鏡の呪い
鏡に近づこうとするゼフィラス様の腕を、私は掴んだ。
「ゼフィラス様、触れてはいけないと」
「しかし、このままというのはな。何らかの呪いが封じられているとしたら、再び悲劇が繰り返される可能性がある。もしくは気づいていても、胸の中にしまっていたか。わからないが、鏡を調べるべきだ」
「何があるかわかりません。リーシャ様は、ご退室を」
アルゼウス様に言われて、私は首を振った。
「でも……ゼフィラス様が」
「リーシャ。私は大丈夫だ。君はアルゼウスと共に戻っていてくれ」
とても嫌な予感がする。
呪いは──王子を殺すのだ。
ゼフィラス様は王子である。
呪いの正体は何だかわからないけれど、ともかく、怖い。
「……ゼフィラス様、待ってください。正体がわからないものに不用意に触れるのは──」
鏡に近づこうとするゼフィラス様の腕を掴み、止める。
一旦退室したほうがいい。
もう少し調べて、呪いが何かの正体を突き止めてから、鏡をどうするかを考えるべきだろう。
「……しかし。いや……そうだな。気が逸ってしまった。私から時間を奪ったなにかが、ここにあると思うと……」
ゼフィラス様は足を止めた。私は安堵の息をつく。
早くここから出たい。嫌な予感がする。
鏡に気づいた途端に、地下室がただの資料庫から、薄気味悪い場所に変わってしまったみたいだ。
部屋から出ようと鏡に背を向ける。
すると――。
『私に、気づいて』
女性のか細い声が、聞こえたような気がした。
「……何?」
背後から、圧倒的な気配が襲いかかってくる。
振り向かなくてもわかる。そこには、何かがいる。
暗闇を凝縮したような。
誰も触れられない深い海の底から手を伸ばす、恐ろしい何かのような。
生臭くなまあたたかく、磯臭い匂いが部屋に漂う。
『殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。喰わせろ』
低くしゃがれた声が、頭に響いた。
その声は地下室の部屋をぐわんぐわん揺らしているようだった。
ゼフィラス様が私を片手で庇い、剣を抜く。
振り向いた先には、鏡の中から這い出てこようとしている黒々とした何かの姿がある。
それは女性の体つきだった。
黒い体は人の体を倍にしたくらいの大きさの、艶かしい女性の体つきをしている。
細い腕は異様に長く、指先も枝のように長い。
その枝のように長い指で、鏡のフレームを握りしめて、体を捻り鏡の中から外に出ようとしている。
首も長く、闇を煮詰めたような顔には赤い半月状の口だけがぽっかりと浮かんでいる。
その髪はゆらゆらと揺れて、髪のかわりにイソギンチャク状のぬるりとしたものがびっしりとはえていた。
『喰わせろ、喰わせろ、喰わせろ、魂を喰わせろ』
単純な言葉だけを繰り返すその何かの首には、首枷がはめられている。
首枷から伸びる鎖は、鏡へとつながっていた。
「……これは、不死のアルマニュクス」
ゼフィラス様が呟いた。
曰く、その体は闇でできているという。
曰く、その体は不死で、魂を喰らうという。
曰く、暴食のその魔物は、人が滅ぶまで喰らい続けるのだという。
遥か昔に封じられた魔物。砂漠の遺跡の奥、迷路のような遺跡の最奥に閉じ込められて、二度と日の光を浴びることはない。
その魔物が、どうしてここに。
「疫病、呪い……つまりは、魂を喰われたのか」
「遺跡の噂は神官家が作った嘘だったのでしょうか……それよりも、逃げないと! こんなものが、ずっとここにあったなんて」
「逃げるわけにはいかない。ここで倒す。こんなものが外に出たら、王都の民が皆、喰われてしまう。アルゼウス、リーシャ、逃げろ!」
「リーシャ様、お逃げください!」
「……っ」
アルマニュクスは大きく頭を振った。私たちの言葉がわかっているとでもいうように、その頭にはえる髪のようなものが伸びて、扉付近の壁にぶつかる。
砂埃と轟音と共に、壁が崩れる。通路は封鎖されて、逃げることはできない。
アルゼウス様と私は、壁際に張り付くようにしてさがった。
燭台も倒れて、蝋燭の炎が消える。カンテラの灯りの奥に、黒々しい魔性のものが唸り声を上げながら確かに存在している。
メルアのご両親の本に、書いてあった。それは伝承を繋ぎあわせた、予想でしかないのだと。
けれど今は、信じるしかない。私たちが、命を奪われないために……!
――アルマニュクスの指先に触れられたものは魂を抜かれる。
魂は喰われて、抜け殻になった人の体だけが残る。
外傷はない。ただ、肉体だけが残る。
「ゼフィラス様、指先に触れてはいけません……! 魂を抜かれてしまいます!」
「あぁ、わかった!」
ゼフィラス様に向かって手が伸ばされる。アルマニュクスが動くたびに、部屋の書架が崩れ本が散乱し、盾や剣といった宝物が私たちに向かって飛んでくる。
アルゼウス様がテーブルを倒し、盾にした。テーブルに剣や宝石がぶつかり、床に散乱する。
私は落ちた燭台を拾い、カンテラから火を分けてもらい蝋燭に炎を灯す。
蝋燭で照らしながら、記録書のページをめくった。
あの首輪は何?
どうして鏡の中にいるの?
どうして、古の大神官様は、こんな恐ろしいものを使って王子の魂を奪うことができたの?
とても、人の命令に従うようには思えないのに。
「死ね、魔物が!」
伸ばされた手を剣で切り落とす。すぐに再生する手を、何度も腕の付け根あたりから切り落とした。
切り落とされた腕は床の上でビチビチと跳ねて、消えていく。
再生は無限なのか、一瞬のうちにその腕は元通りになった。
両手の攻撃に加えて、鋭く尖った髪がゼフィラス様の体を貫こうとする。
ゼフィラス様は私たちに攻撃が届かないように、それら全てを剣で弾き、切り裂いた。
「本当に、不死なのか……? このままでは、押し負けてしまう……それに、ここは地下だ。天井が崩れれば、僕たちは生き埋めになる」
アルゼウス様が震える声で言った。
私はページを指で辿る。
ゼフィラス様を守りたい。失いたくない。
こんなところで死にたくなんかない。
「あれは恐ろしい。恐ろしいが役に立つ。砂漠の遺跡から鏡を掘り起こし、持ち帰ってきた。眠りについていたあれに、魂を贄として捧げて、目覚めさせた。封印されているために鏡に繋がれている。だがそのうち封印も綻ぶだろう。どのみち私が死んだ後のことだ。数百年後のことなど、私には関係がない」
古の神官長の自分勝手な言葉が、記録書には続いている。
「血の盟約を結んだ。清らかな王子の魂を喰えと命じた。それが何よりもの馳走であると覚えさせた。再び眠りにつかせるために、二人の王妃を喰わせた。この国を守るためだ。あれは、王家の血を好む。その身にその味が刻まれたのだ。だから、触れてはならない。外に出してはならない」
「なんと、勝手な……」
「女性を食べて再び眠りにつくのなら、私が……!」
「何を言っているのですか、リーシャ! 駄目に決まっているでしょう!」
倒せないのなら、眠りにつかせるしかない。
一歩前に進もうとすると、アルゼウス様に腕を掴まれて、叱責される。
「リーシャ、不滅な存在などはない。そう思われていただけだ。こいつは、ここで殺す」
再び再生が始まる前に、ゼフィラス様の剣がアルマニュクスの胴体を切り裂いた。
その速度は再生よりも速く、その剣は落雷のように重い。
体を切り裂かれたアルマニュクスは、断末魔の叫び声をあげる。
けれどすぐにぼこぼこと闇がその体から吹き出して、切られた体は元に戻った。
「……闇の魔物。闇の魔物の特徴。その体は闇でできているために実態はない。再生を繰り返す。喰らった分だけの魂をその体にもつ」
メルアのご両親の書いた魔物研究書が、思い出される。
これは、女神様の導きなのかもしれない。
メルアを救い、仇をとったゼフィラス様を、私を――お二人が助けようとしてくれている気がした。
「不死だと思われているのは、食べた分の魂が体にあるから。その回数、再生ができるから。……魂を溜め込む場所は、頭部。頭部を潰す。聖炎で焼く。喰われた魂は女神のもとにのぼり、再生ができなくなれば魔物は、死ぬ……!」
「頭だな、リーシャ。わかった」
「聖炎……聖炎……! ゼフィラス様、僕の剣を使ってください。女神の像の前で祝詞を捧げて清めたものです。炎は、カンテラの火を……!」
アルゼウス様が剣にカンテラのオイルをぶちまけて、火をつける。
ゼフィラス様はその剣を拾い上げると、もう片方の手に持った。
自分の剣でアルマニュクスの腕を切り、髪を切り裂きながら駆ける。
アルマニュクスの頭に、燃え盛る剣が突き刺さった。
聖炎がアルマニュクスの頭を炎で包み込む。苦しげに身を捩るアルマニュクスの体から、ポワポワと幾つもの光が飛び出して、暗い部屋を明るく照らした。