やり直しのキス
本当に何も、覚えていない。
フィーナの記憶はきちんと残っている。
幼い私を助けてくれた、優しくて綺麗な女の人──これは、ゼフィラス様。
ゼス様の記憶も、思い出すことができた。
セイレーンに襲われて死を悟った私を助けてくれた、黒い騎士様──これも、ゼフィラス様。
けれどその先のことは、記憶にぽっかり穴が空いたみたいに思い出せない。
気づけば私は船の甲板に寝かされていて、それからのことはぼんやりとしか覚えていない。
きっと、必死に蘇生をしてくれたはずだ。
心臓を押して、唇を重ねて、息を吹き込んで。
私は、だからこうして生きている。何もかもを、忘れて。
一年前の蘇生が、私のファーストキスだなんてもちろん思わないけれど、ゼフィラス様はきちんと覚えているから、ゼフィラス様にとってはそうなのだろう。
だから、やり直させて欲しい。
はじめての記憶が、私も欲しい。
「リーシャ……期待を、してしまう。これでは、君がまるで、私を」
「……私は、あなたが好きです」
ゼフィラス様はきつく抱きしめていた私から体を離すと、苦しげにそう言った。
私はその困惑に揺れるガラス細工のように澄んだ瞳を見つめて、小さな声で口にする。
好きだと伝えると、その言葉が、気持ちが、指先までじんわりと染み渡るように体を巡った。
かつて私はクリストファーが好きだった。
その気持ちが、新しい感情で埋め尽くされていく。差し伸べられた優しい手をとって、一歩前に踏み出したい。
胸に芽生えた新しい気持ちを大切に包み込んで、なくさないように。
「いや、しかし……まだ、デートに誘って一日だ。私は君に、好かれるようなことは何もしていない。むしろ、自分の恥を晒しただけだ」
「……ゼフィラス様は、恥だと思うのですか?」
「あぁ」
「私は違います。……大切な、思い出です。思い出せて、よかった」
記憶も感情も、とても曖昧なものだ。
今日の朝の私と、今の私は、そっくり中身が変わってしまったぐらいに、違う。
朝に降り積もった雪が、昼の日差しですっかり溶けて水に変わってしまうように。
グラスの中の氷が、小さくなって溶けて消えてしまうように。
今の私はゼフィラス様の想いを、信じることができる。
すっかり枯れて萎れてしまった私の心の花は、新しく芽吹いて、再び咲こうとしている。
「こんなにすぐに心変わりをしてしまうなんて、軽薄な女だと思われるかもしれません。けれど……私は、自分の心を隠して、否定して、後悔するのは、もう、嫌なのです。だから……」
「リーシャ……リーシャ、君が好きだ。こんな日が来ることを、どれほど夢に見ただろうか」
ゼフィラス様の指が、私の頬に触れる。
私は、目を伏せた。
恥ずかしさに、頬が勝手に染まっていく。心臓がうるさいぐらいに高鳴っている。
ゼフィラス様が動く気配がする。何か熱を持ったものが、顔に近づいてくるのがわかる。
唇に、柔らかい感触が触れる。
そっと、啄むように。軽く触れて離れていく。
ほんの微かな触れ合いなのに、体が熱を持った。
心臓が激しく血液を体に巡らせている。呼吸をするのも忘れるぐらいに、甘い。
緊張で体が強ばる。でも――恥ずかしくて、痛いぐらいに切なくて、嬉しい。
芽吹き始めたばかりの恋心は、胸に灯った蝋燭のあかりのように心許ないものかもしれない。
それでも、その芽生えた恋心を、私は強く抱きしめていたい。
嵐が来ても、消えないように。
何もかもを諦めかけていた私の、二度目の恋なのだから。
「……リーシャ」
大切なものを呼ぶように、名前を呼ばれた。
うっすらと瞳を開こうとすると、もう一度唇が重なる。
傷つけないように、慎重に。
そっと押し付けられて、離れていく。
もう一度。もう一度。
重なっては、離れていく。
やわらかくて、優しくて甘い。胸が軋むみたいに、切ない。苦しい。幸せ。
「……っ、ん、ぁ……」
「好きだ、リーシャ。好きだ。……君だけだ、リーシャ。君しか、いらない」
「……ん」
唇を、指先で辿られる。
キュッと引き結んでいた唇を開くと、甘いため息みたいな声が出た。
瞼を開くと、ゼフィラス様の綺麗な顔が驚くほどに近くにある。
愛おしそうに私を見つめる瞳の甘さに、くらくらする。
私に触れるものが、全部、甘くて優しくて、熱い。
ハチミツの瓶の中に閉じ込められてしまったみたいに。パンケーキの上でとけるバターとクリームみたいに。
「好きだよ、リーシャ。……本当は、もっとしたい。ずっと、君に触れていたい」
「ゼフィラス様……」
「だが、我慢しなくてはな。今日は、ここまでに」
「どうして……?」
「無理強いをして、君に嫌われたくない。少しずつ、君と歩いていきたい。今まで手をこまねいて見ていることしかできなかった分を、ゆっくり取り戻していけるように」
「……我慢、しなくても、私は」
「リーシャ。私は君に、私は浅ましい男だと伝えた。それは、自虐でもないし誇張でもない。……だから、怖いんだ。許しを与えられたら、私は君をきっと泣かせてしまう。明日には、もう顔も見てもらえないかもしれない」
「あ、あの」
「正直、そのような無防備な姿の君を見ていると……自分を押さえつけるのに精一杯なほどに、苦しいぐらいだ」
何を言われているのかが、なんとなくわかって、私はこれ以上赤くならないぐらいに赤くなった。
ゼフィラス様は作り物のように綺麗で、優しくて、大人だ。
だから剥き出しの欲望のようなものを一瞬感じて、男の人だったのだと、改めて思い知った。
「私……いやでは、ないのです。それに、何も知らない子供ではありません。でも、お手柔らかに、していただけると嬉しいです」
「……あぁ。君としたいことが、たくさんある。今日は……朝まで抱きしめて、眠ってもいいか?」
「は、はい……」
私の手を握って、ゼフィラス様は微笑んだ。
それから「蝋燭岩の、恋の願いが叶うという話は、本当だったのだな」と呟いた。