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過去と今と



 ――お父様は怒るだろうか、お母様やお兄様は泣くだろうか。

 アシュレイ君は、大丈夫だろうか。お義姉様の具合が、ずっとよくない。

 リーシャになら話せると言って、不安を口にしてくれた。「お母様は、死んじゃうかもしれない」と言って。


 クリストファーは、泣いてくれるかしら。


 今までの記憶が、頭の中を駆け巡る。私は恵まれた家に生まれた。

 貴族が商売をするなどいやらしいと言って蔑む人もいるけれど、それはきっとお父様への嫉妬だろう。


 お金に困ったことはない。お父様は余剰資金を慈善事業に使っていたし、領民たちを苦しめるようなこともしなかった。

 

 それは別に、お父様が優しいから――ということではないのだ。


 お父様は、徹底的な合理主義者だった。

 もちろん、善や悪の判断はするし、善良な方だ。

 

 少し違うかもしれない。善良であろうとしている方だ。


「感情に走れば、勝機を見失う。商売とはそういうものだよ、リーシャ。どちららに利があるのかを嗅ぎ分ける嗅覚が必要になる。金があるところには、金の匂いを嗅ぎつけた厄介な連中が集まってくるものだからな」


 お父様が善良に振る舞うのも、慈善事業に勤しむのも、単純な優しさからというわけではない。

 それは順調に領地を発展させるためであり、商売人として極力敵を作らないためらしい。

 

 利害関係を第一に考えるお父様だけれど、私やお兄様には優しかった。


「クリストファーと結婚をしたいのなら、そのように頼もう。私はね、リーシャ。親として、お前の幸せを願っている」


 私は、それなのに――こんなところで死ぬ。

 でも、後悔はしていない。私は正しいことをした。


 子供を見殺しにして自分だけ生き残るようなことはしたくない。

 もし同じことがもう一度あったとして、私は同じ行動をとるだろう。

 

 そこに、迷いなんかない。私が救える命があれば、私は手を差し伸べる。

 それが――恵まれている私の、義務だからだ。


 でも、それだけじゃない。

 私がそうしたいと思うから――自分の心は、裏切れない。


「大丈夫か、嬢ちゃん! 起きろ! 飲んだ水を吐き出せ!」

 

 私を呼ぶ声がする。せっかく、穏やかな気持ちで眠っていたのに。苦しくも痛くもない。

 深い深い海の底へ沈んでいって――果ての無い眠りにつくことができたのに。


「っ、うえっ、げほ……っ、ぁぐ……っ」


 何度も背中が叩かれている。痛い。痛いし、苦しい。

 喘ぐように呼吸を繰り返し、幾度も咳き込んだ。

 苦しい、痛い、寒い。


「嬢ちゃん、無事か……よかった」


 喉に詰まった海水を、げほげほと吐き出した。とても人には見せられない姿だ。

 潤んだ視界に入ってきたのは、獅子のような大柄な男性だった。


「……っ、あな、たは」

「サーガ・ウェールズ。観光船の持ち主だ。……まさかこんなことが起るとはな」


「あの子は……!」

「嬢ちゃんが助けた子供なら、無事だよ」


 私は船の甲板に寝かされていた。

 髪も服もびしょ濡れで、体に張り付いていて気持ち悪い。


 全速力で長時間走ったぐらいに呼吸が苦しくて、冷や汗が出た。

 でも――生きている。

 あの子供も、無事だった。


 再び意識を手放した私が次に目覚めたのは、伯爵家の自室だった。

 海水を飲んだせいで肺炎を起こし、高熱が出て数日間熱に魘されていたらしい。

 

 甲斐甲斐しく世話をしてくれたのはグエスで、サーガさんが手配してくれた王都の腕利きの医者によって私の治療はなされた。

 数日寝込んだらすっかり元気になった私に、サーガさんから多額の謝礼金が渡された。


 食事にも何度か誘われたけれど、婚約者がいるからとそれはお断りさせてもらった。


 私の助けた子供も、命を取り留めて無事。セイレーンは討伐されて、乗客は怪我人が出たぐらいですんだのだという。

 子供のご両親から、お礼の手紙やお礼の品が、何度も私の元に届けられた。

 ともかく、無事でよかった。

 あのまま手を伸ばさずにあの子が命を失ってしまっていたら、私はきっと顔をあげて生きることができなくなっていた。


 お父様やお兄様には叱られた。けれど、人を助けたのは尊いことだと、褒められもした。

 私が海に飛び込んだという話は、サーガさんや乗客たちに頼んで広めないで貰ったのだという。


 王都新聞に載ってしまいそうな手柄だとお父様は言ったけれど、「海に飛び込み死にかけるなど、伯爵家の娘としては傷になる。あまり、公にしないほうがいい」との判断だった。


 私はそれでよかった。有名になんてなりたくないし、ドレスを着て海に飛び込むなど――冷静になって考えると、愚か者のすることだ。

 だからただの風邪をひいて休んだのだと、学園のお友だちには説明をした。


 ただ、クリストファーだけは。


「お前の兄から聞いたぞ、リーシャ。海に飛び込み死にかけたのだと。……何故黙っている。どうして、お前から俺に言わない」


 そう、言われた。

 私は曖昧に笑うと「たいしたことじゃないから。言う必要はないと思って」と答えた。


 あのとき――泣きながら、怖かったのとすがりつけば。

 海の底で、あなたを思ったのだと伝えていれば。


 私たちの関係は、もっと良好なものになっていたのだろうか。


「お前は昔からそうだ」


 クリストファーはそれだけを言って、不機嫌になった。

 私はどうしていいかわからなくて、ただ拗ねているだけなのかと、そっとしておくことにした。

 数日すれば、いつものクリストファーに戻っている。

 誰にでも優しく、穏やかなクリストファーに。


 私の愚かさについて、怒っているのだ。だから反省はしたし、同時に心配されているような気がして嬉しかった。


 そんなことは――なかったのに。


「――リーシャ!」

 

 力強く私を呼ぶ声がする。

 うっすらと瞳を開くと、海面から私と、落ちた子供を抱え上げて顔を出しているゼフィラス様の姿がある。

 

 美しい銀色の髪が、夕日に照らされてきらきらと輝いている。

 海の底へと、ぶつぎりにされたクラーケンが沈んでいく。


 燃える炎のような赤い瞳が、心配そうに私を覗き込んだ。

 ゆらゆらと、海面が揺れる。

 異形の消えた海は、穏やかに凪いでいる。


 意識を失っている小さな女の子の体を、私はしっかりと抱きしめた。


「……イカ焼きに、できませんね、これでは」

「イカ焼き?」

「ふふ……ゼフィラス様……ゼス様、ゼフィラス様……」


 記憶の底に触れる何かがある。

 私の頬に触れるセイレーンに剣が突き刺さったのだ。


 意識を失う瞬間だった。

 胸を貫かれたセイレーンが、暗い海底へと落ちていく。


 黒い服を着た騎士様が、私を海中から引っ張り上げた。「大丈夫だ」「死ぬな」「俺が助ける」と、幾度も私を励ましてくれた。


「……思い出しました、ゼフィラス様。私は、あなたを知っています」


 ゼフィラス様は俄に目を見開いて、それから優しく微笑んだ。




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