傷の療養
美しい花々が咲き乱れる、神殿のような場所だ。
子守歌が聞こえる。揺り籠を揺らしているのは白い手で、美しい金の髪と青い瞳の女性が慈しむように揺り籠を覗き込んでいる。
女性は顔をあげる。花畑に立ちすくんでいた私と目があって、にっこりと微笑んだ。
『ありがとう、勇敢なあなた。助けてくれて、ありがとう。エデンズトーアにのぼることもできず、暗い場所に閉じ込められていた私たちを助けてくれて、ありがとう』
「マルーテ様?」
『ええ。……そして、ごめんなさい。私は罪人。罪人に、なってしまった』
「……とても、お辛かったんですね」
『とても。……でも、私は間違っていた』
優しい手が、赤子の頬を撫でる。呼び寄せられるように私も揺り籠の中を覗き込んだ。
ふっくらとした薔薇色の頬をした愛らしい赤子が、すやすやと眠っている。
『勇敢なあなたに、加護を。多くの魂が救われて、女神様たちはよろこんでいらっしゃる。目には見えないものもこの世界にはあるのだと、あなたは知るでしょう。どうか、あなたの行く末に、幸多からんことを』
声が、徐々に遠のいていく。
花びらが舞い上がる。視界が白と桃色に埋め尽くされる。
なんだか無性に泣きたくなった。
もう、過ぎ去ったことだけれど――どうかマルーテ様やフィオーラ様や、王子たちが安らかに眠れるようにと祈る。
「……っ」
――鈍い痛みで目を覚ました。
夢を、見ていたようだ。あたたかく優しくて、悲しい夢だった。
白にクリーム色で複雑な模様が描かれた天蓋が目に入る。青い蝶がところどころに飛んでいる。
柔らかいベッドに体が沈み込んでいくように重い。
ほどかれた髪がベッドに広がっている。白い寝衣は見慣れないもので、両手を動かして顔の前に持ってくると、断続的に鈍い痛みが続く両手には包帯が巻かれていた。
起きあがろうとしたけれど、体が動かない。
ここはどこだろう。ふと不安になって、視線を動かす。
王都の治療院だろうか。それにしては、広い部屋は質のいい豪華なもので、ベッドも高級品だ。
天蓋の木枠は植物の柄が彫られている。草花が上へ上へと伸びて、白とクリーム色の空に蝶が飛んでいるのだと気づいた。
シーツも白い。さらりとした肌触りの掛け物も白い。
私の両手の包帯からは、薬草の匂いがした。
「リーシャ、起きたか! 気分はどうだろうか。吐き気はないか? 痛みは?」
ゼフィラス様がカートに銀盤と包帯と薬瓶などを載せてやってくる。
カートをベッドの隣に置くと、ベッドに横たわる私の隣に座って、髪を撫でたり頬を撫でたりしてくれる。
私は何度かぱちぱちと瞬きをした。
まだ寝ぼけているのか、現実が曖昧だった。
私はどうして、こんなことになっているのだったかしら。
「ゼフィラス様、私……」
「すまなかった。私のせいだ。私が、判断を誤った。君が無事でよかった、リーシャ。本当に、よかった」
泣き顔のような表情を一瞬浮かべて、ゼフィラス様は私の顔の形を確かめるようにして大きな手で触れる。
次第に記憶が鮮明になってくる。地下室のアルマニュクス。
魂を奪う手。焼けた盾を握って、火傷をした手のひら。
私の手は──指は、動かなくなるかもしれない。
覚悟はできている。ゼフィラス様に、そして王妃という立場に、私はふさわしくない。
「……私は、大丈夫です。ゼフィラス様がご無事で、よかったです」
「ありがとう、リーシャ。君が私の命を繋いでくれた」
「私、余計なことをしました。私が調べなければ、あんなことには」
「余計なことなどではない。君が気づいてくれたから、封印された状態でアルマニュクスを倒すことができた。誰も気づかないまま封印が綻んでいれば、多くの人々が犠牲になったはずだ。アルマニュクスの体の中に閉じ込められていた、多くの魂よりももっと多くの命がきっと失われていた」
「ありがとうございます、ゼフィラス様。……いつも、優しくしてくださって」
私は微笑んだ。本当は泣きたい気持ちだった。
ゼフィラス様は私をいつも認めてくれる。励ましてくれる。
足りないところだらけなのに。
ゼフィラス様を守り命が失われる覚悟をした時、ゼフィラス様のことが大好きだと強く思った。
その感情は、今も私を満たしている。
大好き。
あなたが好き。
だから──私は、離れなくてはいけない。ゼフィラス様にはもっと相応しい人がいる。
体の傷は、努力だけではどうしようもない。
「ゼフィラス様、私……」
「リーシャ。ここは、王家の別邸。王都の南、海沿いにある。ルーグに乗せて、君をここまで運んだ」
「別邸、ですか……」
「傷が癒えるまで、君をここから出さない。私もここにいる。君の家族には承諾を得ている。父や母からも了承を得た。誰にも文句を言わせたりしない」
「ゼフィラス様……どうして」
診療所に運ばれるのかと思ったのに、どうして別邸なのだろう。
それに、家に帰れないというのは──。
「私は、長年君を見続けてきたんだ、リーシャ。君のまっすぐさや、真面目さや、努力家で一人でなんでも頑張ろうとするところは、よく知っている。思い詰めやすいところも、人のために自分を押さえ込んでしまうところも、知っている」
「……私は」
「君が何を言おうとしているのかぐらいわかる。こんな怪我をしては、私とは結婚できない──そんな言葉は、君の口から聞きたくない」
私は口を噤んだ。私の気持ちは、知られてしまっている。
どうして言わなくても分かるのだろう。どうして、欲しい言葉をくれるのだろう。
「私は、君を手放す気はない。君は私の命を守ったんだ。それは名誉の負傷だ。誰に咎められるものでもない。……私は、君に怪我をさせてしまった自分が許せないが。本当に感謝している、リーシャ」
「でも、ゼフィラス様。私は、迷惑をかけたくはないのです」
「迷惑なわけがない。君の怪我が治るまで、君の身の回りのことは全て私がする。誰にも君に触れさせない。誰にも渡さない。……こんな男で、すまない。だが私は、私の感情を隠すつもりはない」
ゼフィラス様は私の額に唇を落とした。
起き上がることのできない私の手の包帯をするすると解く。
赤く腫れていた手には、傷薬が塗られている。
銀盤のぬるま湯で丁寧に手を洗う。ひりひりしたが、思ったよりは痛くない。
「君は二日、眠っていた。診療所で応急処置をしてもらった後、君を攫ってきた。一月もすれば傷は癒えるだろう。手も動かせるようになる。これは火傷によく効くソルデムの油。魔物もたまには役に立つ」
ソルデムは火蜥蜴と呼ばれている。
その鱗は硬く、肉は滋養強壮にいいとされて、油は傷薬に。いずれにしても、希少なものだ。
私の手を丁寧に拭いた後、ゼフィラス様は薬瓶に入った軟膏を塗った。
「怪我を隠すべきかどうするか悩んだ。きっと君は気に病むだろう、リーシャ。隠せばもっと気に病むはずだ。だから、大々的に公表した。神殿の奥に封じられていた魔物を討伐した私を救った、心優しき麗しの乙女として。今頃は、王都中に君の話は広まっているはずだ」
「……私、そんな、そんなことは」
「黒騎士ゼスの英雄譚に、救国の乙女が加わったのだ。皆、そういった話は好きだろう? 吟遊詩人たちがこぞって物語にして、歌い歩くだろう。誰も君の傷について文句は言わない。言わせたりもしない。……そしてリーシャ。君は私から、逃げられない」
「逃げるなんて……」
離れなくてはいけないとは考えていた。けれど、逃げたいわけじゃない。
だって、その声を聞いて、その姿を目に映して、その手に触れているだけで、こんなにも、幸せなのだから。
傷薬を塗った後、丁寧に新しい包帯が巻かれる。
もう片方の手も、同じように。
「リーシャ。怖かったと泣いていい。痛いと、泣いていい。……こんなに酷い、怪我をさせてしまった。私のせいだと、怒っていい」
「……ゼフィラス様、私は大丈夫です」
「大丈夫じゃない。大丈夫なんかじゃないんだ。……離れることを考えるよりも、お前のせいだから責任を取れと詰ってくれ」
「……そんなことはしません」
思わず、笑ってしまった。
あなたのせいだから、責任を取れといって怒るなんて、そんなこと考えたこともなかった。
そういう考え方もあるのかと、なんだか感心してしまう。
「ゼフィラス様、私……あなたの傍にいたいです。本当は、ずっといたいです」
「リーシャ……!」
本音を伝えると、涙が溢れた。
あなたが好きだという気持ちだけで、全てが許されるわけじゃないけれど。
ここには私とゼフィラス様しかいないから。
立場を忘れて、甘えたい。
甘えて、わがままを言って、子供みたいに泣いてしまいたい。
覆い被さるように、抱きしめてくださる。
力が強くて、少し痛くて。
ぼろぼろ涙が溢れて止まらなかった。