第二話-12(数巳視点)
数巳視点です。
――……それは、初めてのことだった。
オフ会から帰って来た理紗は、
「ただいま」
と言ったきり、俺のことばに「うん」としか返事しない。
俺のことを見つめながら、ぼんやりとした表情でついてきて、再び「ただいま」と、つぶやいた。
その様子に戸惑いつつも「おかえり」と返事すると。
理紗は……俺に、飛びつくように抱きついてきた。
ぎゅっと、強く。
反射的に俺は抱きしめかえしたけど。
そんな俺の腕の中で、ぐっと顔をあげて、背伸びするようにして首元に顔をうずめてくる。
「り…さ?」
戸惑いが深くなり、理紗の表情を見ようと顔を動かした俺に。
今度は、唇を合わせてきた。
それは、めったにない、理紗からのキス。
触れている唇が、少し開いて、誘うように俺の唇をなめた。
「…っ」
俺もそれに応えると、絡み合っていく舌。
むさぼってくる腕の中の理紗は、一途に俺に絡ませてくる。
どんどん深くなってくるのに、俺の胸の中には疑問と不安が押し寄せてくる。
……どうした、理紗?
……なぜ?
……何かあった?
聞きたいことで胸がいっぱいになってくるのに、唇は唇によって閉ざされる。
気持ちよさはあるのに、集中できない。
理紗からの熱心なキスに、嬉しくなるどころか、その心内がよめなくて…俺は、恐れた。
今日一日で、理紗の何が変わってしまったのか。何があったのか。
互いが苦しくなるくらい舌を絡ませあった後、どちらからともなく、そっと唇を離した。
濡れた唇ととろんとした瞳が、理紗を色っぽく彩っていた。
「…どうしたの。理紗」
俺の質問に、理紗はジッと無言で見つめ返してきた。
「恥ずかしがりやの理紗が…いつもと違うね」
何も言わない理紗に焦れて、俺はちょっと突き詰めるように言う。
すると、理紗はほわっと笑った。
「ただいまのキスだよ」
「?」
「…数巳のところに、今かえってきたよって、体で伝えたかったの」
いつも奥手の理紗がそんな風に言うと、俺は混乱する。
「…どうして、今日だけ…」
「……今日ね、向日葵のタネをくれた先輩に…出会ったよ」
「え?」
「覚えてるかな…引っ越す前に話した…」
「うん」
「偶然の偶然にもほどがあるよね…まさかオフ会で再会するなんて…」
理紗の言葉に、俺は動けなくなる。
「それにね。私が大好きなキャラクターのガイルにそっくりな…カッコいい人にも出会った」
「……」
「それから、素敵なご夫婦にも、可愛い姉妹も。岬さんの、仕事場と違うエネルギッシュな面にも出会ったの」
理紗は俺の目を見つめ続ける。
俺は目を離せない。
「いつも私がはまってる物語の、他の人の違った解釈とか、考え方とか、生き方とか。作者さんの個性的な世界とか…」
理紗は言葉をいったん切った。
「もう、本当に胸がいっぱいになるくらい、刺激になる出会いがあって、楽しくって夢中だったんだよ」
「……」
――……心が、焼き切れてしまう、気がした。
「でも…」
理紗が、ぎゅっと俺の体にまわす腕に力をこめてくる。
嫉妬の嵐に心を持って行かれそうになる俺は、返事もできずに、ただ、理紗を抱きしめる。
「でもね。楽しいけど…寂しかったの」
「……」
「さびしかったんだよ、数巳」
「…り、さ…」
「数巳がね、いなくてね、どっか…どっか自分が欠けてるような気持ちがしたの」
見上げてきた理紗の瞳は少しうるんでいた。
その瞳に魅入られる。黒の濡れた瞳の中に、俺がうつっているのがわかる。
――……俺だけが、うつっている。
「想い出でや楽しいことやはしゃぐ気持ちは、終われば消えていく。それは、楽しいけれど、一時のもの…」
「……」
「数巳は違う」
俺にまわされている腕に、ギュッと力が込められた。
「数巳のぬくもりは、消えない。消せない。だって、もう…私の半分なんだもの」
「……」
言い終えた理紗は、顔を伏せ、俺の胸に顔をうずめた。
「ここが、いい」
胸にうずめたまま、くぐもった声で理紗が言った。
俺もぎゅうっと、理紗を抱きしめた。
ここがいいと、胸に帰ってきた理紗を愛しく思う気持ちが、俺の心のほとんどを占める。
――……でも、正直いうと、全部ではない。
そう自覚するから、そんな醜い自分の部分が苦しくて、理紗にまわす腕に力を込めた。
今の理紗の言葉の中に。
過去につきあったことのある思い出の人と再会したこと、理紗が「カッコいい」と言葉にできるくらいの男と出会ったこと、俺の知らない世界で充実した時間を過ごしてきたこと……。
そんな一日が聞けて、……妬けた。
妬けて妬けて、そういう言葉を聞かせる理紗が…小憎らしく感じる部分もあって。
どうして、俺のもとがいいと言うなら、放っておくんだ、とか。
どうして、俺が理紗の半分というなら、他に夢中なものを作っていくんだ、とか。
こんな思いするなら、閉じ込めてやりたい、もっと束縛してやりたい、干渉してやりたい…
とか、少なからず思う自分がいて。
……。
……浅ましいよ、俺。
……理紗を腕の中に抱きしめて、目を閉じる。
整えるように、呼吸する。
頭の中に、昼間いっしょにメシを食った田中さんの言葉が、流れていった。
『…おまえ……趣味、ねぇだろ』
『…何をしてるかわかって、相手もちゃんと話してくれても、それでも寂しいってのは、おまえが何もねぇからなんじゃない?』
『…おまえの趣味がある意味『理紗ちゃんと一緒にいること』なんじゃね?』
俺は、もういちど、深呼吸した。
腕の中に、理紗はいる。
ここがいいと、帰ってきた理紗がいる。
この理紗に……。
ここで、理紗に「もう行くな」とか「ずっと理紗と二人だけの世界を築く」と 言う選択もあるんだ。
でも、たぶん、それじゃ恋のままだ。
腕の中の理紗の髪にキスを落とす。
――……あいしてる、理紗。
恋をして、そして、一緒に生きたいと願って、夫婦になった。
だから、俺は、俺自身が……うろたえるな。
俺は、理紗のたった一人の――……
『夫』だから。
束縛したい思いを抑えて、俺は口を開く。
「おかえり、理紗」
「うん」
「俺も寂しかったよ。でも…」
「でも、どうしたの?」
理紗は顔をあげて、俺の目をのぞきこんでくる。
「理紗の楽しかったできごとを話して?俺もね、今日はけっこう…面白い人と話せて、楽しかったんだ」
「そうなんだ?」
「うん。楽しかった気持ちを、分け合おう。もちろん、つらいことがあったら、それも」
嫉妬に流されるんじゃなくて。
疑いにつなげるんじゃなくて。
俺は、見上げてくる理紗に顔を寄せる。
そっと頬に口づけを落とし、それから唇に移動する。
「んっっ」
甘くやわらかに唇をなめると、迎えるように理紗の唇が少し開いた。舌をからませてゆく。
「っっふぁっ」
あいまあいまに悩ましげな吐息を絡ませる。
俺だけの、妻。
唇を放すと、理紗が困った顔で見上げてきた。
「んっ…くちびる塞がれちゃ…話せないよ…」
濡れた赤い唇と、ちょっと潤んで困った顔でみてくる理紗が可愛くて、今度は軽くちゅっとキスをする。そして、耳元で、囁いた。
「…おかえりの、キス、だよ」
「……もうっっ」
さっき、自分だって「ただいまのキス」って言って、俺の心を揺らしたのにねぇ?
この無意識にわがままで、素直で、目の前のことに夢中になる可愛い理紗を。
俺は……愛してる。