足りない
きつく抱きしめていた私からゆっくり離れると、ゼフィラス様は私の涙を指で拭い、目尻に口付けた。
目尻、両目の間、頬と、唇がいたわるように触れる。
「リーシャ、好きだ、リーシャ。君を失わなくてよかった。……逃げろ、などと。そんなこと、できるわけがない。君を失うぐらいなら、共に魂を喰われたほうがいい」
「ゼフィラス様、そんなことを言っては……」
「ここには、私と君の二人しかいない。誰も、聞いていない。ここにいる限り、私は立場を忘れる。君も」
「……でも、私の傷が治るまでには時間が……」
「ずっと傍にいる。離れたりしない。君の世話を誰にも任せない。私一人だけだ。私だけが、君の傍に」
「ゼフィラス様……」
ゼフィラス様の声が、わずかに震えている。
私がゼフィラス様を失いたくないと思ったように、ゼフィラス様も──怖かったのだと、気づいた。
包帯の巻かれた感覚の乏しい手で、ゼフィラス様の髪を撫でて背中を撫でる。
唇が重なる。そっと触れて、離れていく。
「ごめんなさい、ゼフィラス様……私もあなたのそばにいたい。ずっといたいと、女神様に願ったのに。離れようと、考えました。でも、私は……やっぱり足りなくて。きっとゼフィラス様に、迷惑をかけてしまう」
「足りている人間など、いないよ、リーシャ。私も同じだ。見ただろう、私はゲイルに叱られた。アルゼウスも仕事中に居眠りをすると言っていただろう? 古の王妃たちは嫉妬心から子を殺し、神官長は──あの記録書には書かれていなかったようだが、己の娘を王に嫁がせている。権力が欲しかったのだろう」
「……そうなのでしょうか」
「あぁ、きっと。皆、足りない。私もだ。私は、一人では足りない。一人では足りないから、君が必要だ。私が君を愛していて、君が私を愛してくれている。これ以外に、大切なことなどありはしない」
「ゼフィラス様……ありがとうございます。いつも、私は……あなたに救われてばかりです」
「それは私も同じだ。私は君を離さない。……離すことは、できない」
「……はい。……離さないで、いてください。私でよければ、ずっと」
「あぁ。リーシャ……外のことは、考えなくていい。今は傷を治すことに専念しよう。何か食べようか、その後、痛み止めを飲もう。今はまだ薬が効いているが、効果が切れたら、激しく痛むはずだ」
「はい」
新しく流れてくる涙をゼフィラス様は指先で拭う。
それから「名残惜しいな、ずっと、抱きしめていたい」と、眉を寄せて本当に苦しそうに言って、私から離れた。
「少し待っていてくれるか? 食事と薬を持ってくる。君は動かないで、そのまま寝ていてくれ」
「ゼフィラス様、怪我をしているのは両手だけです。もう、起きることはできます」
「駄目だ。皮膚が爛れて、菌が入れば発熱する。せめて傷がもう少し癒えるまでは、動いてはいけない」
「ですが」
「言うことを聞いてくれ、リーシャ。君をベッドに繋ぐような真似はしたくない」
「は、はい」
確かに、熱にうなされて暴れるような患者を診療所では一時的にベッドから落ちて怪我をしないように、傷に障らないように、ベッドに繋ぐことがある。
体に残った破片を取り除く時などもそう。
私は暴れたいわけじゃないので、素直に頷いた。
ゼフィラス様は微笑むと「待っていてくれ」と私を撫でて、部屋から出ていった。
一人残された部屋で私は両手を顔の前に持ってくる。
綺麗に包帯が巻かれている。
外がどうなっているのか心配だし、ゼフィラス様に迷惑をかけたくないと思うけれど──でも、私も、嬉しいと思ってしまっている。
この静かな部屋が。誰もいない場所が。
目を閉じる。
胸に、手を当てた。
呼吸のたびに、自分の胸が上下する。心臓が動いている。
もう少しで、私の魂は食べられて、あの魔物の中に閉じ込められるところだった。
セイレーンの時もそう。酒場で助けてもらった時もそう。
本当に、いつも助けられている。
そのたくましい背中に、その大きな手に。
ゼフィラス様の隣に胸を張っていられるように、頑張らなくてはと思っていたのに。
私はすぐに、諦めようとしてしまう。
もっと、変わらなくてはいけない。ゼフィラス様が私を、望んでくださったのだから。
「ゼフィラス様、ゼス様、ゼフィラス様……好きです」
小さな声で呟くと、その言葉が、熱が、感情が、体に染み渡っていくみたいだ。
「……大好き」
何かが転がる音が大きく響いた。
驚いて視線を向けると、いつの間にか部屋に戻ってきていたゼフィラス様が水差しをひっくり返していた。