序章:リーシャ、幼馴染に浮気をされる
もしかして、夢を見ているのではないか。
目の前には、ありえない光景が広がっている。
クリストファーは今日は外せない用事があるって言って、私とのデートを断った。
二週間前から約束していたのに。
観劇のチケットを二枚とって、夕方四時になったら馬車で迎えに来るよと言っていた。
でも今日の朝、クリストファーから手紙が来た。
そこには『どうしても外せない用事ができたから、今日の予定は断らせてもらう。すまない』と、美しい文字で書かれていた。
私はクリストファーの文字を記憶している。
だから、それはなにかの間違いなどではなくて、クリストファーが直筆で書いた手紙だとわかる。
長い付き合いだもの。
両親が懇意にしていたから、私とクリストファーは幼い頃から会う機会が多かった。
つまりは、そう、幼馴染。
クリストファーと私は同い年で兄妹みたいに仲がよくて、私は幼い頃から「クリスにお嫁さんにもらってもらう」と口にしていた。
クリストファーも笑いながら「いいよ、リーシャがそうしたいなら」と言ってくれていた。
その様子を見ていた両親の間で話し合って、私とクリストファーは正式に婚約することになった。
ベルガモルト公爵家と、私の家アールグレイス伯爵家ではベルガモルト公爵家のほうがずっと格上。
それでも私たちの希望を叶えようということで、十歳で婚約をしてから八年。
十八歳の今までずっと私はクリストファーが大好きだった。
婚礼の準備だってすでに行いはじめていて、聖フランチェスカ貴族学園の卒業式後に婚礼をあげる予定だ。
私はずっと楽しみにしていた。もう少しでクリストファーの元に嫁ぐことができる。
王都の貴族学園の最終学年になっていた私たちは、学園寮で生活している。
けれどずっと学園寮にいるわけではなくて、週末はそれぞれ、王都のタウンハウスに帰るのである。
それなので、私は朝からそわそわしながら準備をして、クリストファーから手紙をもらって落胆していた。
用事が何か、具体的には書いていなかったけれど。
クリストファーは最近、とても忙しそうにしている。もうすぐベルガモルト公爵家を継ぐのだから、仕方のないことだと思っていた。
うるさく言って嫌われたくない。邪魔だって思われたくない。
だから私はあまりクリストファーに近づかないようにしていたし、余計な詮索もしないようにしていた。
それなので──久々のデートの誘いがとても嬉しかった。
でも、用事ができたのなら諦めるしかない。
だから私は、ドレスもアクセサリーもせっかく用意したのだしと思って、侍女のグエスにお願いして今日見に行くはずだった観劇のチケットを一枚手配してもらった。
劇場とは、基本的には男女で行くもの──という常識が、貴族の中にはある。
男女でいかないとしても、家族や友人たち。ともかく、連れ立って行くものなのだ。
けれど私は、結構一人が平気だった。
学園に入学してからクリストファーが忙しかったから、デートもあまり行くことができなかった。
かといって別の男性と遊びに行くわけにもいかないし。
女の子の友人はいるけれど、みんなそれぞれ婚約者がいて、週末となると結構忙しい。
一緒に出かける相手を見つけるというのは、結構大変だった。
せっかく賑やかな王都に来たのだからと、私は一人で出かけるようになった。
一人で出かけるとそれはかなり気楽だということに気づいて、カフェや流行のレストラン、遊覧船や観光スポットなどにはよく足を運んだ。
劇場も。今日の演目は、ちょうど見たいものだった。
『真夜中の夢』という、妖精が出てくるちょっと不思議な恋人たちの話。
そんなわけで私はたっぷりと一人で劇を満喫して、感動して瞳を潤ませたりして、それはもう充実した時間を過ごした。
そして──さぁ、帰りましょうと劇場から出たところで、信じられないものを見たのである。
「クリス……?」
お迎えの馬車が並んでいる劇場正面入り口には、魔鉱石のあかりがともっている。
その灯りから逃げるようにして、少し外れたところで男女が体を寄せ合っていた。
本人たちは隠れているようだけれど、少し視線を向ければ見えてしまう場所だ。
こんなところで大胆ねと思って、つい視線を送ってしまった私が見たのは、今日私とのデートを断ったクリストファーの姿だった。
金色の髪に青い瞳の美しい顔立ちをしたクリストファーのことを、私が見間違えるはずはない。
クリストファーは壁に女性を押し付けるようにしている。
その女性は──シルキー・クワイエス。
私の友人の、子爵令嬢である。
「……え? どうして……」
クリストファーは今日用事があって。シルキーは私の友人だ。
それなのに、二人は人目も憚らずに、唇を合わせたり、顔を近づけて笑い合ったりしている。
私は状況が理解できなくて、しばらく呆然と二人を見つめていた。
立ち尽くす私の横を、邪魔くさそうにしながら劇場から帰路につく人たちが通り過ぎていく。
ふと──我にかえったとき。
私はもうすでに、クリストファーの顔を張り倒していた。
「どういうことなの!? クリス、浮気をしていたの……!?」
「リーシャ、どうしてここに……!」
「それはこちらのセリフよ! な用事があると言っていたのに……!」
「リーシャ、ごめんなさい……」
頬をおさえたクリストファーが狼狽えて、シルキーが泣き出した。
「リーシャ、俺は昔から君のことなど嫌いだった」
「え……」
「リーシャ、君との婚約など、破棄させてもらう!」
「……っ、望むところだわ……!」
私はそう言い捨てると、その場から逃げ出した。
本当は大声で泣きたい気持ちだったけれど、悔しくて情けなくて恥ずかしくて。
泣き顔なんて、絶対見せてやるものですかと、歯を食いしばった。