第1話 後宮姫と鳥籠皇子
不揃いな形をした石畳に、カラン、と剣が落ちる。 地面の石畳と地続きのような塀と、薄汚れた白い壁の家のせいで、朝の日は遮られ、路地裏は薄暗かった。
少女--カシワは薄い唇の端を上げ、関節とは逆方向に刺客の腕をひねる。逆手にとられた刺客は、現状を理解できなかったのだろう。無抵抗のまま、階段のようなスローブにたたきつけられた。
「切りかかりもしないなんて、ちょっと舐めすぎじゃない?」
隆起した太い腕を抑えるのは、膨らんだブラウスの袖から伸びた、少女らしい細い腕だ。 白い絹のヴェールからこぼれた、癖が強い栗色の髪。か弱そうに見えて、前髪からのぞく深緑の瞳は、強い生気を宿している。過呼吸を引き起こした破落戸の刺客を見下し、カシワはニヤリ、と笑う。
「関節って、逆に回したらどれぐらい曲がるのかしら?」
ずっと試したかったのよね、と言い放つカシワ。 野太い男の悲鳴が、朝の路地裏に響いた。
「と、いうわけで。先ほど刺客をのしてきたわ」
報告するカシワに、ベッドの上に座っていた少年――セリムはため息をついた。 彼女の手には、刺客を相手にした時にはなかったボレキがある。薄い生地を重ねて、中にマッシュポテトやナスなどの具を詰め揚げる食べ物だ。ボレキを食べているカシワからは、チーズの匂いがした。
「おとなしく逃げてってあれほど……」
「人生逃げるだけでは勝てないって母様言ってたわ!」
グ、と握りこぶしを作るカシワに、セリムは再び深いため息をつく。
「逃げるほど相手も強くなかったから、短剣使う必要もなかったし」
そう言って、カシワは袖を撫でる。 袖には、硬い金属の音がした。
「後宮娘と鳥籠王子なら、ごろつきでも捕まえられると思ったか……或いは」
人差し指を顎に当てて、カシワはにっこり微笑んだ。「不慮の事故でもなんでも、とっとと死んでほしい、っていう感じかしら」 カシワからボレキを受け取り、セリムはそれを頬張る。
「そろそろ潮時かなとは思ってたし。荷物もすでにまとめてあるから、すぐに動きましょう」
「また引っ越しか……やだなあ……」
「この出不精め。この部屋とって一週間、ちっとも外に出てないじゃない」
「外に出るの疲れるんだよ。カシワの言う通り、鳥籠育ちなんだから。俺は」
「私だって後宮育ちなんだけどねえ」
お互い箱入りなのは変わらないんだけど、とカシワはぼやきながら、零れて指に着いた生地をペロと舐めた。 もうちょっと味わって食べればいいのに、とセリムは言いかけたが、やめた。カシワの言う通り、時間がない。食べ歩きして食べる行為は、宗教上でも常識的にもご法度だ。
……しかしその常識は、鳥籠育ちのセリムにはわからないものが多く。セリムの非常識な態度で周囲にバレることがあってからは、部屋に閉じこもることが増えた。
食べ終えた後、セリムがまとめた荷物を持ち、カシワはセリムの後に続いて宿屋を出る。
二人が屋根付きのアーケードを抜けると、太陽の光が矢のように降り注いだ。同時に、緑色だったカシワの瞳が淡褐色に代わる。
ふと振り向いて、セリムは言った。
「……やっぱ、変わってるよね。その目」
「ああこれ? そうね、黒い目の人はいなくもないけど、色が変わる人はあまりいないわよね」
カシワの瞳は光の加減で色が変わる、不思議な目だ。「母親譲りなのよ」といつかカシワが言っていたのを思い出す。顔立ちも母方譲りの東方のものらしく、独特なカシワの容貌は人目を惹いた。
「話を元に戻すけど、そろそろ軍隊レベルで動いてきてもおかしくないと思うのよね。宮殿から逃げて結構経つし」
そんなエキゾチックな容貌で、カシワはサラっと物騒なことを言う。
かつて周辺の国々を圧倒的な軍事力で制覇し恐れられてきた、アナトルキア皇国。
この国の要となる首都コスタニイェラは、貿易で賑わう港町だ。
その為に数多くのバザールが開かれ、あらゆるものが売り買いされている。珈琲の香ばしい匂い。露店では、一列に並ぶ葉野菜の緑や、新大陸からもたらされたトマトが、日差しを反射してまぶしい。ひしめく建物の間には、青空に真っ白なモスクの屋根が見えた。
「だから今のうちに、目つぶしとか作った方がいいと思うのよねー。ね、ビベルトウガラシとコショウ以外に、セリム思いつく?」
セリムはグレーの瞳を伏せて言った。
「……オレンジとかを、ジュース状にしたら?」
「なーる。……ね、ここでは硫酸はないのかしらねー」
後宮だと日常茶飯事だったんだけどなあ。 そう呟くカシワに、セリムの肌が粟立った。
宮殿に閉じ込められるのは、『後宮』の女たちと『鳥籠』の皇子たち。そこでそれぞれ育ったカシワは踊り子で、セリムは第二皇子だった。流れ者であったカシワの母は、幼いカシワの手を引いて後宮に入り、皇帝の御手付きとなってすぐに死んだ。
残されたカシワは後宮へ預けられ、ゆくゆくはどこかの将軍に嫁がされるはずだった。
一方、第二皇子であるセリムは、物心ついた時から鳥籠に閉じ込められて育った。
皇位継承権は、長子から順につけられる。その秩序が壊されぬよう、皇子の反乱の意欲と手段をつぶすため、後宮の一角にある鳥籠に閉じ込められる。一人の皇子につき一つの部屋が宛がわれ、おのれの意思では誰とも会えない。青いタイルと赤い長椅子に囲まれた部屋で、セリムもまた飼い殺されるはずだった。
まさか後宮育ちのカシワが、セリムを連れ出して逃げ出すとは、誰も考えなかっただろう。
幼いころのセリムがカシワといられたのは、ほんの数日。この国の高貴な身分の者は、幼少期から男女に分けて生活する。子どもといえど、男が女の生活場に入ることは禁じられていた。
……だからセリムは、実の母親の顔を知らない。 それを破ってやんちゃだったセリムはこっそりカシワと遊んでいたが、すぐに見つかった。鞭打ちの刑を受けてから、彼女とは十年会わなかった。 ぼんやりと思い出す程度の記憶しかない、幼馴染の女の子と再会した時。
『セリムね!? 久しぶり、今からあなたを誘拐するわ』
『……は?』
その彼女から不意打ちを受けて・眠らされ・誘拐された――など、十年前では想像もつかない。
そして今日まで、二人は逃亡を続けている。