黒騎士ゼス
ゼス様は私を抱き上げたまま、怯える男たちと、助けを求めても止めることもしなかった店主を多分、仮面の下に隠されている瞳で睨みつけた。
瞳も顔も見ることはできないけれど、仮面の下の瞳が冷たい怒りをたたえていることぐらいは察することができる。
それは長年戦いの中で培われてきた、有無を言わさない殺気や威圧感のようなものなのかもしれない。
私は、ゼス様の腕の中で身をすくませた。
それはゼス様の体が驚くほどに硬くて大樹みたいにしっかりしていて立派だからということもある。
私よりも頭一つ分以上大きくて、鎧を纏っているわけでもないのにすごく硬くてごつごつしている。
もちろん男性にこんなふうに抱いていただいたのははじめてだ。
クリストファーには、こんなことをされたことがない。
──幼い頃は、大人しかったクリストファーの手を私がひいて歩いていたぐらいだ。
もしかしたらクリストファーにとって私は、頼りになる姉程度の存在だったのかもしれない。
だからだんだん、疎ましくなったのだろうか。
それでも──浮気がバレるまでは、結婚をしようとはしてくれていた。
それぐらいの情はあったのかもしれない。
それとも、いまだに私たちの両親は交流があるから、婚約を白紙にして欲しいなんてとても言い出せなかったのかもしれない。
「嫌がる女性を強引に襲うなど、素行が悪いという言葉ではおさまりきらないな。いますぐ奪った宝石を返せ。ここにいる全員の顔と名前は覚えている。リーシャを傷つけた分の痛みを、お前たちには味わってもらう」
「ただの冗談だろ、ゼス。世間知らずの貴族のお嬢さんをちょっとからかっただけじゃねぇか」
「そうだ。貴族なんてものは、俺たちから巻き上げた金で食ってるいけすかない連中だ」
「あんたも貴族が嫌いだろ、ゼス」
「黙れ。明日から、夜道には気をつけることだな」
店にいた男たちの大半が、ゼス様に殴られたり蹴られたりして、床やテーブルの上に倒れて伸びている。
残された男たちが、私から奪ったアクセサリーを集めると、私に返してくれた。
青ざめ怯えて、震えている。
まるでさっきの私みたいだ。
「あ、あの……確かに、私も迂闊でした。すごく嫌なことがあったので、……でも、駆け込む場所を間違えたのです。私にも落ち度があります」
「夜道を一人で女性が歩いていたとして、男に襲われたら悪いのは女性ではなく襲った男だ。君には落ち度はない」
「ですが私もやけになっていたので……こんな姿で、高価なアクセサリーをつけて、こんなところに来るなんて。貴族や、金持ちの娘だと言いふらしているようなものです。私、馬鹿でした」
「リーシャ。怖かったのだろう。怖かったのなら、怖いと言っていい。感情を隠す必要はない」
「……っ、ぅう……」
初対面の私に、馬鹿みたいな行動をとってしまって迷惑をかけた私に、ゼス様は優しい言葉をかけてくれる。
クリストファーのこともあったし。
大勢の男性に囲まれて、襲われかけた衝撃に、まるでひどく激しく頭を殴られたみたいに何も考えられなくなっていた。
心の中の妙に冷静な部分が、自分を責めて、罪悪感でいっぱいになって。
情けなさと申し訳なさばかりで胸が張り裂けそうになっていたのに。
怖かったと、言っていいのだと言われてしまうと、まるで心の中の柔らかい部分を剥き出しにされて優しく抱きしめられたみたいな安心感が、体の緊張を解いた。
止まっていた涙がまたこぼれてしまう。
ゼス様は何も言わずに店を出た。両手が塞がっているからか、扉を足で蹴破る。
ばん! と、音を立てて壊れて開く扉に一瞬唖然としたけれど、私は何も言わずに目を伏せた。
まるで本当に夢を見ているみたいだ。
私は実はベッドの中にいて、いまだまどろんでいるのではないかしら。
目覚めて準備をして、身支度を整えて、クリストファーの迎えを待つのだ。
一緒に劇を見て、笑い合って、婚礼の儀式が楽しみだって──初めてのキスを、したりして。
そんな一日が待っている……訳が、ないわよね。
「ゼス様、助けていただいて、ありがとうございます」
私はゼス様の腕の中で、なんとかお礼を言った。
「君が無事でよかった。……助けに入るのが遅くなり、すまなかった。まさか……あんな店に貴族女性が入ってくるとは思わずに、判断が遅れた」
「それはそうですよね、この格好ですもの……」
私はすでに、アールグレイス伯爵の娘だと名乗って素性を明かしている。
でも、一目見れば貴族か、それなりの立場の娘だとわかるだろう。
「婚約者に浮気をされたという話は聞こえてきた。辛い気持ちはわかるが、大人しく家に帰ったほうがいい」
「は、はい……本当に、反省しています、私。ご迷惑をおかけしてしまって、ごめんなさい。ゼス様、もう大丈夫です。迎えの馬車が劇場の前にいるはずなので、そこまで歩けます」
「靴がない。それに、踵から血が滲んでいる。大人しくしていなさい」
「はい……」
どうしてゼス様が仮面をつけているのか私にはわからない。
少し怪しい風貌だけれど、有名な冒険者のゼス様は人格的にも立派な方なのだろう。
私はお言葉に甘えて、大人しくしていた。
確かに、靴は脱げてしまっていたし、あの場で靴を拾って履く余裕なんてとてもなかった。
ややあって、「お嬢様!」と私を探す従者たちの声が聞こえてくる。
伯爵家の馬車まで私を送り届けてくれたゼス様に、従者たちは深々と頭をさげて口々にお礼を言った。
「本当にありがとうございます、ゼス様。必ず、お礼を……!」
「その必要はない。心を落ち着けて。ゆっくり休め、リーシャ。君が無事で、本当によかった」
酒場では少し怖いぐらいに怒っていたゼス様だけれど、今はもう怒っていないみたいだ。
馬車の中に座る私に、そう言って薄く微笑んでくれる。
嫌なことはあったし、怖かったけれど。
私を助けてくれるいい人もいる。ゼス様のおかげで、私は少し元気になっていた。
少なくとも、クリストファーの浮気について考えて、泣きじゃくらないでいられるぐらいには。