殺人者のキースクエア
・チェックメイト〈詰み〉
「ど、どうして……信じてたのに」
僕は今、自分の腹を抑え跪いている。掌を押しのけるように熱いものが零れ出て止まらない。
どうしてこんなことに。天井を仰ぎ見ると、頬にも零れ出るものを感じた。
崩れかけた壁の亀裂から、ライトの残像が流れて見えた。きっと僕を探している。
逃げなくちゃ。足に力を入れ立ち上がると、喉から溢れ出た濁流の鉄臭さに意識を失った。
・サクリファイス〈擬似餌〉
彼女と出会ったのは休日の早朝だった。デリバリしか来るはずのない僕の部屋に、覚えのない来訪者を告げるドアベルが響いた。
寝ぼけた頭で今日のスケジュールをチェックし、宅配が来るはずもないし間違いだと確信した。それなら無視を決め込もうと思った矢先、ノックの連打と女性の声が僕を無理やり覚醒させた。
「はい?」
「あー、ごめんなさい。トンプソンさん? 起こしてしまいましたよね。ほんと、ごめんなさい。実は、あなたの部屋のベランダに落とし物をしてしまって」
ドアの隙間から顔を出した僕の目の前に、肩まである赤毛を耳にかけ、少女のように《《はにかむ》》女性がいた。
「ベランダに落とし物?」
「そうなの。私、上の階に引っ越して来たシャルロットです。それでその、洗濯物が落ちてしまって。良かったら拾わせてもらえませんか?」
「あー、じゃあ、取って来るんでここで」
「いえ、あの、あの、ごめんなさい。それが、その、下着なので、その」
嘘だろと思った。まさか、こんな状況で女性を部屋にあげる日が来るなんて。全然嬉しくない。むしろ迷惑だった。だが目覚めたばかりの頭で即断しなくちゃいなかった。
「それなら。ど、どうぞ」
僕には彼女の下着を拾って手渡すなんて勇気はなかったし、なにより彼女の勇気ある行動に免じて部屋に通すことにした。
ベランダに行って下着を拾ってきた彼女は、玄関で待っていた僕に、何度も礼を言って去っていった。
「はあー」
なんなんだよと思いながらも、彼女の残り香が古い記憶と女性への偏見を薄めてくれた気がした。
「あんた、まだ彼女も出来ないのかい」
夜になると鬱陶しい母が来た。心配している風を装って、ご苦労にも長距離バスで小遣いの回収だ。家を出るために就職したっていうのに。
「キャロルが居たらねぇ」
「母さん!」
幼馴染みの名を出されて、つい感情が高ぶってしまった。僕の初恋の相手。高校生の時に行方不明になってしまったキャロル。彼女の柔らかな香りは、今でも覚えている。ふと今朝あったシャルロットの顔が浮かんだ。
「そういえば最近、こっちの方で死体が見つかったってニュースでやってたけど。あんたも気を付けなね」
「北部の隣町だろ」
「事件なんかに巻き込まれないようにって言ってるんだよ」
母が言っているのは近郊で両手と頭を焼かれた男性の死体が見つかった事件のことだ。インターネットの一部の書き込みではイフリート事件と呼ばれていた。
母と話していると嫌な気持ちにばかりなる。「母さんも気を付けて」なんて言ってやる気にもならない。僕が事件に巻き込まれることを心配するのは、自分の手に渡る金がなくなるからだ。
・ブックムーブ〈定跡〉
「こんにちは。トンプソンさん? トンプソンさん!」
「わ! え!?」
まさか女性に呼ばれている名前が自分のことだなんて、顔を覗き込まれるまで思いもしなかった。
「ごめんなさい! 脅かしちゃいました?」
「え、ああ」
夢でも見たことがない飾らない笑顔で、シャルロットさんが僕を見ていた。
「今、帰りですか? 学校? 仕事?」
「まあ、仕事の帰りです」
「社会人かー。凄い」
「ただ、大学に行けなかっただけです」
「働くっていう選択肢を選んだんだから凄いですよ」
衝撃的だった。僕は彼女の、ものの捉え方に惹き付けられた。
「き、君は?」
「シャルロットでいいですよ。私、大学の帰りで。安かったんで買いすぎちゃいました」
笑顔で両手の荷物を示した彼女だったが、その肘が伸びきっていて重さを感じさせた。
「それ。ひとつ、持つよ」
「わあ、ありがとうございます。帰り道、男性が一緒だと安心」
男として見られたことに僕の頬は熱くなった。それに気付かれないように、僕は黙ってシャルロットの前を歩いた。
「トンプソンさん、今夜の食事は?」
「家で。あるもので、適当に」
住み慣れたアパートメントの階段で息をきらす僕に比べて、彼女は足音も乱さず余裕がありそうだ。大学でチアでもやっているんだろうか。
「私作るんで一緒にどうですか?」
嘘みたいな申し出に思わず足を止めて振り向いた。僕の胸にシャルロットの額が当たり、ふわりと広がった髪の匂いが僕の判断を鈍らせる。
「あ、ごめん。今、なんて?」
「晩御飯一緒にどうかなと思って。どうせ作りすぎちゃうから」
荷物を持ち直したシャルロットは、これから悪戯する子のような無邪気さで笑った。
「どっちの部屋にします?」
もちろん僕には断る理由など微塵もなかった。
一旦はシャルロットの部屋へ行ったものの。幼馴染みのキャロル以来に訪れた女性の部屋は、未開封のダンボールだらけでドキドキした気持ちは安い炭酸水の炭酸みたいにすぐ消えた。
「全然まだ片付いてなくて。そこのソファどうぞ。えーと食器とか、もうひとセット」
「あのー、シャ、シャルロット? 良かったら僕の部屋でも」
「ぜひ!」
結局ダンボールを探る姿を見ていられなかった僕が、シャルロットを部屋に誘う形になってしまった。
「お邪魔しまーす。キッチン借りますね」
部屋に女性を招いたのは初めてだった。キャロルは勝手に入って来たから。
急な事だったので、部屋に香るシャルロットの匂いと部屋を見られる恥ずかしさで、心臓が忙しく酸素を求めた。そしてまたシャルロットの匂いが鼻腔から脳に触れ、キャロルとの想い出を引きずり出した。
「トンプソンさん顔色が? 大丈夫ですか? 私、無理やり過ぎたかしら」
シャルロットは表情を曇らせて、料理をする手を止めてしまった。僕が誤解をさせてしまったせいだ。
「違うんだ。恥ずかしい話、実はこの部屋に女性を入れるのが初めてで、緊張してしまって。全然大丈夫。むしろ、その、シャル、シャルロットで良かったよ!」
「なんだ、そうだったのね。ごめんなさい。それと、ありがとう」
上手く笑えていたかは分からないが、シャルロットが安心して笑顔に戻ってくれたのは間違いなかった。
その日から僕とシャルロットは、頻繁に挨拶を交わし、時折会話をするくらいの仲になっていった。
・マテリアル〈駆け引き〉
シャルロットとの二度目の食事会は、僕が料理当番で開催された。
「シャルロット、その手どうしたの!」
「論文書くのに実践で火傷しちゃって。ちょっとだけ」
部屋にやって来たシャルロットは、手に包帯を巻いていた。
「実践て……。学校で何を学んでるの?」
「犯罪心理学。お邪魔しまーす」
玄関からキッチンへの動線が、シャルロットの残り香に犯されてゆく。
「へえ、犯罪。え、なに?」
「ふふふ。犯罪、心理学」
「それって……プロファイラー目指してるの?」
「まさか。興味があるだけ。彼らの頭の中を覗いて見たいのよ」
僕は聞いたことを後悔していた。犯罪者を彼らと呼び、その心理に触れたいだなんて。それはそれでサイコパスにも感じた。さらに朗らかで飾らないシャルロットの暗部を知ってしまったような気まずさから、僕は口を閉ざせなかった。
「へ、へえー。じゃあイフリート事件とか知ってたり」
「イーサン、その呼び名よく知ってるね。北部で遺体が見つかった事件でしょ。でも私は、もっと知ってるの。実はね」
僕をファーストネームで呼んだシャルロットが、小首をかしげ上目遣いで一歩近付いてきた。唾を飲み込んだ僕が後退りしそうになった時、茹でていたパスタの湯が吹き出した。
「「あああー」」
二人慌てて声をあげた。思わず目を見て笑い合うと、僕は料理に彼女はテーブルの片づけを始めた。
「美味しい!」
「良かったー」
「ほんとに自炊してないの?」
「全然。今日が始めてだよ」
「嘘でしょ。ちょっとショック」
笑って傷つくシャルロットを見て僕も嬉しくなった。心を許し始めてしまっている自分にも気が付いてしまった。それが危険なことだと予感しながら。
「イーサンは、ここに来てどれくらいなの?」
「五年? かな」
「意外に長くいるのね」
「意外に?」
食後のワインを飲みながら何を話そうかと考えていると、シャルロットが頬を染めながら話し出した。
「家財道具は揃ってるけど飾ってないっていうか。好きなものとか」
「ああ。産まれ育った町が嫌で出てきたから。自分の居場所も趣味も、まだ探し中て感じかな」
「そうなのね。私も自分探しの途中。だから気が合ったのね」
濁りのないシャルロットの言葉と笑顔に、僕の胸が一瞬苦しくなった。気が合う、それは僕を理解できているという意思表示なのか、、僕に好意を寄せているという感情表現なのか。
部屋に漂うシャルロットの匂いが僕の頭の中を犯してゆく。滲み出したキャロルとの想い出が、フィルム映画のようなノイズと一緒に甦る。
「シャルロット。ちょっと散歩しない。連れていきたい所があるんだ」
「酔い醒ましにいいわね。秘密の夜景スポットでもあるのかな? 楽しみ。ふふ」
夜道を二人並んで歩いた。熱を帯びた体に風が心地よく、新鮮な空気が思考を落ち着かせると、僕は歩く速度を少しだけ落とした。得体の知れない予感めいたものが、僕に危険を知らせていた。
「川だ。綺麗ー」
戻ろうと言いかけた時、南部との州境にたどり着いてしまっていた。シャルロットは駆け出して、橋の中ほどに立って川を眺めていた。橋を渡れば警察の管轄も別の隣町だ。僕は迷いを悟られないように橋を渡り始めた。
・イニシアティブ〈主導権〉
「ここの二階からの眺めが一番いいんだ。まだ買ったばかりで古いから、足元に気をつけて」
「お邪魔しまーす」
僕は橋を渡りきった所にあった廃屋にシャルロットを招き入れた。先にたって軋む階段を上りながら、背中の気配に気を配った。
「そういえばさっき、イフリート事件のことで何か知ってるみたいに言ってたよね」
「え? ああ、そうね。どこまで話したっけ?」
「北部で見つかった死体のこと。他に知ってることがあるって。あ、ここがバルコニー」
川に面した木の扉を開くと、川下の方の町の明かりまで見下ろせた。
「うわー」
バルコニーの手摺まで慎重に進んだシャルロットの影を、僕は室内から見守った。夜風に乗って、ここまでシャルロットの匂いが届く。
「昔、ある町でね。十七歳の少年が遺体で見つかったの。それともう一人。十五歳の少女が行方不明。どちらも未解決のまま」
嫌な予感が膨らむ。逃げるなら今だと本能が囁く。でもシャルロットが何処まで知っているのか好奇心が僕をとどまらせた。
「その二つを、シャルロットは関係があると思てるの?」
「思ってるんじゃなくて、関係があるの。二人は内緒で付き合ってた。親友のキャロルは、私にだけ教えてくれていたの」
振り返ることなく話すシャルロットの表情は読み取れない。僕は隠し持っていたナイフを握りしめた。
「親友? キャロルと?」
「そうよ。十歳から文通していたの。別の町に住んでたから、あなたは私を知らないでしょ。イーサン・トンプソン?」
「なんだいそれ。イフリート事件とは全然関係ないじゃないか、まったく」
声だけで笑いながら、僕はキャロルの匂いのするシャルロットの背中を睨み付けた。
「五年前に別の町の郊外で、顔が焼かれた遺体が見つかった。あなたが住んでいた町でね。
そして妻が行方不明。今度は、隣町で顔も手も焼かれた遺体が見つかった。身元は不明。イーサン。あなたは学習している」
キャロルと同じ匂いの他に、今まで感じたこともない圧をシャルロットの背中から感じた。
「でも私は見つけた。死亡推定と同時期に行方不明になった子を。その子が働いていたダイナーの常連客に、あなたがいた」
「待ってくれよ。そんなの偶然だろ。そ、それに、なんでシャルロットに被害者の情報がわかるのさ」
「彼女もキャロルと同じ匂いがした?」
「え!?」
バットで殴られたみたいに頭がぐらついた。
「どうして……」
「キャロルの手紙を読み返して気付いたの。あなたが匂いに依存してるって。キャロルが彼氏の好きな香水をつけた時も、初めて怖いくらい怒ったって。だから、あなたのトリガーは匂いなんじゃいかって。だから行方不明になった彼女たちの匂いを聞いて回った。そして確信した。だから私も真似をしてあなたに近づいたの」
「へえ。それがプロファイリングごっこ?
親友のため? 随分と危険な真似をするんだね。僕が犯人じゃくて良かった」
ナイフを握り直し、僕はシャルロットの背中に近付いた。キャロルの匂いが強くなる。僕だけのものだ。
「ダイナーの子は、この家の何処かに居るのね。生きてるの? 死んでるの? 私を連れて来たのも目的は同じでしょ? イーサン・トンプソン!」
ナイフを持つ手を掲げるとシャルロットが振り返った。その拍子に広がった匂いの中にキャロルがいた。一瞬ナイフを振り下ろす手が止まった。そして銃声と共に僕の腹部に鈍痛が走った。
・チェック〈王手〉
「ダイナーの子はどこなの?」
「地下の床の中だ
「床の中?
「町外れで新しい家を建てていたんだ。深夜にこっそり地下に入って遊んでた。いつかこんな家に一緒に住みたいねと言ったんだ。そしたら言い争いになって。キャロルが固まってない床のコンクリートに落ちたんだ。キャロルを変えた、あいつのせいだ」
なんだか体の力が抜けた僕は、壁に寄りかかり考えもなしにただ聞かれたことに答えていた。
「どうしてキャロルを助けなかったの!」
「そこにいれば、ずっと僕だけのものだろ。だけど家にはいられなかった。町を離れるしかなかった。でも知ってるのは僕だけだ。想い出は僕たちだけのものだ。それを糧に新しい生活を営んでいるだけなのに、いつだって誰かが邪魔をする」
「匂いが同じ。だたそれだけの理由で彼女たちや、そのパートナーを。いかれてる」
「ふん。何がプロファイルだ。感情にタグ付けして何がかるって言うだ。人を理解しようだなんて、まず傲慢な自分をプロファイルしたらどうなんだ」
遠くからサイレン音が聞こえてきた。静かに暮らしてきた反動か、僕はしゃべり足りなかった。
「匂いが僕を離さないんだ。でも近付くと離れようとする。だけど逃がしてはくれないんだ。駆け引きなのさ。だから僕は勝つしかないんだ」
「もうすぐ警察が来るわ。私もだけど」
「君は、誰なんだ?」
「キャロルの親友でFBI捜査官。イフリート事件のおかげで、おとり捜査をゴリ押しできた。私に管轄は関係ないから」
「なーんだ。シャルロットじゃないのか!」
僕は彼女の肩にナイフを突き立てると、力を振り絞って駆け出した。そして裏口を目の前に、一階のキッチンで力尽きた。
・スレット〈戦略〉
夢から覚めると、僕は幾つかの機材に繋がれていた。規則正しい電子音が、僕が生きていることと、ここが病院であることを教えてくれた。
「トンプソンさん、気がつきましたか」
病室に入ってきた看護師が、仕事用の笑顔で近付いてきた。
「痛むと思うので、あまり動かないでくださいね。先生お呼びしますから」
看護師はバインダーを持ち、僕の周りにある機器を見てまわった。匂いが僕に入ってくる。痛み止めを直接流し込んだみたいに僕の頭を麻痺させる。
病室を出てゆく看護師の後ろ姿がキャロルに変わった。
「あ、あの?」
声をかけ振り向いた看護師の後ろ。病室の外に制服警官の姿が見えた。
「いえ。なんでもないです」
一人になると電子音に集中して深呼吸をした。看護師を誘うのは、ここを出てからでもいい。さて、どうやって拘束を解こうか。僕の頭の中は、看護師から香ったキャロルの匂いでいっぱいになって、次の一手を考えはじめていた。
〈END〉




