表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/4

投資セミナー in 大阪

 大阪は晴天でも季節は進み、先週末の東京ほど気温が上がらない。少し肌寒さを感じたけれど、すれ違うアジア人は半袖だ。

土曜日の心斎橋でもキャリーケースを転がすアジア人の旅行者が目立つ。それでも銀座と比べたら数は少ない。年齢層の広い銀座の観光客と違ってこちらは時を得顔で歩く若い男女ばかり。30年前に卒業旅行でヨーロッパを歩いた自分たちを現地の人々はこんな目で見ていたのだろうか、ふっとわいた湧いた疑問をすぐに自分で打ち消した。当時のヨーロッパの人にこの既知感はなかったはずだ。経済発展が送り出した、肌の色の違う30年前の若い旅行者は遥かに奇妙に見えたことだろう。30年後にかつての若い旅行者は、新たな経済発展を遂げた国からもう経済が発展しない国へ現れた若い旅行者を見ている。世の中で起きていることを見ているだけの毎日かと思っていたけれど、若い頃は自分が世の中の動きの一部で、誰かに見られていたに今気がついた。年を取るとはこういうことなのだ。

ルイ・ヴィトンのショーウィンドウの前で足を止めた。立体的に描かれた色鮮やかモノグラムの前で、髪の毛からシューズまで全身まっ黄色の男のマネキンがピースをしている。マネキンとはいえ、アジア人にしか見えない。当時、パリのヴィトンに関しては友人たちからいろいろと話を聞いた。「英語で“How much?”と言えばよかったのに、カッコつけてフランス語で、“Combien?”と言ってしまったら、フランス語でまくしたてられて何も買えずそのまま店を出た」とか「バッグを買おうとしたら、あなたには似合わないから売らない、と言われた」とか。SNSがない時代には、友達を捕まえては同じ話を何度も繰り返した。その自慢話を、誰も「情報」とは思っていなかった。

ヴィトンのショーウィンドウを見つめている間、大阪にいる理由を半分忘れかけていた。

淀屋橋のホテルから、まいドームおおさかまで、まっすぐ歩けば15分くらい。せっかく来たのだから御堂筋を歩きたい、本町通を左に曲がって行こう。チェックアウトを待つ間スマホのマップを見ていたらそんな考えが浮かび、ホテルのフロントに荷物を預けて外に出た。

本町通に差し掛かる。湿度のない秋の空気が日差しに暖められ、歩いたおかげで体も温まる。なんとも心地よい。時間には余裕があるし、日頃の運動不足を償ういい機会だ。右折して会場を目指さずに、遠回りして心斎橋を歩くことにした。

昨夜はセミナーのスポンサーでもある証券会社の担当者と日付が変わるまで飲んでしまった。土曜日に前泊して一緒に食事をすれば、そうなるのはお約束だ。今朝は今朝でホテルのビュッフェで胃袋はパンパン。口から入った大量の異物を体と一体化させるには、チェックアウトギリギリまで一眠りする必要があった。セミナーのリハーサルは昨日のチェックイン後に部屋ですませておいた。これ以上準備することもないけれど、ここまで緊張がなくてよいのかと思うと笑うしかない。

大阪にはあまり土地勘がない。スマホのマップで現在地を確認すると、思ったよりも会場から遠くにいる。気持ちの良い散歩が苦痛に変わる。疲れる前に早めに開場入りしてコーヒーでも飲もうか、と心斎橋から地下鉄を使うことに決めた。

キャリーケースを抱えたアジア人の若者が三人、横に広がって地下へ続く階段を下っていく。このインバウンドは来年のオリンピックまでか、それともオリンピックが終わっても続くのだろうか。ドル円の相場は、オリンピックにもその後にも何の関心もないかのように、ただただ動かない。

先ほどまで歩いていた御堂筋の真下を心斎橋から地下鉄で一駅戻り、本町で中央線に乗り換えて堺筋本町までまた一駅。二本の地下鉄に乗っている時間より本町駅の乗り換え時間の方が長い。地上に戻り右手に高速道路を見上げてしばらく歩いた。松屋町筋を左に入り本町通りを過ぎると左側にまいドームおおさかが見える。地下鉄を降りてから約10分。

建物の前に人の姿はまばらなのに、エスカレーターで二階に上がると「トレーダー&投資家サミットin 大阪」と書かれた横断幕の下の受付には人の列ができている。奥を覗けば、外資系証券会社の見慣れたロゴの前を人の波が行き交っている。

トイレに立ち寄って鏡を見た。もう少しすっとした顔を想像していたが、頬の肉を親指と人差し指でつまんでガッカリする。昨夜からの暴飲暴食のせいだけではないだろう。口角を上げて笑顔を作る練習をした。その顔を見てもう一度ガッカリする。両方の頬に肉を両手で強く押し上げて両目が細く目の吊り上った自分の顔をしばらく見ていた。普段の自分の顔よりふざけたこの顔の方がマシに見えてくる。見た目がもう少しよかったら、セミナーも盛況になるのだろうか。せめてできることをしよう。グレーのストライプのスーツに皴が寄っていないかを確認し、髪の毛を軽く整え、白いポケットチーフの位置を直し、紺のプレーンのネクタイの結び目のディンプルに人差し指を入れてみた。ペーパータオルを水道の水で湿らせて、黒いストレートチップのエッジの部分をさっと拭き、ごみ箱に捨てた。

 受付で名刺を見せてセミナーの講師であることを告げると、眼鏡をかけた黒いスーツの女性が「こちらへどうぞ」と立ち上がった。控室へ案内してくれる。彼女は前を行く。上半身を全く動かさない無駄のない動き。黙って前を歩くことで適度な緊張感を与え、会話をしながら横を歩くことで相手の緊張感を解く。そんな優秀な秘書が銀行にはいた。辞めてからは、世の中にそんな人種が存在していたことさえ忘れていた。自分も背筋も伸ばして歩こう、そう思った瞬間に

「内野さ~ん」

という緊張感のかけらもない声が背中から聞こえた。振り返ると昨夜一緒に飲んだ証券会社の担当者。よく食べて飲む人だと思っていたが、パンパンのスーツ姿を見ると、この体形を維持するには昨夜のカロリーの摂取量にも納得がいく。

「昨日はお疲れ様です」

「こちらこそ、昨日はご馳走様でした」立ち止まって頭を下げた。振り向いたときに有能な秘書はすでに背中を見せていた。

 そこから先はただの自動操縦(オートパイロット)で、去年の行動を再現しただけ。控室にいても持て余してしまうので、イベント会場を一通り見学したものの何ひとつ印象に残らない。自分が登壇する部屋の裏に回り、パソコンのセッティングをした。去年よりも部屋が狭い。

開始時刻となり、紹介されて壇上に立てば後ろ半分は空席が目立つ。下を向いて熱心にメモを取る参加者はいるが、まったく質問は出てこない。盛り上がることなく45分の持ち時間は淡々と過ぎ、終わった瞬間に自分が話をした45分間の記憶がすべて抜け落ちた。誰の記憶にも印象にも残らなかった45分。為替のオプションのセミナーは個人投資家には難しすぎるのだろうか。この調子で行くと来年はもう呼んでもらえないだろう。いや、来年なんて悠長なことは言っていられない。普段は有料のセミナーで話している内容を、初心者向けに多少はレベルを落として無料でやっているのに、これだけ閑古鳥が鳴いている。どうにかしないと…。どうにかしなければいけないことはわかるが、どうすればいいのかさっぱりわからない。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ