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星明かりのパンと泣き虫な竜

作者: 秋空ゆうゆ
掲載日:2026/07/05

 村の外れに、夕方から開く小さなパン屋があった。


 店の名前は《星灯りの窯》。

 店主はヨワという少女。


 屋根には銀色の風見鶏が立ち、窓辺には乾かした林檎と、香草の束が吊るされている。日が沈むころになると、煙突から甘い匂いが流れ出し、仕事を終えた狩人や木こり達は、誰もが少しだけ足を緩めた。


「どうして、このパン屋は、夕方から開いているんだい?」


「早起き苦手なんだよね。それに夕方の方が、みんなお腹を空かせて来てくれるでしょ?」


「確かにな。それにこのパンを食べると、1日の疲れが飛んでしまったみたいだよ」


「ふふふ、ありがとう」


 夜更かし少女のヨワが作るパンを食べると、不思議と心が軽くなる。


「まるで、魔法みたいだ。お嬢ちゃんは、魔法使いかい?」


 店主のヨワは首を横に振る。


「魔法なんかじゃないよ。温かいものを、誰かと一緒に食べるから、おいしいんだよ」


 ヨワはそう言って笑う。

 笑うと、頬に小さなえくぼができる。火の粉が舞う窯の前で、ヨワの横顔はいつも橙色に照らされていた。


◇ ◇ ◇


「ふふ、ふーん♪ るるる、ららら♪」


 その日も、ヨワはいつものように鼻歌を歌いながら、パンを焼いていた。


 蜂蜜を練り込んだお月様みたいな丸パン。

 胡桃と干し葡萄を混ぜた雲みたいな黒パン。

 それから、今日初めて作る、星の形をした小さな菓子パン。


 失敗したらどうしよう。

 でも、うまく焼けたら、きっとみんな喜んでくれる。


 ヨワは窯の前で両手をぎゅっと握った。胸の奥が、期待で小さく跳ねる。焼き上がるまでの時間が、まるで宝箱を開ける前みたいに長く感じられた。


 やがて、窯の中で星形のパンがふっくらと膨らんだ。


「……できた!」


 ヨワは思わず声を上げた。

 表面は黄金色。端は少しだけ香ばしく、真ん中には溶けた砂糖が薄く輝いている。まるで夜空から落ちてきた星のかけらだった。


 最初の一つを割ると、湯気がふわりと広がった。


「うん。これは、きっと大丈夫」


 小さな達成感が、胸の中で明るく弾けた。


 そのときだった。


 店の扉が、どん、と大きく鳴った。


 ヨワはびくりと肩を震わせた。

 風ではない。誰かが、外から扉にぶつかったのだ。


「いらっしゃいませ?」


 返事はなかった。


 代わりに、低く、苦しそうなうなり声が聞こえた。


 ヨワは恐る恐る扉を開けた。


 そこにいたのは、人ではなかった。


 月明かりの下、人ぐらいの大きさの竜が倒れていた。


 黒曜石のような鱗。傷だらけの翼。家を壊せそうなほど鋭い爪。けれど、その金色の瞳には、獣の怒りではなく、迷子の子どものような涙が浮かんでいた。


「……こわい」


 ヨワは息を呑んだ。


 竜もまた、かすれた声で言った。


「……こわい」


 同じ言葉だった。


 ヨワは逃げなかった。

 足は震えていた。心臓はうるさいほど鳴っていた。けれど、竜の翼に深い傷があるのを見た瞬間、彼女の中で恐怖よりも強いものが動いた。


「待ってて。包帯を持ってくる」


 店の奥へ走る。棚から布を取り、薬草の瓶を掴み、水桶を抱える。手は震えていたが、不思議と体は動いた。今やるべきことだけが、はっきり見えていた。


 竜の翼に触れると、竜は小さく身をすくめた。


「痛い?」


「痛い。でも、ひとりのほうが、もっと痛い」


 ヨワはその言葉に、胸がきゅっとなった。


「じゃあ、ひとりにしないわ」


 薬草を塗ると、竜は情けない声で「ぴゃっ」と鳴いた。

 あまりに大きな体から、あまりに小さな声が出たので、ヨワは思わず吹き出してしまった。


「ご、ごめん。だって、竜なのに、声が子猫みたいで」


「笑うな。我は恐ろしい竜だぞ」


「うん。恐ろしい竜さん。涙で鼻が光ってるけど」


「鼻は光っていない!」


 竜はそう言って鼻を鳴らした。

 すると、鼻先から小さな火花がぽん、と飛び、地面に落ちた。火花は焦げ跡を作るどころか、なぜか丸い煙になって、ふわふわと空へ昇っていった。


 ヨワはもう我慢できなかった。

 声を上げて笑った。


 竜も、最初は不満そうにしていたが、やがて低く喉を鳴らした。

 それは笑い声に似ていた。深い洞窟の奥で鐘が鳴るような、不器用で優しい音だった。


 傷の手当てが終わるころには、ヨワの震えは少し収まっていた。


「お腹、空いてる?」


 竜は目をそらした。


「空いていない」


 その直後、竜のお腹が、山崩れみたいな音で鳴った。


「……空いてるね」


「少しだけだ」


「見栄っぱりさんね」


 ヨワは星形のパンを持ってきた。竜の口には小さすぎるパンだったけれど、竜は爪の先で慎重につまみ、宝石でも扱うように口へ運んだ。


 そして、目を見開いた。


「……甘いぞ。こんな甘い食べ物は初めてだ」


「蜂蜜を入れたの」


「それに、温かい」


「焼きたてだからね」


「……もう一つ、あるか」


 ヨワは笑って、皿いっぱいにパンを並べた。


 竜は一つ食べるたびに、少しずつ顔をゆるめた。

 ヨワも向かいに座り、自分の分をひとつ食べた。外では夜風が森を揺らし、店の外では窯の火がぱちぱちと鳴っていた。


 誰かと一緒に食べるパンは、やっぱり一人で食べるよりおいしかった。


 しばらくして、竜はぽつりと言った。


「我は、村を襲いに来たのではない」


「うん」


 ヨワは、そうだろうなと思っていた。


「山の向こうで、人間に住みかを追われた。火を吐くから、危ないと言われた」


「そうなんだ……」


「でも我は、火を吐きたくて吐くのではない。驚くと出る。泣くと出る。くしゃみでも出る」


「それは……困るね」


「だから、誰も近づかない。近づいても、怖がって逃げる。だから、住みかでひっそり暮らしていたのだが……」


 竜は大きな頭を床に置いた。

 その姿は、村を滅ぼす怪物というより、居場所をなくした子どものようだった。


 ヨワは少し考えてから、竜の鼻先に手を置いた。

 鱗は冷たそうに見えたけれど、触れてみると、窯の火みたいに温かかった。


「じゃあ、ここにいればいいよ」


「いいのか?」


「パン、好きでしょ?」


「……好きだ」


「それなら、お客さんだよ」


 竜の金色の瞳が揺れた。


「我は、怖くないのか」


「怖かったよ。今も少し怖い。でも、それだけじゃない」


「それだけじゃない?」


「怪我してた。お腹も空いてた。泣いてた。それに、私のパンを美味しそうにたべてた。だから、怖いだけじゃないわ」


 竜は黙った。

 大きな瞳から、また涙が一粒こぼれた。けれど今度の涙は、さっきより少しだけ静かだった。


 そのとき、遠くから鐘の音がした。


 村の警鐘だった。


 ヨワは窓の外を見た。

 松明の光がいくつも森の道を近づいてくる。村人たちだ。竜を追ってきたのかもしれない。


 竜の体が強張った。


「逃げる」


「その翼じゃ無理だよ」


「では、戦う」


 竜の喉の奥に赤い光が灯った。

 ヨワは慌てて、その鼻先を両手で押さえた。


「それは、もっと、だめ!」


「どけ。お前も焼ける」


「焼かないで!」


「なら、どうすればいいというのだ!」


 竜の声が震えていた。怒っているのではない。怖いのだ。


 ヨワは息を吸った。怖かった。足も震えた。でも、今ここで自分が逃げたら、この竜は本当に怪物にされてしまう。


 扉の外に出る。


 松明を持った村人たちが、ヨワを見つけて叫んだ。


「ヨワ! 離れろ!」


「竜だぞ!」


「火を吐く化け物だ!」


 ヨワは両手を広げた。


「この子は、化け物じゃない!」


 声は思ったより大きく出た。

 自分でも驚いた。胸はまだどきどきしている。だけど、そのどきどきは、ただの恐怖ではなかった。大切なものを守るために、前へ出る力だった。


「怪我をしてるだけ! お腹が空いてるだけ! 怖がってるだけ!」


 村長が眉をひそめた。


「怖がっているのは、こちらも同じだ」


「うん。だから、いきなり仲良くなってとは言わない」


 ヨワは店に戻り、星形のパンを籠に入れて持ってきた。


「でも、まずみんなこれを食べて。竜さんも、みんなも」


 村人たちは困惑した。

 こんな夜に、竜を前にして、パンを配るなど聞いたことがない。


 けれど、最初に小さな男の子が手を伸ばした。

 ヨワのパンをよく買いに来る子だった。


「ぼく、食べる」


 男の子がパンをかじる。

 さく、と小さな音がした。


「おいしい」


 その一言で、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。


 一人、また一人とパンを受け取る。

 竜は店の入口で身を縮めながら、それを見ていた。大きな体をできるだけ小さくしようとしているのが、かえって少しおかしかった。


 やがて、さっきの男の子が竜に近づいた。


「竜さんも、パン好き?」


 竜は固まった。


「……好きだ」


「じゃあ、ぼくと同じだ」


 男の子は笑った。


 竜はどうしていいかわからない顔をした。

 それから、ほんの少しだけ頭を下げた。


「我は、びっくりすると火を吐くかもしれない」


「じゃあ、びっくりさせないようにする」


「くしゃみでも出る」


 男の子は、困った顔をした。

 そこで、ヨワは、指差しながら言った。


「くしゃみするときは、窯に向かってやってね」


 ヨワが指差した先には、丈夫な窯があった。

 毎日のパンを焼くための、どんな高温にも耐える窯だった。


「私のパンを焼くのを手伝ってね」


 村人の誰かが、思わず笑った。

 それにつられて、別の誰かも笑った。怖さは消えていない。けれど、笑い声が少し混ざるだけで、夜の重さは変わっていった。


 村長は長い沈黙のあと、ため息をついた。


「……翼が治るまでだ」


 ヨワの顔が明るくなった。


「じゃあ、これからは私のお手伝いさんね!」


 村人達の一人が、付け加える。


「ただし、村を焼いたら追い出す」


 竜は真剣な顔で頷いた。


「焼かない。たぶん」


「たぶんでは困る」


「努力する」


 また誰かが笑った。


 それから数日、竜はパン屋の裏庭で暮らした。


 名前は、ルグになった。

 本人は「我に名など不要」と言ったが、ヨワが「注文を聞くときに不便」と言うと、なぜか納得した。


 ルグは火を吐くのが苦手だった。

 けれど、火加減だけは驚くほど上手だった。窯の火が弱くなると、鼻先から細く炎を吹き、薪にちょうどよく火を移した。


「すごい! ルグのおかげで、今までで一番きれいに焼けた!」


 ヨワがそう言うたび、ルグはそっぽを向いた。


「当然だ。我は竜だからな」


 けれど尻尾は、嬉しそうに左右へ揺れていた。


 村人たちも、少しずつルグに慣れていった。

 子どもたちは遠巻きに見ていたが、やがてパンくずを持って近づくようになった。老人たちは、背中を温めるのにちょうどいいと言って、ルグのそばに椅子を置くようになった。


 ある雨の日、ルグは小さなくしゃみをした。


「くしゅん」


 炎がぽっと出た。

 それは雨に濡れた薪に移り、消えかけていた焚き火を再び灯した。


 村の男が目を丸くした。


「助かった。今日は火がつかなくて困っていたんだ」


 ルグはしばらく黙っていた。

 それから、低い声で言った。


「……我の火は、役に立つのか」


「そりゃあ、使い方次第だろう」


 その言葉は、ルグの胸に深く染み込んだ。


 危ないだけだと思っていた力。

 誰かを怯えさせるだけだと思っていた火。

 それが、誰かを温めることもある。


 夜、ヨワは新しいパンを焼いた。

 名前は《竜の火パン》。表面は香ばしく、中はふわふわで、ほんの少しだけ煙の香りがした。


 村人たちはそれを食べて、口々に言った。


「うまい」


「体が温まる」


「また食べたい」


 ルグは店の外で聞いていた。

 やがて、巨大な体を丸めて、鼻先を翼の下に隠した。


「泣いてる?」


 ヨワが尋ねる。


「泣いていない」


「鼻、光ってるよ」


「光っていない」


 ヨワは隣に座った。


 何も言わずに、ルグの翼に毛布をかけた。

 竜に毛布など小さすぎたが、ルグはそれを大切そうに受け入れた。


 空には雲が切れ、星が出ていた。

 パン屋の窓から漏れる灯りが、庭の草を柔らかく照らしている。遠くで虫が鳴き、窯の火は静かに燃えていた。


 ヨワは星形のパンを半分に割った。


「はい、半分こ」


 ルグはそれを見つめた。


「なぜ半分にする。もう一つ作ればいいだろう」


「一緒に食べると、おいしいから」


 ルグは爪の先で、そっとパンを受け取った。


 ふたりは並んで食べた。

 甘くて、温かくて、少しだけ焦げていて、でもそれがよかった。


「ヨワ」


「なに?」


「我は、ここにいてもいいのか」


 ヨワは即答した。


「いいよ」


「火を吐くぞ」


「知ってる」


「鋭い爪もあるぞ」


「見ればわかる」


「泣き虫だぞ」


「それも知ってる」


 ルグはしばらく黙って、それから小さく言った。


「……なら、いることにする」


 ヨワは笑った。


「うん。いて」


 その夜、村の人々はいつもより早く眠った。

 お腹には温かいパン。胸には少しの安心。窓の外には、村を焼くためではなく、村を温めるための竜の火。


 そしてルグは、パン屋の裏庭で初めて、誰にも追われる夢を見なかった。


 夢の中で、彼は空を飛んでいた。

 背中にはヨワが乗っている。村人たちは下から手を振っている。ルグが火を吐くと、それは恐ろしい炎ではなく、夜空に咲く金色の花火になった。


 ヨワが笑う。


「ほら、きれい」


 ルグは少し照れながら答えた。


「当然だ。我は竜だからな」


 その声は、もう震えていなかった。


◇ ◇ ◇


 次の日の夕方、星灯りの窯に火が入るころ、外では月の光が村を包み、流れ星がきらりと光った。


 パン屋の前には新しい看板が掛かっていた。


《星灯りの窯

 竜の火で焼いています。

 怖がりな竜なので、やさしく注文してください》


 村人たちはそれを見て笑った。

 ルグは不満そうに鼻を鳴らしたが、看板を外そうとはしなかった。


 その日から、星灯りのパン屋には、前より少し多くの客が来るようになった。


 パンを買いに来る者。

 竜を見に来る者。

 泣き虫な自分を、少しだけ許したくて来る者。


 ヨワはいつも通り、窯の前で笑っていた。

 ルグはその隣で、火加減を見守っていた。


 焦げそうになると、ヨワが言う。


「ルグ、少し弱めて」


「任せろ」


 膨らみが足りないと、ヨワが言う。


「ルグ、少し強めて」


「当然だ」


 焼き上がったパンを見て、ふたりは顔を見合わせる。


「今日も大成功」


「我の火だからな」


「私の生地でもあるよ」


「……では、我らのパンだ」


 ヨワは嬉しそうに頷いた。


「うん。私たちのパン」


 その言葉に、ルグの尻尾がゆっくり揺れた。

 窯の中では、新しいパンが黄金色に膨らんでいく。


 外では月の光が村を包み、流れ星がきらりと光った。それは、ヨワの生地と、ルグの火で焼いた、ふたりのパンだった。


 今日も、誰かのお腹と心を温めるパンが焼き上がる。

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