鍵
まずい。鍵を落とした。
都内のマンションで一人暮らしをしながら大学へと通っている青井悠太は、青くなった。いつも入れている鞄の内ポケットに、キーケースが入っていなかったのだ。嘘だろ!?と思いながら、鞄の底を引っ掻き回すようにして探す。すると、ノートや教科書の下を探った指先に、なにか固くてひんやりとしたものが触れた。
取り出してみると、持ち手の部分が丸型をしている、見慣れた自宅の鍵だった。普段はキーケースにぶら下がっているはずの鍵が、なぜか外れている。
不思議に思いながらも、悠太は鍵を鍵穴に差し込んだ。
カチャリという音がして、鍵がまわる。ドアノブを下へ押して、ドアを引き開け、玄関の中に入ろうとした、その時。
バン!
目の前で、黄色い傘が勢いよく開かれた。傘の開く風圧が顔に当たり、前髪がゆれる。
「ぎゃあ!!」
悠太は叫んで、後ろに大きく飛びのいた。肩で息をして、震えながら玄関を見る。視界に、石突きをこちらに向けた状態で、鮮やかな黄色い傘が広がっていた。その傘の向こうに茶色い革靴を履いた、白いスラックスの脚が見えている。傘の位置からして、持っているのは背の高い男のようだった。家の中に不審者がいたという事実に、悠太の全身に鳥肌が立った。
と、ふいに黄色い傘がゆれて、やわらかな若い男の声がした。
「不審者、ではないようだな」
(不審者ってなんだよ!お前だろう、不審者は!!)
悠太が心の中でそう叫んだ時、男が優雅な手つきでくるくると傘を閉じ、そばにあった靴置きのフックにひっかける。小柄な悠太よりも頭一つ分は背の高い、端正な顔立ちの青年だった。色白で、髪と目が明るい茶色をしており、スラックスの上に、濃緑のクルーネックのセーターを着ている。
その彼が、悠太と目を合わせ、淡く微笑した。
「ああ、君か。君でよかった。驚かせてすまなかったな」
「………、いえ」
悠太は、不審感たっぷりに青年を見返した。それから青年の後ろに広がる玄関の中を見て、唖然とした。玄関が、朝、家を出た時と、あまりにも様変わりしていたのだ。模様替えというレベルではない。広さや構造まで変わっている。
「え!?」
驚いて後ろを振り返り、胸の高さほどはある、白い壁の向こうを見た。一瞬、帰ってくる場所を間違えたのではないかと思ったのだ。だが、そこに広がるのはいつもと同じ町の風景と、午後のきれいな青空で。ドアの横にある部屋番号を見ても、ここは九階の自分の部屋の前だった。間違いがない。
青年がふいに「鍵を」と言って手を差し出した。悠太は振り返って眉を寄せる。
「鍵?」
「ああ。その、今、君が握りしめている鍵だ。それを返してくれないか」
「え?でも、これは、僕の」
言いかけて、もう一度鍵をよくよく凝視して、悠太は思わず眉を寄せた。
丸型をした鍵の持ち手の部分に、見慣れない数字の羅列があったのだ。あわててひっくり返すと、こちらにも見慣れぬ数字がある。
「僕のじゃない!?」
「そうなんだ」
青年が少しだけすまなそうに笑って、悠太の手から鍵を抜き取った。
「悪かったな。君、今朝、千代田線に乗っただろう」
「え、あ、はい。大学へ行くのに使うので」
「そこの〇×駅の近くで、急ブレーキがかかったな?」
「え、……あ、そういえば」
「その時に、俺が持っていた鍵が勢いよく吹き飛んでな。近くに居た君の鞄の中に落ちてしまったんだ。慌てて声をかけようとしたんだが、君はすぐに駅で降りてしまって、声をかけることができなかった」
青年が鍵をスラックスの後ろのポケットにしまいながら、苦笑した。
「まあ、ここで出会ったのも何かの縁だ。よかったら、ちょっと入ってくれ。今、面白いものをお目にかけよう」
「あ、いえ、けっこうです」
「まあ、そう言わず。狭い家だが、片づけはしてあるから遠慮しないでくれ」
「いえ、本当に結構ですから。というか、そこは僕の家ですよね?確かに広くはありませんけど、失礼じゃありませんか!?」
悠太は思わず食って掛かった。玄関の中に立っていた青年が、にやりと笑って悠太を見下ろす。
「その件も含めてな」
「は!?」
「君、今ここでこの鍵の力を見ておかないと、あとで一生後悔するぞ?」
「なんですか、それ!大きなお世話です!」
「親切心からの提案だよ。君がすることは、一歩、この玄関に入るだけ。ドアは開けっ放しにしておくから、入ってみて、気に入らなかったらすぐに外に出ればいいだろう。それのどこに、不都合がある?」
悠太は沈黙した。そして、とても釈然としない気持ちのまま、玄関の中へ足を踏み入れる。青年が数歩後ろに下がって、悠太のために場所をあけた。悠太の部屋とは違う、なかなかに広い玄関だ。これはいったい、どんなトリックなのだろう。………。
「……お邪魔します」
「いらっしゃい」
悠太が完全に玄関に入ってきたのを確認した青年が、薄く笑ってドアの外を親指で指した。後ろを見ろ、と言っているらしい。振り返った悠太は、そこに広がっていた光景を見て、声もでないほどに驚いた。
「え!?なに!?」
外の景色が、まったく変わっていたのだ。さっきまで悠太が立っていた、あの見慣れた外廊下が忽然と消えている。そして代わり、薄桃色の壁に黒っぽい絨毯敷きの、高級そうなマンションの内廊下が広がっていた。
悠太は驚いて、玄関から飛び出した。靴の底が、ふわりとした絨毯に沈み込む。あわててそばにあった窓に駆け寄り、外を見下ろした悠太は、そこに見たこともない大きな公園が広がっているのを見て、思わず叫んだ。
「ここはどこですか!?僕の家は!?僕、さっきまで、僕の家の前にいましたよね!?」
玄関から出てきた青年が、ドアを閉めながら嬉しそうに笑った。
「な?すごいだろう」
「すごい?すごいって、なんですか!?どういうことですか!?僕の、僕のうちを、どこにやったんです!?」
「落ち着け。ええと、君、名前は?」
「急に現れた不審者に名乗る名前はないんですけど、青井悠太と言います。大学生です!」
「そうか、悠太くんか。俺は渡利渉。君よりも、……少し年上かな」
「わたりわたる?渡利さんですか?」
「うん。“わたり”でも“わたる”でも、どっちでもいいよ」
「じゃあ、年上らしいので、渡利さんと呼びますけど。渡利さん、とにかくここはどこなんですか!?」
「ここは、江東区だ」
「江東区!?そんなはずないでしょう!僕の家は、文京区ですよ!?」
「それが、本当に江東区なんだ。ほら、あれ。スカイツリーが、あんな近くに見えるだろう?」
「ほんとだ。え!?どういうことですか!?」
「俗にいう瞬間移動だよ」
「瞬間移動!?」
「そうだ。すごい鍵だろう!」
「はぁ?」
悠太は肩を怒らせながら青年をにらんだ。青年が、先ほどの鍵をもう一度悠太に見せる。
「この鍵。ほら、ここに数字が書いてあるだろう。この数字が、0000-00-01となっている時は、たとえ、どこにいようとも、誰であろうとも、この鍵で開けた扉は、すべて俺の家へとつながるんだ。すごい仕様だとは思わないか?」
「………つまり、鍵を勝手に使われたら、知らない人が、急に部屋に入ってくるわけですよね?めちゃくちゃ不用心じゃないですか!」
「そうなんだ。俺が、さっき傘で君を脅かしたのもそのためだな。部屋に入ってきたやつが君でない、他の怪しいやつだったら、鍵だけさっさと奪い取って、追っ払おうと思ったんだよ。相手を完全に家の中に入れる前に鍵を奪い取って、外へ追い出し、ドアを締めれば空間は途切れるからな。一件落着だ」
悠太は大きく眉を寄せた。ただ鍵を回すだけで時空を超えてしまうなんて、そんなバカげた話があるはずがない。
だが、何度見回しても、そこは見たこともない廊下だったし、窓の外には自分の住んでいる街とは全然違う景色が広がっている。藁にも縋る思いで携帯のアプリで場所検索をしてみたが、ここが自分の帰ってきたはずの文京区ではなく、青年のいう江東区だと出てしまい、悠太は絶望した。
青年が鍵に書かれた0000-00-01の上を、指で三回ほどこするようにした。そして、その部分を悠太に見せる。
覗き込むと、数字が変わっていた。2000-12-24。青年が、その変わった数字を見せながら説明する。
「ここが年号で、ここが日付だな。この鍵にはもう一つ、すごい特性があって、ここの数字が、年号と日付になっている時は、戻りたい場所を願いながら鍵穴に入れてこの鍵を回すと、その年、その日付の、頭に思い描いた部屋に戻ることができるんだ」
「すみません。意味がわかりません」
「簡単に言うと、過去へ帰ることができる」
「過去に帰る?そんな、冗談でしょう?」
「冗談じゃない。ただいくつか決まりがある。この鍵で戻れる場所は、かつて自分が、一度でも入ったことのある部屋だけだ。行ったことのない場所に、急に行けるわけじゃない。滞在時間は、長くて十分くらいだな」
「十分」
「そうだ。しかも、決して、過去と違う行動はとれない。過去の自分の体に入って、過去とまったく同じことをすることしかできないんだ」
「………はぁ?」
悠太は、眉を寄せながら、疑わしげに鍵を見つめた。急にそんなことを言われても、とてもではないが信じられない。
青年が笑いながら、悠太を見た。
「せっかくだから、一つ、この鍵の力をみせようか」
「どういうことですか?」
「この鍵で過去に飛ぶのがどういうことか、見せてやろう。………君、どこか帰りたい場所はあるか?」
「帰りたい場所、ですか?」
「そうだ。何歳ごろの、どこという答え方でも大丈夫だぞ。君が頭の中で強く願えば、だいたいその時代に飛べる。実証済みだ」
「いつの時代でも大丈夫なんですか?」
「ああ、君がかつて、体験した世界なら」
「………、それなら」
悠太は、青年の前に立って、視線をあげた。青年の色素の薄いきれいな目と、目線が合う。
「年とかは、よく思い出せないんですが」
「帰りたい場所や光景を、心の中で強く思い描きながら鍵のこの数字の上をこするだけでいいよ」
「……こうですか?」
「そうだな」
悠太は、鍵を握りしめるようにして、数字の上を親指でこすった。何度も何度もこすっていると、さっきまでの日付がすっとが薄くなり、変化する。
「あ、変わった」
「うん。いい感じだ。たぶん、それで、君の帰りたい場所に戻れるよ。後はどこかの鍵を開けるだけ。今回は、この扉でいいだろう」
青年が自分の部屋の扉を手で指し示す。悠太は促されるまま扉の前に立ち、鍵を鍵穴にさして、カチャリと回した。
慎重な手つきで鍵を抜き、おそるおそる扉を開けながら、悠太は目を丸くした。甘いホットケーキの香りが、ふわりと顔にあたって流れて行ったのだ。目の前には、子どもの頃に住んでいた家の、二階へと続く赤いじゅうたんの階段が、上へ上へと延びている。
(あ……、)
子どもの頃に、毎日のように見た光景だ。懐かしくなって、思わず立ちすくみそうになると、急に目線が低くなって、
「ただいま!」
という、元気な子どもの声がした。子どもの頃の、自分の声だった。
「ただいま、お母さん!」
大きな声でそう繰り返し、重いランドセルをゆらしながら、靴を脱ぎ棄て、赤い階段を駆け上る。がたがた、がたがたと、ランドセルの中に入れた教科書が鳴った。
今は老朽化のため取り壊されてしまったが、悠太が子どもの頃に住んでいた家は二世帯住宅だった。一階は祖母の家。二階が悠太と両親が暮らす家になっている。一階と二階は家の中で繋がっているのだが、一階に車庫がある関係で、悠太の家側の玄関から入ると、すぐ目の前に、二階へと続く赤い階段があったのだ。
階段を一段上るごとに、甘くふわふわとしたホットケーキの香りが強くなった。子どもの頃に図工の授業で作った作品たちが、左右の壁に張られている。その細い階段を一気に駆け上がり、階段の一番上にある、重そうなガラスのドアをがらがらとスライドさせると、いつもは暗い部屋の中に、珍しく仕事の休みだった母親の後姿が見えた。ドアの前のキッチンで、ピンクの花柄エプロンをつけて、フライパンでホットケーキを焼いている。
「お母さん、ただいま!」
悠太は嬉しくなって、そう言った。お母さんが振り返り、
「お帰りなさい」
とにこにこ笑う。シュシュでまとめた、ふわりとしたポニーテールがなつかしい。悠太の親は常に共働きだったので、学校帰り、いつも家にいなかった。悠太はいつも自分の玄関から鍵で入るか、車庫の向こうの祖母宅の玄関から入れてもらって、夕方の時間を過ごすのだ。その、いつもはいない母親が、今日は珍しく家にいた。
「手を洗って、お皿を出して」
母親がフライ返しでホットケーキをひっくり返しながら、悠太に言った。悠太は嬉しくて嬉しくてたまらなくなり、ランドセルをソファのすぐそばに投げ出すと、奥の洗面所に飛び込んだ。冷たい水で手を洗い、白いタオルで手を拭く。そうしてお皿を出して食卓につき、お母さんと二人で、メープルシロップをたっぷりかけたホットケーキを食べながら、色々な話をした。母親は、にこにこしながら悠太の話を聞いている。幸せだった。ホットケーキも甘くておいしい。そのさなか、悠太はふいに、なにかに肩を掴まれた。
そのまま後ろにぐんぐん引き寄せられ、みるみる視界の高さが変わっていく。そして気づいた時、悠太は、元の、あの青年の部屋のドアの前に立っていた。
「あ……」
悠太は思わず青年を振り向いた。青年が優しく笑って目を細め、
「どうだった?」
と聞いてくる。悠太はゆっくりと瞬きをした。
夢からたった今覚めたような、不思議な感覚だった。ホットケーキの香りも、手を洗った水の冷たさも、「おかえりなさい」と笑ってくれたお母さんの姿も、すべて瞼の裏にまざまざと焼き付いている。すぐ目の前のドアをあけたら、またさっきのあの世界に戻れるような気がして、急いでドアをあけてみたが、そこは、きちんと整頓された、青年の家の玄関だった。ホットケーキの香りもしない。
ドアノブに手を乗せたまま、悠太は小さく息を吐いた。
渡利が、悠太の手から鍵を抜きとって、スラックスの後ろのポケットにしまった。そしてこちらを労わるように小さく笑いながら、悠太を見て言った。
「また、見たい過去があったら呼んでくれ。君には、鍵を拾ってもらったという恩があるからな。あと一回だけ、どこか好きな過去を見せよう。……何か書くものはあるかい?うちの住所と俺の携帯の番号を書いておくから、必要があったら連絡をくれ」
悠太は無言で頷いて、渡利に手帳とシャーペンを差し出した。
それからしばらくの間は、普通に過ごした。そうして季節が三つほど巡った、お正月のこと。急に、祖母が倒れたという電話が、悠太のところにかかってきた。自宅取り壊しの時、一階に住んでいた祖母は、実家近くのマンションへと引っ越している。悠太はその祖母に、ほんの二週間前に会いに行ったばかりだった。年明けは忙しくなるからと、年末のうちに、お正月のお花を持って一人であいさつに行ったのである。
大きな花のバスケットを抱えて顔を出した悠太を、祖母は嬉しそうに迎えてくれた。悠太は祖母といろいろな話をして、ついでに祖母の部屋の掃除をして、夕方前に祖母宅を辞した。一度、帰りかけてから、エレベーターホールで、マフラーを忘れていたことを思い出し、慌てて祖母宅のドアを合い鍵であけた。すると、悠太のマフラー忘れに気が付いたらしい祖母が、悠太のマフラーを持って、ちょうど、玄関先でサンダルを履いていたところに出くわした。
「おばあちゃん!」
「忘れ物よ。寒いから、気を付けないと」
祖母は笑いながら、悠太の首にマフラーをまいた。そうして自分もショールを羽織って、悠太と一緒に玄関から出る。祖母の脚が悪いことを知っていた悠太は、「もう大丈夫だよ」と手を振ったのだが、祖母は「大丈夫だから」と笑いながら、ゆっくりとした足取りで、エレベーターの前まで来てくれた。灰色のピカピカとした床とクリーム色の壁がある、声のこだまする内廊下だった。他の部屋のドアが、あちこちに合計六つほど並んでいる。
二機並んでいるエレベーターの「▼」ボタンを押して待っていると、やがて左側のエレベーターがゆっくりと一階から昇ってきた。
「大学、楽しくてよかったわねぇ」
エレベーターパネルのゆっくりとした光の動きを見ながら、祖母が言う。悠太は笑顔で頷いた。
「うん。すっごく楽しいよ!」
「よかった。あんなに素敵なお花、本当にありがとうねえ」
「全然だよ!三が日は来られないんだけど、一月中にはまた来るから」
「寒いからねぇ。無理しないで」
「うん。おばあちゃんもね」
頷いた時、チンという音がして、エレベーターの扉が開いた。悠太は他には誰も乗っていないエレベーターの中に乗り込み、振り返って祖母を見る。祖母は小さく笑って悠太に言った。
「じゃあね、悠太。元気でがんばるのよ。」
「うん!」
エレベーターの扉が閉まる。
それが、悠太の見た、意識のある祖母の最後の姿だった。
倒れた直後に祖母は亡くなり、悠太はしばらく、抜け殻のようになって時間を過ごした。大学はちょうど冬休みの真っ最中で、サークルなどの活動はあったのだが、参加するような気分になれず、事情を話してしばらく休ませてもらった。
そんなさなかのある日の夜。悠太は、棚から急に落ちてきた鞄の中から、愛用している薄い手帳が飛び出しているのに気が付いた。
何の気もなく拾ってみて、開いてあったページを見る。白いページに、見慣れない文字が並んでいた。
渡利渉。そう一番上に書かれている。悠太はハッとして、息を飲んだ。
春先に知り合った、あの不思議な鍵を持つ青年のことを思い出したのだ。過去に戻ることのできる不思議な鍵。鍵を拾ってくれた恩があるから、もしもまたこの鍵を使いたいことがあれば、いつでも連絡してくれ。そう、さわやかな顔で笑っていた不思議な青年だ。
悠太は壁にかけられた時計を見上げた。夜の十一時を過ぎている。普通の感覚であれば、こんな時間からの電話が非常識なことぐらい、悠太にもわかった。ただその時の悠太は、とにかく寂しくて仕方がなかった。最後に会ったときは、あんなに元気そうに見えた祖母があっけなくこの世を去ってしまって、どうしていいかわからなかったのだ。
子どもの頃、ずっと両親が共働きをしていた悠太は、学校が終わると、よく祖母と一緒に過ごしていた。風邪をひいて寝込んだ時も、祖母の寝室に折り畳み式のベッドを入れて、そこで寝ていた。
こんなに急に別れが来るなら、どうしてももう一度、最後に会いたくてたまらなかった。そう考えたら、いてもたってもいられなくなって、気づいたら、震える指で、渡利の携帯に電話をかけていた。
三コールで、渡利が出た。
「こんな夜中にすみません。青井悠太です。あの、……鍵を拾った、」
悠太が震える声で言うと、渡利はすぐに、
「ああ、悠太くんか。久しぶりだな。どうしたんだ?」
ととても親しげな口調で聞いてくる。夜中に電話したことへの非難する調子が何もない。耳を澄ますとテレビの音がかすかに聞こえた。どうやらまだ起きている時間だったらしい。
悠太はつっかえながら、事情を話した。祖母が亡くなったこと。最後にもう一度、どうしても祖母に会いたくて、あの鍵を使いたいこと。そんなことをとぎれとぎれに話すと、しばらくの沈黙の後で、
「いいよ」
と渡利が明るい口調で言った。悠太は驚いて目を丸くする。電話の向こうの渡利が、携帯電話を肩と耳の間にはさみながら、コートを羽織るような音をたてた。
「君の家に行けばいいのかな」
「夜中ですから、また別の日に」
「車で行くから構わないよ。おばあさまが亡くなって、寂しいんだろう」
「………」
「この前会った時に送った家から、引っ越してはいないな?」
「はい」
「今から行くから。下についたら、連絡をする」
やがて、三十分もしないうちに、渡利から電話がかかってきた。近くのコインパーキングに車を止めて、今、マンションの下についたところらしい。
オートロックを解除して、部屋番号を渡利に告げると、渡利はすぐにエレベーターで九階までやってきた。
渡利は、茶色いコートにからし色のマフラーを巻いていた。その下に黒いスラックスと茶色い革靴。エレベーターのドアが開くのを、今か今かと待っていた悠太は、やってきた渡利の姿を見て、ダークブルーのスウェット姿のまま、サンダルをつっかけて飛び出した。
「おおっと」
渡利が驚いたように一歩下がってから、悠太の頭をぽんぽんなでる。
「久しぶりだな、悠太くん」
「こんな夜中に、すみません、渡利さん」
冷たい夜の空気が、どんどんスウェットにしみ込んでくる。渡利が、巻いていたからし色のマフラーを外して、悠太の首に巻きながら、やさしく笑った。
「いや、別に。普通に起きている時間だったから、問題ないよ」
それが、気遣いから出た言葉なのか本心なのかはわからなかったが、悠太はもう一度、頭を下げた。渡利が、コートのポケットから鍵を取り出して、悠太に差し出した。
「ほら、もってきたぞ」
「ありがとうございます」
悠太は、からし色のマフラーに顔を半分うずめるようにしながら、鍵を受け取った。夜の冷たい空気に、鍵も凍るようだった。頭上の蛍光灯が、小さな音を立てて光を揺らし、二人の吐いた息を白く染める。真冬なので、夏場は飛んでいる羽虫たちが全くいない。
悠太は冷たい鍵を両手で握りしめ、目を閉じた。
最後におばあちゃんと会った、あの日のことを強く頭に思い描く。
かじかむ指で鍵をこすると、鍵に浮かぶ数字が変わった。去年の年末の日付だ。悠太がおばあちゃんの家を訪れた、あの日である。
行きじゃなく、帰りだ。マフラーを取りに戻った帰り。帰り。………。
何度も心の中で強く願ってから、悠太は自分の部屋の扉を閉めた。鍵穴に、震える手で鍵をさしこみ、ゆっくりと回す。渡利が後ろから悠太の肩を小さくたたき、
「ここで待っているから」
とささやいて気配を消した。
鍵がカチャリという音をたてる。扉を開けると、祖母が、生きている祖母が、悠太のマフラーを手に持って、サンダルを履いているところだった。
「おばあちゃん!」
悠太は叫んで、玄関の中に飛び込んだ。自分の服装が、あの日、祖母宅を訪れた時の物へと変わっていた。
おばあちゃんが飛び込んできた悠太を見て
「忘れ物よ。寒いから、気を付けないと」
とマフラーを首に巻いてくれた。あたたかいマフラーだった。もうそれだけで、悠太の目からは涙がぽろぽろ落ちたのに、悠太の入っている身体の方は、まったく泣いていなかった。
祖母のゆっくりとした動きに合わせて、二人でエレベーターの前まで歩く。
―――これが、最後の外出だ。祖母とはこれまでに、あちこちたくさんの場所に行ったが、これが正真正銘最後の、祖母との最後の散歩だ。
悠太は、祖母の方へと手を伸ばした。過去の自分の手は、伸びない。にこにこと笑いながら祖母が悠太を見て、嬉しそうに言葉を紡いだ。
「大学、楽しくてよかったわねぇ」
「うん。すっごく楽しいよ!」
「よかった。あんなに素敵なお花、本当にありがとうねえ」
「全然だよ!三が日は来られないんだけど、一月中にはまた来るから」
「寒いからねぇ。無理しないで」
「うん。おばあちゃんもね」
そう言いながら、悠太はおばあちゃんの顔を見る。優しそうな祖母だった。子どもの頃から今までのいろいろな思い出が、ぱっと走馬灯のように頭の中を流れて行った。
体調を崩して、おかゆを作ってもらった時のこと。小学校の敬老の日に、学校で一緒に給食を食べた時のこと。従兄弟、従姉妹たちと、皆で祖母の実家があった場所に旅行に行った時のこと。学校から帰ってきたら、いつも出迎えてくれたこと。中学校の文化祭に遊びに来てくれた時のこと。やりたいことをやりなさいと、いつも背中を押して元気づけてくれたこと。
あの時の自分は、決して泣いていなかったはずなのに、今、目の前に立つ祖母を見る視界は、とても揺れていた。名残惜しく思いながらも、着いてしまったエレベーターに乗り込んで、祖母を見る。
エレベーターのドアが、ゆっくり、ゆっくり閉まり始めた。
「じゃあね、悠太。元気でがんばるのよ。」
やさしい祖母の声がした。
祖母は別れ際、いつもそう言って、悠太を送り出してきた。悠太には一番耳慣れた祖母の言葉だったから、あの時も悠太は、何の気もなく受け取って、何の気もなく、いつもと同じ返事をしたのだ。
それが、今はまったく違って聞こえた。
じゃあね、悠太。―――うん。さよなら、おばあちゃん。
元気でがんばるのよ。―――はい。元気で、がんばります。
目の前で、ゆっくりとエレベーターの扉が閉まる。チンという音がして、悠太一人を乗せたエレベーターは、ゆっくりゆっくり、下のフロアへと降りて行った。