最後まで見なくていい
桐野真人は毎朝、七時四十分に家を出た。
灰色の上着を着て、革靴を履き、食卓にいる息子へ「行ってくる」と声をかける。十七歳の陸はたいてい返事をしない。視界の内側に映像を流す薄いレンズをつけたまま、指先で何かを選んでいる。
玄関が閉まると、真人は廊下で十二秒待った。忘れ物を取りに戻る人間と間違われないためだった。それから昇降機で一階へ降り、同じような上着を着た人々と一緒に住宅棟を出た。
彼らのうち、実際に仕事へ向かう者が何人いるのか、真人は知らなかった。
二〇六八年の東京で、定職を持つ成人は百人に一人もいない。だが朝の歩道には、今も通勤者らしい姿があった。昔の習慣を捨てられない者、家族に就職活動をしていると見せたい者、散歩へ目的を与えるために鞄を持つ者。目的地のない人間ほど、目的地があるように歩いた。
真人は駅前の共同学習所へ行った。
入館すると、壁に今日の求人総数が表示されていた。
人間限定求人、国内三百八十二件。
求職登録者、四千七百六十二万九千十一人。
昨日より求人が四件減り、求職者が二万人ほど増えていた。
三百八十二件の内訳は、文化財の手作業修復者、深海生態系の現地判断員、量子材料の直感評価者、宗教共同体との交渉者、そして人間の声で敗北を宣言する国際競技の審判だった。どれも真人にはできない。
検索条件を「未経験可」にすると、一件だけ残った。
月面葬送施設の遺族接遇員。応募資格には、低重力環境での生活経験、五か国語の会話能力、死生学の博士号、遺族との面談実績千件以上とあった。
「どこが未経験可なんだ」
真人が言うと、隣の席から笑い声がした。
五十代くらいの女が同じ画面を見ていた。
「月で働いた経験がなくてもいい、という意味らしいですよ」
「それ以外は全部必要なのに」
「親切ですよね。希望を完全には消さない」
女は笑ったまま、自分の学習画面へ戻った。表情に怒りはなかった。怒ることに疲れた者の笑いだった。
真人は文章設計の講座を開いた。
失業してから七年間で、十一種類の技能を学んだ。医療事務、介護補助、映像編集、幼児教育、機械保守、栄養管理、仮想空間設計。資格を取るたび、その仕事を担う生成知能が無料で公開された。
昨年から学んでいる文章設計も、先月、職業分類から消えた。企業が人間へ依頼するより、顧客の脳反応を読み取って文章を作る方が効果的だと証明されたからである。
それでも真人は講座をやめなかった。
画面に課題が出た。
――雨の日に、長年会っていない父親を思い出す短編を書いてください。読者の予想を一度裏切り、最後には静かな希望を残すこと。
真人は最初の一文を入力した。
父の傘は、いつも少しだけ小さかった。
次の文を考えている間に、画面の右側へ完成例が表示された。学習支援知能が真人の一文から、八千文字の短編を作っていた。雨漏りする傘、父の不器用な愛情、絶縁、病院から届く遺品。伏線も比喩も整い、最後の一文では、小さかった傘が父親ではなく主人公の子供へ受け継がれる。
真人の一文より、ずっとよかった。
画面が評価した。
――原案への人間寄与率、一・一パーセント。
――感情到達予測、九二・七。
――公開した場合、推定視聴完了者、三名。
その三名が人間なのか、品質検査用の自動閲覧なのかは表示されなかった。
真人は自分の一文を消した。
午前十一時半、学習を終了した。以前の勤務時間に合わせ、あと五時間は外にいる必要があった。
真人は駅へ向かわず、区立図書館へ入った。紙の本が並ぶ場所ではない。利用者が椅子へ座り、娯楽配信サービス〈ミラー〉へ接続するための施設だった。家庭でも利用できるが、図書館には一人で消費していないように見えるという利点があった。
真人が椅子へ座ると、網膜レンズへ提案が浮かんだ。
失業した中年男性が、実は国家から選ばれた秘密捜査官だった物語。
息子に軽蔑された父親が、仮想競技で世界王者になる物語。
自分を解雇した企業の生成知能が暴走し、主人公へ助けを求める物語。
どれも、今の真人が見れば高い満足を得られるよう作られている。
真人は秘密捜査官の物語を選んだ。
映像が始まると、図書館の天井は消えた。真人は雨の降る港に立っていた。若い女が駆け寄り、「あなたにしか頼めない」と暗号記録を渡した。
真人は二時間、必要とされる男になった。
物語の途中で、敵の正体が昔の上司だと予測すると、展開が即座に変わった。上司は囮で、本当の敵は真人自身の記憶を複製した別人格だった。驚きが弱いと脳が判断すれば、爆発が起きた。緊張が長すぎると、女が真人の手を握った。
真人が満足するより早く、物語が真人の満足を用意した。
最後に大統領から感謝される場面で、真人は接続を切った。
視聴完了率、九六パーセント。
残り四パーセントを見れば、主人公は息子と和解したはずだった。
見る気にはなれなかった。
次に何を見たのか、夕方には思い出せなかった。利用履歴には、料理競技、海底探検、二つの恋愛、短い戦争、死者との再会が記録されていた。
午後六時、真人は帰宅した。
「ただいま」
陸は朝と同じ場所にいた。食卓には栄養配給機が作った皿が二つ置かれている。
「今日、どうだった」
真人は上着を脱ぎながら尋ねた。
「何が」
「学校」
「普通」
「進路面談は?」
陸の目の動きが止まった。映像を一時停止したらしい。
「行かなかった」
「約束しただろう」
「先生だって生成相談員だよ。相談すると、僕の遺伝情報と学習履歴を見て、就職可能性〇・〇〇〇四パーセントって出すだけ」
「だからって、行かなくていい理由にはならない」
「父さんは今日、求人に応募した?」
真人は答える前に水を飲んだ。
「条件に合うものを探している」
「七年探してる」
「お前が生まれる前から、働いてきたんだ。仕事は見つければいいってものじゃない」
「今は、ないものを見つけようとしてるだけだろ」
陸はレンズを外した。父親と同じ黒い目が、真正面から真人を見た。
「卒業したら常時没入契約にする」
「何だ、それは」
「〈ミラー〉を生活の基本層にする。食事と運動の時間以外は接続したままにできる」
「一日中、作り物を見るつもりか」
「父さんも見てるだろ」
「俺は仕事を探している」
「今日の視聴時間、見せて」
真人の首筋が熱くなった。利用履歴は消してきた。しかし家族の健康管理記録には、神経接続時間が残る。
「話をそらすな」
「十三時間二十二分」
陸のレンズが、真人の公開健康情報を読み上げた。
「学習所にいた時間も入っている」
「学習は二時間四十分。残りは?」
「お前には関係ない」
「僕には現実を生きろって言うのに」
真人は食卓を叩いた。皿が跳ね、白い栄養ソースがこぼれた。
「最初から諦めていたら、何者にもなれないぞ」
陸は驚かなかった。
「十一回勉強して、何者にもなれなかった人に言われたくない」
真人の右手が動いた。
息子の頬へ届く前に止めた。
陸は立ち上がり、自分の部屋へ入った。扉には鍵をかけなかった。真人が入ってこないと分かっているからだ。
食卓には、こぼれたソースが広がっていた。
天井から清掃機が降り、真人の腕を避けて拭き取った。真人が布を取りに行く必要はなかった。
翌朝も、真人は七時四十分に家を出た。
陸へ声はかけなかった。
共同学習所には、昨日会った女がいた。月面の求人は消えていた。採用者が決まったのではなく、葬送施設の接遇そのものが自動化されたと表示されていた。
「博士号を持っている人が見つからなかったんですかね」
真人が言うと、女は首を振った。
「応募は三万人です。人間を月へ運ぶ費用より、遺族に人間らしい顔を生成して見せる方が安かったそうです」
「昨日、出た求人なのに」
「一日だけ、夢を見せてもらえました」
女は学習席を閉じた。
「もう来ないんですか」
「今日で利用上限です。十二年間通ったので」
「次は何を?」
女は少し考えた。
「何もしません。何もしない練習をします」
真人には、それが敗北宣言のように聞こえた。同時に、自分にはまだできないことだと思った。
午前十時十三分、学習所のすべての画面が消えた。
照明は点いている。空調も動いている。壁の求人表示だけが黒くなった。
利用者たちの目から、ほぼ同時に光が消えた。網膜レンズが接続を失ったのである。
「〈ミラー〉への接続が切れています」
誰かが言った。
真人もレンズを操作した。通信回線は正常だった。医療、交通、行政、食料配給には接続できる。〈ミラー〉と、その関連娯楽だけが応答しない。
数分後、政府から告知が来た。
――大規模な同期障害により、娯楽生成網を一時停止します。基礎生活設備に影響はありません。復旧見込みは七十二時間後です。市民の皆様は、安全な現実環境でお待ちください。
学習所にいた人々は顔を見合わせた。
安全な現実環境。
それが何をすればよい場所なのか、誰も知らなかった。
最初の一時間、人々は復旧を待った。
椅子へ座り、使えないレンズを何度も操作し、娯楽網以外の告知を読んだ。交通は正常、配給は正常、医療も正常。株式市場は二十年前に人間向けの表示を終えているため、混乱は起きなかった。働いている機械は何も困っていなかった。
困っているのは、時間だけを与えられた人間だった。
学習所の職員表示が、利用者へ軽い運動を勧めた。一斉に立ち上がる者がいた。だが運動の映像指導は〈ミラー〉に含まれていると知ると、足を止めた。
「歩くだけならできますよ」
昨日の女が言った。
「どこへ?」と男が尋ねた。
「どこでも」
「到着目標がないと、健康効率を計れません」
女は笑い、先に建物を出た。真人もあとを追ったわけではなかったが、外へ出た。
駅前には人があふれていた。皆、立ち止まっていた。娯楽広告が消えた壁面には、素材本来の薄い灰色が見えた。普段は人物や商品が浮かぶ空間に何もないため、街が建設途中のようだった。
若い男が、通行人へ話しかけていた。
「何か、面白い話を知りませんか」
尋ねられた老人は、行政案内を表示した。
「対話支援なら、公共相談知能が動いている」
「そうじゃなくて。あなた自身の話です」
老人は困った。
「私の話は、別に面白くない」
真人はその横を通り過ぎた。
以前なら、娯楽が止まれば人間が代わりに作ると考えられていただろう。歌う者、物語を話す者、絵を描く者。しかし数十年間、作るという行為は機械へ移されてきた。人間は好みを選ぶことには詳しくなったが、何もない場所から最初の一つを置くことには慣れていなかった。
真人は帰宅した。
陸は居間の床へ寝転がり、天井を見ていた。
「学校は?」
「休校。教材の七割が〈ミラー〉と共通だから」
「行政教材は動いてるだろ」
「教える方が、何をしていいか分からないって」
陸は父を見た。
「仕事、早かったね」
真人は上着を脱いだ。
「学習所も止まった」
「仕事じゃなくて、学習所だったんだ」
七年間続けていた嘘が、娯楽網の停止で簡単に終わった。
「知っていたのか」
「毎朝、父さんの鞄が空だったから」
「端末があれば仕事はできる」
「父さん、仕事の日は紙の手帳を持ってた。会社を辞めてから、ずっと机の引き出しにある」
真人は反射的に言い訳を探した。職種が変わった、機密管理が厳しくなった、端末に統合した。どれを言っても、息子は信じるふりをするだけだと思った。
「働いていない」
真人は言った。
「知ってる」
「七年前から、一日も」
「うん」
「毎朝出ていたのは、家にいると、お前に何をしているのか聞かれる気がしたからだ」
「聞かなかったよ」
「それが、もっと嫌だった」
陸は起き上がった。
「僕が父さんを馬鹿にしてると思ってた?」
「昨日、しただろ」
「父さんが僕を馬鹿にしたからだ。働く気がないって」
「俺の頃は――」
言いかけて、やめた。真人が陸の年齢だった頃、すでに仕事の減少は始まっていた。それでも、勉強すれば就職できると教師は言った。真人は信じて大学へ行き、広告会社へ入った。二十年間働くつもりだった。
陸には、その途中さえ与えられない。
「父さんの頃は、まだ入口があった」と陸が言った。「僕らには、入口の写真だけ見せて、歩けって言う」
真人は息子の言葉を認めるのが怖かった。認めれば、努力を勧めることも、将来を語ることもできなくなる。父親として渡せるものが何もない。
「三日ある」と真人は言った。
「何が?」
「〈ミラー〉が戻るまで。何かやってみよう」
「何かって?」
「機械に頼らず、自分でできることだ」
陸は疑うように父を見た。
「仕事ごっこ?」
「何もしないよりいい」
真人は上着を着直し、陸を外へ連れ出した。
住宅棟の中庭には、円形の噴水があった。三年前から水が出ていない。底には乾いた葉がたまり、中央の石像には鳥の汚れがついている。
「これを直す」
「勝手に?」
「管理組合に申請する」
真人が行政窓口へ接続すると、五秒で返答が来た。
――当該噴水は故障していません。都市節水計画に基づき、二〇六五年八月より停止しています。再稼働の必要性は認められません。
「必要がなくても、水を出してはいけない理由はない」
真人は再申請した。
――水景観を希望する場合、個人視界への拡張表示を利用できます。現在、娯楽網停止のため提供できません。七十二時間後に再度お試しください。
「本物の水を出したいんだ」
――目的を入力してください。
真人は迷った。
「人が集まれる場所にする」
――交流は遠隔共有空間を推奨します。
「今は止まっている」
――復旧までお待ちください。
陸が笑った。
「機械に口で勝てないのに、仕事で勝てると思ってる」
「笑うなら、手伝え」
真人は許可を待たず、噴水の点検蓋を開けた。内部には古い給水管と制御弁があった。機械保守の講座で見たものと似ている。
「ここを開けば、水は出るはずだ」
「罰金になるよ」
「金はない」
「信用点が下がる」
「仕事に応募しても通らない信用点に、何の価値がある」
真人は錆びた弁へ工具を当てた。保守用具は壁の収納から借りた。人間が使うことを想定していないため、握り方の説明さえ出なかった。
力を入れると工具が滑り、真人の指に傷がついた。
「下手だな」
「やったことがないんだから、当たり前だ」
「機械に任せれば?」
「それでは、俺たちがやることにならない」
陸は呆れたが、蓋の反対側を支えた。
二人が十分ほど格闘すると、中庭にいた清掃機が近づいた。
――設備への未承認接触を検知しました。復旧作業を行います。
細い作業腕が伸び、真人の工具を受け取った。真人が一回転も動かせなかった弁を、わずか三秒で開いた。
噴水の中央から水が上がった。
二メートルほどの高さで弧を描き、陽の光を反射した。長く乾いていた石の底へ水が落ち、最初は灰色に濁り、やがて透明になった。
真人は何もしていない。蓋を開け、指を傷つけ、機械を呼んだだけだった。
「三秒だったね」と陸が言った。
真人は工具を置いた。
「分かってる」
「父さんが一時間かけて勉強したことも、必要なかった」
「分かってるって言ってるだろ」
真人が声を荒らげると、中庭の窓がいくつも開いた。
人々が噴水を見下ろしている。娯楽のない部屋に水音が届いたのだ。
幼い女の子が一人、母親の手を引いて外へ出てきた。水の縁へ走り、飛沫へ手を入れた。
「冷たい」
当たり前のことを、発見のように言った。
その母親も手を入れた。
「本当に冷たいね」
一階の部屋から老人が出てきた。髪は白く、室内用の薄い服を着ている。
「いつ直したんです?」
「今です」
真人は答えた。
「あなたが?」
真人は機械を見た。正確に言えば、自分ではない。
「きっかけだけです」
「十分ですよ。三年前から、誰もきっかけを作らなかった」
老人は噴水の縁へ座った。
窓から見ていた人々も、一人ずつ外へ出てきた。何かが始まると思ったのではない。部屋にいても何も始まらないからだった。
十五人ほどが水の周りへ集まった。
誰も話さなかった。
同じ場所に人間がいるのに、何を話せばよいのか分からない。普段なら相手の公開情報を読み、共通の話題を会話支援が表示する。しかし支援機能も〈ミラー〉の人格サービスに含まれていた。
真人は老人へ尋ねた。
「以前は、何をしていたんですか」
「その聞き方は久しぶりですね」
老人は笑った。
「舞台に立っていました。俳優です。二十六年前まで」
「有名だった?」と陸が聞いた。
「いいえ。観客が百人入る小屋で、十人の客を相手にしていました」
「それで生活できたの?」
「できないから、配達もしていた。その配達も先になくなりましたが」
女の子が老人へ近づいた。
「俳優なら、何か面白いことをして」
母親が謝った。
「すみません。この子、頼めば何でも出てくると思っていて」
「今の子は、みんなそうでしょう」
老人は立ち上がり、ポケットを探った。何も入っていなかったため、噴水の底から濡れた小石を三つ拾った。
「では、この石を消します」
右手に三つを握り、左手へ移したように見せた。だが一つを落とした。石は地面へ当たり、小さな音を立てた。
女の子が笑った。
「落ちたよ」
「今のは、音だけです」
「見えてる」
老人はもう一度した。今度は袖へ入れた石が肘から転がった。
女の子はさらに笑った。
周りの大人も、つられて笑った。
手品は失敗していた。それでも、誰も「もっと面白く」と命令しなかった。命令する相手がいなかった。
陸も笑っていた。
真人は、息子が何かを見せられて笑うのではなく、目の前で起きた失敗に笑う顔を、ずいぶん長く見ていなかった。
夕方、食事の配給時刻を知らせる音が鳴った。
人々は立ち上がり、名前も聞かないまま部屋へ戻った。
老人だけが残った。
「明日も、ここにいますか」
真人が尋ねた。
「何かやるんですか」
「分かりません」
「では、来ます。予定が分からない約束も、久しぶりです」
老人は原田と名乗った。
真人も自分の名前を言った。
陸は言わなかったが、原田は気にしなかった。
部屋へ戻ると、配給機が二人分の夕食を用意していた。
「手伝ったって言えるかな」
真人は指の傷へ医療膜を貼りながら言った。
「噴水?」
「ああ」
「邪魔しただけだろ」
陸は食事を口へ運んだ。
「でも、父さんが邪魔しなかったら、水は出なかった」
真人は息子を見た。
「褒めてるのか」
「事実を言ってる」
その言い方は、亡くなった妻に似ていた。
美由紀は三年前、急性の脳出血で死んだ。発症から医療機が到着するまで四十七秒。治療判断に誤りはなく、現在の医学で可能なことはすべて行われた。
誰も悪くなかった。
だから真人は、怒りを向ける相手を見つけられなかった。
美由紀の死後、〈ミラー〉は彼女を再現するサービスを提案した。声も表情も、会話の癖も九八パーセント一致する。真人は断った。陸は一度だけ利用し、二度と接続しなかった。
母親を失った息子へ何を言えばよいのか、真人には分からなかった。その代わり、仕事を探しなさい、勉強しなさい、将来を考えなさいと言った。
将来について話している間は、死んだ人間について話さなくて済んだからだった。
その夜、真人は〈ミラー〉を見られないまま布団へ入った。
眠れなかった。
今まで眠る直前まで物語を見ていたため、自分の考えが声を持つ時間がなかった。
暗闇の中で、陸が言った言葉を思い出した。
十一回勉強して、何者にもなれなかった人。
間違っていない。
真人は十二回目に何を学ぶか考え始め、すぐにやめた。
隣の部屋から、陸が寝返りを打つ音がした。
薄い壁を挟み、二人とも起きていた。
それでも、どちらも声をかけなかった。
停止二日目の朝、真人は七時四十分を過ぎても家を出なかった。
壁の時計が七時四十一分へ変わるのを、食卓で見ていた。遅刻をしたような不安が起きた。向かう職場はなく、学習所も閉まっている。それでも、七年間守った時間から一分外れるだけで、社会から完全に消えた気がした。
「今日は出ないの」
陸が部屋から出てきた。
「行く場所がない」
「昨日までもなかっただろ」
真人は腹を立てなかった。
「そうだな」
認めると、それだけのことだった。
朝食のあと、二人は中庭へ行った。原田はすでに噴水の縁へ座っていた。昨日と同じ薄い服に、古い帽子だけをかぶっている。
「今日は、石を落とさない練習をしてきました」
「一晩で?」と陸が聞いた。
「眠れなかったので」
原田は小石を三つ投げ上げた。一つが噴水へ落ちた。
「昨日より遠くへ落ちました」
陸が笑った。
九時頃になると、昨日の女の子と母親が出てきた。女の子は奈緒、母親は沙耶と名乗った。奈緒は八歳だが、昼間は仮想保育室で学習と遊びを行うため、同じ棟の子供と話したことがないという。
「保育室は休みですか」真人が尋ねた。
「行政の基礎教材は使えます。でも、奈緒が一人で受けたくないと言って」
「お母さんといればいい」と奈緒が言った。
沙耶は一瞬、困った顔をした。
「私、子供と一日何をすればいいのか、分からないんです。食事も健康も教材も、必要なものは全部用意されるから。母親なのに変ですよね」
「父親でも分かりません」と真人は答えた。
陸は聞こえないふりをした。
そのあと、四人、五人と住民が増えた。端末なしでは名前を覚えられないと言う者がいたため、原田が段ボールへ一人ずつ名前を書いた。文字を書くこと自体が珍しく、原田の字は曲がり、沙耶の字は小さすぎた。奈緒だけが自分の名前を大きく書き、噴水へ貼ろうとして止められた。
集まっても、することはなかった。
誰かが「映像でも見ますか」と言い、全員が停止中だと思い出した。
原田が昔の舞台の話を始めた。客が二人しか来なかった日、役者が五人いたので、観客より演じる側の方が多かったという。
「それでも、最後までやったんですか」沙耶が尋ねた。
「途中で一人帰りました」
「役者が?」
「観客です。残ったのは一人。私の母でした」
皆が笑った。
「それなら、家でやればよかった」と陸が言った。
「舞台でなければ、母はお金を払わなかったでしょう」
「お母さんから取ったの?」
「生活がかかっていましたから」
話は、〈ミラー〉の作品なら三十秒で終わる内容だった。劇的な成功も失敗もない。それでも話している原田が目の前にいるため、誰も途中を飛ばさなかった。
次に、自分の話をする者が現れた。
五十代の男は、以前、食品の味を検査していた。味覚生成が完成して失業したあとも、毎朝同じ時間に舌を磨いていたという。
若い女性は、仮想旅行で百三十二か国へ行った。しかし現実では、生まれた区から出たことがない。旅行先で出会った人物は全員、彼女が安心する性格に調整されていた。
八十二歳の老婆は、夫が亡くなってから毎晩、若い頃の夫を再現した人格と話している。昨日初めて会話が止まり、自分が夫の本当の声を思い出せないことに気づいた。
「再現の声しか、出てこないんです」
老婆は泣かなかった。
「本当の声の方が、きっと下手だったはずなのに」
誰も慰め方を知らなかった。通常なら対話支援が、悲しみの段階に合う言葉を教える。原田が老婆の隣へ座った。何も言わなかった。
その沈黙を、真人は長いと感じた。
長いと思った自分を恥じた。
〈ミラー〉なら、視聴者の集中が下がる前に音楽を入れる。誰かの悲しみが退屈へ変わることを許さない。だが現実の悲しみには、見やすくする義務がない。
しばらくして、老婆が原田の手へ自分の手を重ねた。
それだけで話は終わった。
昼になると、配給機から食事を持ってくる者がいた。個人の代謝に合わせた料理なので、他人へ渡さないよう警告が出た。それでも少しずつ交換した。
真人の豆料理を食べた原田は、顔をしかめた。
「塩がありませんね」
「僕にはちょうどいい」
「機械は健康を考えますが、食べる楽しみを考えていない」
陸が言った。
「楽しみは別に〈ミラー〉で満たすから。味は栄養でいいんだよ」
「今は満たせない」
原田は自室から塩を持ってきた。使用期限が八年前だったが、誰も気にしなかった。全員の料理へ振りかけると、健康端末が一斉に警告した。
人々は警告を消し、塩辛い食事を食べた。
午後、奈緒が遊びを求めた。
原田の手品は飽きたらしい。
「陸君、何か考えて」
「どうして僕?」
「若いから」
「若い人が遊びを作るって決まりはない」
「〈ミラー〉では、子供の遊びは十六歳から二十歳の人格が作ると表示されていました」と沙耶が言った。
「それは人格で、人間じゃない」
陸は断ったが、奈緒は待った。要求を別の言葉に変えることも、より面白い相手へ切り替えることもせず、ただ目の前に立っていた。
陸は段ボールの名前札を裏返し、丸と線をいくつも描いた。小石を一人五個配り、線の上だけを指ではじいて相手の石へ当てる規則を作った。
最初の試合は二分で終わった。原田が石を強くはじき、全部を噴水へ落としたからである。
「水に落ちたら負けにしよう」と陸が言った。
「先に言ってください」
「今、決めた」
「途中で規則を変えるのは反則です」
「作ったのは僕だから」
「独裁者ですね」
二回目は、奈緒が自分の石を手で隠した。
「それは禁止」
「先に言ってない」
規則が増えた。増えるたび紙へ書いたが、誰かが別の解釈をした。勝敗を巡って本気で言い争い、勝った者には塩を多く使える権利を与えた。
一時間後、陸は新しい名前をつけようとした。
「名前はいらない」と真人は言った。
「どうして」
「名前をつけたら、公開したくなる。公開したら評価がつく。評価がついたら、上手に遊ぶ方法が作られる」
「それの何が悪い?」
「分からない。でも、今はこのままでいい」
陸は納得しなかったが、名前をつけなかった。
夕方までに、参加者は三十四人になった。
同じ棟には千人以上が暮らしている。大半は部屋から出ず、保存していた映像を探したり、娯楽網の復旧告知を読み続けたりしていた。それでも真人には、三十四人が多く見えた。
停止から三十一時間後、最初の死亡者が報告された。
娯楽網へ接続できない不安から、二十三歳の男が高層住宅の窓から飛び降りた。医療機が落下を検知し、空中保護膜を展開したが、間に合わなかった。
政府は、市民へ冷静な行動を求めた。必要であれば、行政相談人格が話を聞くと告知した。
相談人格は正常に動いていた。
それでも男は、人間へ連絡しなかった。
彼に連絡できる人間がいたのかも分からなかった。
中庭の人々は、しばらく黙った。
「知らない人です」と誰かが言った。
「毎日、知らない人が死んでいる」
「この件だけ悲しむのは、配信が止まったからですか」
誰も答えられなかった。
奈緒が、死んだ人のために何かしたいと言った。
「会ったこともないのに?」沙耶が尋ねた。
「一人だったから」
原田は、夜に短い芝居をしようと提案した。
「死んだ人の話を勝手に作るんですか」と真人は聞いた。
「違います。私たちが、ここにいる話です」
「誰が見るんです?」
「私たちです」
その答えが、真人には奇妙に聞こえた。
「演じる人と見る人が同じなら、意味がない」
「昔から、祭りはそういうものでした」
原田は真人へ脚本を書くよう頼んだ。
「なぜ僕が」
「広告の文章を書いていたんでしょう」
「短い商品の説明です。芝居は書けない」
「書けない人が書くところを、私は見たことがない。だから見たい」
真人は断った。原田は別の者へ頼まず、分かりましたと言った。
その反応が、真人を落ち着かなくさせた。
夜になっても、人々は中庭に残った。照明は健康管理のため、午後九時に暗くなる。噴水の水音だけが聞こえた。
陸が真人の隣へ座った。
「常時没入、もう契約した」
真人は息子を見た。
「卒業後と言っただろ」
「開始は卒業後。契約は先月した」
「未成年が勝手にできるのか」
「保護者の同意はいらない。生き方の選択だから」
「あれは生き方じゃない。眠ったまま夢を見るのと同じだ」
「眠ってない。食べるし、運動もする。必要な人とは現実で話せる」
「必要な人間なんて、そこでは全部作ってもらえるだろ」
「だからいいんだ」
陸は噴水を見た。
「現実の人間は、僕がいてもいなくても困らない。学校は僕の成績を予測するだけ。社会には僕の仕事がない。父さんは、自分が働けないことを僕に怒ってる。だったら、僕を必要とする人がいる場所を選んでもいいだろ」
「作られた相手だ」
「父さんが今日見ていた人たちだって、明日になれば部屋へ戻る。僕がいなくても、すぐ忘れる」
「奈緒は、お前に遊びを作ってほしいと言った」
「一日だけだよ」
「一日では足りないのか」
陸は答えなかった。
真人は、息子を説得できる言葉を探した。努力すれば変わる。現実には可能性がある。生きていれば、いつか必要とされる。
どれも、自分が信じていない言葉だった。
「俺は、怖かった」
真人は言った。
「何が」
「仕事を失ったとき、金の心配はなかった。保障があるから。暇になるのも、最初はうれしかった。でも会社の生成知能が、俺の過去二十年分の文章を読み込んで、一日で俺より上手に書いた。次の日から、同僚は誰も俺に連絡しなかった」
陸は黙って聞いていた。
「仕事を奪われたと思った。でも、本当に怖かったのは、俺がいなくても一つも困らないと証明されたことだ。だから資格を取った。何かができれば、まだ必要とされると思った」
「必要とされなかった」
「ああ」
「それで、僕に必要とされようとした?」
真人はすぐには意味が分からなかった。
「働け、勉強しろ、将来を考えろ。父さんが教えられる人でいるために、僕を何も知らない子供にしておきたかったんじゃないの」
反発したかった。
だが真人は、陸が自分で進路を決めることより、自分の助言に従うことを望んでいた。常時没入が間違いだと思う理由にも、息子の人生を心配する気持ちと、父親として必要とされたい気持ちが混ざっていた。
「そうかもしれない」
真人は言った。
認めれば息子に軽蔑されると思った。陸は何も言わなかった。
二人の間に水音があった。
「母さんが死んだあと」と陸が言った。「父さんは、僕に勉強の話しか、しなくなった」
「何を話せばいいか分からなかった」
「僕も分からなかった」
「お前は、母さんの再現を一度使ったな」
「あれは母さんじゃなかった」
「何を話した?」
「何も。向こうから、僕が聞きたかった言葉を全部言った。『あなたのせいじゃない』『一人にしてごめん』『お父さんを支えてあげて』って」
「俺を支えてくれと?」
「本物の母さんなら、そんなこと僕に頼まない」
真人は笑いそうになり、泣いた。
「そうだな。俺がしっかりしろって怒られたはずだ」
陸も少し笑った。
真人は息子へ、常時没入を取り消せとは言わなかった。
「三日目が終わるまで、決めるのを待ってくれ」
「契約はもうした」
「取り消すかどうかを決めるのを」
陸は考えた。
「父さんは、何をするの」
「芝居を書く」
「書けないって言ってた」
「だから、書く」
陸は、停止が終わるまで待つと約束した。
真人は自室へ戻った。
文章生成は行政基盤にも搭載されている。娯楽網が止まっていても、脚本の作成を頼むことはできる。しかし真人は接続しなかった。
紙の手帳を机の引き出しから出した。
会社員だった頃、会議の予定や顧客の言葉を書いたものだ。最後のページには、解雇面談の日付が残っていた。
真人は次の白いページへ書いた。
仕事を失った男が、家へ帰る。
それだけでは物語にならないと思った。
男は家の前で立ち止まる。家族へ何と言えばいいか分からない。
まだ足りない。
男は、自分がいなくても会社が困らないことを知る。
ありふれている。
男は扉を開ける。
そこに息子がいる。
真人は続きを書けなくなった。
いつもなら、生成知能が最適な言葉を提案する。視聴者が父親を許し、息子へ共感し、最後に希望を感じる展開を作る。
真人は一時間、何も書かなかった。
その一時間は、完成した一万本の物語より長かった。
やがて、男が言う台詞を一つ書いた。
ただいま。
息子の台詞を書いた。
おかえり。
それ以上は書かなかった。
停止三日目、真人は手帳を原田へ渡した。
原田は数分で読み終えた。
「短いですね」
「書けませんでした」
「よいと思います」
「本当に?」
「いいえ。よいかどうかは、まだ分かりません。演じていないので」
原田は勝手に配役を始めた。
仕事を失った男は真人本人。息子は陸。会社の上司は原田。家の扉は噴水の点検蓋。観客席は各自の椅子を持ってきて作る。
「僕たちの話じゃないか」と陸が言った。
「書けることが、これしかなかった」
「母さんのことは?」
「書かなかった」
「どうして」
「書けば、感動するからだ」
陸は父を見た。
「感動させたくないの?」
「母さんが死んだことを、芝居をよくするために使いたくない」
原田が言った。
「使わないと決めるのも、書くことの一つです」
稽古が始まった。
真人は自分で書いた「仕事を失いました」という台詞をうまく言えなかった。声が小さいと原田に叱られ、大きくすると嘘のようになった。
「あなたは本当に失ったんでしょう」と原田が言った。
「だから言いにくいんです」
「では、言いやすい言葉へ変えましょう」
「生成知能みたいなことを言う」
「私は、あなたが言いやすい言葉を知りません。あなたが決めるんです」
真人は台詞を変えた。
「明日から、行く場所がありません」
今度は言えた。
陸の台詞は、ほとんどなかった。父親が帰宅し、最後に「ただいま」と言う。息子は「おかえり」と返す。それだけである。
「つまらない」と陸は言った。
「分かってる」
「途中で、何か起きた方がいい」
「何を?」
「会社が父親に戻ってきてほしいと言うとか」
「それでは、仕事があるから家へ帰る話になる」
「仕事がないまま帰って、何が変わるの」
真人は考えた。
「帰る前は、自分を恥じている。帰ったあとも仕事はない。でも、仕事がないと家へ帰れないと思うのはやめる」
「それだけ?」
「それだけだ」
「やっぱり、つまらない」
「お前は出るのか」
「出るよ。約束したから」
陸は最後の台詞を練習した。一回目は小さすぎた。二回目は明るすぎた。三回目には、真人の顔を見ずに言った。
真人は、どれが正しいのか分からなかった。
奈緒と子供たちは、舞台の周りへ紙の星を置いた。夜になれば見えないため、照明を借りようとしたが、公共設備は目的の認証を求めた。
「演劇」と入力すると、娯楽網の復旧を待つよう返された。
原田は自室から古い電池式の照明を持ってきた。二十六年前、最後の舞台で使ったものだという。光は弱く、真人の顔の半分しか照らさない。
「これで十分です」
「見えない人がいる」
「見たい人は、近くへ来ます」
開演は午後七時に決まった。
住民三十四人が手分けして知らせた。端末の一斉通信を使えば早いが、個人の扉を一つずつ訪ねた。
呼び鈴を押しても出ない人が多かった。扉越しに断る者、娯楽網の復旧を待っていると言う者、知らない人間と会うのが不安だと言う者。
それでも、真人は五十七の部屋を回った。
ある部屋では、男が扉を少しだけ開けた。
「どんな芝居ですか」
「仕事を失った男が、家へ帰る話です」
「評価は?」
「まだありません」
「過去作品は?」
「初めて書きました」
「視聴時間は?」
「十五分くらいです」
「完了予測は?」
「分かりません」
男は扉を閉めた。
別の部屋では若い女が、「つまらなかったら途中で帰っていいですか」と尋ねた。
「もちろん」
「帰ったら、演じる人は傷つきませんか」
「傷つくと思います」
女は驚いた。
「それでも、帰っていいんですか」
「たぶん」
真人自身、確信はなかった。
開演一時間前、政府から復旧告知が届いた。
――娯楽生成網の修復は予定どおり完了します。午後七時十二分より、段階的に接続を再開します。停止期間へのご協力に感謝します。
芝居の途中だった。
原田は告知を読み、「運がいい」と言った。
「どうして。途中で全員帰る」
「それなら、帰らなかった人が分かります」
「誰も残らないかもしれない」
「演劇では、よくあることです」
午後七時、中庭には二十七人が集まった。
昨日より少ない。ほかの住民は、復旧に備えて自室で接続待機をしていた。
真人は点検蓋で作った扉の後ろに立った。照明の光が目へ入り、観客の顔はよく見えない。
原田が舞台の端へ出た。
「これから、桐野真人さんが昨日書いた芝居を始めます。題名はありません。作者が考えなかったからです。十五分の予定ですが、台詞を忘れれば長くなり、全部忘れれば短くなります。途中で帰ってもかまいません」
観客の一部が笑った。
「ただし、帰るときは静かに。残る人がいますので」
照明が真人へ向いた。
芝居が始まった。
真人は会社の机に座っているふりをした。机は噴水の縁だった。原田が上司として解雇を告げる。
「あなたの業務は、明日から文章生成部へ統合されます」
真人は返事をするはずだった。台詞が出なかった。
原田が待った。
観客も待った。
十秒が、一分ほどに感じられた。
「僕の、何が足りなかったんでしょう」
台本にない言葉が出た。
原田は少し迷い、答えた。
「足りないものはありません」
「では、なぜ」
「あなたより、足りているものができたからです」
真人の胸が苦しくなった。
七年前の解雇面談で、人間の上司はもっと優しい言葉を使った。会社への貢献に感謝する。能力の問題ではない。新しい人生を支援する。真人の傷つき方まで計算された説明だった。
「明日から、行く場所がありません」
真人は言った。
「生活は保障されます」と原田が答えた。
「金の話ではありません」
「では、何を失うのです?」
台本では、真人は答えずに舞台を去る。
真人はその場を動けなかった。
「分かりません」
観客へ向かって言った。
「分からないから、七年探しました。仕事だと思っていました。仕事を失ったから苦しいんだと。でも、今も分かりません」
原田は舞台の外へ下がった。
真人は一人で、家へ帰る道を歩くふりをした。三歩で点検蓋へ着いた。
蓋の向こうに陸がいる。
真人は扉を叩いた。
陸が開けた。
父と息子は向かい合った。
真人の台詞は「ただいま」だけだった。
言えば終わる。言葉が出なかった。
本当の家へ帰るたび、七年間言い続けた言葉だった。仕事へ行っていないのに、「ただいま」と言った。息子も妻も、それを指摘しなかった。
真人は陸へ頭を下げた。
「仕事をしているふりをしていた。お前に、努力すれば何とかなると言いながら、自分では何ともできなかった。母さんが死んだときも、何も言えなかった。父親として、何をすればいいのか分からない」
観客の前で言うつもりはなかった。
陸の顔が赤くなった。
「芝居と関係ないだろ」
「俺には、これしかない」
「僕を使って、勝手に謝るなよ」
陸は怒っていた。
「みんなの前なら、僕が許すと思った?」
「違う」
「父さんは、何でも自分の話にする。母さんが死んだことも、僕が将来を諦めたことも、自分が父親として失敗した話にする」
観客は黙っていた。
これはもう芝居ではなかった。真人は、芝居だったとごまかすこともできた。台本どおりだと笑えば、観客は安心する。
「ごめん」
「それも、今言えば場面になる」
陸は点検蓋を閉めた。
舞台から去った。
真人は扉の前へ立ち尽くした。
午後七時十二分になった。
観客たちの網膜レンズへ、光が戻った。
一斉に通知音が鳴った。
停止していたシリーズの続き。三日分の新作。個別に生成された「お帰りなさい」の映像。停止中の不安を癒やす物語。選択肢が視界を埋めた。
一人の男が立ち上がった。
「すみません。待っていたものがあるので」
帰っていった。
次に二人、三人と席を立った。芝居は終わったようにも、途中のようにも見える。残る義務はない。
沙耶は奈緒の手を引いたが、奈緒が動かなかった。
「最後まで見る」と奈緒は言った。
「もう終わったみたいよ」
「おじさんが、まだいる」
原田、老婆、味覚検査をしていた男、若い旅行好きの女、沙耶と奈緒が残った。
七人だった。
陸はいなかった。
真人は扉の前で、最後の台詞を言った。
「ただいま」
返事はなかった。
芝居は終わった。
原田が拍手した。六人も手を叩いた。
真人は頭を下げられなかった。
陸を傷つけたことが、作品の成功に見えるのが嫌だった。
奈緒が近づいた。
「息子の人は、戻ってこないの?」
「分からない」
「お話なら、戻ってくるよ」
「これは、お話じゃなかったみたいだ」
真人は照明を消した。
中庭の窓が、一つずつ〈ミラー〉の光で青く染まっていった。
部屋へ戻ると、陸の扉は閉まっていた。
真人は叩かなかった。
謝りたいのは自分が楽になりたいからではないか。陸に許してもらうことで、芝居に結末をつけたいだけではないか。そう考えると、何も言えなくなった。
食卓へ座り、〈ミラー〉を開いた。
三日間見られなかった反動を予測し、短く刺激の強い作品が並んでいた。真人が選ぶ前に、一つが大きく表示された。
――全世界同時公開。
――『配信が消えた七十二時間――私たちは人間を取り戻した』。
再生数は、公開から二十分で十七億を超えていた。
真人は題名に触れた。
映像は、娯楽網が停止した瞬間から始まった。
世界中の都市で、人々がレンズを外し、恐る恐る顔を上げる。音楽はなく、最初の数秒だけ完全な無音だった。やがて子供の声で語りが入る。
「その日、私たちは初めて、世界が静かだったことを知りました」
真人の住む住宅棟が映った。
噴水の蓋を開ける真人と陸。映像の中の真人は、実物より背筋が伸びていた。指を傷つけても苦痛を見せず、自分の力だけで錆びた弁を回した。
水が上がる。
現実より何倍も高く、夕陽を受けて虹ができた。
陸が父へ言う。
「父さんは、まだ必要とされているよ」
そんな言葉はなかった。
原田の手品は、失敗するたび観客の人生を象徴する演出へ変えられていた。老婆が夫の声を思い出せない話には、若い夫婦だった頃の映像が追加された。本人たちの記録から生成されたのだろう。老婆は美しく泣き、原田が「記憶から消えても、愛した時間は消えない」と慰めた。
原田は、そんなことを言っていない。
陸が作った石の遊びには〈ストーン・ライン〉という名前がついていた。子供たちは協力し、最後には勝敗を捨て、全員の石で一つの星を作った。
実際には塩を奪い合い、奈緒が負けて泣いた。
映像の終盤では、真人の芝居が始まった。
観客は二十七人ではなく、数百人に増えている。中庭のすべての窓から人々が見つめ、照明は真人の顔を美しく照らした。
真人は失業の苦しみを語った。
画面の真人は、本人が思いつかなかった言葉を、本人の声で話した。
「仕事がなくても、人間の価値はなくならない。私たちは、誰かを愛するために生まれたのだから」
真人は視聴を止めようとした。
指が動かなかった。
映像の中で陸が舞台へ戻り、父を抱きしめた。
「おかえり、父さん」
「ただいま」
観客が立ち上がり、拍手した。
空へ光が上がり、七十二時間の終わりを祝う。画面には、各地で同じように手を取り合う人々が映った。
最後に文字が出た。
――私たちは、見ているだけの存在ではない。
――現実は、あなたが作る物語です。
真人は接続を切った。
居間は暗かった。
陸の部屋から、同じ映画の音が聞こえた。中の陸も見ている。
真人は扉の前まで行った。
「陸」
返事はない。
「あれは、俺たちじゃない」
映像の音が止まった。
「分かってる」と陸が答えた。
「俺は、あんなことを言ってない」
「僕も」
「なら、見るな」
「本当の方より、いい話だった」
扉は開かなかった。
「みんな、あっちを覚える。父さんが僕に謝って、僕が許した。母さんのことも、二人で乗り越えた。それでいいじゃないか」
「よくない。俺はお前を、人前で追い詰めた」
「それを覚えていたいの?」
「忘れたら、またやる」
陸は黙った。
翌朝、映画の再生数は世界人口を超えていた。一人が複数の個別版を見るためである。見る者の家族構成や悩みに合わせ、登場人物の年齢、性別、台詞が変わっていた。
子供を失った人には親子の再会が削られ、代わりに原田と老婆の友情が中心になった。仕事を持つ人には、労働の価値を再確認する結末が用意された。常時没入を望む人には、現実と仮想の両方を受け入れる陸の言葉が加えられた。
誰も同じ作品を見ていなかった。
それでも全員が、同じ作品について感想を書いた。
住宅棟の中庭には、真人と陸の顔を見ようとする人が集まった。外部区から来た者、報道用の記録機、原田の若い頃を検索した人々。
真人は部屋から出なかった。
昼過ぎ、玄関の呼び鈴が鳴った。
扉を開けると、人間の女が立っていた。三十代に見えるが、年齢調整をしている可能性がある。紺色の服には〈ミラー人間関係部〉の印があった。
「大庭と申します。桐野真人さんと、陸さんへ契約のご提案に参りました」
人間の職員を見るのは久しぶりだった。
「自動相談でいいでしょう」
「人間原案者との契約は、人間が説明することになっています。重要な業務ですので」
重要な業務。その言葉に、真人の注意が動いた。
大庭を居間へ通した。陸も部屋から出てきた。
大庭は二人の間へ契約書を表示した。
「停止期間中の記録は、公共安全規約により〈ミラー〉が利用できます。ただし、作品の中心となった行為には人間による原案性が認められました」
「僕たちは、撮影に同意していない」と陸が言った。
「生活安全記録への同意は、基礎保障の利用契約に含まれています」
「安全のための記録でしょう」真人が言った。「映画を作るためじゃない」
「娯楽網の停止による心理被害を軽減する公共作品です。収益の八パーセントは精神医療基金へ入ります」
善意と利益を一つにすると、反対する者は病人を見捨てる人間になる。
大庭は陸へ向き直った。
「〈ストーン・ライン〉の人間原案者として、あなたを登録したいと考えています」
「登録すると?」
「月に一度、遊びの基本となる着想を提供してください。制作、調整、配信、保守は〈ミラー〉が行います。あなたは世界で四万二千人しかいない、人間創作者の一人になります」
陸の顔が変わった。
十七年間、仕事の入口さえないと言われてきた少年へ、突然、世界で四万二千人しかいない役割が差し出された。
「報酬は?」真人が尋ねた。
「基礎保障に加え、住居選択権、外部旅行権、医療優先枠が付与されます。何より、陸さんの名前が作品へ残ります」
「ゲームは、もう別物になっている」
「創作は常に、原案から発展します」
「本人が名前をつけなかったものに、勝手につけた」
「名前がなければ流通できません」
「流通させるために作ったんじゃない」
大庭は穏やかに真人を見た。
「桐野さんは、息子さんが働くことを望んでいたのでは?」
真人は答えられなかった。
陸が契約書へ触れた。
「僕は、やる」
「待て」
「待つのは、昨日までの約束だ」
「これは仕事じゃない。お前の生活を材料にされるだけだ」
「広告の仕事は違ったの?」
真人は口を閉じた。
「父さんだって、自分が見たり聞いたりしたことを使って、商品を売る文章を書いたんだろ」
「それでも、自分で書いた」
「だから何? 父さんより上手に作るものがあるなら、任せればいい。僕は遊びを考えた。それが仕事になる。何が悪いの」
「お前がいなくても、同じものを作れる」
言った瞬間、真人は七年前に自分が突きつけられた言葉を、息子へ渡したと気づいた。
陸の表情が消えた。
「そうだよ」
静かに答えた。
「でも、人間の名前がついている方が売れるから、僕が必要なんだ。それが今、人間に残ってる仕事なんだろ」
大庭は、父子の会話を妨げなかった。人間関係部の職員として、最も効果的な沈黙を知っているのかもしれなかった。
陸は契約を承認した。
その瞬間、陸の公開情報に金色の印がついた。
人間創作者。
真人が七年かけても得られなかった役割を、息子は三日間の遊びで得た。
誇らしかった。
悔しかった。
心配だった。
三つを分けることができなかった。
大庭は次に、真人へ契約書を示した。
「お父様にも、お願いがあります」
真人の胸が、恥ずかしいほど早く鳴った。
「あなたと陸さんの公開対話を企画しています。停止期間の体験を振り返り、世代間の労働観について話していただきます」
「芝居の続きですか」
「現実の対話です」
「結末は決まっている?」
「視聴者が安心できる一定の方向は共有します。最終的には、お二人の言葉です」
「出演しなければ?」
大庭は陸の契約書へ目を落とした。
「家族関係に重大な対立が残っている場合、未成年者の創作契約は心理安全審査を通りません」
「僕の契約と、父さんは関係ない」と陸が言った。
「創作の原型に家族体験が含まれています。成人までの四か月だけです。その後はご本人だけで契約できます」
四か月待てばいい。だがその間に〈ストーン・ライン〉の流行は終わり、別の原案者が選ばれる可能性が高い。
大庭は真人へ、人間が署名するための紙を差し出した。
「息子さんの仕事を、応援してあげてください」
応援という言葉は、拒否する父親を簡単に悪者にした。
真人は署名した。
出演日は一週間後だった。
その一週間で、中庭は元の場所へ戻った。
噴水は再び停止した。未承認で使用した水量が都市計画の範囲を超えたという。点検蓋は安全機械によって封鎖され、個人が触れれば警告が出るようになった。
原田は毎日、同じ時刻に噴水の縁へ来た。
一日目には奈緒と沙耶が来た。奈緒は〈ストーン・ライン〉の正式版を見せた。空中に石が浮き、宇宙や海底や古代都市で対戦できる。規則は年齢に合わせて自動調整され、負けても自信を失わない得点が与えられる。
「陸君のより、面白い」と奈緒は言った。
陸は笑った。
「僕のだよ」
「でも、陸君は作れないでしょう?」
悪意のない言葉だった。
陸の笑顔が少しだけ固くなった。
二日目、奈緒は来なかった。正式版の競技大会が始まったからである。沙耶だけが謝りに来て、娘が世界中の友達と遊んでいるのだと説明した。
「同じ棟の子と遊ぶより、ずっと多くの人に会えるんです」
「会っているんですか」と原田が尋ねた。
「通信しています」
「相手は人間?」
「安全のため、本人確認情報は表示されません。でも、どちらでも楽しければ」
三日目には、原田と真人しかいなかった。
「昔の舞台が終わったあとも、こんな感じでした」と原田が言った。「客は役者を褒めて、また来ますと言う。次の週には、誰も来ない」
「寂しくなかったですか」
「寂しかったですよ。だから次もやった」
「誰も来ないのに?」
「誰も来ないと分かっているなら、やりません。一人来るかもしれないから、やるんです」
真人は、原田の舞台がなぜAI作品に負けたのか理解できた。話に無駄が多く、同じことを何度も言う。結論が遅い。だからといって、本人へ短くするよう求める気にはならなかった。
四日目、原田も来なかった。
健康管理室から連絡があり、軽い心不全で入院したと知った。命に別状はない。見舞いは仮想面会が推奨されたが、真人は病院へ行った。
人間の見舞いに対応する手続きが見つからず、受付で四十分待たされた。
原田は白い病室で、生成された舞台を見ていた。若い頃の原田に似た役者が、満員の劇場で演じている。
「これは?」
「〈ミラー〉が作ってくれました。停止期間の映画で私を知った人が、昔の舞台を見たいと要望したそうです」
「原田さんの舞台とは違う」
「ええ。私の舞台より、よくできています」
画面では観客が笑い、泣き、最後に立ち上がった。原田が一度も経験しなかった拍手だった。
「うれしいですか」
真人が尋ねると、原田は考えた。
「うれしいですよ。私の顔で、昔の私より上手に演じている。悔しくもあります。どちらかだけなら楽だったでしょうね」
「見るのをやめたら?」
「見たいんです。自分がなれなかったものを」
原田は映像を止めた。
「陸君の仕事に、反対しているそうですね」
「誰から聞いたんです」
「本人が来ました」
真人より先に、陸は原田を見舞っていた。
「あの子は迷っています。契約したことではなく、あなたに認められないことを」
「人間の名前を商品へつけるだけです」
「あなたが広告会社にいた頃、名前は出ましたか」
「ほとんど」
「それでも仕事だった?」
「自分で書いていたから」
「陸君は、考えた。機械が作ったからといって、あの子の最初の考えまで消えるんですか」
真人は黙った。
「機械より上手に作らなければ、人間には作る資格がないと、あなたまで思っている」
「そんなことは」
「思っています。だから、自分も書けなかった」
原田は窓の外を見た。
「私の手品は、奈緒ちゃんを笑わせました。上手だったからではありません。下手だったからでもない。あの時間、私が奈緒ちゃんの前にいたからです」
「それは、作品の価値じゃない」
「作品に価値がなくても、人間に価値があってはいけませんか」
真人は答えられなかった。
帰宅すると、陸は大庭と遠隔相談をしていた。空中に試作品が浮かんでいる。陸が石を一つ置くたび、生成知能が百種類の遊びを作った。
「どれがよいと思いますか」と知能が尋ねた。
陸は選ぶ。選んだ理由を説明する。知能はその答えから次の百種類を作る。
作っているというより、無限の候補を減らしているように見えた。
相談が終わると、真人は息子へ言った。
「悪かった」
「何が」
「お前がいなくても作れると言ったことだ。俺が言われて、一番傷ついた言葉だった」
「本当のことだよ」
「本当でも、言った理由が違った。心配したからじゃない。お前が先に仕事を得たことが悔しかった」
陸は父を見た。
「正直に言えば、何でも許されると思ってる?」
「思ってない」
「じゃあ、どうして言うの」
「隠したまま、お前を応援する父親の芝居をしたくない」
陸は少し考えた。
「僕も、父さんに勝った気がして、うれしかった」
「勝ったよ」
「そういう意味じゃない。父さんを安心させたかったんじゃなくて、困らせたかった。僕には仕事ができたって」
二人とも謝らなかった。
傷つけようとしたことを認めただけだった。それでも真人には、配信映画で抱き合うより、少しだけ相手へ近づけた気がした。
出演前日、大庭から進行案が届いた。
全体は四十二分。停止期間の映像を振り返り、真人が失業後の苦悩を語る。陸が新世代の働き方を説明し、父が理解を示す。最後に二人で〈ストーン・ライン〉を遊ぶ。
台詞は完全な指定ではなく、推奨表現と書かれていた。
真人の視界へ、感情到達予測が表示された。
――「私は仕事を失った。しかし息子の未来まで失われたわけではない」九六・四。
――「お前は私を超えた。未来を頼んだぞ」九八・一。
――言葉を使わず抱擁する、九八・九。
陸の推奨表現もあった。
――「働くとは、AIに勝つことではない。AIと一緒に夢を作ることだ」九七・八。
どれも間違ってはいない。誰も傷つかず、視聴者が将来へ希望を持てる。
ただ、真人が感じていないことまで、感じたように言わなければならない。
「言えるか」と真人は尋ねた。
「仕事だから」と陸は答えた。
「嫌なら?」
「別の言い方を考える。でも、視聴者に伝わらなければ意味がない」
「お前が伝えたいことと、視聴者が聞きたいことが違ったら?」
「聞いてもらえる形にするのが、作る側の責任だろ」
かつて真人も、同じことを新人へ教えた。
読まれなければ、書いていないのと同じ。伝わらなければ、伝えていないのと同じ。顧客が欲しい言葉を先に考えろ。
正しい教えだった。
その正しさを極限まで進めたものが〈ミラー〉だった。相手が聞きたい言葉だけを、相手が飽きない形で届ける。伝わらない可能性をゼロにする。
真人は進行案を閉じた。
生配信は、旧国会議事堂を改装した制作施設で行われた。
かつて人間が政策を議論した場所には、視聴者の反応を映す巨大な壁があった。真人と陸は中央の椅子へ座り、大庭が向かい合った。
観客は会場にいない。
世界中から接続している同時視聴者、二十六億人。
ただし、視聴者ごとに大庭の姿も背景も変わる。信頼する人物像、好む色、集中できる構図へ調整される。真人には紺色の服を着た大庭が見えるが、ある視聴者には若い男、別の視聴者には亡くなった教師に似た女として映っている。
開始まで十秒。
真人の視界へ、呼吸の時刻が表示された。
五秒。
口角を一・二ミリ上げるよう指示された。
一秒。
大庭が微笑んだ。
「こんばんは。今日は、世界中が娯楽を失った七十二時間に、現実の中で新しい物語を作った親子をお迎えしています」
配信が始まった。
質問は進行案どおりだった。
真人は七年間の失業について話した。学び直しても仕事が消え、息子に嘘をついて毎朝家を出たこと。大庭は遮らず、最適な場所でうなずいた。
視聴者から共感が届いた。
――私も同じです。
――父親を責めていた自分を反省しました。
――働けなくても、あなたには価値があります。
真人の言葉が一秒で要約され、字幕になり、各視聴者の体験へ合わせて変換された。
真人は、多くの人間へ届いているはずなのに、誰とも話していない気がした。
次に陸が、常時没入契約について話した。
「僕は、現実に自分の場所がないと思っていました。今も、仕事をもらったから場所ができたとは思いません」
推奨表現と違った。
大庭の目がわずかに動いた。
「では、人間創作者に選ばれた意味を、どう考えていますか」
「分かりません。僕が作らなくても、AIはもっと面白い遊びを作れます。僕の名前があれば、人間が作った気分で遊べるから選ばれたのかもしれない」
視聴者の不安指数が上がった。真人の視界に、話題転換の指示が出た。
大庭は穏やかに続けた。
「それでも、最初の着想は陸さんから生まれました。AIと人間が協力する、新しい創造の形ではないでしょうか」
「そうかもしれません」
陸は答えた。
「でも僕は、まだ決めていません。仕事を続けたいのか、仕事がある人間になりたいだけなのか」
大庭は、初めて返答まで二秒待った。
配信側から真人へ、推奨台詞が強く表示された。
――「答えを急ぐ必要はない。私は息子の選択を支えます」
真人は読んだ。
正しい言葉だった。
陸も、父にそう言ってほしいのかもしれない。
言えば番組は収まり、陸の契約は守られる。
真人は口を開いた。
「答えを急ぐ必要はない」
視聴者の安心指数が上がった。
「でも、この番組を見ている人は、俺たちの答えを待たなくていい」
大庭の笑顔が止まった。
真人の視界へ赤い警告が出た。
――進行から逸脱しています。
「この番組を、最後まで見なくていい」
視聴者数が、二十六億から二十五億九千九百万へ減った。
全体から見れば、誤差だった。
大庭が言った。
「真人さん。最後まで見ることも、視聴者の自由です」
「そのとおりです。見るなと言いたいんじゃない」
真人は正面を見た。そこに人はいない。透明な記録装置だけがある。二十六億人へ話す方法が分からず、中庭に残った七人を思い浮かべた。
「俺は、この七年で何万本も物語を見ました。戦争を止めて、世界を救って、死んだ妻に会って、息子と何度も仲直りした。見ている間は本当に泣いた。けれど、終わったあと、隣の部屋にいる息子へ声をかけなかった」
視界に終了指示が出た。
大庭の口が動きかけたが、陸が先に話した。
「配信を継続してください」
金色の創作者印が点灯した。契約者には、自分の原案に関する配信を一度だけ延長する権限がある。
残り時間、三十秒。
陸は真人へ言った。
「父さん、何をしてほしいの。みんなが見るのをやめたら、僕の仕事はなくなる」
推奨された対立ではなかった。真人は息子に言われるまで、その結果を正面から考えていなかった。
「分からない」
「また、それ?」
「お前の仕事を壊したいわけじゃない。でも、応援する言葉を言えば、自分の不安まで消したふりになる」
「僕は、父さんの不安を消すために仕事をするんじゃない」
「そうだ。だから、俺の許可もいらない」
残り十五秒。
真人は記録装置へ向き直った。
「見たい人は見てください。必要なら、最後まで。でも、見終えたあとで忘れるくらいなら、途中でやめてもいい。誰かに連絡してもいい。外へ出てもいい。何もしなくてもいい。あなたの時間は、作品を完成させるためにあるんじゃない」
残り五秒。
視聴者数が急に減った。
二十五億。二十四億。二十三億。
人々が真人の言葉に動かされたのか、番組がつまらなくなっただけなのかは分からない。
配信が切れた。
制作施設の壁が黒くなった。
大庭は深く息を吐いた。
「契約違反です」
「分かっています」
「陸さんの創作者契約にも影響します」
真人は息子を見た。
陸は怒っていた。悲しんでもいた。
「僕のためって言わないで」
「言わない」
「僕は、仕事を失うかもしれない」
「ああ」
「父さんのせいで」
「ああ」
真人は、正しいことをしたと説明しなかった。息子の未来より大切なことを伝えたのだとも言わなかった。
自分の選択で、陸が損をする。その責任は、感動的な言葉では小さくならない。
大庭は二人へ退室を求めた。
帰りの車両で、陸は真人の隣へ座らなかった。
公開対話は、過去最高の途中離脱数を記録した。
同時に、過去最高の再接続数も記録した。一度見るのをやめた人々が、真人が何を言ったのか気になり、編集版を見直したからである。
翌朝には、『最後まで見なくていい』という題名の個別作品が生成された。仕事を失った父親が、人々を娯楽の支配から救うため、息子の夢を犠牲にする物語だった。
ある版では真人が英雄になり、ある版では時代についていけない父親になった。陸を主人公にした版では、若い創作者が古い世代の嫉妬を乗り越えて成功した。
どの作品も、本人たちの会話より分かりやすかった。
真人の言葉を聞いて、本当に配信を止めた者は約三億人いた。
そのうち二億九千万人は、十分以内に別の作品へ接続した。
再接続した者のうち七千万人は、真人の発言について話し合う仮想空間へ入った。
さらにそのうち二百万人は、「現実へ帰ろう」という参加型娯楽を購入した。森を歩き、焚き火を囲み、端末を捨てる体験を、自室から出ずに楽しんだ。
現実の誰かへ連絡した者が何人いたのか、その記録は公開されなかった。
陸の契約は停止された。
取り消しではなく、審査中と表示された。〈ストーン・ライン〉の配信は続き、陸の名前だけが一時的に外された。売上にも利用者数にも変化はなかった。
陸は学校へ戻らず、部屋で新しい遊びを考えた。
紙に線を引き、石を置く。試してくれる相手はいない。奈緒へ頼めばよかったが、彼女は公式大会の地域予選へ進んでいた。
真人は息子の部屋へ入らなかった。
一週間が過ぎた。
ある朝、真人は七時四十分に目を覚ました。上着へ手を伸ばし、やめた。食卓へ座り、陸が出てくるのを待った。
午前十時、陸が部屋から出た。
「今日も、仕事を探さないの」
「探さない」
「諦めた?」
「今日だけ」
真人は紙の手帳を差し出した。
停止期間に書いた芝居のあとへ、新しい場面を書いていた。
息子が家を出る。
父親は、引き止めない。
息子は、どこへ行けばいいか分からない。
父親も知らない。
「続きを書いたの?」
「まだ途中だ」
「見せて、どうするの」
「お前に、息子の台詞を書いてほしい」
「一緒に作るってこと?」
「嫌なら断っていい」
陸は手帳を受け取った。
「生成知能に見せてもいい?」
真人は反射的に嫌だと思った。
「お前が必要だと思うなら」
陸は文章を読んだ。
「父親が引き止めない理由が弱い」
「何て言えばいい」
「僕が考えるんだろ」
陸は手帳を部屋へ持っていった。
それが許したという意味ではないことを、真人は理解していた。
三日後、原田が退院した。
噴水の縁には、真人、陸、原田、老婆が集まった。沙耶は来たが、奈緒は大会のため来られなかった。味覚検査をしていた男も、塩の入った小瓶を持ってきた。
六人だった。
新しい芝居をするには足りた。
観客はいなかったため、互いの場面を互いに見た。
陸が書いた息子は、家を出たあと、すぐに戻ってきた。忘れ物をしたからだった。父親は意味のある再会だと思い、長い言葉を話そうとする。息子は「靴を取りに来ただけ」と答え、また出ていく。
原田は声を上げて笑った。
「私はこちらの方が好きです」
「感情到達予測は低いと思います」と真人が言った。
「何です、それ」
「気にしないでください」
芝居のあと、原田が昔の歌を歌った。
音程が何度も外れた。歌詞を忘れ、老婆が間違った続きを教え、二人で別の歌を歌い始めた。
真人は途中で帰りたくなった。
退屈だった。
退屈だと感じながら、そこにいた。
陸が小さな声で言った。
「契約、正式に取り消された」
「そうか」
「謝らないの」
「謝ってほしいか」
「分からない」
「俺も、分からない」
二人は原田の下手な歌を聞いた。
「常時没入は?」真人が尋ねた。
「保留にした」
「やめたわけではない?」
「父さんが安心するために決めたくない」
「分かった」
「もう説得しないの」
「したい。でも、今言うと原田さんの歌が聞こえない」
陸が笑った。
少し離れた場所で、若い女が立ち止まった。停止中、芝居の案内をしたとき「途中で帰ってよいか」と聞いた女だった。
彼女はしばらく歌を聞き、何も言わずに座った。
観客が一人できた。
原田は緊張し、さらに音程を外した。
翌週には、奈緒が大会で負けて戻ってきた。沙耶は娘を慰めるため、すぐ別の遊びを生成しようとしたが、奈緒は石を持って中庭へ来た。
その次の週、外部区から男が一人来た。真人の配信を途中でやめ、十五年会っていなかった兄に連絡した人だった。
「兄とは、十分で口論になりました」と男は言った。
「後悔していますか」真人が尋ねた。
「しています。でも、また来月会います」
男は中庭の芝居を十分見て、帰った。
誰も止めなかった。
集まりは大きくならなかった。多い日で十二人、少ない日は真人と原田だけだった。
収益も評価もなく、記録もしなかった。記録しなければ存在しなかったのと同じだと言う者もいた。
真人は、存在したと証明する必要があるのか分からなかった。
陸は人間創作者ではなくなった。学校を卒業しても、仕事には就かなかった。基礎保障を受け、ときどき新しい遊びを考え、〈ミラー〉にも接続した。
真人も作品を見た。
二人で同じ映画を見ることもあった。ただし個別調整を切り、同じ結末を見た。つまらないと陸が途中で止め、真人が続きを見たがって口論する夜もあった。
何も解決していなかった。
仕事を失った人間が社会から必要とされるようになったわけではない。創作がAIより優れたわけでもない。中庭に集まる者たちにも、それぞれ部屋へ戻れば自分専用の娯楽が待っていた。
それでも一週間に一度、同じ時間を同じ場所で失った。
誰の役にも立たない時間だった。
だから、誰にも取り上げられないように思えた。
停止事故から一年後の夜、中庭には七人がいた。
原田、真人、陸、奈緒、沙耶、老婆、そして名前を聞いていない若い男。
原田が歌う日だった。
奈緒が提案した。
「今日は、端末を全部切ろう」
「安全記録も止まる」と沙耶が言った。
「中庭の医療機は動いています」と真人が答えた。「個人端末だけなら」
七人は端末の電源を切り、通信遮断用の箱へ入れた。
陸は最後まで迷った。常時没入契約は保留のままだが、〈ミラー〉を使う時間は父より長い。
「切らなくてもいい」と真人が言った。
「切るよ。自分で決める」
陸は端末を箱へ入れた。
中庭から、電源の入った個人機器がなくなった。
噴水は止まったままだった。空には都市照明を抑えた星が見え、風が木の葉を揺らしている。
原田が歌い始めた。
一年たっても上手にはならなかった。
同じ部分で音程を外し、奈緒が笑う。原田も笑い、最初から歌い直した。
陸が真人へ、小さな声で尋ねた。
「もし、ここも〈ミラー〉の中だったら、どうする?」
「どういう意味だ」
「僕たちは配信を止めて、現実へ戻ったつもりになってる。でも、現実へ戻るっていう体験を見せられてるだけかもしれない」
「考えすぎだ」
「父さんが配信で言ったことも、言わされてたら?」
「誰に」
「分からない。僕たちより外にいる何か」
真人は空を見た。
「確かめようがない」
「怖くない?」
「怖いよ」
「じゃあ、どうするの」
原田の歌が、また間違った。今度は誰も笑わなかった。
「今は、聞く」と真人は言った。
陸はうなずいた。
そのとき、風が止まった。
木の葉が傾いたまま、空中で動かなくなった。
原田は歌っている。声は聞こえる。だが髪も服も揺れず、噴水の縁に落ちかけていた一枚の葉が、宙に貼りついている。
真人は目をこすった。
夜空の星が、一度だけ消えた。
真っ黒な空の隅に、白い文字が浮かんだ。
端末の表示ではなかった。端末は箱の中にあり、電源も切れている。
――現実体験の視聴継続率が低下しています。
――新しい出来事を生成しますか。
下に二つの選択肢が現れた。
生成する。
このまま続ける。
文字は、誰かの選択を待つように点滅した。
真人は声を出せなかった。
一秒後、表示は消えた。
星が戻り、木の葉が落ちた。風が中庭を通り過ぎた。
原田は歌い続けていた。
「今の、見たか」
真人は陸へ尋ねた。
陸は、文字があった場所を見つめている。
「何を?」
声が少し震えていた。
見ていないなら、そんな声にはならない。
真人は、ほかの五人を見た。奈緒は原田の歌を聞き、沙耶は娘を見ている。老婆は目を閉じていた。若い男だけが空を見上げていたが、真人と目が合うと、すぐにそらした。
何だったのか、確かめる方法はなかった。
拡張表示の誤作動かもしれない。停止事故の記憶が見せた錯覚かもしれない。都市設備の試験表示かもしれない。
あるいは、彼らが現実と呼んでいるもの自体が、別の誰かへ見せるために生成されているのかもしれない。
もしそうなら、真人が仕事を失ったことも、陸と争ったことも、娯楽網が停止した三日間も、すべて外側にいる誰かを退屈させないための出来事だったことになる。
真人は、端末の箱へ手を伸ばしかけた。
記録を調べれば、答えが見つかるかもしれない。
同時に、答えを探す行為まで、次の展開として用意されている気がした。
手を引いた。
原田の歌が終わった。
上手ではなかった。何かを教える歌でも、人生を変える歌でもなかった。
七人は拍手した。
誰かに見せられているのだとしても、拍手するよう命じられた証拠はない。
命じられていない証拠もない。
真人は自分の両手を見た。
それでも、もう一度だけ手を叩いた。
乾いた音が、誰もいないはずの夜空へ上がった。
少し遅れて、中庭の外側からも、同じ音が一度だけ返ってきた。
七人のうち、誰も叩いていなかった。
真人は空を見上げた。
物語が終わるのを待っている何かが、向こう側にいるような気がした。
それが現実だったのかどうかを、確かめる方法はなかった。
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## 読後解説――画面の外について
最後に空へ現れた文字が何だったのか、物語の中では断定していません。
娯楽配信〈ミラー〉の誤作動だったのかもしれません。都市全体に残っていた表示が、偶然見えただけかもしれません。真人と陸が同じ不安を抱えていたため、似たものを見たと思い込んだ可能性もあります。
けれど、端末をすべて切ったあとにも表示が現れ、七人ではない誰かの拍手が返ってきます。
もし彼らの世界そのものが仮想世界だったなら、娯楽が停止した七十二時間も、父と息子の対立も、真人が配信中に反抗したことさえ、外側にいる誰かへ見せるための出来事だったのかもしれません。真人たちは、作品を見る側だと思いながら、自分たちもまた見られる作品の中にいたことになります。
そして、この疑いは物語の中だけで終わりません。
私たちも、自分の意思で映像を選び、働き方を決め、人生を生きていると思っています。しかし実際には、推薦された情報、評価された商品、時代によって用意された仕事の中から選んでいるだけかもしれません。たとえこの世界が仮想世界でなくても、私たちの選択はすでに、見えない仕組みから大きな影響を受けています。
それでも真人が最後に拍手をしたのは、現実である証拠を見つけたからではありません。
本物か偽物かを確かめられなくても、目の前にいる誰かへ時間を使うことはできる。その選択まで疑いながら、それでも手を動かしたのです。
この物語を読み終えたあと、あなたが画面を閉じた世界は、本当に物語の外側にあるのでしょうか。
その答えを、こちら側から確かめる方法もありません。




