海の怪物
一年前──私は遊覧船に乗っていた。
クリストファーと一緒に乗ろうと思って、ちょうど今のゼフィラス様と同じようにチケットを二枚、グエスに頼んで買ってもらったのだった。
週末の予定を尋ねにいくと、クリストファーは「すまないが、予定があるんだ。悪いな、リーシャ」と申し訳なさそうに言った。
私は「それなら仕方ないわね」と、クリストファーの予定が何なのかも尋ねなかったし、がっかりした心を隠してなんでもないようにあっさり引き下がった。
他に一緒に行く相手もいないし、誘いを断られたなんてあんまり人に言いたいことでもない。
まぁいいかと気持ちを切り替えて、せっかくだからと一人で初めての遊覧船に乗った。
遊覧船は私を蝋燭岩の前まで運んでくれた。
燃えるような赤い夕日が美しくて、とても綺麗に岩の先端に夕日が落ちていくのを、ほうと息を吐き出しながら眺めていた。
そこに、不思議な歌声が響いてきた。
それは──。
「リーシャ。蝋燭岩だ。ちょうど、夕日が落ちる」
記憶を辿っていた私は、ゼフィラス様の声に顔をあげた。
橙色に空が染まっていっている。水平線の向こう側に落ちていく夕日が、海の中から唐突に突き出ている巨大な針のような蝋燭岩の中央に、ちょうど重なっていく。
夕日が波に揺れる海面を、炎のように輝かせる。
この神秘的な光景を、恋人と二人で見ると愛が永遠になるとか、恋が叶うとか言われていて。
だから遊覧船は、恋人たちに人気だ。それから、子供連れのご夫婦なども多い。
「とても、綺麗ですね、ゼフィラス様」
「あぁ。……私の恋が叶うといいな。リーシャ、私は君と、ここで──」
ゼフィラス様が何かを言う前に、今日の海は波が穏やかだというのに、船が大きく揺れる。
海中にいる恐ろしい悪魔が船を掴んで、海の中に引き摺り込んでいるようにも思える。
「リーシャ! 手すりに掴まれ。掴まったまま、動くな! 皆も船に掴まり、じっとしていろ!」
ゼフィラス様が厳しい声で言って、剣を抜いた。
私は言われた通りに揺れる船の手すりに掴まる。他の乗客たちも必死にそれぞれ船の手すりや柱などにしがみついている。
船員の方々が驚愕に顔をこわばらせて、頭上を見た。
ぽたぽたと、水が落ちてくる。突然の嵐なのか、けれどそれにしては風もなく雲もない。
雨は塩を含んでいる。水よりも少しぺとっとしていて、塩気がある。
「海水……」
異変に気づいた人々から、一拍遅れて「きゃあああ」という悲鳴があがった。
泣きじゃくる子供の声もする。子供を守る父親の声もする。
遊覧船を激しく揺らしているのは、遊覧船にうねうねと巻きついた太い軟体動物の足だった。
私の顔よりも大きな吸盤、ぬらぬらとぬめり気を帯びて光る表皮。
うじゅるうじゅると、刻一刻と形を変えるようにして蠢くその船に巻きつくことができるほどに大きく太く長い足の向こうに、感情の読めない縦に瞳孔の走る金色の目がある。
イカを巨大にしたような形をしたそれは、年に数件被害報告のあがってくる海の魔物、クラーケンと呼ばれるもの。
海運業を営むお父様が最も嫌っている魔物である。
「人を喰らうわけでもないくせに、船を転覆させるのだ。積荷が全部駄目になるし、死人も出るし船も壊れる。クラーケンなど、全部イカ焼きにして食ってやりたい」
と、被害が出るたびにお父様はぼやいていたものだ。
壊れた船も、海に沈んでしまった乗組員たちも。ボートで脱出した方々のことも、話を聞くととてもかわいそうで、怖いことだなと思っていた。
けれどそれは私が安全な場所にいるからで、実際にクラーケンに襲われたことはなかった。
こんなに、大きいの。こんなの、人間が勝てるわけがない。
海から突き出た足のあまりの大きさに、長さに、心が恐怖に染まった。
神々しかった赤い夕日も蝋燭岩も、今は不吉なもののように感じられる。
「ゼフィラス様……ゼス、様」
絶望に染まる心に差した一筋の光のように、白刃が煌めいた。
ゼフィラス様は揺れる船の上を抜き身の剣を携えて、軽やかに、力強く駆けていく。
張り巡らされたロープを掴み、ひらりと飛ぶようにして見張り台まで登った。
見張り台から飛び降りるようにして、船を今にもへし折ろうとしているクラーケンの瞳目掛けて剣を構えて落ちていく。
あっという間のことだった。クラーケンは大きいから、私たちのことなど人間にとって蟻か、それ以下程度の大きさにしか感じていないのだろう。
だからゼフィラス様にまだ気づいていないようだった。
ようやく気づいて太い足の一本で、ゼフィラス様を捕まえようとするよりも、ゼフィラス様の剣がずぶりと眼球にのめり込むほうが早い。
ゼフィラス様は眼球から剣を、クラーケンの体に向かって引き摺り下ろすようにして切り裂いていく。
その剣はあっさり巨体を引き裂いた。いつかお父様が、イカ焼きにして食べてやると言っていたように、引き裂かれたクラーケンの頭部の断面は、イカのそれに近い。
突然の攻撃に恐慌をきたしたように、クラーケンの足が船からじゅるじゅると外れていく。
ゼフィラス様は追い打ちをかけるようにして、動き回る足を踏み台にしてもう一度飛び上がると、襲いかかってくる触腕を目視できないほどの速さでぶつ切りにして、もう片方の瞳に剣を突き刺した。
海水が飛び散り、雨のように私たちに降りかかる。
触腕が外れたために、傾いていた船が元の状態に戻っていく。
ざばあああん! と、船が海面に叩きつけられる衝撃で、体が大き跳ねる。
私は手すりに必死にしがみついた。
そして、目にした。
父親の腕の中から体が宙に飛び出して、海に落ちていく子供の姿を。
「……今、助けるわ!」
子供に手を伸ばす父親と、泣き叫ぶ母親にそう告げると、私は手すりに足をかけて海へと飛び込んだ。
あぁ、そうだったわね。一年前と、同じ。
あの時も私は、子供を助けるために海に飛び込んだのだった。