二人の罪
ゼフィラス様は私の背に、軽く手を触れさせた。労ってくださったのだろう。
私は、ゼフィラス様を見上げる。
真っ直ぐ前を見据える瞳に、決意の光がある。
私は唇を引き締めた。
ゼフィラス様は、私にとってはもともと、神秘的な青をたたえる海の洞窟の奥にある美しい女神像のような、自分とは違う世界の人だった。
婚約者にしていただいてから、それは優しくて、どこか可愛らしくて、誰よりも頼りになる男性に変わった。
けれど今のゼフィラス様は、高貴さと、触ると手のひらが焼けてしまうような威圧感がある。
王になる者として育てられた威厳なのか。それとも、血なのかもしれない。
「――クリストファー、それ以上言葉を発するな。己の愚かさを晒し続けるだけだ」
「ゼフィラス様! あなたはこの国の国王になるお方です。リーシャ・アールグレイスはあなたには相応しくない。俺はあなたに真実に気づいて欲しいだけなんです」
「そうですよ、ゼフィラス様! リーシャ様はとても焦っておいででした。嫁ぎ先もなくなり、仕事もなく、きっとこのままでは恥をさらすだけだと思ったのでしょう。だからゼフィラス様に言い寄ったのです……! 海に飛び込んだのだって、子供を助けたいわけじゃなくて、勇敢さをアピールしたいだけに決まっています……!」
シルキーさんが涙ながらに訴えている。
私は――二人にこれほど嫌われていたのだろうか。
二人には、ベルガモルド家の使用人になれとさえ言われた。
それは悪意のない人を傷つける親切なのかと思っていたけれど、そんなことはなかったのだろうか。
下手に出るばかりでは、足元を見られる。今更ながら、お父様の言葉が身に沁みる。
「大人しくしていれば、そのまま公爵家を継げただろうに。……金の支援を断られて焦ったのだな、クリストファー。シルキーと結婚し、家督を継いでも、ベルガモルド公爵家の多額の借財を抱える羽目になるだけだ。ならば、リーシャとアールグレイス家を悪者にして、私を己の仲間に引き入れようとでもしたのだろう」
「それは違います! 殿下、目を覚ましてください。リーシャと結婚するということは、アールグレイス家に権力を持たせるということなのですよ。金が全てだと思っているような家です!」
「そうなのか、アールグレイス伯爵」
「金が嫌いとは言いませんよ。金があれば守れるものもあり、金があっても守れない物もあります。ただ、金があれば守れるものが増える」
お父様はゆったりとした口調で言った。
特に動揺した様子もない。いつものお父様だ。
「私は、リーシャと君の婚約を強要したつもりはないのですがね。君にとってはそう感じられたのでしょう、クリストファー君。ベルガモルド家への支援を打ち切るのは、君への嫌がらせではありませんよ。そう、ベルガモルト公爵に頼まれたからです」
どこまでも穏やかなお父様の声に、僅かに哀れみが滲んでいる。
クリストファーは、お父様を睨みつけた。
「嘘をつくな! 父上がそんなことを言うはずが……!」
「お前はどこまで愚かなのだ、クリストファー。お前が裏切った女性の家に、金の無心など続けられるわけがないだろう。元々、アールグレイス伯爵は友人である私の困窮を心配して、助けてくれていたのだ。恩を売られていたわけではない」
疲れたような顔で、ベルガモルト公爵が頭を振る。
その隣で奥方様も、青ざめた白い顔で、悲しそうな表情を浮かべている。
「私はそれを公にしていなかった。由緒あるベルガモルト家が借財で首が回らなくなっているなど、とても他の者たちに知られるわけにはいかない。借金と、アールグレイス家からの支援を知っているのは、アールグレイス伯爵と私、それから家督を継ぐお前だけだったというのに……そんなことも理解していなかったのか」
よく話して聞かせたはずだ。
いったい何を聞いて、何を理解していたのだと、公爵は眉間に深い皺をつくる。
「しかし、父上! 父上ともあろう方が、アールグレイス伯爵になど何度も頭をさげて……俺は、それを幼い頃から見てきました。とても、受け入れられなかった」
「馬鹿者が。立場がどうであれ、アールグレイス伯爵は私を助けてくれたのだ。頭をさげるぐらいは当然だろう。お前は、救いの手を差し伸べた相手が庶民であれば、礼も言わずに頭をさげないとでも言うのか」
心が、震える。
背骨に、冷たいものが走る。
庶民であれば、クリストファーは──。
「俺は、ベルガモルト公爵家の跡取りです! その俺が、身分の下のものたちに頭をさげるなど!」
それが、本音。
今までクリストファーは、誰に対しても笑顔で、優しい言葉をかけていた。
けれどその心は、本当は違ったのかもしれない。
「爵位で飯が食えるとでも? アールグレイス家に渡した慰謝料でさえ、元々はアールグレイス家からの借金――利息のない、借りた金で返したものだ。利息をつけずに金を貸す金貸しなどいない。アールグレイス伯爵は本当に、友人として私に尽くしてくれていたのだ!」
そこまで言うと、ベルガモルト公爵は額に手を当てて倦んだような溜息をついた。
「なぜこのような愚行に走ったのだ。リーシャはお前を許してくれた。どれほど苦しかっただろう。それなのに、お前はそんなリーシャの幸せを祝福するどころか、貶めた。金のせいか、それとも、嫉妬か」
ベルガモルト公爵は呟くようにそう言うと、何かを決意したようにクリストファーを冷たい眼差しで見据えた。
「――私は、お前のような愚か者に家督を譲るつもりはない。お前は我が子でもなんでもない。子爵家に婿にでも貰ってもらえ。爵位を持たないお前を子爵家が受け入れてくれるのならな」
「父上……そんな……」
「――残念だが、それも無理だろう」
崩れ落ちそうになっているクリストファーに、追い打ちをかけるようにゼフィラス様が言う。
「お前に、確認したいことがある、クリストファー」
クリストファーの態度で、言動で、確信することができたのだろう。
彼が、罪人であることを。
心の隅で、そうでなければいいと祈るように思っていた。
もう、手遅れだ。
ゼフィラス様は冷たく激しい怒りをたたえている。
内々にすませると言っていた。
けれど、この場で彼らを断罪するべきだと、判じたのだ。
反省も後悔もないクリストファーに対する怒りもあるだろう。
それだけではない。おそらく、クリストファーに煽られて、私や私の家を貶めることを言った貴族たちに、知らしめるために。
王としてのゼフィラス様の意思を、示すために。
ゼフィラス様は、メルアから貰った金属の金具を取り出して掲げた。
「公爵家には、王家からその家それぞれの紋章が与えられる。トットリア家には――」
「我が家は武名に優れている家。与えられたのは、獅子に跨がる戦士の紋章ですわ」
ミランダ様が胸を張ってこたえる。
ゼフィラス様が持っている金属には、月と梟の紋様が刻まれている。
「そしてベルガモルト家には、月と梟。知性を表す紋章だ。これは、馬の綱を調節する金具。ベルガモルド家の紋が刻まれている」
「――それが、なんだというのです」
震える声で、クリストファーが言う。
シルキーさんは、戸惑ったような表情で、クリストファーの傍から一歩後退った。
「一年前。王都の街中で、とある夫婦が暴れ出した馬車馬のせいで馬車に轢かれて亡くなるという事件が起った。馬車に乗っていたのは恐らく貴族。夫婦の死は不幸な事故として処理されて、馬車に誰が乗っていたのか知る者はいなかった」
明瞭な声が、広間に響く。
なんのことかと、学生たちは顔を見合わせる。
クリストファーは、明らかに青ざめていた。
「夫婦には子供が一人いた。その子供に、事故現場に残されていた両親の形見として、届けられたのがこの馬の金具。届けた者はこれが何か知らず、届けられた娘もこれが何か分からず、ただ形見として大切に持っていた」
「だから、どうしました。たまたま、落ちていただけでしょう!」
クリストファーは絞り出すように言った。
声が震えている。がくがくと、膝も震えていて、今にも座り込んでしまいそうだった。
「その日がいつだったか、調べさせて貰った。昼過ぎから、劇場では有名な劇団の演劇が行われていた日だ。一年前の劇場の入場者名簿には、ベルガモルトの名前があった。お前はシルキーと二人で演劇を見に行き、夕方――帰宅途中にお前たちの乗る馬車の馬車馬が暴れて、夫妻が亡くなったのだ」
「そんなものはただの想像にすぎないでしょう。馬の金具が落ちていたぐらいで……!」
「お前は、ことを公にするとシルキーとの浮気がリーシャに知られてしまうと思ったのだろう。そもそもリーシャに知られずシルキーとの関係を続け、リーシャの……アールグレイス家の金を自分のものにするために、そのまま結婚しようと考えていたはずだ」
そうなのだろうか。
でも確かに、私が嫌いならもっと早くに婚約を解消していたはずだ。
私が浮気現場に遭遇したのは、偶然だった。
そうでなければ、そうとは知らずにクリストファーと結婚していただろう。
「ゼフィラス様、俺に嫉妬をしているのですか? だから、俺を貶めるようなことを!」
「お前は、だから馬車から降りず、夫妻を助けずそのまま逃げた。お前にとっては庶民の死などなんでもないことなのだろうな、クリストファー。だが、ベルガモルト公爵はお前を勘当した。お前は最早貴族ではなく――お前とそして、同じく夫妻を見殺しにしたシルキーの罪は、裁かれる」
「横暴ではないですか。馬車の金具だけで、俺の罪だと判断するなど!」
「御者の態度が悪いと、お前は御者をやめさせた。多額の金を渡してな。それは、口止め料だったのだろう。探し出して、口を割らせたが――ここに連れてこようか? そこまでして欲しいのなら」
クリストファーは、震えながら膝を突いた。
シルキーさんは怯えたようにクリストファーの傍から逃げて、彼女の両親に駆け寄った。
「違うんです、私は、クリストファー様に騙されたのです……!」
シルキーさんの両親は、とても悲しげな顔で首を振った。
広間は水を打ったように静まり返り、シルキーさんの違うという声だけが響いている。
誰も、クリストファーにも、シルキーさんにも、手を差し伸べたりはしなかった。




