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セイレーンの記憶


 ◇


 海に夕日が落ちていく。

 空にあるときには目に痛いほど黄金色に輝く太陽が、沈んでいく瞬間は空を優しい茜色に染め上げるのが不思議だった。


 一番星が輝き始めて、灯台に道標の灯りが灯る。

 夕日がすとんと落ちてしまえば、紫色をした宵闇が訪れ、やがて夜の帳が降りる。


 私は、夜が好きだ。

 夕方から行われる晩餐会も、暗くなってから賑わいを見せる劇場も、音楽会も。

 お祭りの夜の、熱に浮かされたようなにぎやかさも好きだし、虫の声を聞きながらゆっくり本を読んで過ごすのも好き。


 魔鉱石の採掘が進んでから、以前よりも夜は明るくなった。

 地方ではまだまだ蝋燭や薪が使われているけれど、栄えた都市では魔鉱石で灯りを灯す。


 高価だけれど蝋燭よりも安全で、なによりも明るい。

 人々の暮らしは日が落ちてしまえば寝てしまう生活から、夜の楽しみのある生活へと変わりはじめている。


 魔鉱石の灯りが灯台に灯るようになってから、船での荷運びもずいぶん安全になったとお父様は言っていた。


 だから夕方の遊覧船も、多くの恋人たちや親子連れで賑わっている。

 甲板の手すりに手をかけて、この美しい景色をクリストファーと一緒に見たかったなとぼんやり考えているときだった。


 不意に、美しい歌声が蝋燭岩から聞こえてくる。

 その歌声は、恋人の死を嘆いているようにも聞こえたし、海で失われた命を鎮魂しているようにも聞こえたし、魂ごと海の底へ連れて行くような気怠く甘い死への誘いのようにも聞こえた。


「耳を塞げ! セイレーンだ!」


 船員たちが叫ぶ。

 ふと視線を向けると、今まで誰もいなかった蝋燭岩に美しい女性が佇んでいる。

 女性の下半身は海の中に沈んでいる。

 夕日に照らされた海中に、女性の腰から下にしては不自然な、まるで蛇のような長く大きな黒い魚影が見える。


「セイレーン……」


 それは海の魔物だ。

 クラーケンと並んで、お父様が嫌っているもの。

 歌声で船乗りたちを惑わせて、海中に身を投げさせたり舵を惑わし岩礁に乗り上げさせたり、船を沖へ沖へと連れて行き、難破させたりするものだ。


 私は耳を塞いだ。お父様から散々「セイレーンめ、三枚に降ろして塩焼きにしてやりたい」と言う文句を聞いていたので、セイレーンが何かをよく知っていたからだ。


 けれど――魔物について詳しくない人たちだって、当然ながらいる。

 多くの人たちは魔物に出会うことなく一生を終える。

 魔物が街に出現することは滅多にないし、街から街へ旅をする人の方が、一つ所に留まり一生を終える人よりもずっと少数派だからである。


 だからだろう。

 すぐに耳を両手で塞いだのは私とあと数人だけで、多くの乗客たちが何事かと視線を彷徨わせている。


「いいから早く耳を塞げ! 死にたくなければ!」


 船員の方々の中から、立派な身なりをした獅子のような人が出てきて大声で怒鳴った。

 その迫力に気圧されて、耳を塞ぐ人々の中から、ふらふらと子供が手すりに近寄っていく。

 子供が手すりによじ登り、海に身を投げたのはほんの一瞬の出来事だった。


 セイレーンに惑わされたのだろう。

 その行動には躊躇がなく、それをするのが当たり前であるかのように、まるで靴を履いて玄関から出て行くかのように海にすとんと落ちたのだ。

 

 小さな飛沫があがる。

 ちゃぷんと、海面に子供が吸い込まれていく。


 混乱する人々の中で、誰もそれに気づいていないようだった。私だけが、見ていた。

 

 あぁ――助けなきゃ。

 助けなきゃ。助けなきゃ。このままじゃ、死んでしまう……!

 

 頭の中がそれだけでいっぱいになった。


「おい、何してるんだ嬢ちゃん! 待て!」


 獅子のような男の人の制止の声が聞こえた。

 私は振り返らず、手すりに足をかけてよじ登ると、子供を追って海の中に飛び込んだ。

 

 飛び込んだ衝撃で気を失わないように、両手を突き出して体を槍のようにして、海の中へと。

 空気を思い切り吸い込む。ざばんと体が海中に沈んだ。


 服が体にまとわりついて、動きにくい。体が海の中で海水に揉まれてぐるぐる周り、どちらが上でどちらが下なのか分からなくなった。


 海面に炎が燃えている。夕日の炎だ。

 少しずつ吐き出す空気がこぽこぽと、炎に向かって浮き上がっていく。


 海中は、くらい。

 深いところに行くほどにどんどん暗くなり、どこまでも続く真っ暗な、地面に空いた穴のように感じられる。


 吸い込まれて、深く沈んでいきそうなほど。

 それはただの海でしかないのに。

 海には悪意なんてない。ただ広がっているだけだ。私の命を奪おうなんてしていない。

 ただそこに、人の力ではどうにもできない大きな自然があるだけ。


 セイレーンに操られていたからか、落ちた瞬間子供は気を失ってしまったのだろう。

 海中にたゆたう小さな体が見える。

 手を伸ばし、足で海水を蹴り、私は子供の傍まで辿り着いた。

 

 春先の海水はまだ冷たい。

 抱きしめた体はひやりとしていて、重さを感じさせなかった。


 海面に出なければ。

 空気が足りなくなってしまう。急がないと。

 

 片手で子供を抱いて、私は浮上するために海水を再び蹴る。

 もう片方の手で海水をかき分けて、口の端からこぽこぽと漏れる空気があがっていく方向めがけて泳ぎ続ける。


 海面ではまだ炎が燃えている。海の中では上も下も分からなくなり、混乱して溺れてしまうのだとお父様が言っていた。

 混乱したら、空気を吐き出してしまう。

 一気に空気を吐き出してしまえば、どうしても吸い込みたくなる。

 吸い込んでも入ってくるのは海水だけ。だから、溺れるのだ。


 船に乗る機会の多いお父様は、いつか私が海に落ちたときのためと、そういう話をよくしてくれた。

 頭の中でお父様の言葉を反芻する。

 混乱してはいけない。落ち着いて、冷静に。大丈夫、まだ息が続く。

 子供は無事だろうか――もう、死んでいるのではないだろうか。


 わからない。でも、今はそんなことを考えている暇はない。

 ともかく、海面に浮上しなくては。そうすればきっと誰かが、私たちを助けてくれる――。


 もうすぐ海面から顔を出せる。

 炎が近い。橙色の光に優しく包まれているみたいだ。

 海中に向かって、いくつもの光の梯子が差し込んでいる。

 あぁ――助かる。


 そう思ったときだった。

 私の前に、ぬっと美しい女性が顔を出した。

 海の中で、銀色の髪が海藻のようにゆらゆらと揺れている。


 魅惑的に弧を描く口元。美しい青い瞳は宝石のようで――なんの感情も宿していない。


(セイレーン……!)


 海に落とした獲物を助けたのが気に入らなかったのだろうか。

 わざわざ私を追ってきたのだ。

 女性の下半身から先は、上半身よりも何倍も長い鱗のある魚の姿をしている。

 うねうねと伸びる魚の下半身からは、いくつものヒレが突き出ていた。


 私の頬にセイレーンが触れる。歌声が、鼓膜に直接注がれているように、頭にぐわんぐわんと響いた。


 あぁ――駄目だ。

 私は――。


 死を悟った。でも、死ぬわけにはいかない。私が死んだら、子供も死んでしまう。

 でも――まるで、風に煽られた蝋燭の炎が消えるように。

 ふつりと、私の意識は暗闇に沈んでいった。



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