月にさよなら
白いドアの前に立っている黒いスーツの女性に事情を告げると、「どうぞ」と笑顔で中に通してくれた。
壁沿いに歩いていくぼくの姿など、満員御礼の部屋の中の誰一人として見ていない。
部屋の一番一番後ろで壁を背に正面を向いた。
ドル円のチャートが映し出されたスクリーンの前で、会場を埋め尽くしたすべての視線が壇上のしばじゅんに注がれている。
嘘だろう…
目の前の光景はまるで映画のワンシーン、いや、映画のワンシーンであってほしいと願いたくなる光景。両手を肩の高さに上げて熱に浮かされたように喋るしばじゅんは、妖しいほどに眩しいスポットライトの中に浮かび上がる。その一挙手一投足が会場を埋め尽くした数百人の聴衆の心を震わせる。後ろ姿しか見えないのに、揃いも揃ってしばじゅんが伝染したかのような恍惚の表情を浮かべていることが、なぜかはっきりとわかる。
そして「カット」の言葉がかかり、聴衆役のエキストラの表情は我に返り、登壇者を演じた役者はテンションを下げ、周囲からはねぎらいの言葉が飛ぶ、それが現実、目の前の光景はすべて筋書きのある物語が演じられただけ…
そうはならない。
戻るはずの現実は自分の頭の中の空想で、虚構と信じたかった光景こそが、目にしたくなかった現実
しばじゅんはマイクを握りしめて自分の言葉に酔いしれる。
「この低金利の時代、資産は自分で守り、自分で増やさなければいけないのです。それなのに、大多数の人は、金融機関に預ければどうにかなると思っている。運用のプロに任せれば安心だと思っている。果たしてそうでしょうか? そもそもリターンを正確に予測できているのでしょうか? 世界は未曾有の低金利の時代に突入しました。預けておけば資産が増えるなんてもはや幻想です。守りの姿勢では資産は増えません。積極的な攻めの運用こそが必要です。それは誰がやるのでしょうか? 金融機関にはできません。できるのは今ここにお集まりの皆様です。人生100年の中のわずか3か月、そのわずか3か月のうちの毎日わずか1時間でいい、トレードの勉強をしてください。トレードは勉強しなければ絶対に勝てるようにはなりません。でも心配は無用です。3か月本気で勉強していただければ、もう老後の資金の心配などいりません。ここにお集まり皆様は、ある程度の資産をお持ちの方と想像します。すなわち、今まで世の中を上手にわたってきた、非常に賢い方たちなのです。だからこそ、私のメッセージを受け止めてくださることと確信します。3か月、わずか3か月です。パーフェクト・トレードMAX―AIで投資の必勝法を身につけましょう。一生お金を稼げるという、最高の能力を手に入れましょう」
聴衆はいっせいに立ち上がり会場は拍手に包まれる。しばじゅんは新興宗教の教祖のように高く上げた右手を振っている。向かい合って話したときに、何度も言うので耳に残った「まあ」というつなぎの言葉は一度も出てこない。催眠術にかかった別人が喋っているようだった。
この熱気の中でどう挨拶すればいいのだろう。何を言ってもしらけてしまうのではないか。魔法にかけられたような聴衆はしばじゅんの言葉ならすべてを熱狂的に受け入れるのか、それがぼくの名前を呼ぶだけであっても…、そんなことあるはずはない、言うことを考えないと…
その心配は杞憂だった。
別人となったしばじゅんの視線がぼくの姿を探すことはなかった。ぼくの名前が呼ばれないままセミナーは終わった。忘れたわけではないだろう、きっと何か意図があった、お前の出る幕はないと言いたかったのか…、何かの復讐のつもりだったのか…
新大阪駅で帰りののぞみに乗車する。
キャリーケースを網棚に上げ、進行方向に向かって左側、二人掛けの窓側E列の席に座り、リクライニングを倒すと、疲労感がじわあっと溢れた。意識のプラグが突然抜けたかのように朦朧としてくる。日はとっくに落ちている。新大阪を離れるにつれて車窓から見える光の量が見る見るうちに少なくなる。晴れているはずなのに月も浮かばず、見たくもない自分の顔が鮮明に車窓に映る。不快感だけは意識することができるみたいだ、正面を向いて少し目を閉じることにした。
行きの新幹線の中では、景色を見て、仕事の準備をして、音楽を聴いて、読書をして、それこそ一人の時間を満喫できる気がするのに、帰りの新幹線の中はただただ眠いだけ。何ひとつする気にならない、重い泥の塊になった気分。それもいいか、頭を休めればこれ以上疲れることはないのだから
しばじゅんはぼくに何をしたかったのだろう…、
考える気はないのに、思いだけが頭の中にぼんやりと浮かぶ
銀行のディーリングルームで、あの手の人間を何人か見たことがある。しばじゅんもきっと同じ人種だ。才能があって、誰よりも努力をして、世の中の仕組みを理解したと言い切る言葉には有無を言わさぬ説得力があって、自身に満ち溢れ、こんな人にはとてもかなわないと絶望的な気持ちにさせられて、でもゆっくりと、そして突然に、今までうまくいっていたはずのすべてがおかしくなって、最後には消えていく。
「おまえたちの給料なんて全部オレが稼いでるんだ、感謝しろよ」
そんな罵声をぼくに浴びせ、そのわずか数か月後に消えていった昔の同僚。その醜い表情を無理やり記憶の片隅から引き出そうとして眼が冴えてしまった。
自問する。自分はまともな判断ができていると思うか? それとも単なる嫉妬からそう考えているのか?
謙虚になれ、注意深くなれ、大丈夫か? 自分に問いただす。
嫉妬じゃない、たぶん、冷静な判断ができている、たぶん
しばじゅんはきっと破滅する、そんなに長くはかからない、でも、それを予見できたところで何になる? しばじゅん本人が彼自身の破滅を予見したら、それをお金に換える手段をきっと思いつくだろう、でもぼくにはできない、破滅することが予見できても、何にもならい。
岩田さんからLINEが来ていた。
お疲れ様でした
内野さんは優秀なインタビューアーです
相手の本音を引き出しました
またどこかで
言いたいことを伝える気があるのかも怪しい、雑誌の記者とは思えないような文章。昼間の饒舌さよりこちらの方がよほど岩田さんらしい。それに、ぼくは何も引き出していない。しばじゅんが一方的に喋っただけ。
何を知りたいわけでもなく、しばじゅんのツイッターを検索した。
アカウントが削除されている。
目を疑った、5万人を超えるフォロワーがいたアカウントがなぜ突然削除される?
Safariの画面を戻ってスクロールする
―しばじゅんの商材もやはり詐欺だった
―FX詐欺師しばじゅん
―しばじゅん、金返せ
―しばじゅんの暴露動画
…なんだ、これ…、
「FX商材詐欺師しばじゅん」という言葉とYouTubeのリンクがやたらとリツイートされている。スマホにヘッドホンを差し込みYouTubeのリンクを開く。出てきた動画に映るのは数時間前のしばじゅん、そしてこの後ろ姿は間違いなくぼくのもの。ぼくがほとんど黙り込んだ後ろの部分だけがアップされている。リツイートされているツイッターのアカウント名を見た。年年歳歳(@nennensaisai)。
岩田さん?
あんなの詐欺のうちにも入らない、こんなことをしなくたって、いつか終わったのに。
岩田さん、出る杭は打たなくても誰も近寄らなくなって忘れられていくのに。
窓に映る疲れた顔の自分の姿のむこうに、空に浮かぶ下弦の月が見えた。黄色い月。
東に向かう帰りの新幹線は新大阪から米原までは北上して、米原から名古屋に向かっては南下する。気がついたら東の空を見ていた。この月を見ていられる時間はあとわずかだ。