夜の訪問者
◇
カリカリ。カリカリ。
「ウオオオオン!」
「ワオオン!」
ドン。ドン。ドンドンドン。
強い風の音に混じり、風の音に似た遠吠えが混じる。
風にルーグが興奮しているのかと、暗闇の中でぬるい覚醒を迎えた私は眉を寄せる。
ルーグは賢い白狼だ。風の音で興奮するなど珍しい。
風に窓が揺れる鈍い音がする。しかし、風の音にしては激しい。まるで、窓を破るために何かが、誰かが窓に体当たりをしているようだった。
「ルーグ……?」
起き上がり、窓辺に向かう。
王族の居室があるのは城の奥。ルーグは厩の横にある白狼小屋で眠っている。
白狼小屋から抜け出して一人で私の元まで来たことなどない。
鎖に繋がれているわけではないが、小屋の扉は閉じている。
白狼の身体能力なら、抜け出して城の上階にある私の部屋のバルコニーまで登ってくるのは容易いことではあるが。
夜の闇の中で白い体が光っている。
「ルーグ……君は、ハクロウか?」
窓を開くと、二頭の白狼が勢いよく駆け込んでくる。
ハクロウは、リーシャの家の白狼だ。白狼を飼っている者は少ないが、アールグレイス家のアシュレイは自分の体よりも大きなハクロウをいつも連れている。
白狼は群れを成さない。だからだろう、雄同士仲良くなることは少ない。
だが、ルーグもハクロウも気が合うのか、顔を合わせた時から仲がよい様子ではあった。
わざわざアールグレイス家を抜け出して、ルーグに会いに来たのか。
いや、そんなわけがない。私の部屋まで来たことには何か意味があるはずだ。
「アールグレイス家で何かあったのか?」
「グルルル」
喉の奥で唸り声をあげながら、ハクロウは忙しなく私の周りを動き回る。
ルーグは私の足を甘噛みして、こちらに来いと窓の外に誘った。
「リーシャに、何か? すぐに出る。少し待て」
流石に、上半身裸で夜道を駆けるわけにはいかない。
シャツと上着を適当に羽織り、ベルトに帯剣をした。身支度を整えた私はルーグに飛び乗る。
ハクロウが先にバルコニーから飛ぶようにして、外へと着地した。
ルーグもそれに続いて、バルコニーから手すりを越えて跳躍して着地する。内臓が浮く感覚と共に庭に降り立ち、そのままアールグレイス家までルーグに乗って駆けた。
一体何があったのか。ハクロウは危機を知らせるためにルーグの元に来たのだ。
そうすれば私をルーグが呼ぶとわかっていたのだろう。賢い子だ。
リーシャ、どうか無事でいてくれ。どうか。
アールグレイス家まで駆ける短い間、不安で胸が押しつぶされそうになる。
リーシャに何かあったらと思うと、心臓が鉛になってしまったようにずしんと重たくなった。
風を切るように走る二頭によって、すぐにアールグレイス家に辿りつくことができた。
白狼は本気を出せば馬よりも早く、持久力にも優れている。街の中ではあまり走らせたりはしないが、夜は人がいない。城を出る時に警備兵たちが「何事ですか!?」と騒いでいたが、説明をしている暇はなかった。
今頃騒ぎになっているだろうか。だが、構っている暇はない。
扉を開くと、階段下のホールに縛られた人々の姿がある。強い血の匂いが鼻についた。
「リーシャ!」
中に駆け込む私の後を、ルーグたちがついてくる。
アールグレイス家の中は無惨なものだった。扉は開け放たれて、カーテンは破れて、物が散乱している。いつも美しい屋敷の中が、まるで廃墟のように変わっていた。
縛られているのは、使用人たちと護衛たち。
首元から腹までを切られて倒れて血溜まりをつくっているのは、女だ。リーシャではない。
その顔には見覚えがあった。シルキーという名前の、クリストファーの恋人である。
ルーベルトとアシュレイが、縛られた使用人たちの縄を切っている。
「ルーベルト、何があった!?」
一人の犯行ではないだろう。野盗たちが押し入ってきたような状況にも思える。
だが、事切れている女がシルキーであることに、嫌な予感が全身を巡った。
「ゼフィラス様……! 野盗たちを連れて、クリストファーが現れました。あぁ、あなたがきてくれてよかった。ハクロウ、いい子だ、よくゼフィラス様に知らせてくれた……!」
「ゼス様! リーシャが、リーシャが……!」
アシュレイが私に駆け寄ってくる。泣かないように必死に耐えている少年の背中を、落ち着かせるためにそっと撫でた。
「ゼフィラス様。リーシャがクリストファーに攫われました。全て私の落ち度です。申し訳ありません! クリストファーはシルキーをあっさりその手にかけました。様子がおかしくなっていた」
「……そうか」
辺境送りにしたクリストファーには、見張りをつけていたはずだ。
何の連絡もなかったということは、きっと見張りの兵士も殺したのだろう。
殺したか、どこかに閉じ込めているか。
シルキーの傷を見れば、ためらうことなく剣を振り下ろしたのだとわかる。
クリストファーの行動が危ういのは一目瞭然だった。
「どこに行ったのかわからないのです。連中は馬に乗っていました。今頃、遠くまで逃げているはずです」
「ゼス様、リーシャを助けて……ごめんなさい、ゼス様、守れなくて、ごめんなさい……!」
小さな騎士が震えながら謝っている。
剣で切られた人間を見たのは初めてだろう。恐ろしいはずだ。それなのに泣かずに、私に謝罪をする。
強い子だ。
私はアシュレイの前に膝を突くと、その手を握った。
「アシュレイ、大丈夫だ。私……俺は、黒騎士ゼス。必ず、リーシャを、私の愛する姫君を助ける」
「ゼス様……お願いします。リーシャはきっと泣いてる」
「あぁ。俺に任せておけ」
だが、どうする。
ハクロウがすぐに私を呼びにきたことを考えれば、さほど時間は経っていないはずだ。
馬の速度であれば、白狼でなら追いつく。
ただ、逃げた方角がわからない。闇雲に駆けて見つかるものでもない。
はやる心を押さえつけて、冷静になれと自分に言い聞かせた。