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ウワサのモリヤ  作者: コトサワ
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五月雨る

クラスが隣の水本とモリヤは高2。知り合ってそろそろ一年になる。思いがけず親しくなれて、水本は純粋に嬉しい。雨の日にはモリヤの家によんでもらえる。そして二人で過ごす。家ではモリヤの不思議ないい匂いが盛大に香り、水本は大喜びなんだけど、今回のおうち訪問では何故か心が乱れ…。

もうすぐ梅雨入り。どこまでも青く澄み渡っていた水本の心の青空に雲のかげりが…。この雲は嬉しい雨をもたらしてくれるのだろうか。それとも……?

4月の終わりに モリヤがオレにお願いをした。

モリヤが学校を休む雨の日に 森の家に来て歌をうたってほしいと。

雨を待って待って、やっと降った5月の初め。オレはモリヤの家に行った。

調子が良すぎて休まねばならないほどの、そんな雨の日。だけど 調子が良すぎるモリヤを見ることは出来なかった。雨で家の中が暗すぎて。

しかも歌をうたい終わったとたんに、オレは眠ってしまったのだ。自分で自分が信じられない。あんなに待ち焦がれた雨の日の森の家だったのに。眠いと感じた記憶もなく 眠ってしまうなんて。しかも 3時間以上は寝ている。

それでもモリヤは ありがとうと言ってくれた。次の雨にも来るよう、言ってくれた。

次は失敗しない。ちゃんと雨の森の家でモリヤと過ごすのだ。

次の雨には雨の歌をリクエストされている。何の歌にするか すごくすごく考えて、そして決めた。

後は雨が降るのを待つだけだ。


モリヤは春に弱いんだって。

そうは見えないけど、高揚してしまうんだって。浮わっついてしまうんだと。

そしてそれを抑えるために 大量の水を飲む。本当に大量に水を飲んでいた。心配になるくらい。モリヤは 体質が違うから大丈夫なんだと言ったけれど。

でも。

あの雨の日、オレが寝てしまったあの雨の日から、モリヤは水を飲まなくなった。少なくとも、学校に大量の水の瓶を持ってくることは なくなっている。高揚がおさまったのかな。

何にしろ良かった。オレはホッとした。水を飲み過ぎのモリヤに 少しドキドキしていたから。心配で。


待っていると なぜか雨は降らない。不思議だなあと思う。わざとみたいに降らないから。でもわざとじゃない。雨は自然に降ってやむもんだって、オレがモリヤに言ったんだ。


「雨を待ってるの?」

と湧井さんが言った。

「うん。降るといいなと思っている。昨日降ったけど 霧雨でモリヤが休むような雨じゃなかったし。とてもキレイな雨だったけど。」

「うん。昨日の朝 水本が来た時、髪にいっぱい雨つぶがついていたわね。キレイだったわ、とても。」

ハハハとオレは笑った。オレがほめられたみたい。雨のおかげで。

でも湧井さんは笑わなかった。真面目な顔で ねえ と言った。

「ねえ、雨が降ってモリヤが休んだら、又モリヤの家に行くの?」

「うん 行く。」

オレは笑って言った。でもやっぱり、湧井さんは笑わない。

「どうしても?」

「?どうして? 湧井さん、前回は喜んでくれてたよね、モリヤの家に行くことを…」

「嬉しかったわ 雨が降って。でも」

「でも 何?」

「その前回のモリヤの家での話が、気になるわ。」

「ん? 何が?」

オレは湧井さんに報告していた。心配してくれていたから。オレが失敗して寝てしまったことも話していた。

「オレが寝てしまったこと? 寝るんなら行かない方がいい? 次は寝ないよ。もう失敗しないよ。」

「どうして寝てしまったのかしら。」

「そこなんだよね。思ったより緊張してたのかな。それで 歌った後に緊張がとけた…とか?」

「水本、モリヤの家で何か食べた?」

「いいや?」

「何か飲んだ?」

「飲んでないよ。…どうして?」

「何か盛られたのかと思って。」

「! 盛られた!」

あははははとオレは笑ってしまった。湧井さんたら。

「盛られるって毒? 湧井さん すごいこと考えるね。」

冗談と思った。でも やっぱり湧井さんは笑ってない。

「小川くんとも話したよ。二人でおかしいねって。」

「ええ? 小川くんも? モリヤが毒を盛ったって? どうして? モリヤがそんなことするわけないよ?」

冗談としか思えない。思いもよらない話だ。

「そんなこと心配しなくて大丈夫だよ。あれはオレの失敗なんだから。でも」

笑顔になってしまう。

「二人でそんなこと心配してくれてたんだ。ありがとう。」


オレは一日ニヤニヤしてしまった。

モリヤが毒を盛ったんだって。あ、これもウワサのうちなのかな。モリヤが毒を盛った。アハハ。それはおもしろい。モリヤは怒るかな。おもしろがるかな。

モリヤのことが気になりだしたのは 去年のプールのころ。初めて香りに気が付いた。とてもいい匂いに魅せられて、オレはとりこになってしまった。

モリヤにはウワサもいっぱいあって、本当にウワサの人なんだ。ついにはオレまでウワサに加われたりして。

もうすぐ1年。1周年だ。おめでとうオレ。ハハハ。


けど その前に梅雨が来るなとオレは気付いた。そう、梅雨だ。雨の季節。もうすぐだ。うんと雨が降るだろう。何回もモリヤの家に行けるだろう。梅雨が楽しみ。こんなに楽しみなのは初めて。うっとうしい季節だなんて思ってたのに。ごめん梅雨。



今日も雨は降らない。

「湧井さん 湧井さん 知ってた?」

昼休み、弁当をひろげてオレは湧井さんに言った。

「何を?」

「さみだれって、梅雨の雨のことだって! オレ5月の雨のことだと思ってた。梅雨より前の雨のことだと思ってたよ。」

「へえ。私も梅雨とは別物だと思ってたな。五月雨って書くものね。旧暦ってことなのかな。」

「うん。そうなのかな。新発見。」

「そうかー。初恋って梅雨の歌だったのね。」

「はつこい?」

「うん。昔の歌だけどね。お母さんが時々歌うの。五月雨は、で始まる。」

湧井さんは最初の4小節ほど歌ってくれた。

「こんな歌。知ってる?」

「知らない。湧井さん、全部歌える?」

「1番だけなら。」

「歌ってくれる?」

いいよと言って、湧井さんは歌ってくれた。

なんてキレイな歌。湧井さん上手。

「小川くんの言った通りだ。」

「小川くんが何?」

「湧井さんは歌が上手って、自分のことみたいに自慢してたよ。」

「ハハハ それはありがとう。」

「美しい歌詞だね。」

「情景が浮かぶようなね。」

「うん。」

いい歌だ。モリヤにも教えてあげたい。


「ほんとだ。」

お弁当を食べ終わって 湧井さんは辞書をひらいていた。

「五月雨は梅雨のことだって。」

「だろ?」

「あ!見て水本、これは知ってた? 五月雨が降ることを さみだるって言うんだって。」

「さみだる? 知らない。今年は長くさみだるなー、とか言うのかな。ハハハ。」

「ほら見て水本! みぞれが降ることは みぞれる、だって! そういえば しぐれる、とは言うよね。」

「なるほどー。しぐれるんだから さみだるかー。おもしろいね。お? オレたち、かしこの会話してない?」

「アハハ バカね水本。かしこは辞書なんか引かなくても こんなこと知ってるのよ。」

「ああ そっか。」

二人でひとしきり笑った。

楽しい昼休みだ。



じわじわと暑くなってきた。

5月なのに、もう暑い日がある。まだ梅雨入りはしていない。そんな日、ようやく待ちに待った雨到来。

午前中は曇っていたけれど 昼過ぎてからポツポツ降りだした。あたたかい雨が。


放課後、なんとモリヤの方から オレの教室に来た。

「今日来る?」

と聞きにきた。

「行く。」

と答えて、オレは湧井さんを見た。少しこわい顔をしている。オレは、湧井さんの顔を見て にっこり笑った。心配しなくても大丈夫だよ、という意味で。

湧井さんは笑い返さなかったけど ちょっと手をあげた。

オレはモリヤと連れだって校舎を出た。雨は 少し強くなっている。


「モリヤ 梅雨は好き?」

歩きながらオレは聞いた。きっと好きに違いないと思って。

だってモリヤの好きな雨が、モリヤの好きな夏の入り口でたくさん、たくさん降るのだ。そういう季節だ。

でも意外にもモリヤは 好きだと即答しなかった。

「もちろん キライではないけど。」

そんな答え方をした。

「けど、梅雨は少しとまどうね。」

とまどう?

「どうして? 調子が良くなりすぎて? おさえきれないにもほどがある感じになってしまう?」

アハハハとモリヤは笑った。雨の中に匂いがとける。いい匂いがオレたちを包む。

モリヤの言葉は 本当に予測できない。おもしろい。

「この前ね、湧井さんがステキな歌を教えてくれたよ。一度しか聞いてないから覚えられなかったけど…」

「どんな歌?」

「初恋だって。」

「ハツコイ‥‥」

「モリヤは知ってた? 五月雨と梅雨は同じだって。」

モリヤはにっこりした。知ってたのかな。

「初恋の歌詞が五月雨で始まるんだ。」

「へえ…」

「美しい歌詞でね。今度 湧井さんに書いてもらおう。モリヤにも教えてあげるね。」

モリヤは歩きながらオレをじっと見た。

「歌詞を見るより ぼくは歌が聞きたい。」

「そうか。そうだね。湧井さんにお願いしてみる?」

いいやとモリヤは首を振った。

「湧井さん、とても上手だよ。」

でもモリヤは、もう一度首を振った。

「いらない。ぼくは水本に歌ってほしいんだ。」

……なんでだろう。絶対湧井さんの方が上手なのに。声もキレイだし。

…… "だってほとんど人付き合いをしない人よ" と前に湧井さんがモリヤのことを言った。

そうだ。モリヤは人付き合いをしない。友だちもいないようだ。人がキライという感じでもないんだけど。

オレはモリヤの横顔を見ていた。

モリヤは前を向いて歩いていた。前を向いたまま ふふふと笑った。

「水本は、湧井サンが好きなんだね。」

「うん 好きだよ。」

オレはモリヤの横顔を見て にっこり言った。

モリヤはオレの方を見ず 前を向いたまま黙って歩いた。

少し、歩調が速くなった。オレも合わせて歩いた。黙ったまま。


一生懸命歩いていたら 少し暑くなってしまった。

森の家が見えてきた。雨は今や、どしゃ降っている。夜みたいに空が暗い。

「あ」

と言ってしまったら モリヤがオレを見た。

「どうかした?」

「あ、いや。モリヤの家に、一緒に来たのは初めてだなと思って。」

モリヤは雨の中 立ち止まってオレをじいっと見た。

「うん?」

あ‼ 違うか。一回勝手に付いてきて 雨宿りさせてもらった‥ あれは、でもやっぱり 一緒に来たとは言えないかな。

モリヤは けれど何も言わず、家に向かって再び歩き出した。

あ。今度は声には出さず 心で思う。モリヤの手もと。カギだ。カギがあるんだ。しぶめのカギだな。大きくて。

さすがに迷いもなく 鍵穴の見えないドアにカギをさして モリヤはカギを開けた。

扉を押す。

「どうぞ」

「おじゃまします。」

モリヤとオレの傘から 水滴がたくさんこぼれた。玄関を濡らす。扉を閉めると やはり真っ暗に。

でもモリヤは迷うことなく家にあがり 進んでいった。(ようだ。)

オレは玄関でじっとしていた。

モリヤが手拭いを持って戻ってきたことが分かったのは 手拭いをおしつけられたから。

見えないし 音もしない。

「モリヤ ありがとう。」

と手拭いを返そうとしたら ぐっと腕を掴まれてオレは驚いた。

「ぬれているね。」 

とモリヤは言った。拭いたつもりだったが。今日もどしゃ降りだったからな。そして服を渡してくれた。腕を掴んだのは、ぬれているかどうかの確認だったのか。なにしろ暗くて見えないから、いちいち驚いてしまう。それもおもしろいけど。

服を着替えたらやっぱりホッとした。少し汗をかいていた。汗と雨で湿度が高い。でも、この家の中の空気は、とても澄んでいるようにオレは思う。湿度が高いのもオレの辺りだけ。

「少し暑い?」

モリヤが聞いた。

「暑かったけど 着替えたし 大丈夫。」

と オレは答えた。

「のどがかわく?」

又モリヤが聞いた。

「いいや。」

そうか。水はたくさんあるな きっと。この家には。

何か飲んだ? と湧井さんに聞かれたっけ。オレはニヤニヤしてしまった。何か盛られた だって。毒を。盛られるって。ほんとに湧井さんておもしろい。そうか。むしろ 何か飲ませてもらって、何事もなければ その方が湧井さんと小川くんは安心するのかな。

でも別に今 水はいらないなあ。などと考えながら、オレはニヤニヤしていた。

「水本」

耳元ではなかったが、すぐ近くでモリヤの声がした。

「どうした?」

「え? 何が?」

「楽しそうだね。」

たのしそう?

「……モリヤ、オレの顔見えてるの?」

オレには何も見えない。

「見えてるよ。暗いのには慣れているから。」

そうか。もしかしてとは思ってたけど。すごいな。この暗さで表情まで見えるのか。ちょっと恥ずかしい。暗いから油断してた。

ん? あれ? 今、モリヤの匂いしないなあ。わりと近くで声がするのに。もしかしてもう離れたのかな。オレはモリヤのいると思われる方向に手を伸ばしてみた。けど 何もさわらない。

さわらないけど その方向からモリヤが香った。

「……何 してるの?」

そして声がした。その方向から。

「ああ、ハハ、この辺にモリヤいるのかなと思って。なにしろオレには何も見えないから。」

匂いがたつ。

「頼りは声と匂いだけ。」

オレは笑ってそう言った。いい匂いが流れてくる。モリヤの方から。見えない方が よけいに匂いが強く感じられる気がする。

それにしても 静かな家だなあ。雨の音しか聞こえない。けっこう降っている。ばしゃばしゃ音が聞こえている。でも他の音は何も聞こえない。電化製品もないから。ホラ何か電化製品の、ブーンっていうような音も聞こえない。車も通るような場所じゃないし。

そういえば

「モリヤとこって 水道は?」

さすがに水道はきてるか。水は大切だ。モリヤにとっても、とても。

「水道はきてないよ。」

「え⁉」

「井戸がある。」

「井戸⁉」

井戸か。なるほど。さすがとしか いいようがない。森の家だものね。考えてみれば おかしいこともない。

そうか 井戸か。井戸水を飲んでいるのか。

まだまだ発見がある。まだ知り合って1年弱。当然だな。まだまだ知らないことがある。楽しい。


おっと くつろいでしまってた。

「歌をうたう?」

とオレは聞いた。モリヤの家に来る。歌をうたう。この2つはモリヤのお願いだから かなえなくては。

「お願いします」

と モリヤは言った。

オレは歌った 雨の歌。


歌い終わったのでオレは座った。

一瞬しんとした。かすかにため息のような音が聞こえた。

「なんていう歌」

とモリヤがため息の続きのような声で言った。

「雨音はショパンの調べ。オレは雨の歌の中では、この歌が一番好き。」

風が立つように匂いが立った。

「でも この歌は、とっても間奏がいいんだ。ほんとにキレイ。モリヤに聞かせたいなあ。オレには間奏は歌えない。それはとても残念。」

「へえ…」

と 又ため息のように言う。と同時に匂いが押し寄せる。

「せめて楽器があつかえると良かったんだけど。オレはピアノもギターもひけないからなァ。モリヤ、何か楽器つかえる?」

「いいや。何も。」

「そうかァ。」

「──意味深な歌詞だね。」

いみしん? そうかな? 歌詞の意味を真剣に考えて選んだ歌ではない。単純に好き。旋律も間奏も雰囲気も。歌詞も好きだけど 意味深かなァ?

「けど 今日の雨音はショパンじゃないね。どしゃ降りすぎ。でもモリヤには心地いい? 心がしびれる? 調子、良すぎてる?」

「調子…ね」

今日も暗くて分からない。でも どうだろう。声のムードとか、しゃべり方とか、別に調子良すぎて休まなければどうにもならないって感じでもないよね。


「水本」

ふいに、ほんとうに耳のそばで声がした。驚いてビクッとなる。

「ん?」

「もう一度 歌ってくれない?」

「今の歌?」

「そう」

オレは立ち上がった。そして 多分モリヤのいる方向を向いて少し下がる。きっと触れそうな位置にいたから。

さっきは歌い終わってから香りが立ったんだったけど、今回はもう歌の途中から 波のように香りが押し寄せた。どんどん香りは濃くなっていく。歌い終わった時、体の中じゅうモリヤの香りでいっぱいになっている 気がした。

それは中毒っていうんじゃないの これはモリヤにオレが言ったセリフ。モリヤは違うと言った。水中毒ではないと。中毒はオレなのかもしれない。モリヤの香りが我慢できない。モリヤの香り中毒。いや、中毒っていうのは 害をなすものだ。モリヤの香りは害をなさない。じゃあ中毒とは言わないか。

でも少し。

香りが強すぎる気がする。

もう体の中いっぱいになっているのに いっそう密度をまして‥‥

モリヤは見えない。香りは強すぎて 方向も分からない。音は 雨の音だけ。どしゃ降りの‥‥



‥‥あれ?

オレはハッとした。まさかである。

床に‥‥。 ガバッと半身を起こした。

床に 寝ていた… 又⁉

少しドキドキして オレはまわりを見た。真っ暗だ。月光も星の光もない。何も見えない。いくぶんおさまった雨の音がする。それだけ。

「‥‥モ、モリヤ…?」

オレは半身を起こしたまま呼んでみた。

「うん」

オレの右手のほんのすぐ近くで声がした。そちらを振り向いたけど やっぱり見えない。思わずオレは手を出した。指先が多分モリヤに、触れた。

「モモ、モリヤ?」

オレは手をひっこめた。

「うん」

「オレ‥‥」

胸がドキドキいっている。どうして…

「オレ、寝た? いつ? なんで‥‥」

一人言のように言葉がこぼれた。信じられない。オレは眠くなんかなかった。失敗はしないと決めていた。それなのに なぜ。

「どうしよう。ごめん。‥‥又 9時になってしまった?」

「いいや。今日はそんなにたってないよ。」

「ほ、ほんとう‥?」

ドキドキは止まらない。どうしよう。又湧井さんを心配させてしまう。盛られたって? それはない。オレがどうかしてしまったのか。2回はありえない。

「な、何時だろう?」

「7時前ぐらいだと思う。」

オレは 体ごとモリヤの方を向いた。

「モリヤには オレが見えるんだよね? ずっと見えてたんだよね?」

「ああ。」

「オレ、どうなったの? いつ寝た? 2回目、歌い終わって…急に、ぐうって 寝てしまった?」

「……」

返事が、ない。

なんでかが分からない。なんか怖い。

「ぼくが怖い?」

モリヤが言った。

「え?」

「この家が怖い?」

「違う」

モリヤの声のする方をじっと見て言った。見えないけど。

「自分が怖い。どうなってるのか分からなくて。」

「……寝てはいけない?」

「…いや…けど、意思に反して寝てしまうのは…怖くない?」

「怖くない。」

こわくない?

「別に寝てもいいじゃないか。何がいけない?」

いけなくない?

そうか? そうなのか? なんか分からなくなってきた。

「どうしてか 睡魔がきたんだろう。なら寝ればいい。屋根に登ってるわけでも、泳いでる途中でも、ないんだから。危なくないよ。」

「…そ、それは、そう…だけど‥‥」

「一人で外にいるわけでもない。家の中だよ。」

「う… うん…」

ドキドキして オレは汗をかいていた。

「水、飲む?」

と言って モリヤがオレにコップを渡してくれた。

いつの間に水を…。でも やけにのどが渇いていた。オレは ありがとうと受け取って 水を飲んだ。見えない液体。一気に飲み干した。

「おいしい水だね。」

ほんとうにおいしい。

「それは良かった。」

水を飲んで ドキドキがおさまってきた。少し 落ち着いた。ほんとにびっくりしてしまった。

「水本」

又、耳元で声。もうドッキリしなかった。慣れてきたんだ、きっと。オレも学習している。

「もう 来てくれない?」

耳元で 小さい声でモリヤが言う。オレは目を見ひらいて声を振り向いた。

「来てはいけない?」

見えないモリヤに問う。見えないモリヤが、笑う気配がした。

「来てほしいから聞いてるんだけど。」

「オレ… でもオレ、もう 絶対寝ないって言えない。自信がない」

「だから」

モリヤが肩に触れた。そうして、うんと耳元で囁く。

「寝てもいいって 言ってるじゃないか。水本は、何も悪くないんだ。」

なんだか動けなかった。まるで肩に触れたモリヤの指先から 香りが流れ出てくるよう。蛇口をひねったみたいに。

「来て、くれる?」

モリヤの声が耳に触れる。動けなくてうなずけない。オレは口だけ動かして「うん」と言った。

モリヤの手が離れた。移動したかな。それでもオレはしばらく動けず、ただただ、じっとしていた。


間もなく梅雨が来る。オレ、大丈夫かな、と思った。

大丈夫? 何が?

なんだろう心が、とても乱れている。

これは どういう感情なんだろう。

「次も歌、うたってくれる?」

ものすごくホッとした。モリヤの声が遠い。

「もちろん」

とオレは言った。ため息が出てしまった。何? この緊張‥‥

「次は何の歌がいい?」

何かしゃべらなくては。オレは夢中で口をひらいた。

「そうだなあ…」

とモリヤが考えて黙る。

「梅雨だね。きっと次は梅雨の日だよね。じゃあやっぱり雨の歌にする?それとも、それとも逆にお日さまが出てくる歌とか、それか…」

「水本」

ひっ と息が出てしまった。又耳元で声が…。あれ? さっき慣れたと思わなかったか? 学習しているって、ついさっき…。

「水本」

少し声が離れた。オレは下を向いた。なんだろう 手が震える。

「ぼくがこわい?」

モリヤが、又言った。少し遠くで。

「いいや。」

とオレは答える。

「怖くないよ。…びっくりする時はあるけど。びっくりするのと 怖いのとは、違うよね?」

「似てるけどね。」

笑ってるような声が、少し遠くから聞こえた。

「では次は 虹で。いい?」

「うん。虹の歌ね。」

オレはホッとしている。声が遠くて。

虹の歌…。そういえば 初めてモリヤの家に入れてもらった日、モリヤの家の上に虹がかかっていた。とても 幸せな予感がしたっけ。

ザアッと雨音が聞こえた。そうか。まだ雨が降っているんだ。

雨が。

真っ暗闇の中 雨音だけがしている。オレは床に座った状態でじっとしている。

モリヤはどこ?

香りは部屋に漂っている。薄く 充満している。部屋中がきっと、モリヤの匂い。

どこにいるのか分からない。

じっとしていると 黙っていると 又ドキドキとしてきてしまった。

なんだこれは。

虹の歌で とモリヤの声が聞こえた方向をオレは見た。そして座ったまま 少し後ずさった。

「この前来た時」

オレはハッとして動きを止めた。オレが向いていた方向からモリヤの声は、した。移動していない。さっきの場所にまだいるようだ。

「水本は この家は落ち着くと言ったよね。」

確かに。あの時は…。

「今はとても落ち着かなく見えるけど。」

「‥‥‥」

確かに。とても。これは落ち着いているとは言えない。とてもドキドキしてしまっている。静かな、雨音しか聞こえないこの家では 心臓のドキドキが聞こえてしまいそう…。呼吸も少し激しい気がする。なんだこれは…。

息の音がもれてしまう。心臓の音が聞こえてしまう。オレの動揺を モリヤに見られてしまう。

雨はやまない。

あんなに降ってほしいと願った雨が、今、とても降っている。

降ってほしいと願った。だから 降ってくれて 嬉しいはず。オレの今の感情は、"嬉しい"のはず。

「雨が やまないね…」

ポツンとモリヤが言った。声の位置はそのまま。

「うん…」

雨は自然現象。降り続くかもしれないし やむかもしれない。

サーサーと音がしている。

この雨音は、さっきよりはショパンに近いのか?

オレの頭の中で、"雨音はショパンの調べ" が流れる。

「いよいよ今日はやまないのかもね。」

又モリヤが言った。

いよいよ 今日は やまない

オレはゆっくり反芻した。………どういう意味だ?

「雨がやんだら、水本は帰るんだろう?」

「うん…」

そうだよな。いつもそう。雨がやんだら モリヤの家から帰る。

帰れてしまうよ、とモリヤが言ったことがある。そう。やんだら帰る。

やんだら、帰る。 では、やまなかったら?

動揺が去ってくれない。また少し、オレは後ずさった。全て、モリヤには見えている。

どうにか動揺を止めなければ。

「この前」

オレはしゃべることにした。会話をしていれば モリヤの位置がつかめる。オレの気持ちも多分落ち着く。

「この前ここへ来て 帰る時、月が出ていたよ。」

「‥‥うん。」

「気付いてた?」

「ああ。窓から月光が入ってきていたから。」

「うん、そうだったね。もっともオレは外へ出るまで 月光か星の光か分かってなかったけど。」

「あの日は 満月だったね。」

「そう。雨があがったから 見ることができた。大きな真ん丸なお月様。」

「そうだね。雨があがったからね。」

「……」

しまった 黙ってしまった。会話、会話。

「お月様がね」

「うん?」

と言うモリヤの声が笑ったような気がした。

「どうかした?」

「いや、水本は月のことを お月様と言うんだね。さっき太陽のことも お日さまと言った。」

「え…」

そうだったか?

「月、て言う時もある、と思う。」

「知ってる。」

「え?」

「うん、ごめん。で、お月様がどうした?」

「あ、えーと お月…月が丸くて、ホットケーキみたいだと思ったんだ。」

くす、と モリヤが笑った。

「へえ。水本は月を見てそんなことを思うんだ。」

おかしいかな?

「うん。美味しそうと思った。」

くう、と音がした。又だ。食べ物のことを考えると お腹がなる。

「今 お腹がなったの?」

驚いたようにモリヤが言った。

「うん。食べ物のことを考えると すぐお腹がなる。ハハハ。この前もお月様を見て お腹がなったよ。」

「ああ! そうか‼」

モリヤが 狼狽したような声になった。オレは驚いた。

「そうか、ごめん。そうだね。お腹がすいたろう。もう夜だ。ごめん、気付かなかった」

とてもすまなそうな、慌てた様子でモリヤが言った。

「ああ、いや、そんなにへってるわけでもないんだ。」

ほんとうだった。緊張感で胸がいっぱいだったし、それに モリヤの匂いが充満していて、お腹がすいた気がしなかった。

「何か 食べないとね…水本」

「うん?」

「うちには一般的な食べ物がないんだけど」

「うん」

そんな気はする。でも、じゃあモリヤは、何を食べているんだろう?

「水本は野菜は食べられる?」

「食べれるよ。」

なるほど それはイメージ通り。そしてここには火の気がない。

「サラダみたいの?」

と聞くと

「生でもいける?」

とモリヤが言った。

「うん。」

とオレは答えた。あ、食事を出してくれるのか?

「少し待っていておくれね。」

とモリヤが言った。

しんとした後、家の奥の方でかすかな物音がした。

オレはとてもホッとしていた。会話をして緊張がほぐれた。食べ物の話をして、もっと楽になった。

食事を出してもらおうとは 考えてもいなかったけど。

モリヤはベジタリアンなのかな。そういえば モリヤが物を食べているところを見たことがない。生野菜だけ、ということは さすがにないんじゃないかと思うけど…。

「ごめんな」

と すぐ近くで急に声がした。又驚いてしまった。

「ぼくは自分がこんなだから気がつかなかった。悪かったね。」

「いや、ほんとうにお腹すいてなかったよ。こちらこそ気を使わせてしまってごめん。」

「用意してみたが 口に合うかどうか きわめて自信がないよ。」

「何か用意してくれたんだ? ありがとう。」

と言ったものの 全く見えない。

「よかったら オレの手に…乗せてくれるとありがたいのだけど…。見えないので」

そう言ってオレは、両手を皿のように差し出した。生野菜をそのまま乗せてもらう感じ? しょうがないものな。

でもモリヤは言った。

「そんなことをしたら 手が汚れるよ。」

ああ、何か かかっているのかな。ドレッシング的なものが。でも‥‥

「箸を使うわけにも… 何しろ見えない。」

オレは困った顔をしていたと思う。せっかく用意してくれたのに、見えなくては食べられない。

「口に入れてあげるよ。」

「えっ⁉」

今度狼狽するのはオレの方だった。

「いや、いやいやいや…そんなことは! あの 汚れてもいいので…皿を渡してくれたら、オレ、手づかみで…」

「水本」

目の前で声がする。逆にモリヤは落ち着いている声。

「口を開けて」

しまった。つい黙ってしまった。でも口を開けたりできない。汗が出てきた。

頬にモリヤの手が触れた。

「あ」

と言ってしまった口に 冷たいものがあたる。オレは観念してそれを口に入れた。

なんだろうこれは。見えないと味も分かりにくい。葉っぱだけど 何の葉っぱか分からない。レタスでもないようだし。少し香りがする。もちろんドレッシングみたいなものも、かかっているようだ。何か爽やかな味が… ごくんと飲み込んだ。

「口の中 なくなった?」

「うん…」

「ではもう一度」

とんでもないことになってしまった。オレはあかちゃんか。

恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。

同じ作業が繰り返され、何度も繰り返され、ようやくモリヤが

「これで終わり」

と言った。

「こんなものでは足りないとは思うけど…」

と。とんでもない。ドキドキして胸がいっぱいだ。ほぼムリヤリ食べたんだ。

「ご、ごちそう様でした。」

やっとのこと オレはそれだけ言った。

「ほんとうにお粗末さま。」

そう言うモリヤの声は、なんだか嬉しそうに聞こえた。

せっかく、せっかくやっと少し落ち着いたのに。緊張がほぐれていたのに。

さっき以上に心臓の音が大きくなっていた。胸が苦しいほどに。

しんとしている。ドキンドキンとオレには聞こえる。

モリヤは皿を片付けにいったのか?

もう何も分からない。

ふいに口元に何か当たった。オレは おもいっきり後ろに頭を引いた。

目から火が出た。火花が散ったと思った。すぐ後ろに壁があったのだ。オレは後ずさって壁際まで来てしまっていたんだ。それで勢いよく頭を後ろに引いたもんだから、おもいっきり後頭部を壁に打ち付けた。ゴン‼ という音がした。

「水本‼」

モリヤが慌てて 後ろ頭に手をやった。

「大丈夫⁉」

だいぶ痛い。

「ごめん こんな驚くと思わなかったから。ちょっとじっとして。」

言ってモリヤはオレの後頭部に手をやったまま また口元に何か…

「ああ…」

口を拭いてくれたんだ。さっき食べた時に汚れてしまっていたらしい。言ってから拭いてよ、と心から思った。というか 拭いてくれなくてもいいよ。拭くものを貸してくれたら自分でやるから。

びっくりするのとこわいのは似てるって さっきモリヤが言ったな。ほんとだ。似てる。こわすぎる。モリヤの手が離れて、又しんとした。

「水本」

目の前で声がした。

「たんこぶできたら困る。冷やしとこう。」

そう言って 頭にひんやりしたものを当ててくれる。

「ああ、ありがとう。大丈夫。」

オレは自分で そのひんやりしたものを持った。

ひんやり。

良かった。"さます"っていうものな。少し落ち着いた。少しドキドキしすぎた。冷たいものを触っていると気分がすーっとしてきた。

「まだ痛い?」

顔のすぐ前でモリヤの心配そうな声。

オレは目を閉じた。大丈夫 驚かない とびのかない。

「もう痛くない。」

とオレは言った。

「水本の後ろ、すぐ壁だよ。」

「うん。そうだったんだね。」

「もたれるといい。」

「なるほど。」

発想がなかった。オォ 楽だ。緊張も弛む。

「モリヤも もたれたら?」

「そうしよう。」

‥‥どっちだ? 隣に来てるはず。右かな 左かな。

「モリヤ?」

「うん?」

左だ。オレはホッとした。居場所が分かるといくぶん気が楽だ。

「水本、歌の話してもいい?」

「歌の話とは?」

いいよ いいよ なんでもいいよ。会話していよう。雨がやむまで。

「この前うたってくれた歌、水本は2番の歌詞が好きだって言ったよね。」

「ああ、うん。言った。」

並んで壁にもたれている。モリヤは前を向いてしゃべっている。それが分かる。ありがたい。

「どういうところが?」

「うーんとね、」

オレは心の中で歌ってみた。

「キレイな色の情景が目の前に浮かぶところと、言葉のリズムというか ごろというか 言い回しっていうか 旋律との絡みっていうか …そういうとこ。」

「ふう─────ん‥‥‥」

ながーく モリヤはうなずいた。ふう~っと香りが舞い上がる。

「歌おうか?」

「えっ」

1回しか歌ってないもの。覚えてもいないだろうと思うのだ。オレだって湧井さんに"初恋"歌ってもらったけど歌詞の断片しか覚えていない。

「歌ってくれるの?」

モリヤ、こっち向いてるな。分かる。安心。

「いいよ。2番だけ?」

「全部。」

座ったまま歌った。前を向いて。

なんだか モリヤの香りの濃さが旋律になっているように思えた。香りの濃度が曲に合わせて揺れる。

歌い終わると モリヤは長いため息をついた。同時にさらに香りが強まる。

「いいね、やっぱり。」

と言った。

「モリヤはホントに歌が好きなんだなあ。好きな歌の趣味も合って良かった。」

モリヤは返事しなかった。でも 香りが風になって押し寄せた。立ち上がったのかと思った。でも分からない。月光も星の光もささない。まだ雨は降っているんだろうか。暗闇がずっと続いている。

「こんなに歌が好きなのに モリヤは歌わないの?」

「‥‥歌を知らないからね。」

あ、座ってた。顔の隣から声がする。

「小中で習ったよね。」

「歌わない。」

ふーん…。なんでだろ。

「じゃあ オレが来た時だけ、この家めちゃめちゃうるさいね。歌うわ しゃべるわ 壁に頭ぶつけるわ。」

はははとオレは笑った。モリヤの家を、一人で何年分もやかましくしてる。きっと。

ドッ と音がした気がした。雨?

直後 モリヤの香りが押し寄せた。よけなきゃと思うほど───


ぐっと、手を握られた。

はっとした。びっくりしてモリヤの方を見た。もちろん見えない。力が、思いの外強い。

「…モリヤ?」

もう一度 ぎゅっと力がこもった。痛い。

「…大丈夫?」

モリヤの声。

大丈夫? 何が?

「モリヤ…少し、痛い…」

それでもしばらく力をこめたままだったけど ふっと力が抜けた。

「大丈夫?」

もう一度モリヤが言った。何が? 手?

「大丈夫…だよ?」

モリヤの手が離れた。

しばらくして

「そう。良かった」

と聞こえたのは だいぶ離れたどころからだった。続けて、

「いよいよかと思ったんだけどね。」

いよいよ?

「雨が、やみそうだよ。」

モリヤが言った。

「ほんとう?」

「もうだいぶん小降り。」

「そう…。」

少し、ホッとしてしまった。帰れずに この家に居続ける自信がない。心臓がこわれてしまいそう。驚くことが多すぎる。ドキドキすることが多すぎる。

「良かった?」

とモリヤが言った。

「何が?」

今日あったいろんなことが ドッ っと心に押し寄せた。

良かった? 何が? どれが?

「雨がやんで。」

「え?」

「良かったかも、ね。」

オレが答える前にモリヤが言った。

「今日は少し楽しすぎ。これ以上はもったいない。」

楽しすぎ? もったいない?

「楽しかったの? モリヤ? そんなに?」

「不安になるほどね。」

「? 楽しかったら不安になるの? どうして?」

「今まで知らなかったから。知ってしまうと もう引き返せないだろう?」

「何を知ってしまうと?」

「───こんなに楽しいことをね。」

そんなに楽しかった? 今日? どれが? 何が??

「楽しみは残しておきたい。次も来てくれるんだろう?」

「──来るよ。虹の歌をうたいに。」

虹の歌、探しておかなきゃ。パッとは思いつかない。

けど、ふ~ん… そんなに楽しかったんだ‥‥?

よく、分からない。オレは… 楽しかったというより‥‥

「水本」

ひっ と又、息がもれるほど驚いてしまった。

さっき向こうの方にいたじゃないか。どうして耳元で声が…

だいたい、

だいたいどうして こんなに近づくのか…? そうだよ なんで?

オレは、楽しいなんて思う余裕はなかった。全くなかった。ずっとドキドキしてた。

名前を呼んだきり 何も言わない。すぐ横にいるのか? 分からない。又ドキドキが。

オレは耐えれなくなった。

「何⁉」

「ん?」

やっぱり横にいる。耳元に。

ん、じゃない。さっき名前を呼んだじゃないか。

「何、を言おうとしたの?」

オレは前を向いたまま いくぶん激しめに言ってしまう。

「うん? 何を?」

「な、名前を、呼んだよね⁉」

「ん、ああ。呼んだね。」

「何?」

目が熱くなってくる気がした。オレ、何をこんなに興奮してしまっているんだろう。

反対に、モリヤの声はとても冷静だった。

「なんでもないよ。」

なんでもない⁉ オレは両手で目を、閉じた目を押さえた。興奮が目もとにきた気がして。

「どうした 水本?」

耳元に とても冷静な声。どうもこうも。

声が大きくなってしまいそうで オレは返事ができなかった。目を押さえたまま。

「‥‥‥泣いてるの?」

「泣いてない‼」

手を離して オレはモリヤの方を向いた。

大きな声を出してしまった。

「…泣いてないよ。大きい声出た ごめん。」

「‥‥‥」

泣くわけないのに。なんでそんなこと聞くんだろう。

「泣いてもいいのに。」

は? モリヤ、何言ってんの。オレは見えないモリヤの方を、じっと見ていた。

「…泣かない。理由もないのに。」

「ふうん。」

オレはもう一度 目を押さえた。ふうんて何? 理由もないのに泣かないのは当たり前。ふうんて言うとこじゃないよ。

「じゃあ 理由があったら泣くの?」

「そりゃ…泣くようなことがあれば…」

変なとこに食いついてくるなぁ、と思った。それも当たり前と思うけど。理由があれば泣くし なければ泣かない。

「例えば?」

泣く理由?

「‥‥‥さあ… 急に思いつかないけど‥‥」

「じゃあ 一番最近 泣いた理由は何?」

一番最近泣いた理由? 一番最近… いつ泣いたろう。そんな 泣くことなんてない。高校生にもなって。映画観た時、少し涙出たかな。どのシーンとかも覚えてはいないけど。

「‥‥‥なんで そんなこと聞くの」

「水本はどんなことで泣くのか知りたいから。」

「なんでそんなこと知りたいの?」

ふふふとモリヤが笑った。

なんで 笑うの?

「さて そろそろ雨がやんだんじゃないかな。」

モリヤの声が、移動していく。きっと窓辺に向かってるんだ。

良かった。雨がやんで。

と思ってしまった。さっきモリヤに聞かれた。「良かった?」って。「雨がやんで」って。「良かったかもね」ってモリヤは言った。


「雨がやんだら 水本は帰るんだろう?」

モリヤの声は だいぶん離れた。多分窓辺に立っている。今日2度目の同じ問い。

「うん」

オレの返事も同じ。

「そう。やんだよ。」

「そうか。」

オレは立ち上がった。

雨がやんでも 今日は何も見えない。雨はやんでも雲が厚いのだろう。月光も星の光も何もない。

「服を借りて帰るね。」

とオレは言った。

「ああ。」

「この前借りたのは明日学校に…いや、次回来る時に持ってくる。それで困らない?」

「困らない。」

「…ごめんモリヤ、制服を渡してくれる?」

見えないので自分でとれない。モリヤは制服を渡してくれた。まだ少し湿っている。

「今日は月も星もない。──送ろうか。」

モリヤがオレの背中を押して 多分扉の方へ誘導してくれながらそう言った。

「一人で帰れる。」

とオレは言った。モリヤは扉を開けた。

「とても暗いよ。」

でも家の中と違って 真の闇ではない。確かに足元は見えにくいが、全体にはうすぼんやりと見える。

「大丈夫。子どもじゃないんだから。」

あかちゃんみたいに食べさせてもらったことが 応えていた。帰るぐらい一人で帰れる。

「では気を付けて。今日はありがとう。」

「こちらこそ。明日は学校来る?」

「行くよ。」

「そう。では明日学校で。」

「うん。又明日。」

又 お礼を言われてしまった。お礼を言われることなんて、オレは何もしていない。

ホントに今日は暗い。足元が危うい。少し歩いて オレは森の家を振り向く。暗く、森の家は闇に沈んで ほとんど見えない。


「いよいよ今日はやまないのかもね。」

モリヤの言葉がよみがえった。

「雨がやんだら水本は帰るんだろう。」

とは2度言った。

「いよいよかと思ったんだけどね。」

‥‥‥今日は帰らないかと思った、という意味なのか? いよいよ‥‥‥ おっ

考えながら歩いていたら ころんでしまった。手をついたけど したたか右膝を打った。服がびしょ濡れになってしまった。あああ。高校生にもなって…。情けない と思ったけど、ちょっと笑ってしまった。

良かった。モリヤには見られていない。なら、恥ずかしくない。ああ 良かった。

ころんだこと モリヤには内緒にしておこう。

秘密だ。なんか嬉しい。家の中では全部見られていたからな。一方的に。1つぐらい秘密があってもいいのだ。ふふふ。



「盛られてるじゃない!」

次の日、「どうだった、寝てしまわなかった?」と湧井さんに聞かれたオレは、正直に報告していた。すると湧井さんは 恐い顔をして言ったのだ。

「盛られてないよ。湧井さん、オレの話聞いてた?」

「聞いてたから言ってるのよ。」

「だって盛られてない。寝てしまう前、何もオレは口にしてないよ。」

「知らないの水本? お香という手もあるのよ。」

オレは 湧井さんの顔を見てニヤッとしてしまった。

「笑ってる場合じゃないわ。」

「だってドラマみたいなことを言うんだもの。お香なんかたいてないよ。」

「どうして分かるのよ。」

「お香の匂い、分かると思うけど…」

「モリヤの家には 何の匂いもしなかったと?」

「‥‥‥」

「ホラ、してたんでしょ。」

「お香の匂いじゃないよ、多分。あれは モリヤの匂い。」

「水本」

湧井さんは気持ちを落ち着けるように大きく息をした。

「おかしいのよ。分かるでしょ? 眠くもないのに寝てしまうなんて。それも2度目よ?」

「‥‥それは オレも…驚いたけど」

オレは湧井さんをじっと見て言った。

「でも寝てしまったのはオレのせいだ。モリヤは何もしていない。」

「だから何もされてなければ 寝るわけないでしょう。」

湧井さんもオレをじっと見て言う。

「たしかにオレは 自分がちょっと怖くなったけど、でもモリヤが寝てもいいって… 悪いことじゃないんだからって。」

「自分が眠らせたからよ。」

「違うよ。」

オレはちょっと笑った。

「だって じゃあなんで モリヤがオレを眠らせないといけないの? 何のメリットもないよ。」

「本気で言ってるの」

湧井さんは全然笑わない。むしろ恐い顔。本気も何も。

「せっかく家によんだのに 勝手に寝られてはむしろ迷惑だよ。」

お互い少し黙った。それから湧井さんが言った。

「じゃあ聞くけど。水本は、もし私が水本の立場だったら それでも盛られたと思わないの? 私が モリヤの家で 2度もいきなり眠ってしまったとしても?」

すごい例えを出してきた。湧井さんが? モリヤの家に行って。歌をうたって 真っ暗な家で寝てしまう。

「それは 盛られてるね。」

オレは笑った。

「ほら‼」

湧井さんは笑わなかった。

「でしょう? そう思うでしょう? 同じことよ。」

「同じじゃないよ。」

オレはやっぱり笑って言った。

「湧井さんが 人んちで勝手に寝るなんて ありえないもの。それに 湧井さんを眠らせるメリットはある。美しい寝顔を見たいとかさ。でもオレを眠らせても メリットはカイム。おまけにぼんやりだから 人んちで寝てしまうことも まあ、ありえないとも言い切れない…と思えてきたし。」

「バカ‼」

一生懸命 怒ってくれてる。そんな湧井さんを見てオレは、かわいいと思ってしまう。ものすごく怒られるだろうから 口には出さないけど。


昼休みに 小川くんがやってきた。

「ウワサもついにここまできてしまったぞ。」

オレたちはお弁当を食べていた。オレはごきげん。湧井さんはちょっと不機嫌。

その様子に気付いて 小川くんが「あれ」と言った。

「どうかしたか? 水本、何かしたのか?」

「ううん。オレ何もしてない。ウワサってモリヤの?」

「そう。モリヤがおちたって。」

「落ちた⁉ 何? もしかして追試とか? こないだの中間の…」

「テストの話じゃない。モリヤがついに水本におちたって。」

「オレ? オレに落ちた…って何?」

「水本がモリヤに惚れてるっていうのは 全校的なウワサだろ。」

「全校的? まさか!」

「いやいや。少なくとも2年は全員知ってるさ。で、今までは 水本が一方的にホレてる、だったんだ。モリヤは相手にしていないと。」

「うん。結局ウワサを否定しなかったからね。」

「それがついにモリヤが水本におちたと。」

「なんで? あ‼ オレがモリヤの家に遊びに行ったから?」

「それもあるが、それより何より モリヤが色っぽくなったと。」

はあ?

「何それ? 色っぽい? モリヤが?」

「そう。今日来た時から。朝からムードが違うと。」

なんだそれ。

「小川くんもそう思ったの?」

「うーん、色っぽいというのかどうか。でも確かにいつもと少し、違う気はした。」

「見てこようかな」

ものすごく興味を引かれてオレが立ち上がると、小川くんが肩を押して座らせた。

「やめとけ。えらいことになる。」

「えらいこと?」

「ウワサの詳細はこうだ。水本がモリヤにせまりまくった挙げ句、モリヤの純潔を奪った。モリヤはそれで目覚めて すっかり水本におちてしまった、と。」

「なんですって⁉」

それまで黙っていた湧井さんが 突然言った。

「なんてでたらめなの!水本がそんなことするわけないじゃない‼」

まあまあ、と小川くんは湧井さんをなだめた。

「ウワサだから。それに今回のは特に、みんなおもしろがってるだけだよ。誰も本気でそんなこと思っちゃいない。でもおもしろがってるから。今水本がモリヤに会いに行ったら 何言われるか分からんぞ。」

「ああ いやだ! モリヤは否定しないの⁉」

湧井さんは小川くんに、怒ったように言う。

「モリヤは笑ってるよ。否定しない。その笑い方が又 色っぽいんだと。」

「ばかばかしい‼」

湧井さんは完全に怒っている。

変なウワサがたったもんだ。いくらウワサの人とはいえ。

オレは "モリヤが毒を盛った" みたいなウワサの方が好きだな。笑えるし。


"色っぽいモリヤ"っていうのを、スゴく見たかったんだけど、小川くんはやめとけって言うし 湧井さんは恐い顔してるしで オレは見に行くことができなかった。

でも次の日、体育があったので 着替えの教室が同じになった。

今日は小川くんも何も言わなかった。やめとけとは言えないよな。授業だもの。

男子の更衣は隣の、モリヤと小川くんの教室だった。オレが入ると まわりがみんな寄ってきてひやかしてきたけれど、オレはそんなことはどうでもよくて、最大の関心は "色っぽいモリヤ"。モリヤに近付いていって顔を見る。

「やあ。」

と 全くいつもと同じあいさつを、モリヤはした。

「おはよう」

と オレは返して そしてじろじろとモリヤを見た。ギャーギャー言っている周りの雑音は、さして気にならない。モリヤは にっこりして

「何?」

と言う。オレはモリヤから目を離さずに

「変なウワサが出ているね。平気?」

「どのウワサ? 水本に押し倒されたってやつ?」

オレは目を見ひらいた。純潔を奪った、とは少し詩的だが 押し倒されたとは情緒がない。

けど‥‥‥。

モリヤ、色っぽいか? オレは目をこらした。いつもと何か違う? ‥‥分からない。同じに思えるけど…。

「‥‥あれ?」

オレはモリヤを凝視した。ほんのり香ってくる匂いが、いつもと違う… オレは思わず一歩前に出て、モリヤの肩の辺りに顔を近付けた。もちろん 触れたりしていないけど まわりが盛大に歓声を上げた。モリヤはふふふと笑った。

「だいたんだね。」

と笑って言った。

だいたん? ────匂いが違う。どうして?

オレは自分の制服の上着を脱いで顔を付けた。おとといモリヤの家から戻った時、やっぱりお香を焚き染めたように 制服はモリヤの匂いがしみついていたのだ。今日もまだ少し香る。

あきらかに、違う。オレはモリヤを見た。

「モリヤ、にお…」

オレが口を開きかけたら モリヤがかぶせるように言った。

「早く着替えないと 体育の授業に遅れるよ。」


体育の授業から戻って オレはボンヤリしていた。

戻ってきた湧井さんがオレを見て

「モリヤが色っぽかったの?」

と真面目な顔で聞いた。

「ううん。オレには分かんなかった。」

ぼんやりオレが答えると、湧井さんはオレの隣に座って言った。

「モリヤに何かされた? それとも男どもに何か言われた?」

オレは湧井さんを見て ちょっと笑った。男どもだって。

モリヤに何か? 何かってなんだろう。ちょっと気になる。でもオレは、笑顔で湧井さんに答えた。

「なんでもないよ。」

しかし。と、言いつつオレは 放課後モリヤを誘いに行った。一緒に帰ろうと。教室に行ったら またしても大盛り上がり。オレはちょっと笑ってしまった。みんなバカだな。モリヤがおとなしく押し倒されるわけないじゃないか。まあ おもしろけりゃ なんだっていいんだろうけど。

けど おもしろいのかな?

「合わせ技でおもしろいんじゃないの」

と モリヤが言った。

ひとしきりの大騒ぎをくぐり抜け、オレとモリヤは学校を後にしていた。

「合わせ技って何?」

「今までのぼくのウワサ。押し倒されただけじゃおもしろくないけど、血も出ない変温動物で 冬眠までしちゃう 半陰陽のモリヤが 水本にホレられた挙げ句 押し倒されて めざめてしまったってさ。」

「う」

オレは返事できなかった。半陰陽のウワサまで知ってたのか モリヤは。

「そのウワサ、いやじゃない? もしモリヤがいやなんだったら オレが全力で消すよ?」

モリヤは オレの方を見て にっこりと笑った。

「前にも言ったけど ぼくはどうでもいいんだ。ウワサはウワサだから。」

「そうか…」

「もちろん水本がいやなんなら 消してくれて問題ないよ。水本はイヤなの?」

オレは前を向いて歩きながら

「オレがモリヤを押し倒して モリヤがおちた…。ほんと 誰が言い出すんだろう。すごいよね。オレは モリヤがいいんなら別にかまわない。真実味がなさすぎてバカバカしいけど。」

「真実味、ない?」

オレはモリヤを振り向いた。

「あるもんか。モリヤがオレなんかに押し倒されるわけがない。ぎゃ…」

「ぎゃ?」

「…いや。なんでもない。」

危ない。"ぎゃくならまだしも"って言いかけてしまった。逆? モリヤがオレを それもあり得ないって! 良かった 口から出てしまわないで。

いやいや そんなことより

「モリヤ」

「何」

「どうして匂いが違うの?」

モリヤはオレを振り向かずに歩いていく。そして

「匂いが違う?」

「違う。いつものモリヤの匂いじゃない。どうして?」

モリヤは振り向かない。

「モリヤ」

「水本は」

モリヤが振り向かずに言った。

「この匂いはキライ?」

「え?」

モリヤは振り向かず 立ち止まらず 歩いていく。オレも追いかけるみたいに歩いていく。

「…どうして匂いが違うか聞いてるんだけど」

「違うといけないの?」

全然答えてくれない。はぐらかしてるのだろうか。

モリヤがどんどん早足で進むから、森の家が見えてきてしまった。

ふいにモリヤが立ち止まる。くるりとオレを振り向いた。オレは息があがっていた。

「放出しすぎた みたいなこと。」

「は?」

ほうしゅつ?

「何? 放出って…なにを?」

「楽しすぎたので フルでいってしまった。」

‥‥‥何言ってるのか 全然分からない。

「家、来る?」

「‥‥‥」

「ああ、ダメダメ。雨の日にね。」

「‥‥モリヤ」

モリヤは 笑ってオレを見てる。

「水本は かわってる。」

笑ってそう言った。

「何が?」

「他のみんなは こっちの匂いの方が良いようだよ。」

モリヤが ツとオレに寄った。ふあっと匂いがたった。いつもと違う匂い。

「オレもキライではないよ。」

「イヤそうだよ。」

「いやじゃない ただオレは」

「うん?」

「あっちの匂いが好きだから…」

ふふふとモリヤが笑った。嬉しそうに。

「だから水本はかわってる。」

「あ!」

オレは ふっと思いついて言った。

「もしかしてモリヤんち、誰か来てるの?」

「どうして?」

「残り香とか…?」

ぶっとモリヤがふきだした。え? ふきだすようなことか?

「残り香がぼくに移ったって? 水本もすごいこと考えるね。」

すごいか??

「あの家には」

すっと笑いをおさめてモリヤが真面目に言った。

「水本以外入れたことはない。」

…そうなの?

「水本」

モリヤがオレの名をよぶ。

今日は暗くない。顔が見えるモリヤの口から声が出る。だから何も不安はない。こわくないし ドキドキしない。

「何?」

落ち着いて返事できる。

「まもなく梅雨入りするって。」

「‥‥そうか。」

梅雨入りか。しょっちゅう、さみだるわけだな。そして さみだる時オレは───

「モリヤはとまどうの?」

モリヤは 梅雨は少しとまどうと言っていた。

「とまどうね。梅雨入りするって聞いて、水本に "梅雨が好きか"と聞かれたあの時よりも もっととまどう気がしている。」

「どうしてとまどうの?」

「調子が良すぎてね。」

「‥‥‥」

やっぱり雨は、モリヤの調子を良くするらしい。

雨の日に オレはモリヤの家に行ったけど、そうして二人で過ごしたけれど、調子が良いということが、休むほどに調子が良いということが、どういう状態をいうのか 全く分かっていなかった。もしかして…

もしかして 調子が良くなると色っぽくなるとか。

今日は雨ではないけれど、きのうはたくさん降った。今日は来たけど、モリヤは雨の次の日もよく休む。そうなのかな。オレは、暗いところで一緒にいたので それに気付かなかったんだろうか‥‥‥

「水本 何考えてるの?」

オレはハッとして顔を上げた。モリヤがオレを見て笑っている。色っぽい? いつもと同じと思うなあ…

「戻るよ。」

とモリヤが言った。

「ん? どこへ? 学校?」

忘れ物したのかと思った。でも違った。

「匂いは元に戻るよ。」

「え‼」

オレは驚いてモリヤを見つめた。

「ほんと? 匂い、戻るの⁉」

「うん そのうちにね。」

「そうか…」

ホッとした。良かった。心から嬉しい。ずっとこのままだったら どうしようかと思った。

「嬉しいの?」

「嬉しいよ。」

モリヤは笑った。

「水本は、かわってる」

噛みしめるように そう言った。そうかなあ?

「初恋」

「え?」

「初恋の歌詞を、湧井サンに聞いた?」

「うん。きのう湧井さんがCDにやいてきてくれた。やっぱりとても きれいな歌。」

「覚えた?」

「んー まだ。」

「覚える?」

「モリヤ聞きたい? CD持ってこようか。」

「再生機がない。」

「オレ、小さいデッキ持ってる。明日持ってこよう。」

「いいよ。」

「いらない? 聞きたくない?」

「水本が歌ってくれると嬉しい。」

どうして‥‥。オレに言わせれば モリヤの方がかわってる。

でも モリヤの家に電化製品は似合わないというのも事実。キカイものがキライなのかな。

「じゃあ覚えてくる。」

とオレは言った。

「歌ってくれるの?」

「歌うよ。」

「次来た時に‥」

「ああ、うん。じゃあ 虹の歌と一緒に。梅雨の歌だし ちょうどいいかも。」

「それは楽しみ」

とモリヤは笑った。そして

「それじゃあ 又明日。」

「うん。又明日。」

オレもそう言って モリヤと別れた。

帰りながら考えた。いつ戻るんだろう。そのうちってどれくらい? 梅雨がくると戻るのかな。

モリヤは梅雨にとまどう。さみだるとオレはモリヤの家に行って歌う。それは楽しみと言ってモリヤは笑った。五月雨ると…。オレは‥‥。

オレの楽しみは モリヤの匂いが戻ること。

どうか次の雨までに どうか五月雨るときには モリヤの匂いが戻っていますように。又オレの制服が いい匂いにそまりますように。それは とても楽しみ。とても。

どうぞ‥‥

オレは空をあおいだ。青い空。まだ梅雨空ではない。快晴。

どうぞ 楽しみが勝ちますように。

何に?

ともすれば 何かが胸におしよせてきそう。

何が?

楽しみに支配されたい。この何かは少し

少し、こわい ─────。

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