長い休みもとい自室での待機をしている。
早くカナエのためにこの膠着状態を止めなければ、気持ちがどこか焦ってしまう。
オークのダイゴについてはカナエのことで感謝を述べはしたが、どうも好きになれない人物、というか魔物だ。
大柄で威圧的な体格に豚鼻の顔、ぶっきら棒な人格と体格から想像できる粗暴さ、そして味わったあの圧倒的な攻撃力。
いつあのオークがこの学園に危険をもたらすかはわからないのだ。
同じ班員とはいえ野放しにはできない、いつも私を駆り立てる誇りがそう告げていた。
だがそれ以上の脅威が今この教室には平然として居座っている。
「ルナさん、ちょっといいか」
教壇から痩せこけた教員、ノテレクがほほ笑んでこちらに手招きをしてくる。
私は一瞬だけブレザーのポケットに手を突っ込んで、黄色いカードを少し握って魔力を注入して連絡した。
リンペイは気付いたのか、俯きながら帰る支度をしていた手を緩めて、ほんのわずかの間様子を確かめるように私の方を見る。
額に一筋を汗が流れるのを感じながら、私はノテレクの方へと向かった。
「なんでしょうか。先生」
「今日は風紀委員の定例会だね? 本日は顧問が休みだから、私が代理で務めさせてもらう。だから会が行われる教室へ案内してくれないか」
「よろしいですが、開催まで時間があります。少しだけ時間をいただいてもよろしいですか。準備等が必要となりますので」
「わかった。時間になったらもう一度来てくれ。私はここで待っている」
異様な緊張に襲われながら平静を保ちつつ、なんとか会話をやり過ごして自席へと戻る。
ノテレクからの視線を感じながら、リンペイから合図を送られるが、外で話そうとさりげなく指と顔を動かしてサインを送った。
ユリはもう教室にはおらず、自分の役割を全うしているようだ。
変に絡むことになっては怪しまれる可能性があるためいい判断ではあるが、きっと深くは考えておらず、おそらくは彼女のマイペースな性分によるものだろう。
そして教室の外の廊下で私とリンペイは、こそこそと誰にも見られないように会話を始める。
「あいつから話しかけられるのは、どうしても慣れないな」
「ははは。それは演技だと思っているからだよ。もっと肩の力を抜いてさ、リラックスだよ」
「貴様はリラックスしすぎだ。少しは緊張感というものをもったらどうだ。この学園に危機が迫っている。そして守るべきものがある。私にはカナエ、貴様にはダイゴなんだぞ」
「もちろん。わかってるよ。だからと言って焦っていい結果になるとは限らない。急ぐ場面ほど慎重に、熱くなってる時は冷静に、緊張していれば弛緩すべきさ」
私はリンペイの言葉に心の底から同意できなかった。
一刻を争う事態なのだから、さっさとノテレクとの決着をつけて安全を確保したいのだ。
カナエに窮屈な思いをしているのは、彼女にとってはひどいストレスになっているはずだから。
「ところでさっきはノテレクと何の話をしていたんだい」
「ああ、風紀委員の定例会があるんだが、立会をする顧問が本日休みで、代わりノテレクになるそうだ」
「それって大丈夫かい」
ノテレクが不安そうに尋ねるが、私はそんなことは些細なことであると答える。
「他の生徒もいる場所だ。手荒なことや話題からそれたことはできないはずだ」
「だったらいいけど……ちなみに場所はどこになるんだい」
「聞いてどうするんだ。貴様には関係ないはずだが」
「でも話して損になることじゃないはずだよ。僕が会の途中に乱入したりしない限りね」
「貴様……」
「大丈夫だよ。そういう手荒で無鉄砲なことな僕の得意とすることじゃない。どっちかと言うとダイゴの方だね」
リンペイの飄々とした態度を相手にするとどうも疲れてくる。
弄ばれているのかどうかわからないが、私がいちいち突っかかりすぎているだけなのだろうか。
「まぁ、仲間の位置を確認することは今回の作戦では大事なことには違いない。どこで誰が何をしているということはできるだけ明らかにしておきたいんだ」
「……二階にある会議室だ」
「わかった。ありがとうね」
礼を述べるとリンペイがすぐさまカバンを担いで私に背中を向ける。
「おい、どこへ行くんだ」
「もう帰る時間だろ。見られたら危険だし、そもそも長居する必要はないんだ。今回のことはまた後で連絡してよ。じゃあね」
私が引き留めようと腕を伸ばす前に、リンペイは遠くへ行ってしまった。
まったく、聞くだけ聞いてそれっきりで帰ってしまうのか。
緊張感がないどころか責任感すらないじゃないか。
まだノテレクの脅威は去ったわけでもないのに、何を呑気なことをして自分の身を守ろうとする。
貴様にも友達がいるだろう、なんとも思わないのか。
頭の中で愚痴の様なうっ憤がたまっていき、それを吐き出すように近くの壁を叩いてしまう。
「先輩! どうしたんですか」
「あ、す、すまない……いや、センか。どうしたんだ」
急に元気な声を駆けられて私は取り乱した様子を一瞬だけ見せてしまうが、その声の主が後輩のセンとわかると私は髪をかき上げ誤魔化すことで、先輩として風紀委員長としての風格を見せた。
センは私の正式に雇用されている騎士に負けない力量や、これまで築いてきた実績、そして同年代とは違う風格に憧れて、この学園の風紀委員に入ったと以前話している。
体は鍛えている者のまだまだ小柄で、剣の技量は私に歯が立たないどころか、カナエにも勝てるかどうかわからない。
ただひたむきに鍛錬を続け、少しずつ成長している様子を確認できるのは先輩としては素直に喜びを覚える。
私に憧れている証拠なのだろうか、長さが足りないものの亜麻色の後髪を私のように小さく結っていた。
「はい! 先輩は、先ほど小さな男の人と話していましたが、何かあったのですか」
「いや、特に何もない。彼は私の班員だ。ところでどうして君はここに」
センのはきはきした声は近くで聞くとびっくりさせてしまうものだが、その威勢のよい声を聞くとこれからの風紀委員ひいてはリーベカメラード学園は安泰だなと安心するのだ。
「はい! 休暇をいただいていた先輩のことが心配でお手伝いをさせていただこうかと」
「ははは。君は私の体調関係なく、いつも手伝ってくれるじゃないか。だが、そう言ってくれるのは助かる。今回も手伝ってくれないか」
「はい! 喜んで」
私はセンを引き連れて二階の工作室へと向かう。
そしてその場で許可を取り魔導の複製機の使用の許可を承諾し、今回配布する資料の複製を行った。
取り込みたい原稿を台座に置き、そこに魔力を入れ込むと白紙に同様の内容のものが印字されていく。
少しで乱れると内容が正確に記載されないため、集中力を要する作業であるが慣れている私には造作もなかった。
センは印字された資料を手作業で仕分けて、参加者に配布するための紙の束を形成する。
「本日の資料は多いですね」
「ああそうだな。これから始まったとしても、終わるのは完全に日が暮れてしまうのは間違いないな」
「そうですね。でしたら、あの、ご夕飯とかは大丈夫ですか」
「特に準備はしていないが、どうしたんだ」
「それで、もしよろしければ、一緒に夕食なんて……」
「ああ、そういうことか。こちらは問題ないぞ」
「本当ですか!? でしたら終わったらすぐに。おすすめのお店があるんですよ」
私は資料を複製しながらセンの喜びに弾んだ声を聞く。
普段放課後の予定なんてのはカナエの部屋で他愛のない会話をするくらいしかなかったので、後輩と付き合うのは貴重な経験であるとセンに負けず劣らず内心喜んでいた。
だがそれにしても今回の議題は普段に比べると多い。
定例である学園内の風紀の改善の実行と報告、そして今起きている風紀の乱れの情報共有。
特に今は夏前の旅行があるため、浮足立っている学生も増えている。
カナエのような生徒が増えるのは問題だが、示しをつけるためにカナエにいくら言っても聞かないため、風紀の乱れを正すのは長い時間をかけても難しいだろう。
注意してもカナエが言うには個性や、自分の楽しみ、縛り付けられるのは嫌だと主張してくるのだ。
そんな時に強く言うといつもカナエはふて腐れてしまうので、彼女のためとは言え非常に言いづらい。
他にも学園だけでなく騎士の活動としての街で起きている魔物の被害報告と対処。
最近はこれが多いのだ。
原因はいろいろあるが、ニルヴァーナ関連のためか魔物の活動も活発としており、魔物単独が模倣犯のように人里を襲撃しているケースが多い。
もっとも足跡がつくため追跡と討伐および捕獲は難しいことではないが、件数が多いのが悩みの種だ。
ただ魔物討伐という実績をつけることでは騎士団の推薦を受けやすくなるため、人によってはチャンスであり、センは特に息巻いていることを聞いていた。
だがその魔物討伐の話について、センから話題を切り出すことはない。
若いオーク、つまりダイゴに敗れたという噂は入学前のセンにとってはショックであったらしく、私に初対面で開口一番で聞かれたのは今では思い出となっている。
「ふぅ。これで終わりだな。今回は魔物の襲撃の案件が多いから大変だったな。それでは資料を持っていこうか」
「はい、先輩。私、夢があるんですよ」
「立派な騎士になるっていうやつか。いい夢じゃないか。私とともに戦場を駆ける日を楽しみにしている」
「それもそうなんですが、あの、その、先輩に傷をつけたオークっているじゃないですか」
私はノテレクの待つ教室へ向かう足を止めてしまう。
まさかそのことについて触れられるとは思ってなかったのだ。
「す、すみません。その話、ダメでしたよね」
「いや、いい。続けてくれ」
「……わかりました。あのオークを、私が先輩に代わって倒したら、少しは周りの人は見直してくれますかね。その時は先輩は喜んでくれますか?」
その返答にはとても困った。
センがダイゴを倒すことなんて到底不可能であるため、激励をしながらやんわりと忠告するのは簡単だ。
理由はあのダイゴという男は本当に倒すべき相手なのだろうか、と言う点だ。
気に食わないということだけで、害を加えるかもしれないという可能性だけで、決めつけていいものだろうか。
あいつは私の無二の友人であるカナエを、ノテレクの放つ魔導から身を呈して助け、今回の計画にも協力的であり学園の秩序を守ろうとしている。
本当は魔物の様なやましい精神を持っていないのではないか、と考えてしまう。
そして我々とともに一緒に過ごすこともできるのではないか、と。
思い返せばあいつは私との初めて会った時も、当初は戦いに乗り気ではなかったように感じられる。
しかしあの時の私は己の名誉のため、止むことのない称賛のため、周囲から注がれる期待があった。
その根幹には驕りがあったために、半ば強引で戦いを挑んでしまったのは認めざるを得ない。
そしてその築き上げた誇りはたった一度の敗北で傷をつけられてしまい、慰めは受けたものの元通りに戻らなかった。
あの時私はその皆から向けられた慰めの中に、ほんの少し失望が混じっているのを感じずにはいられなかった。
そこではっきりと感じたのだ。
恐怖とは失望で心が埋め尽くされてしまうということを。
それまでの実績や称賛という誇りが私を縛り付けているのを感じてはいる。
というか誇りが私自身を形成して支えているのではあるが、もしそれを失望によって失った時は私はどうなるのだろうか。
それが怖いのだ。
「……ああ、とてもいい目標だと思う。難しいことだと思うが、ぜひ頑張ってくれ」
「はい! がんばります!」
結局センにはとても無理なことであると承知の上で肯定してしまった。
センは元気の良い返事をして、私に快活な笑顔を向けてくるので、私は大して意味のない微笑みを浮かべる。
私はあのダイゴという魔物について結論を出すことができなかった。
彼は私達によって倒されるべきなのか、それとも私達とともに共存すべきなのか。