表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

35/91

やり直しのキス


 本当に何も、覚えていない。

 フィーナの記憶はきちんと残っている。

 幼い私を助けてくれた、優しくて綺麗な女の人──これは、ゼフィラス様。


 ゼス様の記憶も、思い出すことができた。

 セイレーンに襲われて死を悟った私を助けてくれた、黒い騎士様──これも、ゼフィラス様。


 けれどその先のことは、記憶にぽっかり穴が空いたみたいに思い出せない。

 気づけば私は船の甲板に寝かされていて、それからのことはぼんやりとしか覚えていない。


 きっと、必死に蘇生をしてくれたはずだ。

 心臓を押して、唇を重ねて、息を吹き込んで。


 私は、だからこうして生きている。何もかもを、忘れて。


 一年前の蘇生が、私のファーストキスだなんてもちろん思わないけれど、ゼフィラス様はきちんと覚えているから、ゼフィラス様にとってはそうなのだろう。

 だから、やり直させて欲しい。


 はじめての記憶が、私も欲しい。


「リーシャ……期待を、してしまう。これでは、君がまるで、私を」

「……私は、あなたが好きです」


 ゼフィラス様はきつく抱きしめていた私から体を離すと、苦しげにそう言った。

 私はその困惑に揺れるガラス細工のように澄んだ瞳を見つめて、小さな声で口にする。

 好きだと伝えると、その言葉が、気持ちが、指先までじんわりと染み渡るように体を巡った。


 かつて私はクリストファーが好きだった。

 その気持ちが、新しい感情で埋め尽くされていく。差し伸べられた優しい手をとって、一歩前に踏み出したい。


 胸に芽生えた新しい気持ちを大切に包み込んで、なくさないように。


「いや、しかし……まだ、デートに誘って一日だ。私は君に、好かれるようなことは何もしていない。むしろ、自分の恥を晒しただけだ」


「……ゼフィラス様は、恥だと思うのですか?」

「あぁ」

「私は違います。……大切な、思い出です。思い出せて、よかった」


 記憶も感情も、とても曖昧なものだ。

 今日の朝の私と、今の私は、そっくり中身が変わってしまったぐらいに、違う。


 朝に降り積もった雪が、昼の日差しですっかり溶けて水に変わってしまうように。

 グラスの中の氷が、小さくなって溶けて消えてしまうように。


 今の私はゼフィラス様の想いを、信じることができる。

 すっかり枯れて萎れてしまった私の心の花は、新しく芽吹いて、再び咲こうとしている。


「こんなにすぐに心変わりをしてしまうなんて、軽薄な女だと思われるかもしれません。けれど……私は、自分の心を隠して、否定して、後悔するのは、もう、嫌なのです。だから……」


「リーシャ……リーシャ、君が好きだ。こんな日が来ることを、どれほど夢に見ただろうか」


 ゼフィラス様の指が、私の頬に触れる。


 私は、目を伏せた。

 恥ずかしさに、頬が勝手に染まっていく。心臓がうるさいぐらいに高鳴っている。


 ゼフィラス様が動く気配がする。何か熱を持ったものが、顔に近づいてくるのがわかる。


 唇に、柔らかい感触が触れる。

 そっと、啄むように。軽く触れて離れていく。

 

 ほんの微かな触れ合いなのに、体が熱を持った。

 心臓が激しく血液を体に巡らせている。呼吸をするのも忘れるぐらいに、甘い。


 緊張で体が強ばる。でも――恥ずかしくて、痛いぐらいに切なくて、嬉しい。


 芽吹き始めたばかりの恋心は、胸に灯った蝋燭のあかりのように心許ないものかもしれない。

 それでも、その芽生えた恋心を、私は強く抱きしめていたい。


 嵐が来ても、消えないように。

 何もかもを諦めかけていた私の、二度目の恋なのだから。


「……リーシャ」


 大切なものを呼ぶように、名前を呼ばれた。

 うっすらと瞳を開こうとすると、もう一度唇が重なる。


 傷つけないように、慎重に。

 そっと押し付けられて、離れていく。

 もう一度。もう一度。


 重なっては、離れていく。

 やわらかくて、優しくて甘い。胸が軋むみたいに、切ない。苦しい。幸せ。


「……っ、ん、ぁ……」

「好きだ、リーシャ。好きだ。……君だけだ、リーシャ。君しか、いらない」

「……ん」


 唇を、指先で辿られる。

 キュッと引き結んでいた唇を開くと、甘いため息みたいな声が出た。

 瞼を開くと、ゼフィラス様の綺麗な顔が驚くほどに近くにある。

 

 愛おしそうに私を見つめる瞳の甘さに、くらくらする。

 私に触れるものが、全部、甘くて優しくて、熱い。

 ハチミツの瓶の中に閉じ込められてしまったみたいに。パンケーキの上でとけるバターとクリームみたいに。


「好きだよ、リーシャ。……本当は、もっとしたい。ずっと、君に触れていたい」

「ゼフィラス様……」

「だが、我慢しなくてはな。今日は、ここまでに」


「どうして……?」

「無理強いをして、君に嫌われたくない。少しずつ、君と歩いていきたい。今まで手をこまねいて見ていることしかできなかった分を、ゆっくり取り戻していけるように」


「……我慢、しなくても、私は」


「リーシャ。私は君に、私は浅ましい男だと伝えた。それは、自虐でもないし誇張でもない。……だから、怖いんだ。許しを与えられたら、私は君をきっと泣かせてしまう。明日には、もう顔も見てもらえないかもしれない」

「あ、あの」


「正直、そのような無防備な姿の君を見ていると……自分を押さえつけるのに精一杯なほどに、苦しいぐらいだ」


 何を言われているのかが、なんとなくわかって、私はこれ以上赤くならないぐらいに赤くなった。

 ゼフィラス様は作り物のように綺麗で、優しくて、大人だ。

 だから剥き出しの欲望のようなものを一瞬感じて、男の人だったのだと、改めて思い知った。

 

「私……いやでは、ないのです。それに、何も知らない子供ではありません。でも、お手柔らかに、していただけると嬉しいです」


「……あぁ。君としたいことが、たくさんある。今日は……朝まで抱きしめて、眠ってもいいか?」

「は、はい……」


 私の手を握って、ゼフィラス様は微笑んだ。

 それから「蝋燭岩の、恋の願いが叶うという話は、本当だったのだな」と呟いた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ