遊覧船と蝋燭岩
遊覧船乗り場の前でルーグを止めて、ゼフィラス様は先に降りるとルーグの上から私を降ろしてくださった。
「さぁ、行こうかリーシャ」
「あの、ゼフィラス様。心配なことがあるのですけれど」
「心配?」
「はい。ゼフィラス様は、とても目立つでしょう? 変装など、しなくていいのかと思いまして」
「あぁ、そのことか。今日の私は、身分を隠していない。ゼフィラスとして、君とデートをしている。だからこのままでいい」
ゼフィラス様はルーグに「待っていてくれ」と伝えて軽く頭を撫でると、私の手を引いて桟橋に向かう。
港に突き出た桟橋の横に、立派な遊覧船が止まっている。
これは王都の湾状になっている海を一周ぐるっと回ってくるものだ。
そのほかにももっと小さめの船で、船でないと行くことのできない、美しい青い海の洞窟──神秘の洞窟に行くコースもある。
ゼフィラス様の存在は、他のお客さまたちをざわつかせていたけれど、ご本人は何も気にしていないようだった。
堂々と私の手を引いて、遊覧船の受付の女性にチケットを渡して桟橋に向かう。
桟橋から船には、船に乗るための橋がかけられている。
船が揺れるので、この橋もゆらゆらゆれて、少し怖い。
私はいつも一人だったから、怖がっても仕方ないしと思って、大丈夫なふりをして乗り込んでいた。
けれど、揺れる橋とその下に広がる海面を見てしまうと、足を踏み外したら落ちてしまうという恐怖が胸に湧いてくる。
「リーシャ」
でも──今日は、ゼフィラス様が手を引いてくれている。
揺れる橋も、怖くない。
一人で乗った時だってもちろん楽しかったけれど、今も、楽しいと思ってしまう。
「足元に気をつけて。滑らないように。海に落ちたら大変だ。もちろん、君が海に落ちたら私が助けるから安心してほしい」
「落ちませんよ、大丈夫です」
「万が一ということもある」
「はい。ではその時は、お願いします」
「もちろん。だが、できる限り落ちないように、私の手に掴まっていてくれ」
ゼフィラス様は、優しい。
こんな風に、大切な女の子を相手にするみたいに優しくしてもらったことはなかった気がする。
比べても仕方ないってわかっているのに、どうしても記憶の中のクリストファーが思い出されてしまう。
「……ゼフィラス様は、優しいです。こんなに大切にしてもらったこと、なかったので」
「船に乗るだけで優しいと褒められたら、困ってしまうな。私はリーシャが好きだ。だから、もっと優しくしたいと思っているし、君の手を引いて歩けるのだから、私はとても幸せだよ」
「ありがとうございます。……嬉しいです」
なんて言っていいのか分からなくて、心に思い浮かんだ言葉を伝えた。
優しくして貰うと嬉しい。だから、嬉しいと伝えたい。
でも――。
心の中に小さな棘がある。
優しくされてすぐに嬉しくなって。軽薄ではないだろうか。
この気持ちは、よくないのではないかと。
船の中にも座席はあるけれど、お客さんたちはほとんど甲板に出て外を見ている。
それが遊覧船の醍醐味だからだ。
海鳥に餌をあげることもできるし、潮風に吹かれてぼんやりすることもできる。
私たちも甲板に向かった。
広い甲板の手すりに掴まって、空を見上げる。
海風が髪を揺らして、柔らかい日差しが空から降り注いでいる。
潮の香りがする。餌をもらえると思ったのだろう、海鳥が近くの空を飛んでいる。
「すごく、気持ちいいですね、ゼフィラス様」
「実を言えば、観光船に乗ったのは初めてなんだ」
「そうなのですね、すごく慣れているから、何度も乗ったことがあるのかと思いました」
ゼフィラス様も私の隣で、軽く手すりに手を突いている。
ややあって、出港の合図とともに船はゆっくり動き出した。
大きい船なのでそこまで揺れないけれど、それでも足元がおぼつかない感じがある。
「では、神秘の洞窟にも行ったことがありませんか?」
「あぁ。恥ずかしながら」
「じゃあ、次は神秘の洞窟に行きましょう! 遊覧船も開放感があっていいですが、洞窟も素敵なのです。船に寝転がって洞窟の中を船に乗って揺蕩うのです。海も洞窟も、青く輝いて、すごく綺麗で……」
王都に住んでいらっしゃるのに、神秘の洞窟に行ったことがないなんてもったいない。
本当に綺麗な場所だもの。
思わず、興奮気味に捲し立ててしまった。
「必ず行こう、リーシャ。君から誘ってもらえるなんて、嬉しい」
「私……」
ふと自分の失態に気づいて、私は俯く。
自分から――ゼフィラス様をデートに誘うのは違う。
私はゼフィラス様とは期間限定の婚約者だ。
結婚しないと決めて、一年間だけだからと了解をした。
「リーシャ、あまり気負わないでほしい。もちろん私は君が好きだが、君は……そうだな、私を友人のように思っていてくれると嬉しい」
私は、不誠実なのではないかしら。
ゼフィラス様の優しさに甘えて。でも、恋はしないって、言い張って。
「リーシャ。君は、君のままでいればいい。楽しいことを楽しいと感じて笑ってくれていれば、私はそれで十分だ」
「……ゼフィラス様、どうして、私なんかを」
「なんか、ではない。私にとってリーシャはこの一年ずっと、思い続けていた人だよ」
「どこかで、お会いしましたか?」
「……街で、君を見かけた」
「それは嘘、という気がします。見かけたぐらいで……こんなに優しくしてくださるのは、不思議です」
船はゆっくりと沖合にある蝋燭岩に向かって進んでいく。
岩の外周をぐるりと回って、桟橋に戻るのだ。
蝋燭岩から離れた場所で船は少し止まる。
運が良ければ、夕日が落ちて蝋燭の形をした岩に、炎が灯るように輝いて見えるのだ。
「……そうだな。それは嘘だ。私は、君に会っている。だがきっと、君は覚えていない」
「覚えていない……」
何か、特別なことがあったかしら。
頭の中にある記憶の箱を、幾つも開いて確認していく。
一年前。私は学園の二年生。
クリストファーは忙しくて、デートもほとんどしなかった。
誘われることもなかったし、たまに誘っても「すまないな」と言って、断られてしまっていた。
だから私は、一人で街を歩くようになって。
一年前の今頃──私は今日と同じように遊覧船に乗っていたのだ、一人で。




