過ぎ去りし苦渋の日々
◇
――リーシャには婚約者がいる。
婚約者のクリストファーとリーシャは昔から仲良しで、いくらゼフィラス様の申し出といえども二人を引き裂くことなどとてもできない。
そう──ルーベルトは、はっきりと言った。
ルーベルト・アールグレイスは有能な男である。
元々リーシャの生まれたアールグレイス家は、とりたてて何か特徴があるわけでもない海辺の街を治めていた。
王国に、数ある伯爵家の一つだった。
アールグレイス伯爵が海を利用した海運業を始めると、瞬く間に富を築き上げて、今では小さな海辺の街は大都市へと変わりつつある。
そして伯爵の息子であるルーベルトは、アールグレイス家の余剰資金を利用して新しい商売を始めた。
ルーベルトが『アールグレイスグループホテル』と銘打って、各地の土地を買収して宿泊施設を建てるようになるまでは、王国の地方の街には満足に泊まれるような宿は少なかった。
そもそも旅行自体をする者が少ないのだ。
街道は魔物や野生の動物に襲われることがある。都市間の移動は命懸けである。
ルーベルトはそれも理解していたのだろう。白狼を買い占めて、安価で移動できる狼車を作った。
白狼にひかせる移動用の狼車は、馬車よりも安全である。
白狼は強い生き物なので、魔物も動物も滅多なことがなければ近づかないからだ。
個人で白狼を所有する者は少ない。けれど共同の狼車で安価とあれば、使用する者が増える。
海と陸と宿泊施設と。王国中にアールグレイス伯爵家の商売は広がった。
多くの富を築きあげながらも、アールグレイス伯爵やルーベルトは驕ったところのない好人物たちである。
できればアールグレイス家と王家に繋がりがほしいとは、父上の考えていることだ。
リーシャとの婚姻が可能となったら、王家はそれを喜んで受け入れるだろう。
名前ばかりの貴族と結ばれるよりもずっといいと、父もその周りの者たちも思っているようだった。
もちろん古い考えの者たちは、貴族が商売をするなどあり得ないと不快そうに顔をしかめる。
そういった愚か者ほど、古びた名声に縋りつき金に苦労している。
一部の者たちだ。全てではない。半々と、いったところだろうか。
父がそうではないことは、私にとっては僥倖だった。
アールグレイス家から許可を得て、リーシャとの婚約が結ばれれば、問題なく結婚することができる。
リーシャはまだ十五歳。あと数年待つ必要があるが──。
しかし、十五歳ともなれば、婚約を結ぶには問題ない年齢だ。
八歳年上の男からの婚約の申し出など嫌だろうか。
アールグレイス家の名声を理由に、リーシャを婚約者にしたいといえばおかしくはないだろうか。
それとも、ゼスであるときに街で見かけたと、嘘をつくべきか。
どちらにしろ両方が嘘だ。私はリーシャが七歳の頃から彼女を知っていて、遠くからずっと見ていた。
結局、そんな私の算段などは何の意味もなかった。
リーシャには既に心に決めた人がいて、それから長い間私はリーシャを、いつもと同じように遠くから見ていることしかできなかったのだ。
リーシャが海に落ちた子供を助けてセイレーンに襲われたのは、それから数年後のことである。
その時私はゼスとして、王都近海に現れて船を沈めるセイレーンを追っていた。
セイレーンは大抵海の沖合に現れる。
大きな船を沈めるのを生きがいにしているような連中である。魔物と意思疎通はできないので、船を沈めるのが趣味かどうかなどは知らないが。
リーシャが王都の学園に入学したのは一年前。
どれほど会いたかったか。その顔を見たかったか。話しかけたかったか。
降り積もる感情は清廉な湖の底にたまる泥のように暗く深い。
近づいてどうする。話しかけてどうする。親しくなったとしても──リーシャは手に入らない。
激情に任せて彼女を傷つけるかもしれない。
一度、自分を許してしまえば。
暗闇の底へと彼女を引き摺り込んでしまうだろう。
だからずっと、耐えていた。だが、街を歩くと彼女が一人でいるところによく出会した。
物陰に隠れて見守っていると、迷子の子供を助けたり、ご老人の荷物を持ったり、男に絡まれている女性を助けたり。
成長したリーシャは、幼い頃に彼女が言っていた『誰かを守ることのできる強い人』という理想そのものだった。
時折危ういと思うこともあったが、私が手を出すような大きな問題は起こらなかった。
だから油断していたのだ。
まさかリーシャが、セイレーンのいる海に躊躇なく飛び込むとは思っていなかった。
セイレーン討伐は、何も初めてのことではない。
だが、奴らは海の中で魚と同じように素早く泳げる。
私は泳ぎは得意だが、セイレーンのように泳げるわけではない。
彼らは船を沈める時に人を惑わす歌を歌う。その時ばかりは無防備になる。
小船で静かに近づいて、首をとればそれで終わりだ。
何日か、セイレーンの出現を小船の上で見張っていた。
そうして、とうとう現れた。蝋燭岩に座るセイレーンの標的は、遊覧船らしかった。
セイレーンに小舟を近づけていくと、飛沫を上げて船から人が落ちた。
最初の飛沫は小さく、次の飛沫は大きかった。誰かが、落ちた者を助けようとして海に飛び込んだのだろう。
先にセイレーンを始末してしまおうと小船で背後から近寄り剣を振り上げると、セイレーンはするりと海の中へその身を沈めた。
先ほど落ちた人間を追っているのだと気づいた。
明確な殺意を持って、セイレーンは確実に落ちた二人を始末しようとしている。
急いでセイレーンを追った。そして私が見たものは、子供を抱き抱えたまま波に飲まれて、海に沈んで行こうとしているリーシャの姿だった。
幻かと思った。こんなところで何をしている。
どうしてリーシャが。他にいくらでも、子供を助けるために飛び込める者が船にはいただろう。
だが同時に納得もしていた。
リーシャなら、ためらいもせずに子供のために海に飛び込むだろう。
真っ直ぐで、優しく、勇敢。
無謀、とまでは言わない。セイレーンが追って来なければ、リーシャは子供を無事に助けることができたのだ。
セイレーンは船を沈めるものだから、まさか追ってくるとは思わなかったのだろう。
海の中でセイレーンを剣で突き刺して、海底に沈めた。
リーシャと子供を抱えて浮上すると、すぐに救助の小船が現れた。
その後のことは、私にとっては甘く切なく退廃的で、それでいて苦しく必死で切実な記憶だ。
子供は、海に落ちた時に意識を失ってしまったのがよかったのだろう。
さして水も飲んでいなかった。体は冷え切っていたが、無事だった。
けれどリーシャは、溺れたのだ。
蘇生をするというサーガから、その役割を奪った。
こんな時なのにどうかしていると自分でも思うが、他の誰かがリーシャの体に触れることは許せなかった。
柔らかい胸の奥にある心臓を押して、唇を合わせて思い切り息を吹き込む。
触れたいと何度も思い浮かべた唇は冷たく、リーシャに口付けているという事実だけが残った。
甘美な罪悪感が背筋をちりちりさせた。
こんな時なのに。リーシャはこのまま目を覚まさないかもしれないのに。
だが、手に入らないのだ。
手に入らないのなら、このまま──リーシャを失ってしまったら、私も共に海に沈もうとさえ、夢想した。
どうかしている。わかっている。まともじゃない。
わかっているのに。
どうしようもない。感情が、抑えられない。好きだ。好きだ。君が、ずっと好きだった。
今この瞬間だけは、君に触れることを許してほしい。
誰に許しを乞うているのかわからないまま、私は祈った。
リーシャを助けたい。同時に、唇を合わせることができた幸運を、喜んでしまう最低で愚かな自分が許されることを。