びしょ濡れ、お泊り
船からロープが投げられる。
ロープの先には浮き輪がついていて、ゼフィラス様はそれを掴んだ。
それから救出のボートが私たちに向かってくる。
ボートに引き上げられた私たちに、毛布が差し出された。
ゼフィラス様は子供の息を確認する。軽く頬を叩くと、女の子はうっすらと目を開いた。
けほけほと咳き込む背中を叩く。落ち着いたところで名前を尋ねると「リース」と返事をしてくれる。体は冷えているけれど、そこまで海水も飲んでいない。
大丈夫そうだ。
「……よかった、無事だ」
「あぁ、よかったです。無事で、本当によかった……!」
私はほっと息を吐いて、体をボートの縁にぐったりと預けた。
体の芯まで冷え切っていたし、指先の感覚がなくて、全身が自分のものではなくなってしまったかのように重たかった。
「あ……っ、髪飾り! ゼフィラス様に頂いた……」
ほっとしたせいか、大切なことを思い出した。
髪を探る。海の中で落としてしまったかもしれない。せっかくいただいた、はじめてのプレゼントだったのに。
ゼフィラス様は私の髪に触れて、髪飾りを取ると、私に手渡してくれた。
「髪に絡まって、外れなかったようだ。この髪飾りも、私と同じ。君への思いが強いようだな」
「よかった……っ、なくしたかと思いました。よかった」
私は髪飾りを両手でそっと握りしめると、安堵のため息をついた。
よかった。本当に――。
ゼフィラス様からいただいたときは嬉しかった。
けれど今は、それ以上に嬉しい。
陸に戻ると、ゼフィラス様が私の体を抱き上げてボートから降りてくださった。
遅れて到着した遊覧船から降りてきた人々が、私たちに何度も礼を言ってくれた。
女の子のご両親も泣きながら頭をさげてくれるので、「気にしないでください」と私は答えて、ゼフィラス様も「皆が無事でよかった」と、短く言っていた。
ややあって騒ぎを聞きつけたのだろう、部下を連れたサーガさんが港にやってきた。
「なんで一年前と同じなんだ? リーシャは海に落ちるし、ゼフィラス様……ゼスがそれを助けたのか。よくわからんが、運命ってやつなのか」
獅子のような印象のある、逞しくてどことなく野生的な印象のサーガさんは、驚いたようにも呆れたようにもとれる表情で言った。
「サーガ、偶然だ」
「サーガさん、一年前も私はゼフィラス様に助けていただいているのですね」
「あぁ。不思議な縁だな」
「何故、教えてくださらなかったのですか?」
「いや、別に隠してねぇよ。あんたは溺れて、その後高熱を出した。意識が朦朧とすると記憶が失われるというが、あんたは忘れていて、俺は特にあんたにゼスのことを伝える必要はないと思っていただけだ。ゼスにも言われていたしな、忘れているのならそのままにするべきだって」
「どうしてです、ゼフィラス様」
セイレーンを退治してくれたのは、その時ちょうどセイレーンを追っていたゼス様だったのだ。
ゼス様は私と子供を助けてくれた。
私は酒場で会った時、ゼス様のことを初対面だと思っていたけれど、そうではなかった。
「……リーシャ、まずは体を温めよう。このままではまた、熱を出してしまう」
「……わかりました」
「それなら、そこにあるホテルに泊まっていくといい。あんたたちにはまた助けられた。あんたたちがいなかったら、ものすごい数の犠牲者が出るところだったんだ。服も、食事も、部屋もサービスするぜ」
サーガさんはそう言って豪快に笑った。
「でもリーシャ。婚約者がいるって、俺との食事を断ったのに、ゼフィラス様とホテルに泊まるのはまずいか?」
「リーシャ、君が嫌なら、このまま伯爵家に」
「大丈夫です。サーガさん、私の婚約者は、ゼフィラス様なのですよ」
「えっ、そうなのか? 知らなかったな、それは。ゼフィラス様は孤高の独身だってずっと思っていたんだがな」
「……サーガ、リーシャを食事に誘ったのか?」
「そりゃ誘うだろう。勇敢で可憐なお嬢さんだ。あわよくば、恋人にしたいと思うのは当然だろ?」
「リーシャがサーガの誘いを断ってくれて、よかった」
それはきっと冗談だと思うけれど、ゼフィラス様は眉根をよせて溜息交じりに首を振った。
サーガさんの計らいで、私とゼフィラス様は港の側にあるホテルの部屋で休むことになった。
お兄様が王都での最大のライバルと言っているウェールス商会の商売は多岐に渡っていて、サーガさんは好きなものはなんでも手を出すタイプなのだそうで、遊覧船もそうだし、ホテルも経営している。
最上階の立派な部屋からは、先ほどまでクラーケンが暴れていたとは思えないほどの穏やかな海が見える。
もう日は沈んでいて、宵闇の中に星がちらちらと瞬いていた。
「リーシャ、先に入浴を。濡れた服を脱いで、温まってきてくれ」
「でも、ゼフィラス様が風邪を引いてしまいます」
「二人で入るというわけにもいかないだろう? もちろん、私はそれでも構わないが」
「……は、はい。あの、私……私も、それでいいです。お風呂、大きいので、一緒に」
「え……いや、それは……いろいろまずい」
ゼフィラス様は私を浴室へと押し込んだ。
それから扉を閉める。ゼフィラス様を差し置いて自分だけ温まるなんてと思っていると、「私は男だから、服を脱いでも問題ない。だから、君が先に」と、扉越しに聞こえた。
こうなれば、できるだけ早く入浴を済ませるべきだ。
私は海水で濡れた服を脱いで脱衣所にあるかごの中に突っ込む。
タイル張りの浴室に入ると、すでに浴槽にはたっぷりお湯が溜まっていた。
お湯をすくって、ざばざばと頭からかぶる。
蛇口を捻ると、魔鉱石により温められたお湯が出てくる。温泉でなくてもいつでもお風呂に入ることができるようになったのも、魔鉱石の普及による利点の一つである。
べとべとの髪をどうにかするために、用意してあった洗髪剤で髪を洗った。
花の香りがする。ウェールス商会のホテルの最上階ともなれば、かなり高級だろう。
おいてある備品も高級品ばかりだ。
なんて、吟味してしまうわね。お兄様のホテルにも幾度か泊まっているから、これは癖のようなものだ。
体を綺麗にしてお湯に浸かる。
冷えた体が、じんじんと痺れて、じんわりと温まってくる。
目を閉じると、遊覧船でのゼフィラス様の姿が思い出された。
夕日の中で私に手を差し伸べるゼフィラス様は、まるで──御伽話に出てくる姫を救ってくれる王子様のようで。
神様みたいに、輝いていた。