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悪徳弁護士、異世界へ行く

作者: 埴輪庭

 ◆


 岩肌を舐める熱波が、肺腑をじりじりと焼いていく。


 アレリアは熱気で歪む視界の端で、聖女クラーラの法衣が焦げ付くのが見た。喉の奥に広がる鉄錆の味の苦さときたら。


 愛剣を構え直す。


 聖剣の刃の切っ先がわずかに震えている。


 目前に聳え立つのは、絶望そのものといえる巨体だった。


 火魔竜ブレイズスターである。この先へ進むためにはこの恐るべき古竜をどうにかしなければならない。


 あかがね色の鱗はマグマの輝きを宿し、吐息ひとつで岩盤を溶解させる怪物だ。賢者モウラが張った多重結界は、竜の爪の一撃でガラス細工のように砕け散った。剣聖ヨシュアの神速の連撃でさえ、硬質な鱗に阻まれて浅い傷をつけるのが精一杯だ。


 アレリアは唇を噛んだ。


 勝てない──少なくとも、今の消耗しきった仲間たちでは。


 竜の喉元が赤熱し、周囲の大気が歪み始めた。極大の火炎ブレスが来る。


 あれを食らえば、骨も残らない。


 アレリアが視線を走らせると、岩陰にへばりつくようにしてうずくまっている男がいる。薄汚れた灰色のスーツに丸眼鏡。中年太りの腹を抱え、必死に気配を消そうとしているその姿は英雄譚の登場人物には到底見えない。


 だがこの男こそがまさにこの勇者パーティの最終兵器なのだ。


 ◆


「カネツグ。お願い、助けて」


 男はアレリアの悲痛な叫びに大げさに肩をすくめてみせた。


 眼鏡の奥の細い目が、値踏みするように光る。


「おやおや、アレリアさん。契約内容を覚えておいでですか。私の業務範囲はあくまで法的助言と事後処理。戦闘行為への直接介入は別料金となりますが」


「払う。払うから。言い値でいいから何とかして」


 その言葉を聞いた瞬間、カネツグと呼ばれた男の顔に浮かんだのは、獲物を前にした爬虫類のような粘着質な笑みだった。彼は懐から手帳を取り出し、パチンと指を鳴らす。


「商談成立ですね。では──」


 カネツグは岩陰から飛び出すと、燃え盛る竜の喉元へ向かって右手を突き出し、高らかに叫んだ。


「ちょっと待ったァ!!」


 と。


 ◆


 世界が凍りついた。


 ブレイズスターの口から溢れ出そうとしていた紅蓮の炎が、空中で凝固した飴細工のように停止したのだ。舞い上がる火の粉、崩れ落ちる岩片、そしてアレリアたちの驚愕の表情さえもが、その場に縫い止められている。


 動いているのはカネツグと、そして眼前の巨竜のみ。


 ブレイズスターの黄金の瞳が、困惑に見開かれた。己の最強の矛がちっぽけな人間の言葉ひとつで封じられた事実に知性が追いつかない。


『……何事だ。貴様、何をした』


 竜の腹の底から響くような声は、重低音となって鼓膜を震わせる。カネツグは臆する様子もなく、スーツの埃を払いながら歩み寄った。その足取りはまるで地方裁判所の廊下を歩く古株弁護士のようにふてぶてしい。


「お初にお目にかかります。(ワタクシ)、勇者パーティ付き代理人、カネツグと申します」


『人の分際で我のブレスを止めたのか。解せぬ。即刻、灰にしてくれる』


「おっと、それはおすすめしませんねえ」


 カネツグは眼鏡の位置を直しながら、手にした手帳をパラパラとめくった。


「貴殿の攻撃は現在、仮処分申請により一時凍結されております。無理に動けば、この場の支配権を持つ『大いなる神の意思』による強制執行が行われる。竜といえど世界の理には逆らえますまい。まあ、逆らう気も起きないでしょうが」


 ブレイズスターは鼻孔から煙を吹き出した。確かに、体が鉛のように重く、爪一本動かせない。この矮小な男が展開した不可解な術理が空間そのものを支配している。


『……ほう。我と問答しようというのか。面白い。して、何の用だ』


「単刀直入に申し上げましょう。貴殿に対し、即時の戦闘停止ならびに、これまでの精神的苦痛に対する損害賠償を請求いたします」


『笑止。我はこの火山の主である。侵入者を排除するのは主としての正当なる権利』


 竜の言葉に、カネツグはニヤリと口角を上げた。待ってましたと言わんばかりの表情だ。


「正当なる権利、とおっしゃいましたな。ええ、確かに。縄張り意識というのは生物の根源的欲求であり、一定の理解は示しましょう。しかしですね」


 カネツグは芝居がかった仕草で空を仰ぐ。


「貴殿、竜族に伝わる『古き竜の盟約』をお忘れか」


『……盟約だと』


「『高貴なる者はその力を誇示するにあたり、相手に応じた礼節を持たねばならない』。そしてこう続く。『戦う力を持たぬ定命の者に対し、力の限りを注ぐようなことをしてはならない。それは竜の品格を損なう』」


 カネツグはもったいぶって言葉を切ると、ブレイズスターを指さした。


「見なさい、彼らを。貴殿に比べればなんと脆弱なことか。そんな相手に対し、いきなり最大出力のブレスをお見舞いする。これは明らかに『品格保持義務違反』に該当します。貴殿の行為は、誇り高き竜族の風上にも置けない、極めて野蛮かつ下品な過剰攻撃なのですよ」


 竜の喉が唸りを上げた。その言葉は竜の矜持を逆撫でするに十分だった。


『詭弁を弄するな。あの剣持ちの小娘は我の鱗を傷つけたぞ。羽虫ではない、敵だ。敵に対し全力をもって応えるのは戦士の礼儀であろう』


「異議あり!」


 カネツグの声が響く。


「アレリアさんの攻撃は、貴殿が問答無用で襲い掛かってきたことに対する、やむを得ない正当防衛です。そもそも、事の発端を確認しましょう。我々はただこの火山の向こう側へ抜けようとしていただけ。貴殿の巣を荒らしましたか。卵を盗みましたか。いいえ、何もしていない。ただ通りがかっただけの旅人に対し、挨拶もなしに火炎を浴びせかけた。これは過剰防衛を通り越して、通り魔的犯行と言わざるを得ない」


『ここは我の領域だ。足を踏み入れること自体が不敬なのだ』


「領域、ねえ」


 カネツグは懐から羊皮紙のようなものを取り出した。どこから出したのか、それは古びた地図のようにも見える。


「調べさせてもらいましたよ。この火山地帯、確かに貴殿の住処ではありますが、同時に渡り鳥のルートであり、地底に住むドワーフたちの交易路とも重なっている。いわば『共有地』としての側面も持っているわけです。それを独占し、通行の許可も与えず命を奪おうとする。これは『共存の掟』に対する重大な違反だ」


 ブレイズスターは焦りを感じ始めていた。男の言葉は屁理屈だ。だが不思議なことに、筋が通っているように聞こえる。竜族の盟約も、共存の掟も、確かに古くから存在する不文律だ。それをこのように解釈し、突きつけられるとは。


『……我は警告した。咆哮を上げたはずだ』


「ああ、あの大きなあくびのことですか」


 カネツグは鼻で笑った。


「あれを警告と受け取れる生物がどれだけいますかね。音量こそ大きかったものの、殺気もなければ明確な意思表示もなかった。あれは環境騒音です。法的効力を持つ『警告』とは認められません。警告なしの実力行使は、いかなる法体系においても違法性が高い。貴殿、立場が悪いですよ」


『ぐ、ぬ……』


 竜の反論が詰まる。カネツグはその隙を見逃さない。


「ここで和解に応じるなら、ブレスの使用差し止めと安全な通行権の保証だけで手を打ちますが」


 ブレイズスターは葛藤した。本能はこの男を焼き尽くせと叫んでいる。だが男の言葉に宿る()()()が、竜の魂を縛り付けていた。論理で負ければ、罰を受ける。その予感が巨体を萎縮させる。


『……我の、負けだというのか。たかが人間風情の口先に』


「口先ではありません。ルールです」


 カネツグは眼鏡を光らせ、冷徹に言い放つ。


「力ある者ほど、ルールには縛られる。それが社会というものです。貴殿がただの野獣ならともかく、知性ある竜を自負するなら従うべき道理があるはずだ」


 ブレイズスターは長く息を吐いた。その瞬間、空中で凝固していた炎がさらさらと灰になって崩れ落ちる。時の停止が解けかけているのだ。しかしそれは攻撃の再開を意味しない。竜の戦意がへし折られたからだ。


『よかろう。通行を許可する。……二度と、我の前に顔を見せるな』


「賢明なご判断です。では示談成立ということで」


 カネツグがパチンと指を鳴らすと同時に、世界が動き出した。


「──え」


 アレリアが素っ頓狂な声を上げた。目の前に迫っていた死の炎が、幻のように消滅している。身構えていたヨシュアも、結界を維持していたモウラも、ぽかんと口を開けてその光景を見つめていた。ブレイズスターは忌々しげに鼻を鳴らすと、巨大な翼を広げて飛び去っていく。


 静寂が戻ったその場に、カネツグが手帳をしまう乾いた音が響いた。


「さ、終わりましたよ。先へ進みましょう」


 何事もなかったかのように歩き出すカネツグの背中に、アレリアが慌てて駆け寄る。


「ちょ、ちょっと。何したの。あの竜、逃げてったよ」


「ご安心めされよ。和解──いや、実質的に勝訴といえるでしょう」


「そ、そうなんだ……あ、ありがとう。今回も助かったよ……」


 カネツグは足を止め振り返り、右手を差し出した。


「さて、アレリアさん。報酬の件ですが。今回は『魔竜との交渉および和解』、さらに『特殊技能使用料』、『精神的負担に対する手当』を含めまして……金貨五百枚といったところでしょうか」


「ご、五百ぅ」


 アレリアの絶叫がこだまする。クラーラがため息をつき、ヨシュアが呆れたように肩をすくめた。モウラに至っては「やはりあの男は竜よりタチが悪い」とぼやいている。


 カネツグは悪びれる様子もなく、ねっとりとした口調で続けた。


「命の値段としては破格の安さだと思いますがねえ。ああ、分割払いも可能ですが、その場合は利息がつきますのでご用心を」


 アレリアはがっくりと項垂れる。そのザマを見ながら、カネツグは密かに舌なめずりをした。


 ◆


「あのう、カネツグさん」


 クラーラの声が焦げた法衣を払いながら響いた。普段は穏やかな聖女の口調に、かすかな棘が混じっている。


「金貨五百枚は法外です。私たちの旅費を考えてください。私たちは仲間ではありませんか、もう少し手心というものを──」


「おやおや、クラーラさん。聖職者たるもの、清貧を旨とするのではありませんでしたか。金銭に執着するのはいかがなものかと」


「それはあなたに言われたくありません」


 ヨシュアが無言で剣を鞘に収める。その動作は静かだったが、眉間に刻まれた皺が雄弁に不満を語っていた。モウラは杖を突きながら、わざとらしく咳払いをして口を開く。


「まったく、この爺にも若い頃があってな。いろんな冒険者や商人を見てきたが、おぬしほど銭に汚い人間は初めてじゃ。竜より厄介とはさっきも言うたが、撤回せんぞ」


「光栄ですね。厄介であることは有能の証明ですから」


 カネツグは飄々と受け流す。その態度がまた神経を逆撫でするのだとなぜ分からないのだろう。アレリアは仲間たちのやり取りを聞きながらぼんやりとこんな事を思った。


 ──悪い人じゃ、ないんだよねえ。


 そう思いながらも、口には出せない。出せばきっとまた何かの交渉材料にされる。この男は人の善意すら換金する術を知っているのだ。これまでの旅で、それはうんざりするほど理解した。


 アレリアは小さく息を吐きながら、記憶の糸を手繰り寄せた。出会いはもう半年も前になるだろうか。リーガル王国の王都、その中央神殿で神託を受けたのは、春の終わりのことだった──。


 ◆


 聖堂に差し込む光がまるで天上から降り注ぐ祝福のように身体を包んだあの感覚を、アレリアは今でも鮮明に覚えている。神官長が厳かに告げた言葉は十六年間ただの村娘として生きてきた少女の運命を根底から覆すものだった。


「汝、アレリアを勇者として選定する。魔王を討ち、世界に平穏を取り戻すべし」


 選ばれた理由は分からない。特別な血筋があるわけでもなく、剣の腕が立つわけでもなかった。しかし聖剣が自分を認めてくれた。神殿の奥深くに封印されていた刃が、触れた瞬間に淡い光を放ち、まるで古い友人に再会したかのように掌に馴染んだのだ。


「真の勇者には必ず真の仲間が現れます」


 神官長はそう言った。神に選ばれし勇者には、同じく神に選ばれた仲間と巡り合う宿命があるのだと。彼らは世界のどこかで勇者の出現を待っている。出会うべき時が来れば自然と引き寄せられる──らしい。


「運命を信じなさい」


 信じた。だから王都を出立する前に、まず酒場へ向かったのだ。英雄譚の常道として、冒険者が仲間を求める場所といえば酒場と相場が決まっている。


 神官長からは「魔王軍の刺客がどこに潜んでいるか分からぬゆえ、勇者であることは決して公にしてはならぬ」と厳命されていたが、それでも運命の仲間なら、きっと気づいてくれるはずだと思った。


 甘かった。


『白鯨亭』と掲げられた看板をくぐった瞬間、場の空気が変わるのを感じた。昼間から酒を煽る荒くれ者たち、煙草の煙、饐えた麦酒の匂い。


 そのすべてが場違いな侵入者を見定めるような視線となって突き刺さる。


 カウンターに近づき、できるだけ落ち着いた声で「腕の立つ冒険者を探している」と告げたとき、酒場全体に嘲笑が広がった。


「おいおい、嬢ちゃん。迷子か」


「ここはガキの来る場所じゃねえぞ。乳母のところへ帰んな」


 無理もない。鏡に映る自分の姿を思い出す。小柄で華奢な体躯、幼さの残る顔立ち。どこからどう見ても冒険に出るような人間には見えないだろう。


 聖剣は布で包んで背負っていたし、神の加護も外見からは窺い知れない。


 何度も呼びかけはした。真剣に仲間を探しているのだと、報酬も出すと。だが誰も耳を貸さなかった。せいぜい「可愛い顔してるから、酌婦でもやったらどうだ」と下卑た笑いを向けられるのが関の山で、真面目に取り合う者などひとりもいない。


 日が傾き始めた頃、諦めて店を出ようとしたときだった。


「おう、待てよ嬢ちゃん」


 出口を塞ぐように、三人の男が立っていた。革鎧を纏い、腰には剣を帯びている。冒険者だろう。ただし、その目つきには善良さの欠片も見えなかった。


「さっきから見てたぜ。仲間を探してんだろ。俺たちが相手してやろうか」


「結構です」


 素っ気なく答えて横を通り抜けようとしたが、腕を掴まれた。男の手は大きく、容易には振りほどけない。


「つれねえな。せっかくの申し出だぜ。ま、仲間ってのは建前でよ、本音を言やあ、お前さんみたいな上玉を放っておく手はねえって話さ」


 下品な笑いが重なる。周囲の客たちは見て見ぬふりを決め込んでいた。酒場のトラブルに首を突っ込む物好きなどいない。聖剣で脅せばどうにかなるだろうかと考えるが、すぐにその考えを打ち消した。


 剣なぞただの一度も振った事がないのだ。それに、剣をつきつければ相手も剣を抜くだろう。その後はどうなる? 殺し合うのか? 


 ──無理だよ……


 弱きの虫が顔を出す。


 そんな時であった。


「困っておられますね」


 ねっとりとした声が背後から聞こえた。


 振り向くと、そこに男が立っていた。薄汚れた灰色の上着に丸眼鏡。中年太りの腹を抱え、どこか爬虫類を思わせる細い目でこちらを見ている。冒険者には到底見えない。かといって、商人にも学者にも見えない。ただひとつ確かなのは、その佇まいが酒場の喧騒と決定的に異質だということだった。


「なんだてめえは。引っ込んでろ」


 男たちのひとりが凄んだ。だが灰色の男は怯む様子もなく、むしろ愉快そうに口角を上げる。


「いえいえ、私はただの通りすがりでして。ただ、お嬢さんがお困りのようでしたので、ひとつお聞きしようかと」


 男はアレリアに向き直り、丁寧に頭を下げた。


「助けてほしいですか」


 その問いかけはあまりにも直截だった。回りくどい言い回しも下心を匂わせる素振りもない。ただ純粋に、イエスかノーかを問うている。


「……はい」


 気づけば、そう答えていた。


 男は満足げに頷くと、懐から何やら紙束を取り出した。羊皮紙に細かな文字がびっしりと並んでいる。


「ではこちらにサインを」


「は」


「契約書です。私があなたを助ける代わりに、あなたは私の依頼人となる。報酬は後払い、内容は成功報酬型。悪い話ではないでしょう」


「いや、ちょっと待って。契約って──」


「待てませんね。時間は金なりです。彼らが痺れを切らす前に、決断を」


 男たちが苛立ちを露わにし始めていた。アレリアは混乱しながらも、差し出された羽ペンを握り、仕方なく名前を書く。

 。

「商談成立。ではさっそく業務に取り掛かりましょう」


 男は冒険者たちに向き直ると、右手を突き出す。魔術かなにかだろうか。男たちは困惑しているようだ。


「な、なんだこりゃ」


「動けねえ。おい、何しやがった」


「落ち着いてください。これから、ちょっとした手続きを行うだけですから」


 男は懐から手帳を取り出し、ぱらぱらとめくった。


「さて、あなたがたは『赤牙団』の末端構成員ですね。この街で活動する中堅どころの傭兵ギルドです。その赤牙団ですが、入団時に誓約させられる『鉄の掟』がありますね」


「な、なんで知って──」


「仕事ですから。で、その掟の第七条。『一般市民への不当な暴力、恐喝、脅迫行為を禁ずる。違反した者は右腕を切り落とされる』。ふむ、随分と物騒な罰則ですが、荒くれ者を束ねるにはこのくらいの厳しさが必要なのでしょう」


 男たちの顔から血の気が引いた。


「ま、待て。俺たちはまだ何も──」


「いいえ。あなたがたは先ほど、このお嬢さんの腕を掴み、明確な脅迫の意思を示しました。『上玉を放っておく手はない』、でしたか。これは性的暴行を示唆する発言であり、一般市民への脅迫行為に該当します。よって、掟第七条違反。罰則は右腕切断」


「ふ、ふざけんな。そんな屁理屈が──」


「屁理屈ではありません。ルールです」


 男の声が急に低くなった。


「あなたがたは赤牙団の一員である以上、その掟に縛られる。そして私は今、その掟を根拠にあなたがたを告発している。反論があるならどうぞ。もっともな内容であれば、あなたがたは再び動けるようになるはずです」


 沈黙が落ちた。男たちは必死に言葉を探しているようだったが、何も出てこない。やがて、リーダー格と見られる男が屈した。


「わ、分かった。悪かった。もう絡まねえから、勘弁してくれ」


「お。素直でよろしい。では示談成立ということで。今後このお嬢さんに近づいたら、掟を根拠に罰則の適用を求めますのでお忘れなく」


 パチン、と指が鳴る。


 男たちは弾かれたように立ち上がり、逃げるように酒場を出て行った。後に残されたのは、呆然と立ち尽くすアレリアと何事もなかったかのように手帳をしまう灰色の男だけだった。


「さて」


 男はにっこりと笑った。その笑みには爬虫類じみた粘着質な光が宿っている。


「改めまして。私、カネツグと申します。今後、あなたの法的問題一切を担当させていただきます。契約期間は無期限、解約には違約金が発生しますのでご注意を」


「む、無期限──」


「ええ。先ほどサインしていただいた契約書に、そう書いてありましたよ。読まなかったんですか。いやあ、契約書はちゃんと読まないと駄目ですねえ」


 アレリアは愕然とした。確かに、読まなかった。読む暇などなかった。だがそんな言い訳が通用する相手ではないことは、すでに骨身に染みている。


「あ、あの。私、お金とかあんまり──」


「大丈夫です。勇者様でしょう。国からの支援金が出ますよ」


「な、なんでそれを知って」


「分かりますとも。神に選ばれし者の気配というのは、隠しきれるものではありません。それに、その背中の包み。聖剣でしょう。見る目があれば、一目瞭然です」


 アレリアの背筋が凍った。正体がばれている。この男、一体何者なのか。


「ご安心を。私は口が堅いのが取り柄でして。依頼人の秘密は墓場まで持っていきます。ただし、追加料金はいただきますが」


「……あなた、何者なの」


「ただの弁護士ですよ。少々変わった能力を持った、ね」


 カネツグは眼鏡の位置を直しながら、飄々と答えた。


「勇者様にはこれから様々な困難が待ち受けているでしょう。魔王軍との戦い、各国との交渉、仲間との軋轢。そのすべてにおいて、法的な観点からのサポートが必要になる場面が必ず来ます。私はそのためにいる。いわば、保険ですね」


「保険……」


「ええ。高い保険ほど、いざというとき頼りになるものです」


 こうして男──カネツグは勇者パーティの最初の仲間となったのだ。


 ・

 ・

 ・


 回想から意識が戻る。


 目の前では相変わらずモウラがカネツグに小言を言い、クラーラが呆れた顔で見守っている。ヨシュアは我関せずといった様子で先を歩いていた。


 ◆


 その夜、カネツグは宿の自室で帳簿を整理していた。


 蝋燭の灯りが揺れるたび、羊皮紙に記された数字が踊るように見える。今回の火魔竜との交渉で得た金貨五百枚。そこから経費を差し引いて、手元に残るのは四百八十枚といったところか。悪くない稼ぎだった。


 帳簿を閉じ、寝台に身を投げ出す。天井の木目を眺めながら、ふと思い出したのはこの世界に来る前のことだった。あれからもう半年以上が経つ。記憶は鮮明なままだが、どこか他人事のようにも感じられる。死の瞬間というのは、そういうものなのかもしれない。


 銭丸金次──それが前世での名だった。


 東京の一等地にオフィスを構える弁護士。表向きは「困っている人の味方」を謳い、裏では勝つためなら手段を選ばない訴訟屋として知られていた。法曹界では「銭ゲバ金次」の異名で呼ばれ、同業者からは蛇蝎のごとく嫌われていた。


 依頼人の利益のためなら、相手方への執拗な書面攻撃も厭わなかった。些細な手続きミスを針小棒大に取り上げて相手の弁護士を追い詰め、裁判官に対してさえ、過去の判例の矛盾を執拗に突いて心証を操作した。勝訴率は九割を超えていたが、その勝利の多くは法の精神とは程遠い場所で勝ち取られたものだった。


 ある離婚訴訟では、依頼人である夫が不貞行為を働いていたにもかかわらず、妻側にも婚姻関係破綻の原因があったと主張して争った。妻が夫の帰宅時間に口うるさく干渉したこと、家計管理を一方的に握っていたこと、夫の趣味を認めなかったこと——それらを「精神的な圧迫」として積み上げ、いわゆる「有責配偶者からの離婚請求」として門前払いされるはずの案件を、双方に責任があるという構図に持ち込んだ。


 民法第七百七十条の離婚原因、第七百五十二条の夫婦の同居・協力・扶助義務。


 金次はそれらの条文を逆手に取り、妻の行為が扶助義務違反に当たると論じた。裁判所は完全には認めなかったものの、金次の執拗な主張により慰謝料は大幅に減額された。妻が法廷で泣き崩れるのを見ながら、金次は内心で舌なめずりをしていた。依頼人が喜び、報酬が支払われる。それ以外に、何の意味があるというのか。


 別の案件では、構造上の問題を抱えたマンションを販売した不動産業者の弁護を引き受けた。被害者である住民たちは、壁のひび割れや雨漏り、断熱材の施工不良に苦しみ、中には健康被害を訴える者もいた。


 住民側は宅地建物取引業法に基づく重要事項説明義務違反と、民法の契約不適合責任を主張していた。しかし金次は、売買契約書に記載された「現状有姿」条項と、引き渡し時の検査で住民側が異議を述べなかった事実を盾に取った。


 消費者契約法第十条は、消費者の利益を一方的に害する条項を無効とする。だが金次は、契約時に住民らが宅建士から説明を受け、書面に署名押印していた事実を強調し、「情報の非対称性はなかった」と主張した。さらに、住民側が入居後すぐに補修を要求しなかったことを「追認」と位置づけ、契約不適合責任の期間制限を援用した。民法第五百六十六条の一年という期間制限。金次はその計算起点を巧みに操作し、多くの請求を時効消滅させることに成功した。


 住民たちの怒りと絶望の視線を浴びながら法廷を後にするときの足取りは軽かった。


 金さえ払えば、どんな依頼でも引き受けた。


 詐欺商法の経営者、違法な高金利で貸し付けを行う業者、労働法を無視して従業員を酷使する企業。彼らの汚れた金を受け取り、その責任を軽くするために知恵を絞る。


 法律は道具だ。使い方次第で、どんな結果でも導き出せる。金次はそう信じていたし、実際にそうやって生きてきた。だが、すべての依頼が暗黒面に属していたわけではない。


 時折、金次は世間の耳目を集める「正義の案件」を引き受けることがあった。善意からではない。知名度を上げるためだ。悪徳弁護士という評判は一定の顧客層には魅力的に映るが、それだけでは事務所の看板が曇る。時には白い仕事をして、メディアに顔を売る必要があった。


 三年前の「永田議員公用車事故事件」はその最たる例だった。


 与党の重鎮、永田孝之の秘書が運転する公用車が、深夜の繁華街で歩行者を撥ねた。永田議員本人は後部座席に乗っており、事故直後に現場を離れていた。被害者は大学生の女性で、脊髄損傷により下半身不随となった。


 事件は大きく報道され、世論は真相究明と責任追及を求めた。だが永田議員は政界の大物であり、その人脈は警察にも検察にも及んでいた。


 そんな中、金次は被害者側の代理人として名乗りを上げた。


 テレビカメラの前で滔々と正義を語った。「法の下の平等」「権力による司法介入の許されなさ」「一人の若者の未来を奪った罪の重さ」。その言葉は切々と響き、視聴者の心を打った。


 誰も知らなかったのは、金次が前日まで永田側からの依頼を待っていたことだ。しかし議員は別の弁護士を選んだ。ならば、敵に回って叩き潰すまでのこと。


 裁判は熾烈を極めた。永田側は大手法律事務所の弁護団を組み、あらゆる手段で責任を限定しようとした。秘書個人の過失であり、議員は単なる同乗者に過ぎないと。


 だが金次は彼ら以上に手段を選ばなかった。運転していた秘書の過去の違反歴を洗い出し、その人物を運転手として使い続けていた議員事務所の安全管理体制を問題にした。使用者責任──民法第七百十五条。金次はこの条文を武器に、議員事務所を被告に加えることに成功した。さらに、事故当夜の行動を分刻みで再構成し、議員が現場を離れたのは救護義務違反に当たると主張した。道路交通法第七十二条は交通事故に関係した者に負傷者の救護と警察への報告を義務付けている。


 たとえ運転していなくとも、同乗者として現場にいた議員には一定の義務があったはずだと。


 検察は議員本人の刑事責任については不起訴としたが、民事裁判では金次の主張が功を奏した。議員事務所には多額の賠償金支払いが命じられ、永田議員は世論の批判を浴びて政治的影響力を大きく失った。


 被害者の家族が涙ながらに感謝の言葉を述べるのを、金次は無表情で聞いていた。彼らの感謝など、金次にとってはどうでもよかったからだ。重要なのはこの勝利がもたらす宣伝効果と今後の高額案件の増加だ。


 握手を求められれば応じたし、カメラに向かっては謙遜の言葉を並べた。だがその目は、常に次の獲物を探していた。


 二年前には冤罪事件も手がけた。


 地方都市で起きた強盗致傷事件。逮捕されたのは現場近くに住む三十代の男性だった。彼には動機も機会もなく、アリバイさえあった。だが被害者の証言が決め手となり、起訴された。「あの男に間違いない」という言葉だけで、一人の人間の人生が奪われようとしていた。


 金次がこの案件に興味を持ったのは、検察の動きに不審な点があったからだ。証拠開示が異常に遅く、弁護側の請求はことごとく却下される。何かが隠されている。その直感は正しかった。


 独自の調査を進めるうち、驚くべき事実が浮かび上がった。被害者の証言は、捜査官の誘導によって作られたものだった。さらに、現場から採取された遺留物の鑑定結果が被告人と一致しないにもかかわらず、その報告書は検察の手元で「整理中」とされ、弁護側に開示されていなかった。


 刑事訴訟法第二百九十九条は、検察官に証拠の事前開示を義務付けている。金次はこの義務違反を徹底的に追及した。法廷では冷徹に、記者会見では情熱的に、検察の不正を糾弾した。証拠隠しは違法捜査であり、公正な裁判を受ける権利を侵害するものだと。


 世論は沸騰し、検察庁は内部調査を余儀なくされた。最終的に、被告人は無罪を勝ち取り、担当検察官は監督責任を問われた。冤罪被害者は泣きながら金次の手を握り、「あなたがいなければ、私は今頃刑務所の中でした」と繰り返した。


 金次はその手をそっと外しながら、内心でため息をついていた。美談として語られるこの事件も結局は計算の産物だ。検察と対決するという構図はメディア受けが良い。冤罪被害者の救済というストーリーは世間の同情を集めやすい。すべては知名度向上のための投資であり、人助けなどという崇高な動機は、金次の辞書には載っていなかった。


 三件目は再開発に伴う立ち退き問題だった。


 都心の再開発地区に建つ築四十年の賃貸マンション。住民の多くは高齢者で、長年この場所で暮らしてきた人々だった。だが大手不動産会社がこの土地に目をつけ、建物の所有者と組んで立ち退きを迫り始めた。


 借地借家法第二十八条は、賃貸人からの契約解除には「正当事由」が必要だと定めている。建物の老朽化や再開発の必要性だけでは、正当事由とは認められない。住民側の居住の必要性、代替住居の確保可能性、立退料の提示額——これらを総合的に考慮して判断される。


 提示された立退料は近隣の相場を大きく下回るものだった。住民たちは抵抗したが、相手は資本と法務部門を持つ巨大企業だ。連日のように「任意の退去」を求める通知が届き、中には執拗な電話や訪問を受けた者もいた。

 金次が介入したのは、この案件がニュースで取り上げられた直後だった。


「弱者対巨大資本」という構図は視聴率が取れる。金次は住民代表と面会し、成功報酬型の契約を結んだ。負ければ一銭も入らないが、勝てば莫大な報酬が手に入る。何より、再びメディアの脚光を浴びることができる。


 裁判は金次の独壇場だった。


 不動産会社と建物所有者の行為が、住民への心理的圧迫を意図したものであることを立証し、それが不法行為に該当すると主張した。さらに、会社側が提示した立退料の算定根拠に重大な瑕疵があることを暴き、周辺相場や住民の年齢・健康状態を無視した不当に低い金額だと論じた。


 借地借家法の趣旨は借主の居住権保護にある。金次はこの立法趣旨を前面に押し出し、資本の論理で長年の住民を追い出すことの不当性を訴えた。裁判所は住民側の主張をほぼ全面的に認め、立退料は当初の提示額の三倍以上に引き上げられた。


 勝訴の報せを聞いた住民たちは金次を囲んで涙を流した。老婆が手を合わせて拝み、壮年の男性が涙ぐみながら握手を求めてきた。金次は柔和な笑みを浮かべながら、頭の中では報酬の計算をしていた。成功報酬は増額分の二十パーセント。悪くない稼ぎだ。それにこの件でまた「正義の味方」としての評判が上がる。評判があがれば美味い案件もよってくるというもの。


 住民のひとり、八十を超えた老人が震える声で言った。


「先生のおかげで、死ぬまでこの土地で暮らせます。本当に、ありがとうございます」


 金次は微笑んで頷いた。その笑顔の裏で、何も感じていない自分に気づいていた。感謝されても、嬉しくない。恨まれても、痛まない。いつからかそうなっていた。法律という道具を使いこなすうちに、人間としての何かが摩耗していったのかもしれない。


 だがそれでも構わなかった。金と名声があれば、それ以外のものなど必要ない。そう思っていた。


 転機が訪れたのは、五十二歳の誕生日を迎えた翌週のことだった。


 夜の十時を回った事務所で、金次は一人残って書類を整理していた。秘書たちはとうに帰宅しており、フロア全体が静まり返っている。デスクの上には明日の裁判に使う資料が山積みになっていた。依頼人は投資詐欺で多数の被害者から金を騙し取った男だ。被害総額は数億円に上る。だが金次は、詐欺罪の構成要件における「欺罔行為」の立証の困難さと、民事上の和解による情状酌量を組み合わせ、実刑を回避できる自信があった。


 インターホンが鳴った。


 金次がモニターを確認すると、映っていたのは若い女性の姿。年の頃は二十代半ばだろうか。地味な服装で、どこか思い詰めた表情をしている。


「どちら様ですか」


『銭丸先生……ですよね。お話があるんです』


 声は震えていた。金次は眉をひそめる。この女性に見覚えはない。だが何かの依頼かもしれないと思い、ドアを開けた。実際、こういう事はたまにあるし、弁護士にも夜間対応している者は珍しくはない。特に金次の場合、裏社会の人間の依頼も積極的に受けるため、0時までは対応する事をネットでも公開している。


 しかし女性が事務所に入った瞬間、金次は異変に気づいた。彼女のコートのポケットが不自然に膨らんでいる。咄嗟に後ずさろうとしたが、遅かった。女性の手には、果物ナイフが握られていた。


「あなたのせいで」


 女性の目は虚ろだった。焦点が合っていない。


「父が死んだんです」


 金次の記憶が猛烈な速度で回転した。この女性の父親。投資詐欺の被害者か。いや、違う。もっと前の案件だ。そうだ、あの──欠陥マンションの件だ。被害者の中に自ら命を絶った者がいたという報道があった。金次はその報道を聞いても何も感じなかった。依頼人の利益を守っただけだ。自分に非はない。


 だが、この女性にとっては違ったのだ。


「落ち着いてください。話し合いましょう」


 金次は両手を上げながら、後ずさった。背中が壁に当たる。逃げ場がない。


「もう遅いんです。全部ぜんぶ──遅いんです」


 女性が一歩、踏み込んだ。金次は咄嗟に腕を上げて顔を庇おうとしたが、刃は腕をすり抜けて胸に突き刺さった。激痛が走る。肺が潰れるような感覚。息ができない。膝から力が抜け、床に崩れ落ちた。


 視界が霞んでいく。女性は呆然と立ち尽くしていた。血に濡れたナイフを握ったまま、自分が何をしたのか理解できないという顔で。


 ──ああ、こんなふうに終わるのか。


 金次の意識は急速に遠のいていった。最後に見たのは、天井の蛍光灯の光だった。


 ◆


 目が覚めると、そこは暗闇だった。


 上下左右の感覚がない。自分が立っているのか、浮いているのか、それすら判然としない。ただ、意識だけがある。死んだはずなのに、思考が続いている。これが死後の世界というやつか。金次は妙に冷静だった。


「ようやくお目覚めですか」


 声が響いた。女性の声だ。だが人間のものとは思えない深みがある。金次は声の方向に目を向けた。いつの間にか、視界が開けている。そこに佇んでいたのは、黒い衣をまとった女性だった。顔立ちは若いが、その瞳には人間の寿命では到底たどり着けない叡智が宿っていた。


「ここは」


「冥府の入り口。あなたは死にました」


 女性は淡々と告げた。


「刺殺、ですね。胸部への深い刺創が致命傷となりました。享年五十二」


「あなたは」


「私はこの冥府を管理する者。名前は……そうですね、便宜上『女神』とでも呼んでください。人間には発音できませんから」


 女神は手を振った。すると、虚空に光の映像が浮かび上がる。そこには金次の人生が早送りで映し出されていた。法廷での詭弁、依頼人への媚び、敗訴した相手方への冷笑。すべてが赤裸々に再生される。


「銭丸金次。職業、弁護士。生前の行い……控えめに言っても、褒められたものではありませんね」


「弁護士として、依頼人の利益を守っただけだ」


「ええ。その結果、多くの人が傷つきました。あなたに殺された、と言っても過言ではない人々もいます。あの自ら命を絶った男性のように」


 金次は沈黙した。反論できなかった。


「通常であれば、あなたの魂は地獄へ送られます。そこで生前の罪を清算することになる。何百年か、あるいは何千年か、苦痛の中で過ごすことになるでしょう」


「地獄、か」


「怖いですか」


「……正直に言えば」


 女神は小さく笑った。


「ただ、ひとつだけ別の選択肢があります」


 映像が切り替わった。そこに映し出されたのは見知らぬ風景だった。中世ヨーロッパを思わせる城塞都市、広大な草原を駆ける馬、そして人間ではない異形の生物たち。


「これは」


「別の世界です。私たちは『ネバーランド』と呼んでいます。創世神が生み出した、人間界とは異なる法則に支配された世界」


「ネバーランド」


「この世界は今、危機に瀕しています。魔王と呼ばれる存在が現れ、世界を滅ぼそうとしている。だがこの魔王は厄介なことに、ネバーランドの外から来た侵略者なのです」


「外から」


「ええ。そして外から来た者は、ネバーランドの法則に縛られない。創世神が定めた理さえ無視して力を振るう。だから創世神でさえ手が出せないのです。自らの法則で動く存在を、法則の外にいる者が蹂躙している。そういう構図です」


 金次は眉をひそめた。法律家としての思考が自然と動き出す。


「法則に縛られない相手に、法則で対抗することはできない。しかし、法則の外にいる者を呼び込めば、話は変わる、と」


「飲み込みが早いですね。さすが腕利きの弁護士です」


 女神は頷いた。


「あなたに与える役割は、勇者の補佐です。ネバーランドには、魔王を討つために神に選ばれた勇者が現れます。彼女をサポートし、魔王を倒す手助けをしてほしいのです」


「勇者が戦えばいいだろう。なぜ私のような人間が必要になる」


「勇者はあくまで剣。魔王の肉体を滅ぼすことはできても、その本質には届かない。魔王が持ち込んだ外界の力を無効化するには、法そのものを操る者が必要なのです。あなたのように」


 金次は自嘲気味に笑った。


「私は法律を悪用してきた男だ。法の番人などではない」


「だからこそ、です」


 女神の目が光った。


「法を守る者には、法の抜け穴は見えない。だがあなたは違う。法の隙間、矛盾、解釈の余地。そういったものを見抜き、利用する才能がある。その才能を、今度は世界を救うために使ってほしいのです」


「断ったら」


「地獄行きです。何百年でも、何千年でも、苦しみ続けることになる。比較的、分かりやすい選択ではないかと思いますが」


 沈黙が落ちた。金次は目を閉じ、考えを巡らせた。地獄か、異世界での奉仕か。どちらも愉快な選択肢ではない。だが前者には希望がなく、後者には少なくとも生き延びる可能性がある。


「引き受けたとして、報酬は」


 女神は呆れたように首を振った。


「地獄行きを免れることが報酬です。十分でしょう」


「なるほど。交渉の余地はなさそうだ」


「ありません」


 金次は深く息を吐いた。選択の余地がないなら、悩んでも仕方がない。


「分かった。引き受けましょう」


「賢明な判断です」


 女神は手を振ると、金次の前に光の輪が現れた。


「勇者は然るべき日に王都の酒場に現れます。見ればすぐに分かるでしょう。神に選ばれた者には独特の気配がありますから。彼女と出会い、信頼を得て、共に魔王を倒しなさい」


「しかし、いくら口が立ち、魔王とやらの力の『法則』の瑕疵を指摘できたとしても、それだけでどうにかなるとは——」


「ああ、それについてですが」


 女神は少し考え込むような仕草を見せた。


「あなたにはすでに力が宿っています。気づいていないようですが」


「力」


「感謝の念、です」


 金次は眉を寄せた。意味が分からない。


「あなたは確かに悪徳弁護士でした。だが時折、正しいことをした。権力者を打ち負かし、冤罪を晴らし、弱者の権利を守った。動機が不純だったとしても、結果として救われた人々がいる。彼らの感謝は、あなたの魂に刻まれているのです」


 映像が再び切り替わった。そこには事故被害者の家族、冤罪から救われた男性、住み慣れた土地で暮らし続けられることになった老人たち。彼らが涙ながらに感謝の言葉を述べる姿が映し出されている。


「無視できない数の感謝が、あなたの魂を強化しています。それがネバーランドでは『力』として発現する。法を操り、ルールを現実に適用する能力。『リーガル・ハイ』と名付けましょうか」


「リーガル・ハイ、ですか……」


「あなたらしい名前でしょう」


 女神は微笑んだ。その笑みにはどこか皮肉な色が混じっている。


「では行ってらっしゃい」


 光の輪が金次を包み込んだ。視界が白く染まり、意識が遠のいていく。最後に聞こえたのは女神の声だった。


「世界を救えば、あなたの罪も少しは清算されるかもしれませんね。頑張りなさい」


 ◆


 気がつくと、金次は石畳の上に倒れていた。


 全身が痛む。起き上がろうとして、自分の手を見た。皺だらけだった手が、わずかに若返っているように見える。体も五十二歳の重さとは違う。四十代半ばくらいの感覚だ。女神の気まぐれか、それとも転生のおまけか。


 周囲を見回すとそこは中世ヨーロッパ風の街並みだった。石造りの建物が並び、通りには馬車が行き交っている。人々の服装も、映画で見た中世の衣装そのものだ。


 ──ここがネバーランドか。


 金次は立ち上がり、身なりを確認した。着ているのは死ぬ前と同じスーツだ。ただし、生地の質感が変わっている。現代の化学繊維ではなく、手織りの麻のような素材。それでいて形は同じという奇妙な代物だった。ポケットを探ると、手帳と羽ペン、そして何枚かの羊皮紙と数枚の硬貨が入っていた。女神の配慮か。


「さて」


 金次は──いや、カネツグは周囲を見回した。まずは情報収集だ。この世界のルール、社会の仕組み、そして「然るべき日」がいつなのか。それを知らなければ、何も始まらない

 。

 王都と女神は言っていた。ここがその王都なのかどうかも分からない。通りかかった男に声をかけようとして、ふと思い当たった。言葉は通じるのだろうか。


「すみません。ここは王都ですか」


「ああ、そうだが。お前、どこから来た。妙な格好をしているな」


 通じた。これも女神の配慮だろう。カネツグは適当な嘘を並べてその場を切り抜け、街の構造を把握することに努めた。王都の名はリーガル。法を司る神を祀る国らしい。奇遇というべきか、あるいは必然というべきか。


 数日後、カネツグは街の様子をほぼ把握していた。宿に部屋を取り、路地裏の情報屋から金を払って噂を集め、神殿にも足を運んだ。そして「勇者が選定される儀式が近い」という情報を掴んだ。神官たちの間では、聖剣が反応し始めているという噂が囁かれている。


 然るべき日は近い。だがいつなのかは分からない。


 カネツグは酒場に通い始めた。『白鯨亭』という店だ。冒険者や傭兵が多く集まる場所で、新しい依頼人を探すには絶好の場所だった。もちろん、真の目的は勇者との接触だ。勇者が仲間を求めるとすれば、こういった場所に来る可能性が高い。女神の言葉を信じるなら、見ればすぐに分かるという。ならば、待てばいい。


 退屈な日々が続いた。カネツグは酒場の隅に陣取り、安いエールを舐めながら人々の様子を観察した。荒くれ者たちの喧嘩、酔っ払いの乱痴気騒ぎ、怪しげな取引の現場。そのどれにも興味は湧かない。ただ、待つだけの日々だった。


 そしてその日は来た。


 入口の扉が開き、小柄な少女が足を踏み入れた瞬間、カネツグの背筋に電流が走った。見た目はただの少女だ。十六、七くらいだろうか。地味な旅装で、背中に布で包んだ長い物を背負っている。顔立ちは悪くないが、取り立てて目を引くほどではない。


 だが、纏っている気配が違った。


 光、とでも言うべきものが少女の周囲を薄く覆っている。常人には見えないだろう。だがカネツグには見えた。女神の言っていた「独特の気配」とはこのことか。


 ──勇者だ。


 少女はカウンターに近づき、何やら話しかけている。周囲の男たちの反応は冷淡だった。嘲笑、無視、そして下卑た視線。少女の表情が曇っていく。カネツグは静かに観察を続けた。まだ動くときではない。まずは状況を見極める。


 しばらくして、三人の男が少女に絡み始めた。革鎧を着た傭兵風の男たち。明らかに下心丸出しの表情で、少女の退路を塞いでいる。少女は背中の包みに手を伸ばそうとして、躊躇っていた。何か事情があるらしい。正体を隠したいのかもしれない。


 ──今だ。


 カネツグは立ち上がり、少女に近づいた。


「困っておられますね」


 少女が振り向いた。その瞳に、警戒と期待が入り混じっている。カネツグは内心でほくそ笑みながら、最も重要な質問を投げかけた。


「助けてほしいですか」


 と。


(了)



 ・

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「リーガル・ハイ概要」


 剣技や魔術といった直接的な戦闘力ではなく、世界に存在するあらゆる「ルール」を強制力のある武器として行使する概念的な力。


 この能力の最大の特徴は、対象が縛られている法や掟を瞬時に「視る」ことができる点にある。相手が人間であれば国の法律やギルドの規約、モンスターであれば種族独自の盟約や本能的な習性など、その存在が従うべきルールを即座に把握し、そこから攻撃の糸口を見つけ出す。


 戦闘において彼が「異議」や「待った」を宣告すると、その場に「仮処分」のような状態が適用される。この弁論のフェーズに入ると、空間そのものが法的な支配下に置かれるため、物理的な時間の流れや運動エネルギーが凍結される。これにより、相手からの攻撃は一切届かず、またこちらも攻撃を行うことはできない。あらゆる暴力を排した絶対的な安全圏の中で、彼は相手と対話を行うことになる。


 対話フェーズでは、彼は把握した相手のルールに基づき、相手の行動がそのルールに違反していること(不法行為)や、矛盾している点を指摘する。ただし、この解釈はあくまで論理的整合性が取れていなければならない。彼自身の都合だけで無茶苦茶なこじつけを行うことはできず、あくまで「相手のルールの枠内」で、法の抜け穴や解釈の隙間を突く高度な知的作業が要求される。


 最終的な決着は「和解(示談)」か「強制執行」のいずれかとなる。自らの非を認めた相手がカネツグの提示する条件(戦闘停止や通行許可など)を飲めば、そこで戦闘は終了する。しかし、もし相手が論理的な指摘を無視して和解を拒否した場合、相手にはペナルティが課せられる。この罰則はカネツグが決めるものではなく、相手が破ったルールに元来定められている罰が世界の意思によって自動的かつ強制的に執行される。


法解釈への突っ込みは無しで。続きはありません

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ああ、でも魔王との決戦は観たいです
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