偽りの婚礼
鼻の奥に血の匂いが、肌には血飛沫の生温かさが残っているような気がする。
どこなのか分からないけれど、小さな教会のような場所だ。
王都から出た後に目隠しをされたので、どこなのかは分からない。夜通し走っていたようなので、少なくとも二つ三つは街を通り抜けたような場所なのだろう。
私を腕に抱えるこの人は、私の知っていたクリストファーではなく、怪物なのではないのか。
愛していたはずの人を斬るなんて。
無抵抗な女性を。
唖然としていたシルキーさんの、見開かれた瞳と崩れ落ちる体、床に広がる赤が、何度も反復して思い出される。
体の芯が冷たい。冷え切ったまま暖まらない。
まるで氷を体にいっぱいに詰められたみたいに。
目隠しと縄を解かれると、廃村にある朽ちた教会のような場所にたどりついていた。
飢饉などが起こり人がいなくなった廃村は、魔物や野党たちの格好の隠れ場になるから近づいてはいけない。
つまりはここも、そういった場所なのだろう。
窓ガラスの割れた教会の祭壇にはトルソーが置かれている。
トルソーにはクリストファーとの結婚式で着る予定だったドレスが着せられていた。
お兄様のお店に保管されていたはずのものだ。盗んできたのだろう。
クリストファーとともにいる男たちは荒事に慣れている。
目隠しを外される前に「あの女、売ればいい金になったのに。殺しちまうなんてもったいねぇ」と、会話をしているのが聞こえた。
シルキーさんを追いかけていたのは、私の家にシルキーさんを入り込ませるための演技だった。
私はまた、騙された。
何故こうなってしまうのだろう。シルキーさんもクリストファーも追い詰められていた。
だから。でも。アシュレイ君を人質にしたこと、家のものたちを傷つけたことは許せない。
許しては、いけない。
それがたとえ、かつて好きだった幼馴染であっても。
クリストファーは私をトルソーの横の祭壇に乗せる。
教会の扉はしまっているけれど、窓ガラスが割れているせいで風が吹き抜けていく。
窓の外には、生い茂る木々と青空が見える。
廃村の奥にあるのだろう。三女神の像は首が落ちていた。
壊れた石像らしからぬ鋭利な切り口は、誰かが故意に落としたようにも見える。
「リーシャ、やっと二人きりになれた。君を取り戻すまで、とても大変だったんだ。本当に、大変だったんだ」
クリストファーは私を覆い被さるようにして抱きしめた。
その手は、血に汚れている。その体からは、血の匂いがする。
優しい人だと、優秀な人だと思っていた。幼い頃は少し気が弱くて引っ込み思案で、私の影に隠れているような少年だった。
笑った顔が好きだった。控えめに名前を呼ぶ声が好きだった。
思い出が割れたガラスのようにばらばらに、粉々に砕け散って消えていく。
拒絶感に、身体中に悪寒がはしる。シルキーさんを殺めたばかりの手で、躊躇いもなく私を抱きしめることがどうしてできるのだろう。
メリアの両親を故意ではなかったとはいえ殺めたことを反省して、シルキーさんと二人で静かに辺境で暮らしていくのだとばかり思っていた。
私は甘かったのか。疑わしさは感じていても、ここまで残酷なことになるなんて、予想もしていなかった。
「あぁ、リーシャ。柔らかい。いい香りがする。久々に、すごくいい気持ちだ。辺境はひどい場所だった。何もなくて、汚くて、あれは俺の居場所じゃない。何もかもが間違っていたんだ、リーシャ」
「クリストファー……」
「俺が好きだと言っただろう、リーシャ。以前のように、どうしてクリスと呼んでくれないんだ?」
「……クリス」
クリストファーの声音に疑惑の響きが帯びる。
疑われてはいけない。あなたを愛しているのだと、伝えないといけない。
私はここから生き延びなくては。少しでも、時間を稼ぐために、クリストファーを愛しているふりをして、会話を続けよう。
その体に、腕を回した。強く掴まれ縛られた手首には、赤い跡が残っている。
ゼフィラス様の体とはまるで違う、細い骨ばった体だ。クリストファーも痩せたみたいだ。痩せて、窶れている。
細い生気のない体に、瞳だけが不自然に爛々と輝いていた。
「悲しい思いをさせてごめんね、リーシャ。俺はやっと気づいたんだよ、リーシャは俺のことを本当に好きだったんだって。俺は、リーシャと幸せになるべきだったんだって」
「クリス……迎えにきてくれてありがとう。私、ずっと待っていた」
心にもないことを言わなくてはいけないのが、苦しい。
嘘に気づかれないように、笑みを浮かべる。あなたが愛しいと、熱心にクリストファーの瞳を見つめる。
「一緒に、辺境に行くの? 私を連れて、逃げてくれるの?」
「まさか! あんな不自由な場所には行かない。汚い何もない田舎だ」
「でも、あなたは……」
「俺は何も悪いことをしていないだろう、リーシャ。何かしたのだとしたら、君を傷つけたことぐらいだ。馬車が人を撥ねた時、あの場から立ち去るように俺に言ったのはシルキーだ。俺はあの女の指示に従っただけ。俺を騙した悪女を殺した。ただそれだけだ。俺は何も悪くない。そうだろう、リーシャ」
「……そうね。あなたは、何も悪くないわ、クリス」
「リーシャ! 君ならそう言ってくれると思っていたよ。二人でベルガモルト家に戻ろう。もし両親が俺を許さないというのなら、二人は消してしまおう。俺を見捨てた親など、親ではない。俺があの家の当主だ。ベルガモルト家で一緒に暮らそう、リーシャ」
クリストファーはご両親までその手にかけようとしているのか。
このままベルガモルト家に連れていかれたら、きっと大変なことが起こる。
公爵夫妻はメルアを引き取って育てていると聞いた。
メルアには二度も悲劇はいらない。
できる限り時間を稼がなくては。ゼフィラス様がきっと来てくれる。
もしそれが叶わなかったら、私が……クリストファーを、止めなくてはいけない。
何をしても。どんな目に、遭ったとしても。
「クリス、ゼフィラス様がお怒りになる。私、怖いの……クリス、助けてくれるの? 相手は、王太子殿下よ」
「初めて俺に頼ってくれたな、リーシャ。あぁ、可愛い。俺が必ず君を助ける。王国の民を皆敵に回しても、俺が助けるよ。何が英雄だ。権力でリーシャを好きなようにした最低なクズのくせに。俺のリーシャを」
「怖かったわ、とっても……とっても、怖かった」
「大丈夫だよ、リーシャ。俺が守ってあげる。必ず守るよ。あんな男が王になるなど間違っている。リーシャを奪われないためにも、俺があの男を殺す。大丈夫、大丈夫だ。もう二度とリーシャに触れられないように、殺してあげるからね」
怖い。
どうして笑顔で、そんなことが言えるのだろう。
体が勝手に震えてしまう。愛していると伝えなくてはいけないのに。
クリストファーはそれをゼフィラス様を怖がっていると理解したらしく「辛かったね、リーシャ」と言うと私を撫でて、トルソーから剥がした婚礼着を私の体の上に被せた。