星明かりのパンと泣き虫な竜
村の外れに、夕方から開く小さなパン屋があった。
店の名前は《星灯りの窯》。
店主はヨワという少女。
屋根には銀色の風見鶏が立ち、窓辺には乾かした林檎と、香草の束が吊るされている。日が沈むころになると、煙突から甘い匂いが流れ出し、仕事を終えた狩人や木こり達は、誰もが少しだけ足を緩めた。
「どうして、このパン屋は、夕方から開いているんだい?」
「早起き苦手なんだよね。それに夕方の方が、みんなお腹を空かせて来てくれるでしょ?」
「確かにな。それにこのパンを食べると、1日の疲れが飛んでしまったみたいだよ」
「ふふふ、ありがとう」
夜更かし少女のヨワが作るパンを食べると、不思議と心が軽くなる。
「まるで、魔法みたいだ。お嬢ちゃんは、魔法使いかい?」
店主のヨワは首を横に振る。
「魔法なんかじゃないよ。温かいものを、誰かと一緒に食べるから、おいしいんだよ」
ヨワはそう言って笑う。
笑うと、頬に小さなえくぼができる。火の粉が舞う窯の前で、ヨワの横顔はいつも橙色に照らされていた。
◇ ◇ ◇
「ふふ、ふーん♪ るるる、ららら♪」
その日も、ヨワはいつものように鼻歌を歌いながら、パンを焼いていた。
蜂蜜を練り込んだお月様みたいな丸パン。
胡桃と干し葡萄を混ぜた雲みたいな黒パン。
それから、今日初めて作る、星の形をした小さな菓子パン。
失敗したらどうしよう。
でも、うまく焼けたら、きっとみんな喜んでくれる。
ヨワは窯の前で両手をぎゅっと握った。胸の奥が、期待で小さく跳ねる。焼き上がるまでの時間が、まるで宝箱を開ける前みたいに長く感じられた。
やがて、窯の中で星形のパンがふっくらと膨らんだ。
「……できた!」
ヨワは思わず声を上げた。
表面は黄金色。端は少しだけ香ばしく、真ん中には溶けた砂糖が薄く輝いている。まるで夜空から落ちてきた星のかけらだった。
最初の一つを割ると、湯気がふわりと広がった。
「うん。これは、きっと大丈夫」
小さな達成感が、胸の中で明るく弾けた。
そのときだった。
店の扉が、どん、と大きく鳴った。
ヨワはびくりと肩を震わせた。
風ではない。誰かが、外から扉にぶつかったのだ。
「いらっしゃいませ?」
返事はなかった。
代わりに、低く、苦しそうなうなり声が聞こえた。
ヨワは恐る恐る扉を開けた。
そこにいたのは、人ではなかった。
月明かりの下、人ぐらいの大きさの竜が倒れていた。
黒曜石のような鱗。傷だらけの翼。家を壊せそうなほど鋭い爪。けれど、その金色の瞳には、獣の怒りではなく、迷子の子どものような涙が浮かんでいた。
「……こわい」
ヨワは息を呑んだ。
竜もまた、かすれた声で言った。
「……こわい」
同じ言葉だった。
ヨワは逃げなかった。
足は震えていた。心臓はうるさいほど鳴っていた。けれど、竜の翼に深い傷があるのを見た瞬間、彼女の中で恐怖よりも強いものが動いた。
「待ってて。包帯を持ってくる」
店の奥へ走る。棚から布を取り、薬草の瓶を掴み、水桶を抱える。手は震えていたが、不思議と体は動いた。今やるべきことだけが、はっきり見えていた。
竜の翼に触れると、竜は小さく身をすくめた。
「痛い?」
「痛い。でも、ひとりのほうが、もっと痛い」
ヨワはその言葉に、胸がきゅっとなった。
「じゃあ、ひとりにしないわ」
薬草を塗ると、竜は情けない声で「ぴゃっ」と鳴いた。
あまりに大きな体から、あまりに小さな声が出たので、ヨワは思わず吹き出してしまった。
「ご、ごめん。だって、竜なのに、声が子猫みたいで」
「笑うな。我は恐ろしい竜だぞ」
「うん。恐ろしい竜さん。涙で鼻が光ってるけど」
「鼻は光っていない!」
竜はそう言って鼻を鳴らした。
すると、鼻先から小さな火花がぽん、と飛び、地面に落ちた。火花は焦げ跡を作るどころか、なぜか丸い煙になって、ふわふわと空へ昇っていった。
ヨワはもう我慢できなかった。
声を上げて笑った。
竜も、最初は不満そうにしていたが、やがて低く喉を鳴らした。
それは笑い声に似ていた。深い洞窟の奥で鐘が鳴るような、不器用で優しい音だった。
傷の手当てが終わるころには、ヨワの震えは少し収まっていた。
「お腹、空いてる?」
竜は目をそらした。
「空いていない」
その直後、竜のお腹が、山崩れみたいな音で鳴った。
「……空いてるね」
「少しだけだ」
「見栄っぱりさんね」
ヨワは星形のパンを持ってきた。竜の口には小さすぎるパンだったけれど、竜は爪の先で慎重につまみ、宝石でも扱うように口へ運んだ。
そして、目を見開いた。
「……甘いぞ。こんな甘い食べ物は初めてだ」
「蜂蜜を入れたの」
「それに、温かい」
「焼きたてだからね」
「……もう一つ、あるか」
ヨワは笑って、皿いっぱいにパンを並べた。
竜は一つ食べるたびに、少しずつ顔をゆるめた。
ヨワも向かいに座り、自分の分をひとつ食べた。外では夜風が森を揺らし、店の外では窯の火がぱちぱちと鳴っていた。
誰かと一緒に食べるパンは、やっぱり一人で食べるよりおいしかった。
しばらくして、竜はぽつりと言った。
「我は、村を襲いに来たのではない」
「うん」
ヨワは、そうだろうなと思っていた。
「山の向こうで、人間に住みかを追われた。火を吐くから、危ないと言われた」
「そうなんだ……」
「でも我は、火を吐きたくて吐くのではない。驚くと出る。泣くと出る。くしゃみでも出る」
「それは……困るね」
「だから、誰も近づかない。近づいても、怖がって逃げる。だから、住みかでひっそり暮らしていたのだが……」
竜は大きな頭を床に置いた。
その姿は、村を滅ぼす怪物というより、居場所をなくした子どものようだった。
ヨワは少し考えてから、竜の鼻先に手を置いた。
鱗は冷たそうに見えたけれど、触れてみると、窯の火みたいに温かかった。
「じゃあ、ここにいればいいよ」
「いいのか?」
「パン、好きでしょ?」
「……好きだ」
「それなら、お客さんだよ」
竜の金色の瞳が揺れた。
「我は、怖くないのか」
「怖かったよ。今も少し怖い。でも、それだけじゃない」
「それだけじゃない?」
「怪我してた。お腹も空いてた。泣いてた。それに、私のパンを美味しそうにたべてた。だから、怖いだけじゃないわ」
竜は黙った。
大きな瞳から、また涙が一粒こぼれた。けれど今度の涙は、さっきより少しだけ静かだった。
そのとき、遠くから鐘の音がした。
村の警鐘だった。
ヨワは窓の外を見た。
松明の光がいくつも森の道を近づいてくる。村人たちだ。竜を追ってきたのかもしれない。
竜の体が強張った。
「逃げる」
「その翼じゃ無理だよ」
「では、戦う」
竜の喉の奥に赤い光が灯った。
ヨワは慌てて、その鼻先を両手で押さえた。
「それは、もっと、だめ!」
「どけ。お前も焼ける」
「焼かないで!」
「なら、どうすればいいというのだ!」
竜の声が震えていた。怒っているのではない。怖いのだ。
ヨワは息を吸った。怖かった。足も震えた。でも、今ここで自分が逃げたら、この竜は本当に怪物にされてしまう。
扉の外に出る。
松明を持った村人たちが、ヨワを見つけて叫んだ。
「ヨワ! 離れろ!」
「竜だぞ!」
「火を吐く化け物だ!」
ヨワは両手を広げた。
「この子は、化け物じゃない!」
声は思ったより大きく出た。
自分でも驚いた。胸はまだどきどきしている。だけど、そのどきどきは、ただの恐怖ではなかった。大切なものを守るために、前へ出る力だった。
「怪我をしてるだけ! お腹が空いてるだけ! 怖がってるだけ!」
村長が眉をひそめた。
「怖がっているのは、こちらも同じだ」
「うん。だから、いきなり仲良くなってとは言わない」
ヨワは店に戻り、星形のパンを籠に入れて持ってきた。
「でも、まずみんなこれを食べて。竜さんも、みんなも」
村人たちは困惑した。
こんな夜に、竜を前にして、パンを配るなど聞いたことがない。
けれど、最初に小さな男の子が手を伸ばした。
ヨワのパンをよく買いに来る子だった。
「ぼく、食べる」
男の子がパンをかじる。
さく、と小さな音がした。
「おいしい」
その一言で、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
一人、また一人とパンを受け取る。
竜は店の入口で身を縮めながら、それを見ていた。大きな体をできるだけ小さくしようとしているのが、かえって少しおかしかった。
やがて、さっきの男の子が竜に近づいた。
「竜さんも、パン好き?」
竜は固まった。
「……好きだ」
「じゃあ、ぼくと同じだ」
男の子は笑った。
竜はどうしていいかわからない顔をした。
それから、ほんの少しだけ頭を下げた。
「我は、びっくりすると火を吐くかもしれない」
「じゃあ、びっくりさせないようにする」
「くしゃみでも出る」
男の子は、困った顔をした。
そこで、ヨワは、指差しながら言った。
「くしゃみするときは、窯に向かってやってね」
ヨワが指差した先には、丈夫な窯があった。
毎日のパンを焼くための、どんな高温にも耐える窯だった。
「私のパンを焼くのを手伝ってね」
村人の誰かが、思わず笑った。
それにつられて、別の誰かも笑った。怖さは消えていない。けれど、笑い声が少し混ざるだけで、夜の重さは変わっていった。
村長は長い沈黙のあと、ため息をついた。
「……翼が治るまでだ」
ヨワの顔が明るくなった。
「じゃあ、これからは私のお手伝いさんね!」
村人達の一人が、付け加える。
「ただし、村を焼いたら追い出す」
竜は真剣な顔で頷いた。
「焼かない。たぶん」
「たぶんでは困る」
「努力する」
また誰かが笑った。
それから数日、竜はパン屋の裏庭で暮らした。
名前は、ルグになった。
本人は「我に名など不要」と言ったが、ヨワが「注文を聞くときに不便」と言うと、なぜか納得した。
ルグは火を吐くのが苦手だった。
けれど、火加減だけは驚くほど上手だった。窯の火が弱くなると、鼻先から細く炎を吹き、薪にちょうどよく火を移した。
「すごい! ルグのおかげで、今までで一番きれいに焼けた!」
ヨワがそう言うたび、ルグはそっぽを向いた。
「当然だ。我は竜だからな」
けれど尻尾は、嬉しそうに左右へ揺れていた。
村人たちも、少しずつルグに慣れていった。
子どもたちは遠巻きに見ていたが、やがてパンくずを持って近づくようになった。老人たちは、背中を温めるのにちょうどいいと言って、ルグのそばに椅子を置くようになった。
ある雨の日、ルグは小さなくしゃみをした。
「くしゅん」
炎がぽっと出た。
それは雨に濡れた薪に移り、消えかけていた焚き火を再び灯した。
村の男が目を丸くした。
「助かった。今日は火がつかなくて困っていたんだ」
ルグはしばらく黙っていた。
それから、低い声で言った。
「……我の火は、役に立つのか」
「そりゃあ、使い方次第だろう」
その言葉は、ルグの胸に深く染み込んだ。
危ないだけだと思っていた力。
誰かを怯えさせるだけだと思っていた火。
それが、誰かを温めることもある。
夜、ヨワは新しいパンを焼いた。
名前は《竜の火パン》。表面は香ばしく、中はふわふわで、ほんの少しだけ煙の香りがした。
村人たちはそれを食べて、口々に言った。
「うまい」
「体が温まる」
「また食べたい」
ルグは店の外で聞いていた。
やがて、巨大な体を丸めて、鼻先を翼の下に隠した。
「泣いてる?」
ヨワが尋ねる。
「泣いていない」
「鼻、光ってるよ」
「光っていない」
ヨワは隣に座った。
何も言わずに、ルグの翼に毛布をかけた。
竜に毛布など小さすぎたが、ルグはそれを大切そうに受け入れた。
空には雲が切れ、星が出ていた。
パン屋の窓から漏れる灯りが、庭の草を柔らかく照らしている。遠くで虫が鳴き、窯の火は静かに燃えていた。
ヨワは星形のパンを半分に割った。
「はい、半分こ」
ルグはそれを見つめた。
「なぜ半分にする。もう一つ作ればいいだろう」
「一緒に食べると、おいしいから」
ルグは爪の先で、そっとパンを受け取った。
ふたりは並んで食べた。
甘くて、温かくて、少しだけ焦げていて、でもそれがよかった。
「ヨワ」
「なに?」
「我は、ここにいてもいいのか」
ヨワは即答した。
「いいよ」
「火を吐くぞ」
「知ってる」
「鋭い爪もあるぞ」
「見ればわかる」
「泣き虫だぞ」
「それも知ってる」
ルグはしばらく黙って、それから小さく言った。
「……なら、いることにする」
ヨワは笑った。
「うん。いて」
その夜、村の人々はいつもより早く眠った。
お腹には温かいパン。胸には少しの安心。窓の外には、村を焼くためではなく、村を温めるための竜の火。
そしてルグは、パン屋の裏庭で初めて、誰にも追われる夢を見なかった。
夢の中で、彼は空を飛んでいた。
背中にはヨワが乗っている。村人たちは下から手を振っている。ルグが火を吐くと、それは恐ろしい炎ではなく、夜空に咲く金色の花火になった。
ヨワが笑う。
「ほら、きれい」
ルグは少し照れながら答えた。
「当然だ。我は竜だからな」
その声は、もう震えていなかった。
◇ ◇ ◇
次の日の夕方、星灯りの窯に火が入るころ、外では月の光が村を包み、流れ星がきらりと光った。
パン屋の前には新しい看板が掛かっていた。
《星灯りの窯
竜の火で焼いています。
怖がりな竜なので、やさしく注文してください》
村人たちはそれを見て笑った。
ルグは不満そうに鼻を鳴らしたが、看板を外そうとはしなかった。
その日から、星灯りのパン屋には、前より少し多くの客が来るようになった。
パンを買いに来る者。
竜を見に来る者。
泣き虫な自分を、少しだけ許したくて来る者。
ヨワはいつも通り、窯の前で笑っていた。
ルグはその隣で、火加減を見守っていた。
焦げそうになると、ヨワが言う。
「ルグ、少し弱めて」
「任せろ」
膨らみが足りないと、ヨワが言う。
「ルグ、少し強めて」
「当然だ」
焼き上がったパンを見て、ふたりは顔を見合わせる。
「今日も大成功」
「我の火だからな」
「私の生地でもあるよ」
「……では、我らのパンだ」
ヨワは嬉しそうに頷いた。
「うん。私たちのパン」
その言葉に、ルグの尻尾がゆっくり揺れた。
窯の中では、新しいパンが黄金色に膨らんでいく。
外では月の光が村を包み、流れ星がきらりと光った。それは、ヨワの生地と、ルグの火で焼いた、ふたりのパンだった。
今日も、誰かのお腹と心を温めるパンが焼き上がる。




