降って湧いた幸運
私が君を助けた。
君の命を繋いだ。
このまま連れ去り甲斐甲斐しく世話をすれば、君の瞳は私を映してくれるだろうか。
恩人として、私に感謝してくれるだろうか。
その心に、私の居場所はできるのだろうか。
甘い欲望に身を委ねそうになる。
だが、駄目だ。このままリーシャの傍にいたら、私はきっと自分がおさえられなくなってしまう。
命を助けているのに、そんな欲望を抱く自分が浅ましくひたすらに不快だった。
――本当に、どうしようもない。
これが恋というのなら、なんて黒く汚れた感情だろう。
美しく清廉なリーシャに見合うように、ただ美しく優しい透明な愛情だけを捧げたいのに。
見返りなど求めずに。私が君を愛している、ただそれだけでいい。遠くから君を見つめられるだけでいい。
君が幸せに笑ってくれていたら、その隣にいるのは自分じゃなくてもいいのだと。
――そう思いたかった。
だが、無理だ。名前を呼んで欲しい。微笑みかけて欲しい。手に触れたい。小さくて柔らかい唇に触れたい。
抱きしめて、その首筋に顔を埋めたい。
君が好きだ。だから、愛されたい。欲望には、きりがない。
「……かれこれ半日ですよ、ゼフィラス様。少し休憩させて下さい」
「もう音をあげるのか?」
「あなたとちがって俺はごく普通の人間ですから、息切れはするし疲れるんです」
私が弾き飛ばした剣を拾いながら、ゲイルが言う。
あの日。リーシャの唇に息を吹き込むために何度も触れた日から、幻想が離れていかない。
幾度も夢に見る。華奢な体、柔らかい唇、深く閉じられた瞳。
瞼が開き大きな瞳に私が映る。「ゼフィラス様」と微笑んでくれる。
あの場からリーシャがはっきりと意識を取り戻す前に私は立ち去った。
その後リーシャは熱を出したようだが、無事だった。何度も顔を見に行きたいと思ったが、自分を押さえつけた。
私は自分の浅ましさに気づいてしまった。
とても、会うことなどできない。
城の騎士団本部の調練場で、暇さえあればゲイルと手合わせをした。
そう毎日、ゼスとして街をうろつけるわけでもない。
王太子としての公務以外の時間を持て余し、暇があればリーシャとの僅かな邂逅が脳裏を埋め尽くす。
体を動かしていた方が少しは気が晴れる。
だが、俺の相手ができる兵士は、今はもう騎士団長のゲイルぐらいだ。
そのゲイルも、やれやれと頭をふりながら「今日はミランダ様との約束があるのですよ」と言った。
「そうですわよ、殿下。約束があるのです。私のゲイルを奪わないでくださいまし」
いつの間にかミランダが私たちの模擬試合を見ていた。
三大公爵家の一つ、トットリア家の娘であるミランダは、城に簡単に出入りすることができる。
特に騎士団本部ではミランダは有名で、顔を出せばゲイルの元へと皆率先して案内をする。
トットリア家は武名に優れた家で、騎士たちはトットリア家の者たちに憧れを抱いているのだ。
それに、ゲイルの婚約者でもある。
「どうせまたリーシャのことで悩んでいるのでしょう? 長年の片思いですからね」
「簡単に言うな、ミランダ」
「殿下の権力で無理矢理婚約者にしてしまえばいいのにと、俺などは思うのですがね。それはしたくない。けれど初恋の相手以外とは結婚したくないとおっしゃる。困ったものです」
「困りましたわね、殿下にも」
ゲイルとミランダが顔を見合わせて、溜息をついた。
二人には、俺の事情は知られている。ミランダはリーシャの友人で、ゲイルは私の友人である。
だから――というわけでもないが。
ゲイルにぽつぽつと話したことがミランダに伝わり、私がゼスであることやリーシャを想っていることを知る数少ない者たちとなっていた。
「リーシャは確かにいい子です。けれど、そこまで懸想するほどかしら? とも思いますわよ。殿下の周りには、もっと美しい方々が沢山いますでしょう?」
「君には、私の気持ちは分からない、ミランダ」
「そう怒らないでくださいまし。怖いですわよ。今のは軽い冗談ですわ」
口元を扇で隠して、ミランダはころころと笑った。
トットリア家の屈強な男たちに囲まれて育ったミランダは、気が強い。
とんだ跳ねっ返りだと彼女の父や兄たちは言っていて、ゲイルにとってはそこがいいらしい。
ゲイルは生真面目で寡黙である。だから、率先して手を引っ張り、よくしゃべり、冗談を言って笑ってくれるミランダのような女性が、共にいると心地いいのだそうだ。
「奪ってしまえばいいとは、私も同感ですわ。私、リーシャの幼馴染みとやらが、嫌いですもの」
「クリストファーも君と並ぶ、公爵家の息子だろう」
「三大公爵家だからといって、仲良しというわけではありませんのよ。共に王家を守るという古くからの盟約。それだけが三大公爵家の立場を支えておりますけれど、古い名声に溺れてなにもしないでいたら、家などは潰れるだけですわ」
実際、トットリア家はミランダの言うとおり努力を惜しまず家を栄えさせている。
幾人もの強い武人を輩出し、国境での戦いや魔物討伐、国内での諍いなどで活躍してその名を轟かせている。
クリストファーのベルガモルト家は元々は王を支える文官の家柄だった。
だが最近は――領地を治めることに心血を注いでいるのか、王家との関わりは薄くなっている。
私はクリストファーという男をよく知らない。
立場的には親しくなってもおかしくないのだろうが、言葉も笑顔も上滑りするような挨拶をする程度にとどめている。
これは、嫉妬だ。私はクリストファーが羨ましい。
あの男さえいなければ――と、思ってしまいそうになる自分が嫌だった。
そのクリストファーのことを、ミランダは嫌っている。
学園に入学してからだろうか。嫌悪の感情を隠さなくなったのは。
「笑顔が嘘くさいのですわ。殿下の笑顔も嘘くさいのですけれども、もっといやらしい嘘くささなのですわ」
「私も嘘くさいのか……」
「ええ、とっても。でも、クリストファーのほうがもっとずっと、狡猾でいやらしい感じがするのです。あれはきっと、他の女と浮気をしておりますわよ」
「ミランダ様、憶測でものを言ってはいけませんよ」
ゲイルの注意に、ミランダは不機嫌そうに顔を背けた。
「尻尾を掴めないかと調べているのに、中々見つからないのです。証拠があればつきつけて、リーシャと別れさせますのに。そうしたら殿下はリーシャと結婚できますでしょう? そのほうがリーシャにとっても幸せですわよ」
「ミランダ。気持ちは嬉しいが、余計なことはするな」
それは私を励ますための、ただのでまかせだろう。
もしそうだったらどんなにいいかと――リーシャの不幸を願ってしまう自分を戒めて、クリストファーのことは頭から追い出した。
ミランダの憶測が本当だと知れたのは、それから一年後のこと。
もうすぐリーシャは学園を卒業する。
クリストファーと結婚をすることはすでに決まっている。三大公爵家の挙式ともなれば王家にも連絡がくる。
最悪な気持ちを誤魔化すように、ゼスとして危険な任務をこなしつづけて、酒場で酒を飲んだ。
心が、ちぎれそうだった。長年想い続けている女性が、とうとう他の男の妻になるのだ。
式場から無理矢理攫おうか。正体を隠して、仮面をつけたまま。
どこかの森の小さな家にリーシャを閉じ込めて――。
などと、ろくでもないことを何度も考えた。多少酔った頭では、それがとても魅力的な思いつきのように感じて、背徳感に身を委ねていた。
そんなときだ。酒場の扉が思い切り開いて、ドレス姿の美しい女性が駆け込んできたのは。
え。
どうして。
え?
頭の中が疑問符で埋め尽くされる。
それはリーシャだった。夢を見ているのかと思った。
長年の渇望が、とうとう幻のリーシャの姿までつくりあげたのかと。
自分の正気を疑い、戸惑い混乱しているうちに、リーシャは婚約者に浮気をされたのだと話しはじめて、酒場にいる男たちに囲まれていた。
奇跡だ。
――なんという、幸運だろう。
この幸運を、私は――手放してはいけない。