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レーシング・ドクター

作者: 奥寺沙門

「クソッ!こんな時に‼︎」

苛立ちまぎれにタイヤを蹴っ飛ばした。

「落ち着け!暮林。こんな時こそ医者のお前が冷静でなくてどうする」

車の下からペンライトでエンジン部を照らしていたおやっさんの叱咤が飛んだ。

「どうやらラジエターに穴が空いているようだな」

結論は出たようだが、この場で直せない故障の原因を知ったところで意味はない。

それでも調べずにはいられないのがメカニックというものなのかも知れないが。

しかしそれよりもどうやって帰るかが先決だ。

今は一分一秒が惜しい。

路肩に寄せたハイエース・ロングバンを風圧で揺らしながら、高速道路を快調に飛ばしていく大型トラックが恨めしい。

スマホで時間を確認する。

すでに第一報から2時間余りが経過していた。


「土砂崩れで……水樹が家の中に、どうしよう!」

義姉が携帯電話に残した伝言が緊迫した状況を物語っていた。

伝言に気がついたのクラシック・バイクのレースが終わって、革ツナギの上半身を脱いだ時だった。

すぐに義姉に折り返し、状況は掴めた。

姪は母である義姉と兄貴が残した家に二人で暮らしていたのだが、災害は姪がひとりで家にいるときに起きたようだった。

家は山の斜面を削って作られた新興住宅地の一角に建てられていたのだが、背後にはまだ整地途中の山が残っていた。

しかしこの不景気で長らく開発は途中で頓挫していたという。そのため最近、そこは土砂災害警戒区域にも指定されたらしい。

その警戒区域に気象庁も予測出来なかった1時間あたりの降雨量130ミリを超えるゲリラ豪雨が降った。それが引き金となり、土砂崩れを起こしたのである。

義姉との電話を切った後に、勤め先である桜山記念病院に連絡した。桜山は現場に一番近い総合病院だからだ。

加えて今年、病院は市が推奨するドクターカー制度に参加を決めた。

ドクターカーは市から要請を受けると消防局の救急車に医師が同乗して現場に急行するシステムである。

今日の日直医のひとりは救急医療センターにいたこともある外科の坂巻。あいつのことだ、要請があれば災害現場に出向いているはずだと思った。

案の定、坂巻は現場に出ていることがわかった。

現場にいる坂巻に連絡を取りたかった。しかし電話をすれば救助の妨げになるやも知れない。

メールをして坂巻からの連絡を待った。

電話があったのはそれから二十分後、帰路の途中だった。

運転はいつでも連絡が受け取れるようにおやっさんにしてもらっていた。

「 姪御さんなら今、救助の最中だ。彼女の親御さんもここにいる」

「水樹の、彼女の意識はあるのか?」

「意識は確かだ」

坂巻の言葉を訊いて心底、ほっとした。

「だがクラッシュ・シンドロームの恐れがあると判断し、現状で生理食塩水の投与を開始した」

確かに可能性が高いなら投与は正しい。

クラッシュ・シンドロームは筋肉が長時間圧迫されることで漏出したカリウムやミログロビンが心室細動や心停止、急性腎不全の原因にとなり致死率が高いからだ。

「他の怪我人はどれくらいいる?」

「他は軽症だ。不幸中の幸いだな」

「そうか。帰るまでよろしく頼む」

「俺はやれることは総てやる。暮林、お前にもやることがあるだろう。早く帰ってこい」

仲間の発破がこれほど嬉しく感じたことはなかった。


車が止まって三十分が過ぎた。まだレッカー車は来ない。

レッカー車が来たら、いの一番に最寄りの駅まで送ってもらうのが最良だと思った。

しかし何故か胸騒ぎが止まらない。姪には救急医療のスペシャリストである坂巻が付いているというのに。

そこに病院から連絡が来た。

「坂巻先生が……亡くなられました」

研修医の樋口の声だった。

「ど、どうしてっ!」

さっき話していた。

「早く帰ってこい」

そうだ、一時間ほど前だ。あいつはそう言った

「姪御さんの救助直後に再び、土砂崩れが……土砂から助け出した時にはもう心肺停止状で…… 先ほど死亡が確認されました」

頭が白くなりかけ時だった。坂巻が今一度、脳裏で発破をかけた。

「お前もやることがあるだろう」

それで辛うじて自我を保ち、声を絞り出した。

「水樹は、姪は⁈」

「坂巻先生が庇ったので土砂には巻き込まれずに済んだようです」

それを訊いてまた脳裏に坂巻の言葉が蘇った。

「俺はやれることは総てやる」

自分の不甲斐なさに歯軋りせずにはいられなかった。

「ですが姪御さんに意識の混濁が見受けられるみたいなんです」

「クソッ!」

ハンドルを叩いて外へ飛び出した。

追いかけて降りてきたおやっさんは様子を見て悟ったのだろう。溜息のように言葉を漏らした。

「最悪の展開ってヤツか」

「外科の坂巻が二次災害から水樹を庇って死んだ。水樹は土砂には巻き込まれずに済んだがクラッシュ・シンドロームを発症したようだ。だが坂巻がいない今、病院にいる医者は研修医のひとり。あいつじゃあクラッシュ・シンドロームの処置の総てを行うのは無理だ」

携帯を握り締めて、一息に言い放った。

「しかし今日は休日だ。桜山記念病院以外で重症患者に対応できるのは隣町にある市民病院ぐらいだろう。そこまで保つのか?」

おやっさんが問い詰めるような口調になっていた。

「わからない。否、厳しい」

問われて、自分で答えて気がついた。そうだ、このままでは水樹は危ない。

「だったらお前が行くしかないだろう」

後ろの荷台を親指で示した。

淀んだ思考に風穴が空いた気がした。そうだ!あるじゃないか‼︎兄貴のTZ350が。

TZ350のワークスモデルは1973年にアメリカ・ディトナ200マイルレースで350ccクラスながら750ccを尻目に3位までを独占する偉業を成し遂げた直列2気筒エンジンのマシンである。

その同じ年に市販されたモデルが荷台に載っているのを完全に忘れていた。

否、法的にレーサーは公道では走れない。だから考えもつかなかったのである。

サイドドアに向けて走った。

もうそんなこと言っている場合じゃあない。

ドアを開け、ハンガーに掛けていた革ツナギを引っ張り出す。

「ナンバーも付いていないレーサーでインターは使えん。手前の高速バスのバス停でバイクは乗り捨てて、一般道に出ろ」

革ツナギに足を通している最中に、リヤゲートを跳ね上げながらおやっさんは声を張り上げた。

確かにあそこならもう病院は目と鼻の先だ。

おやっさんがTZの準備をしながら指示を出す。レースの時と同じだった。

「乗り捨てたマシンは俺が何とかさせる。ともかくお前は病院へ急げ、いいな!」

下半身を入れた革ツナギを上へと引っ張り、片方づつ袖に腕を通して最後に羽織る。

「しかしそんな事をしたらおやっさん達に迷惑がかかるんじゃあ……」

ふと不安に駆られた。

「お前、水樹を心配しているのは自分だけだと思ってやしないか⁉︎」

おやっさんの声の中に苛立ちを感じた。

兄貴とおやっさんは家族ぐるみ付き合いだった。だからおやっさんも水樹を自分の孫のように可愛がっていた。

自分の気持ちだけに囚われて、みんなの気持ちを見失っていた。

坂巻の使命感。

おやっさんの仲間意識。

それらも総てを背負って走るんだ。

リタイヤは許されない。

仕度にまで力がこもる。

裾のチャックを上げてブーツを履きながら病院に電話して、樋口を呼び出した。

「現場から市民病院に向かうにも桜山の前を通る。受け容れろ」

ブーツを履き終わるとスマホを耳に当てたまま車の後ろに行く。するとおやっさんは荷台と路面の間にラダーレールをセットしてTZを降ろしているところだった。

「えっ⁉︎でも僕ひとりじゃあ対処出来ませんよ!」

樋口は悲鳴に近い声で訴えてきた。

「私もすぐに行く!お前も研修中とはいえ、免許を持つ医師だ。気概を見せろ!」

TZのリヤシートを押さて降ろすのを手伝いながら、今度は発破をかける方になっていた。

ツナギのチャックを全部閉める。スマホのストラップを口で咥えて、セパレート・ハンドルを握り締めて走る。

押しがけ一発でエンジンは目覚めた。乾いたエキゾーストノートが小気味好く連続音を奏でる。

「ともかくお前は受け入れればいい!責任は俺が取る‼︎」

バイクに跨りシングルシートに座ると、2気筒エンジンのデュエットに負けないように怒鳴った。

「どれくらいで来れるんですか⁉︎」

樋口も聞こえるように叫ぶ。

「五分だ‼︎」

気合いを入れるつもりで宣言した。

おやっさんから渡されたヘルメットを被る。

「言うようになったな。公道を平均時速200キロで走るってか」

ヘルメットにはインカムが付いてるため、普通の声で会話が出来る。

「ちょっと気張りすぎたかな」

「いいや。こいつは元はお前の兄貴のマシンだ。娘を助けるために必ずお前を水樹の元へ届けるさ」

「ああ」

「さあ、行けっ。着くまで壊すなよ」

おやっさんが革ツナギの背中を叩いた。

アクセルを開ける。タコメーターの針が滑るように上がっていく。

パワーバンドは耳で覚えている。チャンバーから弾き出される排気音を頼りにシフトアップ。シフトアップ。シフトアップ。その度にフロントがパワーで跳ねる。

暖機も程々なのに今日は格別、調子がいい。

確実にスピードが乗っていく。

先行していた車の後部が見る見る間に大きくなる。

それを車線を変更してパスする。その時にわずかにタイヤがスリップした。

エンジンの調子は良くても高速道路の路面とレーシング・スリックの相性は悪い。サスペンションも想像以上に路面の影響を受ける。

加えてスピード差が80キロ近くあるであろう車両をすり抜けて行くのはかなりスリリグだ。

一般者のドライバーがどう動くわからないためリスクも高い。

それでもスロットルを緩めるわけにはいかなかった。

ついに体感スピードが180キロを超えた時、サイレンの音が聞こえた。

とうとう来た。このレースの真打登場だ。

いつ追い越したのわからないが多分、高速機動隊の覆面パトカーだろう。

するとサイレンの音に驚いたのか前方に大型トレーラーのブレーキランプが光った。そこへ後続のトラックが追突した。

その衝撃でトレーラーは連結器から折れ曲がるジャック・ナイフ状態となり、トラックと二台で道路を塞いでしまった。

こっちはすでに200キロを超えている。ブレーキは間に合わない。

咄嗟に二台の間に隙間を見つけた。

まだ二台とも僅かづつ動いている。その隙間が無くなるのは時間の問題だった。

ままよ。そこへフルスロットルで突っ込んだ。

刹那、車体を垂直に保ったままで抜けれないと悟った。

車体を僅かに傾け、浮いたトラックのバンパーの下にラインを取って間一髪で走り抜けた。

そのまま高速コーナーに突入する。

路面が思ったよりも荒れている。

必死でヨレるフレームを抑えつける。

アウトにマシンが膨らんでいく。

道路の外壁が迫ってきた。

もう少し。

もう少しでコーナーの出口だ

だがもうコントロールの限界だった。

コンクリートの外壁に接触した。

カウル下半分が吹き飛ぶ。

その反動でTZが中央に押し戻される。

脳裏に水樹の顔が浮かんだ。

坂巻の声が脳裏に木霊する。

(帰ってこい)

ヘルメットの中で吼えた。

「ここで終われるかよ‼︎」

ロデオよろしくマシンで立ち上がり、悲鳴をあげて暴れるTZをねじ伏せる。

「兄貴! 俺に水樹を助けさせろ‼︎」

マシンのシートに思いっきり体重をぶつけて座り込む。

TZのスリックタイヤが地面を捉える感触がした。

間髪入れず、ブーツの底に残った足の力の総てで踏ん張った。

膝が路面に擦る。

抜けた。

西陽が目を刺す。

今日初めて見る陽の光だった。

高速の左側に桜山記念病院の建屋が見えた。

減速する。

目的地の高速バスの停留所には見覚えのある面々が集まっていた。

同じツーリングクラブの会員達だった。

「ここで待てって、おやっさんから連絡を受けたんです。ちょうどオレらファミレスにいたから丁度良かった。TZはここから下に降ろしますから、暮林先生は病院に行ってください」

一瞬、彼らを巻き込んでしまうのことへの躊躇いが顔に出たののか、励ますように言われた。

「水樹ちゃん、待ってますよ」

その一言で決断した。

「済まない」

それだけ言い残して、階段を駆け下りた。


「先生!水樹ちゃん、意識が戻りました」

看護師がそう叫んだのは翌日の朝だった。

病室に行くと初夏の光を浴びて、ベットで小さく微笑む水樹がいた。

「おかえり」

それが目を覚ました水樹が言った最初の言葉だった。

「それはこっちのセリフだよ」

不覚にも目頭を抑えて、鼻を啜ってしまった。

気のせいか坂巻にも笑われたような気がした。





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