目には見えないもの
寝衣の首にナイフが当てられて、ビッと、布が切り裂かれる音と共に足元まで縦に切り裂かれる。
ナイフの切っ先が肌を浅く切ったのか、腹のあたりにあたたかいものが流れ落ちる感覚と共に、ズキズキとした痛みが襲ってくる。
クリストファーはナイフを私の顔の横に突き立てると、腹部に唇を這わせた。
ぬるりとしたものが皮膚を這い、がたがたと体が、まるで高熱が出る前の時のように震えはじめる。
「手が、滑ってしまった。ごめんね、リーシャ。でも、いいよね。君は体に傷を作るのが得意なんだから。これぐらい、気にしないよね」
「……大丈夫、よ。大丈夫」
「そうだね、リーシャは大丈夫。何をされても、俺のことを好きでいてくれる。何が起っても、君は俺が好き」
切り裂かれた服を強引にむしり取られて、床に投げ捨てられる。
反射的に抵抗しそうになり、私は奥歯を噛んだ。
余計な刺激をするのは得策じゃない。何をされるか分からない。
顔の横に刺さるナイフが鈍く光っている。このナイフを引き抜いて、クリストファーに抵抗をしてこの場から逃げる――?
駄目だ。教会の外には男たちがいる。すぐに捕まってしまうだろう。
逃げられない。
なんとかクリストファーを説得して、ベルガモルト家への襲撃をやめさせなければ。
今のベルガモルト家には、たぶん、兵力がない。
兵力を増強するほどの資金がない。家を立て直しはじめたばかりだからだ。
ベルガモルトの家をよく知るクリストファーなら、襲撃は成功してしまう。
今度はきっと、多くの血が流れる。
ベルガモルト公爵夫妻に拒絶されたら、クリストファーはシルキーさんを殺したように、お二人も――。
そんなことはさせない。メルアの新しい居場所だ。奪わせたりしない。
メルアを、傷つけさせない。
「この傷は残ってしまうかな、リーシャ。でも、俺は構わないよ。傷があろうが、手足がなかろうが、俺はリーシャを離したりしない。リーシャは俺の大切な幼馴染みだ。二人でよく遊んだよね。君は俺の手をひいてくれた。いつも」
乱暴に婚礼着を着せられる。女性に服を着せたことなどないのだろう。
その手つきは粗雑で、着せられたというよりも体にへばりついているだけのようだった。
ドレスのそこここがビリビリと破けたけれど、クリストファーは気にした様子もなく私の頬を私の血に濡れた手で撫でる。
「俺を導いてよ、リーシャ。一人にしないで。俺を捨てないで。傍にいて」
幼い頃のような口調で、クリストファーは言う。
「たすけて、リーシャ」
「……クリス」
泣き出しそうになってしまう。メルアの両親を殺して、シルキーさんを殺して。
私の家族に酷いことをしようとしたのに。
大人しくて気が弱くて、引っ込み思案だった幼いクリストファーとその姿が重なって見える。
今なら私の言葉が届くだろうか。
こんなことは間違っていると――。
「クリス、一緒に逃げましょう、クリス。どこか遠いところに。ベルガモルト家に戻らずに、誰とも戦わずに。私があなたと一緒にいる。どんな場所でも、やり直せる。もう誰も傷つけないで」
「俺は誰も傷つけていない。邪魔なものを排除しただけだ。リーシャ、嘘つき」
「嘘なんてついていないわ、信じて!」
「俺は戦って居場所を取り戻しているだけだ。この国での、俺の居場所を。誰とも戦うな? どこかに逃げよう? リーシャはゼフィラスを守ろうとしているのか。俺を、裏切って」
「そんなことはないわ! 私が愛しているのはあなただけよ、クリス。昔からずっと好きだった。野原で一緒に花を摘んだわよね? 花冠を一緒に作ったわね。あの時は楽しかった……今も、私は変わらない。あなたを愛してる!」
嘘だ。全部嘘。
私はあなたが怖い。
怖い。怖くて――可哀想。
愛してなんかない。シルキーさんとの浮気を見てしまった日から、私の気持ちはもう、終わってしまった。
私はゼフィラス様を愛している。愛しているから――きっと助けにきてくれると、信じることができる。
「じゃあ、証明してよ、リーシャ。君は俺の花嫁だ。ここは教会。ここで――夫婦になろう」
「あ……」
「怖い?」
スカートがたくしあげられる。大きな手が私の足に触れた。
これから起ることを想像すると、体が更に震え出す。怖い。嫌だ。怖い。怖い。
でも。
「……怖くない。愛しているわ、クリス」
私の体で、時間が稼げるのだとしたら。
この場にクリストファーをつなぎ止めて、ベルガモルト家への出立を遅らせることができるのなら――。
「君は聖女なんだってね、リーシャ。英雄とともに国を救った救国の聖女。俺が君を人間に戻してあげる。君はただの女。俺の幼馴染みのリーシャだ」
「……っ」
嫌だ。嫌。嫌。頭がその単語だけで埋め尽くされる。
嘘をつかなくてはいけない。あなたを愛しているのだと、微笑まなくてはいけない。
でも心は否定できない。嫌悪感が、背骨を冷たくさせる。触れられる指先は、まるで石の裏にへばりついた蛞蝓みたいだ。
ゼフィラス様に会いたい。
その力強い腕に抱きしめられたい。
皆のために私は、頑張らなきゃいけないのに。嫌悪感にどうしようもなく、心がへし折られる。
人としての大切なものを、汚い手で無遠慮に触れられて、穢されているみたいだ。
「……っ、いや……嫌……っ! たすけて……たすけて、ゼフィラス様……!」
あぁ、言ってしまった。
ゼフィラス様の名前を、呼んでしまった。
もう、とても耐えられない。
私はクリストファーの体の下で、じたじたと暴れた。触られたくない。嫌だ。
嫌……!
「……リーシャ。君はやはり、嘘つきだ」
「あなたなんて、大嫌い。人殺し! 大嫌いだわ!」
「可愛げなくて、嘘つきで傲慢で嫌な女だけれど、俺は君を許してあげる。二度と生意気なことを言えないように、喉を潰そう。俺から逃げられないように、足を切ろう。その手が俺を殴れないように、手も、切ってしまおう」
「それでは、生きているとは言えない」
「何も言わずに俺を愛してくれる君がいれば、俺はそれでいい。君は聖女なんだろう? 皆が君を聖女と崇める。聖女から愛される俺は、全て正しい。幸せに、なることができる!」
「嫌……!」
クリストファーはナイフを私の手につきたてようとした。
あまりの恐怖に、きつく目を閉じる。
閉じた瞼の裏側に、光が溢れた。
痛みはない。
腕に、ナイフの切っ先が食い込む幻を見た気がしたのに。
「……う、わ、ああ……っ」
瞼を開くと、クリストファーが情けなく悲鳴をあげながら、何かを見ていた。
首のない三人の女神像の前に、白く輝く女性の姿がある。
三人の女性は、片手に赤子を抱き、片手に剣を持っている。
その三本の剣が、クリストファーに向けられる。
「マルーテ様……女神、様……?」
女性たちの背中には、白く輝く美しい翼がある。まるで、石像のような質感の、美しい姿だ。
マルーテ様は、私に加護をと夢の中でおっしゃっていた。
目には見えないものがあると、私は知ることができるのだと。
マルーテ様が、私をもう一度守ってくださいっているのだと思うと、はらりと涙が零れた。
私の体に、ぼたぼたと赤いものが降ってくる。
クリストファーの手からナイフが落ちて、床に転がりカランと硬い音をたてた。