春の芽吹き
不思議なウワサのつきまとうモリヤの放つ香りに、水本は夢中。高二になった4月のある日、モリヤの方から、雨が降ったら家に来てほしいとお願いされて、水本は舞い上がる。でも、なぜか大量の水を飲み続けるモリヤの心は、水本にはなかなか分かりづらく...
雨と水とモリヤの関係は?
そして二人は又もう少し仲良くなれるのかどうか...。
春はあけぼの。だって。やうやう白くなりゆく山ぎは。古典の授業で習った。暗記もした。
でもオレの春は、モリヤ。
春はモリヤ。夏もモリヤ。秋もモリヤで 冬またモリヤ。ははは。文学にならない。
モリヤが気になり出したのは去年の初夏のこと。だからオレにとって、注目モリヤの初春だ。
季節によってモリヤは変わる。違うウワサが立つ。春はどう?
木々は芽吹き 花々が咲きみだれる。春はワクワクする。モリヤはどう?
モリヤはいつも沈着冷静だ。と、オレは思う。そう見える。
みんなが汗をダラダラ流してフゥフゥ言ってる真夏でさえ モリヤは涼しい顔をしてシュッとしている。いい香りをバラまきながら。
秋から冬にかけて、オレは少しドキドキした。モリヤが透けてゆきそうで。透明になって消えてしまいそうな不安で。
でもモリヤは消えたりしなかった。なぜか自然に脱色された髪を潔くおとして どしゃ降りの日に訪ねたオレを家に入れてくれた。また来いと言ってくれた。冬休み中に。
来いと言ってくれたのだから 当然行った。喜んで。
とても寒い日だった。木枯らしがふいていて、モリヤのうちの前を枯れ葉が舞っていた。
「モリヤくん モリヤくん」
オレは扉を叩いて呼んだ。冬でもやはり葉のある蔓が家をめぐっていた。
モリヤの家には電話がない。連絡なしに来たものだから、居る確証はなかったが扉はすぐに開いた。
「やあ」
とモリヤは言った。
「待ってたよ。」
と。
どうぞとまねかれて、オレは扉の内に入った。
この前は真っ暗だったが今日は午前中だ。曇ってはいるけど明るい時間帯。
しかしやはり家の中は 明るい!という感じではない。言うなれば...森の中、という感じ。葉陰でかげっている というような...。
前に会った時から10日ほど経っていた。年の暮れとお正月の突然の訪問は、さすがに遠慮したのだ。
モリヤの家はしかし新年の感じは特になかった。前来た時と一緒。何も変わらない。まあ前回はあんまり見えてもいなかったけど。
「寒い日を選んだね。」
そう言うモリヤは素足だった。顔を見る。丸坊主のままだった。5㎜ぐらい?でもまだ色が薄くて、地肌の感じ。もともとスポーツ刈りだから すぐにもとの長さに戻るだろうとは思うのだけど。色も戻るのかな。
欄間に制服がかかっていた。オレが置いて帰った制服だ。今日はこれを取りにきたんだ。
でもモリヤはすぐに渡して追い返したりはしなかった。
モリヤとは、黙っていても、長いこと一緒にいられる。でも 話をしてみたい気もした。
「モリヤは、」
それで、話しかけてみた。
「モリヤは いつが好き?」
「は?」
「どの季節が好き?」
「...ああ、」
モリヤはにっこりと笑った。
オレは鼻をこらす。いや 鼻をすます? 匂いは、たたない。
「夏の初めが一番いいね。」
「へぇ...。初夏か。」
すばらしい香りのたつ、あの初夏。ふうんと納得。
「水本は?」
なんとなく 質問を返されるとは思わなかった。ので オレは少し驚いて、そして答えた。
「オレは...オレも、夏...かな...。」
...いや...?
「...どの、季節も好きだけど...」
「うん。──水本は、そんな感じ。」
そんな感じ...?
どんな感じ?
少し話すことができた。そしてよくわかったのは モリヤはとてもはっきりしている。
何を質問しても答えが明確だ。気持ちがいい。
対してオレは、とてもはっきりしていない、ということに気がついた。
「性格かなあ。」
とオレが言うと
「そんなことはないわ。」
と湧井さんは言った。
春だ。4月にオレたちは 2年生になった。高2。
クラスがえがあったけど 湧井さんとは又同じクラス。
モリヤは又となりのクラス。そして小川くんはモリヤと同じクラス。だから 前よりもっとモリヤのウワサが入ってくる。小川くん情報で。
「性格じゃないとしたら何?」
オレが聞くと、湧井さんは首を振った。
「そうじゃなくて、水本が "はっきりしていない"ことはないわと言ったのよ。」
「うん?いやいや。オレはあいまいだよ。気付いたのは最近だけど 気付いてみるとことごとくあいまいだった。」
昼休みだった。オレと湧井さんは教室で並んで弁当を食べていた。
「例えば?」
湧井さんが聞く。
「例えば、好きな食べ物だって明確にコレと答えられない。おにぎりも好きだし ウインナーも好き。このお弁当の中のもの、みんな好きとも言える。」
オレは弁当の中身を箸で指しながら言った。
「ははは」
湧井さんは笑って言った。
「私だってよ。」
「えっ ほんとう? みんな好き?」
「ははは。嫌いなものは入れないでって言ってるもの。」
「そうか。オ、オレは言ってないけど...」
「水本、キライな食べ物あるの?」
「うーん... あ! ホラね。これも明確な答えがない。あいまいだろう?」
「そんなこと あいまいって言わないのよ。」
「そうかな。」
「そうよ。」
「好きな季節も好きな色も好きな教科も、みんな答えられないんだよ? モリヤはどれも ほぼ即答。」
「じゃあ聞くけど」
湧井さんはにっこりしている。
「水本が世界で一番好きなものは何?」
「世界で一番⁉」
季節や色が答えられないのに そんな大きなくくりで...
「私は答えられるわよ。」
「湧井さんが好きなもの? 世界で一番? それは何⁉」
「ははは。違うよ。」
「違う?」
「うん。でもそうね。何かな私の好きなもの。世界で一番。──水本分かる? 何と思う?」
「おっ? クイズ?」
湧井さんの好きなものかァ。世界で一番?
「....湧井さんは、黄色が好き。ひまわりが好き。ひまわりの映える青空が好き。入道雲のもくもくしたところが好きで...夏が好き。だから....夏の空!かな...」
「詩的。」
湧井さんは又はははと笑ったが ふと真顔になった。オレの後ろ方向を見て。
思わず振り向いたら
「そこは小川くんと言ってほしかったな。」
と小川くんが言った。
「ごちそうさま。」
湧井さんが立ち上がった。
「アレ、どこへ。」
湧井さんは真顔のまま、スタスタと扉の方へ向かって行った。
「おトイレ。」
と言い残して。
オレは小川くんの顔を見た。
「もしかしてケンカしてる?」
「してる。」
小川くんはにやりと笑った。笑う余裕があるなら大丈夫かな。
「仲直りしにきたんだが 失敗したみたいだ。」
「すぐに戻ってくるよ。原因は何?」
「よく分からん。分からんけど なんか怒ってるみたいだったから、悪かった悪かったと謝った。」
「許してくれなかったの?」
「どころか 火に油を注いだ感じに。」
「よけい怒った?」
「オレに女心は分からない。女じゃないからな。」
「オレも分かんないよ。女心どころか 誰の心も分からないな。」
「水本は湧井の心をつかんでるじゃないか。」
「つかんでないよ。」
「好きなものを当ててた。」
「ああ夏の空? 当たってたかどうかは分からないよ。」
「当ててるよ。詩的って笑って嬉しそうだった。」
エヘヘとオレは笑ってしまった。分かってしまった。
「好きだから怒ったんだね。」
「うん?」
「あ、湧井さん戻ってきたよ。オレはトイレに行こう。」
トイレから戻るとすぐにチャイムがなった。
小川くんはもういなくて 湧井さんはオレの顔を見て、ひまわりみたいに笑った。
仲直りしたんだと分かった。
「お礼に新しいウワサを一つ。」
帰る用意をしていると湧井さんがそう言った。
「なんのお礼?」
「モリヤのウワサよ。」
「モリヤのウワサ?」
「そう。モリヤはウワバミ。」
「うわばみ? えーと、大蛇のこと?」
「酒を底なしに飲める人。」
「モリヤが酒を飲むの⁉」
それは驚き!
「酒じゃないとは思うけどね。水かな。」
「...水を飲んでるの? 底なしに?」
「鞄に大量のビンが入っているとか。休み時間の度にずうっと飲んでるんだって。」
「へぇ...。おなか大丈夫なのかな...」
「聞いてみたら?」
湧井さんは嬉しそうに笑っていた。
「うん。聞いてみる。」
オレも笑ってそう答えた。
カバンを持って隣のクラスを覗くと、小川くんと目があった。
小川くんは笑顔で手をあげて、その手を前へもっていった。その方向にモリヤがいた。ちょうど帰り支度が終わったところ。前の扉から出て行ったので オレはついて行った。
モリヤの後ろ頭を追う。
モリヤの髪はいつも通りに戻っていた。
3学期の初めには まだ坊主頭の伸びた風で色も薄かったが、4月になって会うとすっかりもと通りだった。
そして、髪が戻るのと同じように 香りも戻ってきた。嬉しい。
本当に嬉しい。
モリヤから少し離れて歩いているので今は香りはしていない。でもきっと、ふわっふわっとモリヤの身動きに合わせて、匂いが立っているに違いない。
カチャカチャカチャと、ガラスか陶器のふれ合うような音がする。モリヤが持っているカバンの中から。カバンに大量の瓶...湧井さんが言ってたっけ。カチャカチャカチャカチャ。なんだかキレイな音だ。モリヤに合う。カチャカチャカチャカチャ。
急に音が止んだ。モリヤが立ち止まったからだ。カッチャンという音とともに、モリヤが鋭角に振り返った。
「水本」
オレは驚いて立ち止まる。
「びっくりした。気付いてた?」
モリヤは笑った。
「あ」
オレも笑った。匂いが立ったのだ。久しぶりに少し強い香り。
「すごいなモリヤは。オレには香りもないし、カチャカチャと音がするわけでもないのに。」
オレはモリヤと並んで歩いた。
「モリヤ 体の具合はどう?」
「いいよ。」
「うん。よさそうだ。」
「だろう?」
うん。顔色もいい。なんてみずみずしい。
「よかった。」
とオレは言った。心からそう思った。
選択授業で、オレは美術を選択している。湧井さんは音楽を選択している。小川くんも音楽。音楽の時間は同じ教室で授業が受けられるんだって、小川くんが嬉しそうに言っていた。
湧井さんは歌が上手いんだって、自慢気に言っていた。
湧井さんの前で言ったげればいいのに。小川くんはかわいらしい。
モリヤの選択教科は書道だそうだ。しぶい。
美術の時間に日本の色を習った。
日本の色は、色はもちろんのこと 名前が美しい。
瑠璃色 浅黄 萌木 銀ねずみ...
「絵の具を調合して 自分がきれいだと思う色を作りましょう。」
美術の先生が言った。
「そうして自分で色の名前をつけます。」
ほう。
「その色を使ってオリジナルの昆虫か植物を描いて、名前をつけるところまでが今回の課題です。」
ははは。愉快だ。オリジナル昆虫だって。
オレは1時間中色を混ぜ続けたが これが意外に上手くいかない。キレイな色にならない。すぐに色が濁ってしまう。これでは美しい名前はつけられない。キレイな虫も植物も描けない。
チャイムが鳴ってしまった。
茫然と片付けて教室に戻る廊下を歩いていると ドン!と背中をたたかれた。
「何ぼんやりしてるんだ?」
小川くんだった。
「ああ...」
「何かショックなことがあった?」
湧井さんもいた。
「うん...色が、上手くできなくて」
「色?」
2人同時に声が出た。
「うん。色を作っているんだ美術の授業で。それが上手くいかなくて。」
へえ、と言って2人同時にハハハと笑った。ほんとに仲良しの2人だ。つられてオレも笑ってしまった。
雨が降った。
春の雨だ。
もうとっくに桜も散ったので この雨はただただキレイだ。
オレは雨に関しては春がいいな。
秋の雨はなんかさみしい。冬の雨は冷たい。雪は好きだけど...。
でもモリヤは、季節は夏が好きだと言った。雨はいつでもきっと好きなんだろうけど、てことは 夏の雨は一番好きなんじゃないかな。夏の雨は気持ちがいいし。
今日の雨はどしゃ降りではない。
どしゃ降りの日はモリヤは休んだりするが今日は来ているかな。
ん~んん~んんんんん~~♪
6時間目の現国の時間、音楽室から聞こえてきていた、春の歌が耳についてしまった。
帰り道、弱い雨の中、傘をさして歩きながら つい鼻唄を歌っていると、ふわっと匂いが立った。
「あっ」
歌も足も止まって振り向いた。モリヤの匂いだったから。
やっぱり。モリヤが立っていた。
「雨だね。」
とオレは言った。
「春雨は好き?」
オレが聞いたとたん又匂いが立った。モリヤがにっこりしている。好きなんだ。やっぱり。どの季節の雨も。
「歌を歌っていたね。」
とモリヤが言った。
「水本は音楽を選択しているのかい?」
「ううん。オレは美術。モリヤは書道だよね?」
「そう。ふーん。水本は音楽じゃないのか。」
「うん。歌は好きなんだけど得意じゃなくて。モリヤは歌、好き?」
「ぼくは聞く方が好き。」
「うん。歌はいいよね。オレいっぱい好きな歌あるなぁ。」
「例えば?って聞いても、ぼくは流行りの歌は知らないけどね。」
「はーるのー....♪」
オレはさっき鼻唄で歌っていた一節を歌って
「これは知ってる?」
匂いが立った。うん、知ってるよね。
「じゃあ、春つながりで。春の小川。」
「どんな歌だったかな。」
オレは最初の二小節ほどを歌った。匂いが立つ。
「とっても旋律がキレイんだ。あのね、忌野清志郎も、なんて美しい歌だって思ったって 聞いたことある。」
「いまわの?」
「きよしろう。テレビ見ないから知らないかな。ロックミュージシャン。もう亡くなったけど。」
「どんな歌うたう人?」
「ああ!」
オレがじっとモリヤを見たので モリヤは「何」と言った。
「うん、あのね、忌野清志郎の歌で、モリヤを思い出す歌があるんだ。」
「ぼくを」
「さびの部分。」
言ってオレは歌った。そして思わずモリヤを見た。驚くほどの匂いが立ったのだ。
「もう一度歌って。」
「うん。オレは2番も好き。」
続けて2番のさびを歌う。
「"雨上がりの夜空に"っていう歌だよ。」
春もなんだ。とオレは思った。初夏だけじゃない。春もモリヤの匂いは盛大になる。嬉しい。きっと体調もいいんだ。
モリヤの匂いにかこまれるように帰り道を二人で歩いた。
「まだある? 好きな歌」
「いっぱいある。」
そうか、と言ってモリヤはため息をついた。ため息さえも香りが立つような気がした。
「で? 色はできたのかい?」
と聞いてきたのは小川くん。今日は又選択授業のあった日だ。
昼ごはんの後オレたちの教室にやってきた。
「うん それが、できたんだ。」
「私はすぐに分かったわよ。」
と湧井さんが言った。
「美術の時間の後 鼻唄を歌いながら帰ってきたもの。」
「そうなのか?」
と小川くん。
「自覚なかった。」
と答えたのはオレ。全く自覚なし。
──色は、いい考えが浮かんだのだ。つまり"混ぜきる"から 行き場のない無表情な一色になってしまうので、混ぜきらなければいいんじゃないか、と。
美しい色を少しずつパレットの上でくるくるとして、混ぜきる前に筆を紙にのせるのだ。
ああ キレイな色。玉虫みたい。
でもオレは虫を描かず、植物を描いた。
結局、モリヤの香りと同じ匂いのする植物を、オレは見たことがない。匂いはモリヤから立つわけだから、もしかしたらそんな植物はないのかもしれない。でもオレは せっかくキレイな色ができたので、あの匂いのする植物はこんなだろうかと想像して描いた。
その絵から香りが立つとすごいのに。もちろんオレにそんな才能も力もないから そんなことにはならない。それでもオレは満足した。
あ、ほんとだ。オレは笑ってしまった。
学校を出て歩きながら、オレは鼻唄を歌っていた。思わず知らず。
気分がいいからだ。
そして今日の美術の時間も、音楽室から歌がずっと聞こえていたから。湧井さんや小川くんの歌い声だ。もちろん、声の識別はできないけれど。
3番が印象的だった。歌詞におぼろ月が出てくる。おぼろ月は春のものなんだな。
"おぼろ月夜"も春の歌だもの。"おぼろ月夜"...キレイな歌だ。美しい旋律。この歌も好き。
口に歌が登ってくる。歌いながら空を見て歩いていると、まさにそよふく風にのって匂いが舞った。
振り向くと、やっぱりモリヤ。
「その歌は何?」
とモリヤが聞いた。
「おぼろ月夜。」
「この前も月の歌を歌ったね。」
「ん?ああ、雨上がりの夜空に、か。お月さま出てくるね。ほんとだ。」
「水本は月が好きなの?」
「月が好き?」
そんなこと、考えたこともなかった。
「おぼろ月夜を歌っていたのは、花からのおぼろ月つながりだったんだ。」
「花?」
「そう。音楽室から聞こえてくる歌の題名が"花"。」
「へえ?そうなんだ。」
風がそよふく。いい匂いが立つ。
「うん。」
オレはにっこりした。
「春かと思ってた。花なんだ。」
そう言ってから、モリヤはちょっと黙って歩いた。
オレも黙って歌詞を考えていた。そういえばどうして春じゃなくて花なのかな。
モリヤがふとオレを振り向いた。
「この歌に おぼろ月って出てくる?」
「うん。3番にね、出てくるんだ。」
「水本は3番まで知ってるの?」
「知らなかったけど、今日は歌詞がよく聞こえた。」
そういえば、この前の美術の時間は 歌詞までよく聞いていなかった。
「ぼくは、聞こえているはずだけど きちんと聞いていなかったな。」
モリヤがひとりごとのように言った。
「モリヤはきっと 聞いてなかったんじゃなくて、聞こえなかったんだよ。」
「歌は聞こえてたよ。」
「ううん。だってモリヤはお習字をしていたんだろ。集中していたから聞こえなかったんだと思うよ。」
「....そうだろうか。」
「きっとそう。書道は集中力。」
モリヤはハハハと笑った。ああ いい匂い。
「3番はどんな歌詞?」
「3番はいいよ。」
「いい?」
「うん。とてもいい。オレは好き。特にサビのところ。」
オレは3番を歌い出した。
「ほら月が出た。次がサビだよ。」
続きを歌う。歌い終わると、ザッと風がふいた。
「わっ」
「すごい風」
モリヤが言った。
でもオレが驚いたのは風じゃなくて香りにだった。
今までで一番強く香った。風とともに。
「どうして3番が一番好きなのかな」
「うん? なんでだろう。なんかかっこいいからかな。こんな美しい旋律にこんなかっこいい歌詞! なんか良くない?」
「水本、その意味分かる?」
「いいや。」
オレはハハハと笑った。モリヤもアハハと笑った。
スゴク、スゴクいい匂い。
ああ今日は、なんていい日なんだろう。
あんまり何度も強くいい匂いが立ったので、モリヤと別れてからも ずっと匂いがついてくる気がした。
「花の歌詞の意味?」
「うん。3番の。」
次の日の朝、オレは湧井さんに聞いてみた。湧井さんなら知ってるかも、と思ったから。
「知ってるわよ。最初の授業でやったもの。」
「どういう意味?」
「なんでそんなこと知りたいの、水本は」
「うん、日本語なのに案外意味が分からないなと思って。かっこいい歌詞で好きと思うのに 意味を聞かれたら分からなかった。」
「誰に?」
「モリヤ。」
「なるほど。」
湧井さんはにっこりして、ノートを見せてくれた。
「おお...」
「そんな驚くような意味だった?」
湧井さんが笑った。
「うん。意味まで美しい。」
風が吹いた。
春の嵐だ。
雨も降った。すごい。激しい天気だ。
ザザザザザーっと窓の外で音がする。雨量はそれほどでもないけど。
モリヤは来ているかな。それともお休みかな。
この春の発見は、モリヤが歌が好きだということ。
モリヤの好きな歌はなんだろう?
モリヤはテレビを見ない。ラジオも無さそうだった。だいたい、電気がきているのかも疑わしい家だ。
歌は...学校で知るんだろうな。小中だけでも けっこう歌を習う。そして、キレイな歌がたくさんある。
どうして、いったいどうして 旋律を聞くだけで心が動かされるのだろう。不思議だ。
「モリヤ休みだぞ。」
小川くんが放課後オレに言った。
「そうか。やっぱり。」
オレは納得。今日は朝から嵐だったもの。雨が降ったもの。きっと調子が良すぎたんだ。調子が良すぎて休んだんだ。
ああ。調子が良すぎる時、モリヤは家で一人でどうしているんだろう。あの 薄暗く 高貴な香りのする森の家の中で。何を、しているんだろう。
そんな日に、オレを招いてくれないだろうか。いつか、調子の良すぎるモリヤと あの森の家で 二人で過ごすことができないだろうか。
なんだか とうてい、そんな日が来ようとは思えない。
なぜだろう。未だモリヤはオレにとって、予測のきく存在ではない。謎めいて不思議で モリヤはこうなんだと、はかれない。とても分からなくて、そして時々ちらりと見えるのが嬉しい。
少し遠く、だいぶあこがれ。
次の日もお休みかなと思ったら モリヤは来た。
「モリヤ来てるぞ。」
小川くんが 1時間目と2時間目の間の休み時間に教えに来てくれた。絶対、湧井さんの顔見に来るついでだけど。
オレはあははと笑った。そしてお礼を言った。
朝のHRで席替えがあって、オレの席は窓際になっていた。
爽やかな季節だ。薄く窓は開けてある。
今日モリヤが来ている。そう小川くんが教えてくれただけで 窓からモリヤが香ってくる気がする。隣の教室から風にのって。
小川くんありがとう。もう一度心の中で、お礼を言った。
昼休みに小川くんが又来た。
「今日は水の量が多いぞ。」
湧井さんとオレは、弁当を食べようとしていた。
「水の量?」
と聞き返すと小川くんは うん、とうなずいた。
「お昼もう食べたの?」
と湧井さんが聞いた。いいやと小川くんが首を振ったので 一緒に食べようよとオレが言った。
少しして、小川くんがパンを持ってやってきた。購買で買ってきたそうだ。お弁当は早弁してしまったらしい。そのくせ
「モリヤを見ていたら お腹がいっぱいになってしまった。」
などと言う。
「なんで?」
「ばかみたいに水を飲んでいる。」
「今に始まったことじゃないんでしょ?」
と湧井さんが言ったら、小川くんは いいや、いいやと2度首を振った。
「今までの比じゃない。鞄も今日は倍ぐらいでかい。」
オレと湧井さんは顔を見合わせた。
小川くんが見て得た情報だ。ウワサじゃない。真実だ。
「少し心配ね。」
と湧井さんが言った。
オレと小川くんが湧井さんを見ると 続けて言った。
「水中毒ってあるんだって。飲みすぎは、体に悪いそうよ。」
小川くんが ドン!とオレの背中を叩いた。
「モリヤと話してみろよ。」
「うん。」
と言ったのは オレじゃなく湧井さん。
「うん、話してごらんよ。ちゃんと話せば安心するよ。ごめん 心配させて。そんな悲しい顔しないで。」
「え?」
オレは湧井さんを見返した。悲しい顔?
「オレ 悲しい顔してた?」
びっくりして聞くと 二人でオレを見て同じことを言った。
「悲しい顔してる。今も。」
悲しくないけどな。おかしいな。感情と表情が食い違っているのかな。
でも放課後、モリヤのところへ行こう。一緒に帰って話をしよう。
「....どうした?」
放課後、モリヤを誘いに行くと 帰り支度の手を止めてモリヤがオレをじっと見た。
「一緒に帰ろうと思って誘いにきたんだ。」
「どうした?」
答えたのにモリヤがもう一度同じことを聞いた。
「誘いに...」
オレが言いかけると モリヤが遮って言った。
「何かあったのか?」
「何か? 何? オレに?」
「とても困った顔をしているよ。何があった?」
「え⁉ オレが⁉」
モリヤが少し笑った。そして用意を再開し、
「帰りながら話そうか。」
と言った。
オレはモリヤの手元を凝視していた。ほんとうだ。なんて大きなカバン。モリヤが教科書を鞄に入れる時 カチャンカチャンと音がした。
モリヤが鞄を閉じて 二人で教室を出た。
「水本?」
歩きながらモリヤが口を開いた。
「鞄が気になるのかい?」
オレはずっとモリヤの鞄を見つめていたようだ。
「う...。重そうだね。」
モリヤはにっこりした。
「そうでもないよ。──何が入ってるか知ってる? ウワサできいた?」
「うん。ビンが...。お水が大量にって...。」
「そう。でも もう、ほぼカラだから。重くはないよ。」
「カラ...」
なぜかモリヤは又にっこりした。そして
「珍しいね。」
「何が...?」
「水本がそんな顔をしていることが。いつも楽しそうなのに。ぼくのヘンなうわさも笑いとばしているのに。」
オレは、にっこりしてるモリヤを見た。じいっと見た。
「水のことは ウワサじゃないだろ。ホントのことだよね。水...飲みすぎると 体に悪いって...聞いたけど...」
「ああ...!」
すごく、驚いた顔を モリヤはした。
「心配してくれたの?」
「中毒とかあるって 湧井さんが...」
すごく 目をみひらいて、歩くのもやめてしまって、モリヤはオレの顔を 見た。
「水本...」
「うん?」
「そんなこと、心配しなくていい。大丈夫だ。」
「大丈夫...」
「そう、大丈夫。水は ぼくには毒にならない。」
「でも...」
「本当だよ。ぼくは理由があって飲んでいるからね。」
「...あ‼」
オレは思い出した。
「どこか悪いの? とても水をたくさん飲まなくちゃいけない病気があるんだよね? 聞いたことがある。なんの病気だったかは覚えてないけれど。」
「水本」
とんとんと モリヤがオレの背中をたたいた。
「違うよ。病気じゃない。ぼくは どこも悪くない。そして水を飲んでも、病気にならない。」
「....ほんとう?」
「ほんとうだ。」
「そ、そうか...」
そう聞いて すぐに安心できるものでもない。だって本当に すごい量の水だって。病気でもないのに 大量の水。真夏でもないのに。汗も、かかないのに。
「...もう、だめだ」
と聞こえた気がした。すごく小さな声で。びっくりしてオレはモリヤを見た。モリヤは、笑っていた。
そして 堰を切ったように ものすごく 香った。驚くほどの香りが立ちこめた。
「水本、歩いていい?」
「う、うん」
再びオレたちは歩き出した。
「ぼくはね、水本、実は少し 春に弱いんだ。」
「春に弱い? って? ...花粉? それとも、季節のかわり目が体調に影響するの?」
そういえば モリヤは冬が苦手らしい。春も? 続きで?
「うん、そういうことではなく。どちらかと言うと、必要以上に 高揚してしまってね。」
こうよう... こうようって、何?
「体調というより 気持ちの方かな。浮わつく、というか。」
「浮わつく⁉ モリヤが⁉」
意外の極致‼ モリヤと浮わつくとは 全くそぐわない。真逆のイメージ。
「春はね、だから極力気持ちを落ち着けて 自制して生活している。」
自制... モリヤと無縁に思える言葉が又出た。
「それが この春は、もうとても...。本当は今日も休もうかと思った。しかし休めもしないほどに...。」
言葉を切って モリヤはオレを見た。
「今日は ぼくの方から水本を誘いに行くつもりだった。」
「ええ⁉」
驚きの連続。
「ほんとうに⁉」
「ほんとうに。でないと 今日来た意味がない。」
どういうことだろう。
「えーと... オレに何か用事が...?」
「そう。用というよりお願いかな。」
お願い? オレに⁉ このオレに モリヤが⁉
「何? オレにできることがある?」
「水本にしか できないことなんだ。」
すごい! そんなことが‼
「それは何?」
モリヤのお願い。難しくてもききたい。できなくても、ききたい。
モリヤは すぐに答えなかった。しばらく前を見たまま黙って歩いた。オレはモリヤの横顔を見ながら言葉を待って、歩いた。
「雨の日に」
ふいにモリヤが口を開いた。
「うん⁉」
オレは興奮気味に返事。
「学校を休むぐらいの雨の日に」
「うん」
「...うちに来てくれない?」
「え?」
モリヤが立ち止まった。もちろんオレも。
黙って しばし立ちつくす。
「え?」
もう一度言ってしまった。口から出てしまったというか...
「そ、それがお願い?」
モリヤはうなずいた。もう一度、今度は声はナシで え?という形になった口を、オレは閉じた。そして これ以上ないくらい真剣な目で、オレはモリヤを見た。
珍しく モリヤが少し目をふせた。そして言った。
「こんなお願いをきいて貰うには、ムリがあるとは分かっているんだけど...。しかし それでも...」
「ムリなんか あるもんか!」
思わず大きな声が出た。
「え?」
と言ったのは 今度はモリヤ。
「モリヤすごい」
手を握らんばかりの熱量でオレは言った。
モリヤ、心が浮わつくとは こういうことを言うんだよ。
「モリヤはすごい! どうして⁉」
「何が...」
モリヤが少し 戸惑っているように見えた。オレが完全に浮わついてしまっているからね。
「以心伝心かと思った。オレは、雨の日に、モリヤが休む雨の日に、調子が良すぎるモリヤのいる、森の家に行ってみたいと思っていたんだ。それを かなえてくれるんだ。それも、お願いしてくれるという最上級の形で...!」
モリヤは 絶句しているようだ。しばらくして ようやくといった感じで口を開いた。
「それでは 来てくれるということ?」
「行くとも!」
「それは...ありがとう。けれども実は、お願いには続きがあって...」
「‼まだ何か! オレにできることが⁉」
浮わつきの極致‼
でもモリヤの方は やはり少し伏し目がちに、それでもハッキリと言った。
「水本の好きな歌を、歌ってくれないだろうか。」
はあ⁉
.....さすがだ。さすがだモリヤ。やはりオレの予測のきく存在ではない。謎めいて 不思議で、とても、分からない。
「歌を....雨の日に? モリヤの家で?」
ボンヤリ オレはつぶやいた。
「そう...。」
モリヤが 小さく返事する。
どうして。どうしてそんなことを願うのだろう。
全く分からない。
どうして オレにしかできないのだろう。
まるで分からない。
「...オレは 歌はヘタクソだよ」
「水本には 好きな歌があるだろう。」
「うん。」
「何曲?」
何曲? さあ? 考えたこともない。
「分からない。たくさんあるよ。」
ざあっ と風がふいた。モリヤの香りをまきあげるように。
ああ やっぱり なんて いい匂い。
「一曲ずつでいい。たとえば はなうたでもいい。聴かせてくれないか、雨の日に。」
「一曲ずつ....」
ずつ。それは、一回こっきりではないということ....?
オレは目を閉じた。
とても、分からない。
とても、嬉しい──。
もちろん快諾して、その日は家に帰った。
雨は降っていなかったから。
さあ その日から、なんと雨の待ち遠しいこと...‼
こんなに強く雨を待ったことはない。
むしろモリヤと出会ってからは 雨を強く望むことは殆どなかった。だって雨が降ると モリヤは休んでしまうことがあるから。
でも。
今は 違う。降ってくれ雨。どしゃ降りでたのみます。
それが、待っていると降らないものだ。けっこうしょっちゅう雨は降ると思っていたのに。待っている今、全く降らない。ハレ。くもり。夜中ににわか雨。
毎日オレは空ばっかり見ている。
こんなに空を見てばっかりなのも 初めてのことだ。
「ボンヤリしてるわね。」
と声をかけてきたのは湧井さん。
「ボンヤリ?」
「空ばっかり見てる。モリヤは大丈夫なんでしょう?」
「ああ、うん。水、少し飲む量が減ったって小川くんが...」
「よかったじゃない?」
「うん。とても。」
「まだ心配ごとがある?」
「ないよ。オレは雨が降ってほしいだけ。」
オレは 雨の日に家に呼ばれたことを 湧井さんに言った。
「雨の日に来いって? 家に? 自分が休んでいるのに?」
「そう。」
「どうして?」
「それは分からないんだ。」
オレはニヤニヤした。湧井さんもにっこりした。
「嬉しいのね。」
「とても。」
「楽しみなのね」
「すごくね。」
「そうか」
湧井さんまで嬉しそう。どうしてかな。
その日の帰り 学校を出て、空を見ながら歩いていた。水色の空。そっと雲が散っている。絶対雨なんか降りそうにない。
その時 カチャカチャと音がした。ハッとしてオレは振り向いた。
「やあ。」
と言ったのは やっぱりモリヤ。
「モリヤ」
オレは思わずカバンを見る。普通のカバン。大きくない。でもやっぱり水が 水のビンが入っているようだ。
「調子はどう?」
とオレが聞いた。
ふんわりとモリヤが笑った。
「いいよ。春だしね。」
「春に、弱いんだよね...?」
「そう。でも今は落ち着いている。雨も降らないし。」
「? 雨が降ると調子 良くなるんじゃないの?」
良すぎるほどに。
ふんわりと香りが立った。
オレはモリヤを見た。モリヤの言った通り、落ち着いているように見える。とても 浮わっついているようには見えない。
モリヤのお願いで こんなに心がザワザワしているのは とっても心が浮わついているのは、やっぱりオレだけだ。
カチャカチャカチャと音がする。
モリヤが歩くと音がする。
カチャカチャカチャ
水を飲むモリヤ。飲んでいるところを見たことはない。でも大量に水を飲んでいる。
春は高揚するから弱いんだって。
雨が降ると調子が良くなるのに雨が降らなくて落ち着いてるんだって。
カチャカチャカチャと音がする。
心がザワザワする。
たまらずオレは言った。
「モリヤは雨が降ってほしいの?降らないでほしいの?」
カチャリ と音が止まって モリヤがオレを見た。
「水本は?」
「え?」
「水本は 降ってほしい?」
降ってほしいと ずっと思っていたんだ。雨をこんなに待っていたんだ。
即答できるほど オレはずっと雨が降ってほしいと思い続けていたのに なぜか声が出なかった。じっとモリヤを見るだけで。
「ぼくは少し怖い。」
ポツンとモリヤが言った。
「こわい?...何が?」
こわい... こわいなんて これもモリヤには似合わない。
モリヤは オレを見ていた。少し 微笑んでいるような顔で。怖がってる顔じゃないようだけど...。
「何が怖いの? 雨が降るのが、...違うよね...?」
雨は好きなはずなんだ。怖いわけがない。
モリヤは おもむろにカバンを開けてビンを取り出した。オレは何も言えずモリヤを見ていた。
1本いっぱいに 水が入っている。ふたを開けて、モリヤは一気に飲み干した。
オレはモリヤを見ていた。
「一本残っていて良かった。」
そう言ってモリヤは空のビンをカバンにしまった。
「心かな。」
モリヤはオレを見ずに言った。
「え...?」
「自分かな。」
モリヤは前を向いたまま。少し間をおいて
「動いていってしまうことかな。」
そこで ゆっくり オレを見た。
「ごめん うまく説明できない。」
まさしくだ。オレはモリヤを見ていたが答えられなかった。まさしくうまく説明できていない。少なくともオレには理解できない。いったい何が怖いのか....。
そのまま黙って歩いた。
そして別れ際に じゃあねと言った。
「心配しなくても 雨は降るわよ。」
その日 学校に来るなり湧井さんがオレに言った。
「心配...は、してないけど。」
ううん、と湧井さんは首を振った。
「日ごとに不安そう。いずれ降るわよ。晴れっぱなしはあり得ないでしょ。」
「うん。....オレ不安そう?」
「とてもよ。おかしいね。楽しみなんでしょう?」
「雨が...?」
「そう雨が。雨が降ってモリヤが休んでモリヤの家に行くのが。楽しみが長く続いているのよ。嬉しいことだと思うよ。」
「うん...」
不安である自覚はなかった。ただ、ずっと心がザワザワするんだ。心かな 自分かな 動いていってしまうことかな..... モリヤの言葉が オレの中で何度も繰り返される。 意味は分からず ただずっと心がザワザワしている。
「湧井さんは、怖いものある?」
「あるよ。」
「何?」
「かいだん」
「怖い話のこと?」
湧井さんはうなずいた。へー? 意外。
「湧井さん 幽霊怖いの?」
「怖いよ。だから 怖い話は聞かないことにしてるの。」
へー。 湧井さんはオレの顔を見て笑った。
「水本は 幽霊怖くないの?」
「怖いけど...見てみたい気もする。見たことないから。」
「そういう人は見ないのよ。」
湧井さんは笑って言った。そうかもしれない。
その次の日の朝の開口一番
「明日雨が降るわよ。」
湧井さんが 笑顔満開で言った。
「え⁉」
オレは窓から空を見た。キレイな青空。
「天気予報で言ってたのよ。今日の夕方からくずれるって。」
「ほんと⁉」
湧井さんは嬉しそうにうなずいた。本当に嬉しそうに。
「湧井さん 嬉しいの?」
「嬉しいわよ。」
「雨降ってほしいの?」
「降ってほしいわ。」
当たり前じゃない という顔で湧井さんは答えた。
「雨が降って モリヤに休んでもらいたいわ。そして水本がモリヤの家に行くの。大喜びで。そんな水本が見たいわ。見れると嬉しいわ。」
湧井さんて ステキな人だ。
オレが喜ぶとこが見れると嬉しいだなんて。ほんとに嬉しそうに そう言ってくれるなんて。
最近の心のザワザワがまるではじけとんだ。それは 明日雨が降ると知ったからだけでは きっとない。湧井さんの心がオレを幸せにしたんだ。
とても、とても幸せに。
ところが昼休みに、小川くんがやって来てこう言った。
「モリヤのカバンがでかくなったぞ。」
湧井さんが顔をしかめた。
「又 水の量が増えたと?」
小川くんはそうだ、とうなずいた。
「今日は又 バカみたいに飲んでいる。」
「また水本を心配させることを言う...」
湧井さんが怒ったように言った。
「だって本当のことだ。」
オレはドキドキした。水の量、減ってきていたらしいのに。
「それで、モリヤは調子が悪そうなの?」
湧井さんが聞いたら小川くんはあっさり否定した。
「ぜんぜん。水飲んでる以外はまるで普通。まわりがびっくりするだけ。」
びっくりするほどに。ああ ザワザワが止んだのに。ドキドキになってしまった。
「顔見てきたら? 元気なモリヤを見たら安心できるかも。」
湧井さんがオレの顔を見て 心配そうに言った。
「いや、放課後にした方がいい。」
小川くんが真面目な顔で言った。
「なぜ」
と湧井さんが問う。
「ずっと水を飲んでいる。むしろ見ない方がいい。水を飲むことが心配なら。」
ドキドキする。
「放課後 水本を待つように言っといてやる。一緒に帰れ。」
ドキドキしながら オレはうなずいた。
ずっと水を飲んでいる。ずっと。
前に湧井さんが言ったことは本当なんだ。オレも本で少し調べてみたもの。水中毒っていうのがある。水も 飲み過ぎは体に悪い。そう、書いてあった。そしてモリヤは あきらかに飲み過ぎだ。
放課後 湧井さんが、一緒に行こうかと言ってくれた。
「水を飲み過ぎるなって 一緒に言ってあげようか? もちろん 私の言うことをきくかどうかは分からないけど。」
よっぽどオレが 不安な顔をしていたんだろう。湧井さんもとても不安そうな顔をしてそう言った。オレは ありがとうと言った。
「前に 大量にモリヤが水を飲んだ時、オレ、ちゃんと聞けなかったんだ。どうしてそんなに水を飲むのかって。別の話に気をとられて。今日はちゃんと聞いてみる。理解できるかどうか自信はないけど、とにかく聞いてみる。それでやっぱり分からなかったり、納得できなかったら お願いするかも。それでもいい? その時は一緒に来てくれる?」
「もちろん。」
湧井さんは笑ってくれた。その時は小川くんにも来てもらおうって 言ってくれた。
オレは 湧井さんが、大好きだ。
モリヤは帰り支度をすませて 席に座って待っていた。小川くんが伝えてくれていたのだ。
オレが近づくと モリヤはにっこりした。
「又、心配させてしまったんだね。ごめん。」
「あれ?」
まるで普通というよりも むしろ顔色がいい感じ。ご機嫌な感じ。体調悪そうじゃない。
モリヤが立ち上がった。香りが舞う。
「帰ろうか。」
「うん。」
大きなカバン。カチャカチャと鳴る音も大きい気がする。
でも調子の良さそうなモリヤの顔を見て、いくぶん気持ちが落ち着いていた。
「モリヤ、話があるんだ。」
歩きながら切り出した。
カチャカチャ音を鳴らしながら モリヤがなんだろうと言った。
「どうしてそんなに大量に水を飲むんだい?」
真剣にモリヤを見てオレは聞いた。
カチャカチャカチャカチャカバンが鳴る。
「我慢できないからだよ。」
「そ....」
オレはゴクンとつばをのみ込んだ。
「それは、中毒っていうんじゃないの....」
「違うよ」
カチャカチャカチャ。
「でも...。....では 依存性というものでは...」
「違うよ」
カチャカチャカチャ。
「だけど....」
カチャカチャカチャ。
「水本」
またドキドキしてきてしまった。
「明日は雨だよ。」
「あ、うん。今日の夕方からくずれるって...聞いたけど」
「春だろ」
「え?」
カチャン。モリヤが止まった。振り向く。
「春だろ。雨が降るだろ。自制も限界でね」
ああ...意味が分からない。明日、湧井さんにお願いしなくてはいけないかもしれない。
「水は 重しになる」
「重し?」
「春だろ。雨が降るだろ。気持ちが高揚する。ともすれば 暴走しそうなほど浮わついていく気持ちを なんとか水で薄めてさらに重しにしてのせる。それで ようやっと抑えているんだよ。」
オレは モリヤを じっと見た。モリヤはふざけているわけでも、ごまかしているわけでもなさそうだ。しかし。
気持ちを水で薄める? 水で重しをかける?
「少し、理解しがたいかもしれない。だから今まで誰にも言ったことはない。だけど水本があんまり心配するから。今まで こんなに心配されたことはない。そしてこれほど 水を飲まなければ気持ちを抑えられなかったこともない。水本」
オレは返事もできずに又ゴクンとつばをのみ込んだ。
「ぼくは少し人と体質が違う。」
体質?
「知っているだろう? 少しとは言わないかもしれない。人と体質が違う。いろいろと違う。これも その1つだよ。他の人には大量の水は毒かもしれないけど、ぼくにはなんでもないんだ。本当だよ。」
オレは しばらく黙ってモリヤの顔を見つめていた。そして言った。
「モリヤ 暴走って何。もし水を飲まなければどうなるの」
又、しばらく黙って、二人とも黙って、お互いの顔をじっと見ていた。
それからモリヤが目を閉じた。目を閉じたまま
「水本」
と言った。
「はい」
「ぼくは...」
目を閉じたまま かなり長く モリヤは黙っていた。
ようやく目を開けて
「やはり、こわい」
こわい...。心が? 自分が? 動いていってしまうことが?
「明日、雨が降る」
雨がこわい? いいや やっぱり違うはず。
「明日、雨が降る。ぼくは学校を休む。水本どうする? 家に来る?」
「行くと、約束したよ。」
「反古にしてもかまわないよ。」
雨が落ちてきた。天気予報より少し早かったよう。
「水本 どうして───」
すごく驚いた顔を モリヤはしていた。
どうしてって それはこっちのセリフ。どうしてそんなに驚いているんだ。
「どうして、泣くの」
なく?
ああ。あははとオレは笑った。モリヤは ますますびっくりした顔になった。
「泣いてないよ。雨つぶだよ。」
泣くわけがないし。泣く理由がない。
雨が顔に当たったのを モリヤが見間違えたんだ。泣いたと思うなんて。おかしい。オレはもう一度笑った。
「明日、行くよ。朝から?」
モリヤは まだ驚いた顔のままだった。驚いた顔のまま返事をした。
「いや。水本は学校へ行くだろ。帰りに寄ってくれるかい? 来てくれるのなら」
オレは ウンとうなずいた。
「行くよ。約束を反古にしたりしない。」
モリヤは 息を止めているように見えた。それから静かに
「では、明日」
と 言った。
傘を持っていなかった。モリヤと別れて1人で歩いて行く。では明日 とモリヤは言った。
明日、モリヤは学校を休む。なのに会えるのだ。又 明日。
雨が 少し強くなった。でも 走らず歩いて帰る。春だから。そんなに冷たい雨ではない。大丈夫。
「おはよう。」
と言って 湧井さんはオレの目をじっと見た。
「おはよう」
とオレも笑って言った。細かい雨が降り続いている。
「どうだった? モリヤが水を飲む理由、分かった?」
「うん...。聞いたよ、理由。体質だって。」
「体質?」
「人と違うんだって。だから 飲んでも大丈夫って、そう言ってた。」
「水本は 納得できたの?」
「完全にはできていないけど、ただ」
「ただ?」
「モリヤの体質が人と違うっていうのは、そうかもしれないって思うから。モリヤがうそついてるわけでもなさそうだし。」
「そう...」
湧井さんはうなずいて そしてにっこりした。
「今日、モリヤの家に行くの?」
「うん。帰りに寄る。」
「待ちに待ったんだもの。楽しんでおいで。」
にっこりしてそう言ってくれた。
「モリヤがお願いって言ったんだ」
思わずオレはそう言った。
「え?」
「モリヤが来てくれって お願いって言ったんだよ。なのに昨日は 約束を反古にしてもかまわないなんて」
「水本...」
湧井さんがオレの手をとった。手から優しみが伝わってくる気がした。
「でも水本はモリヤの家に行くんでしょ。」
オレはうなずいた。
「行きたかったんだもんね。楽しみにしてたんだもの。大丈夫よ多分モリヤは 水本に悪いかなと思っただけよ。」
「わるい?」
「わざわざ家に来てもらうことをよ。きっとそれだけのことよ。だってほとんど人付き合いのない人よ。水本をよび出すことに戸惑いもあるのかも。」
なるほど そうなのかも。モリヤは自分から家に来いと 人に言ったのは初めてだったのかも。約束自体 初めてだったのかも。
冬に行った時は 明確な理由があった。制服を取りにいくという。
今回は何もない。
「湧井さん ありがとう。」
オレは ぎゅっと手を握り返した。感謝の気持ちが伝わるといいなと思って。
湧井さんのおかげで オレは元気を取り戻した。
昼間 少しやんでいた雨が、放課後が近づくにつれ、また強くなってきた。でも大丈夫。今日は傘を持っている。終わると同時にとび出せるように、帰り支度をフライングでやっておいた。終わったとたん オレは湧井さんに行ってきますと挨拶して にっこりの笑顔を見てから学校をとび出した。
強く雨が降っていた。雨なので空は薄暗い。夕方みたい。傘をさしていても雨しぶきが体を濡らしたけど、オレは全然気にしないでモリヤの家へ向かった。半分走るように。雨にけむる森の家をひたすら目指して。
森の家に到着した時には したたかに濡れて、息はあがっていた。それで 家の前でちょっと立ち止まって息をととのえた。森の家は、春になって又、森度が高くなっていた。葉っぱが増え、家の形を変えていた。でも扉の位置は もう分かっている。
扉の前に立ち、モリヤくんと呼ぼうと口を開けかけた時、ふいに扉が開いた。
モリヤの家の扉は、内向きに開けられる。ス-ッと扉が引かれて モリヤが現れた。
オレは驚いて一瞬絶句した。
「よく来てくれたね。どうぞ入って。」
モリヤが先に口を開いた。そうして家の中にすいこまれていった。オレも傘を閉じて家に入った。
玄関が濡れてしまう。扉を閉じると 家の中は真っ暗になった。
ああ 今モリヤは調子が良すぎるのか? 暗くて見えない。分からない。さっきの一瞬ではいつもと変わらないように見えたけど。
ハイ、と前々回の雨の日に来た時のように モリヤは手拭いを渡してくれた。
「寒い?」
オレは水滴を拭ってから、家に上がった。
「いいや。寒くない。」
「服、着替えた方がいい。」
モリヤは又、服を貸してくれた。前とおんなじだ。しかし 前着替えた時より暗い。手探りで服を着る。着替えたら ホッとした。
「この家は落ち着くね。」
オレは床に座ってそう言った。モリヤが笑ったような気がした。暗くて顔は見えない。
「ほんとう? 落ち着く?」
「うん。いい匂いがするからかな。」
又 モリヤが笑ったような気がした。
「モリヤ...今日は何してたの? 具合いは悪くないんだよね? 水...飲んでた?」
深呼吸するような音が聞こえた。
「少しね。」
少し...。モリヤの少しってどれくらいだろう。今日も抑えないといけないほど 心が高揚していたんだろうか。春だし 雨だし...。
あれ...?
心が浮わついて 水で抑えないと困ってしまうから、モリヤは雨の日は休んだりするんだろうか。水で抑えきれないほどになって...?
でも、1人で家にいる分には浮わつこうが かまわないんじゃないのかな。水を飲まないとどうなってしまうのかを 昨日は結局聞けなかったけど、でも1人でいるなら 多少どうなったって...
では、オレをよぶのはどうしてだ。人をよんでしまったら 又、水で抑えないとダメなんじゃないのかな。
モリヤは静かにじっとしている。と思う。暗くて見えないけど さすがに動いていたら分かるだろう。...浮わついてないように思うけど...。
「水本」
驚くほど近く 耳のそばで声がした。
オレはとびあがった。そうだった モリヤは気配が薄い。暗闇で動いていてもオレにはよく分からないのだ。
でも...あれ? 匂いは? そんな近くにいたのに どうして今匂いがしなかったのだろう。
「水本」
オレがとびあがったので モリヤは少し離れたようだ。声の位置が少し遠くなった。
「はい。」
「まだ お願いをきいてくれる気はある?」
お願い...今日来ることだよね。
「あ‼」
もうひとつあった!
「うん! 歌をうたうってやつ? うたうよ。そんなことぐらい なんでもない。」
モリヤの匂いが───立ちこめた。
「え―と、何の歌をうたおうか」
「水本の好きな歌なら なんでもかまわない。」
「モリヤの好きな歌は?」
「ぼくは歌をよく知らない。」
「ああ、題名を覚えてない? じゃあほんとに何でもいい?」
「何でもいい。」
好きな歌なんて ほんとにいっぱいある。だからやっぱりモリヤの好きそうな歌がいいんだけど。
「う-んと、じゃあ、せめてテ-マを...。季節とか...月とか雨とか...ある?」
「ほんとうに何でもいいんだけど...」
あれ...? モリヤが...。 何を質問しても答えが明確なモリヤが。
「え-と、じゃあ 好きなもの、言ってみて?」
「....」
あれ? くくりが大きすぎる? モリヤでも?
暗くて、モリヤがどんな顔してるかは分からない。考えているのかな。どうしよう。オレの方こそあいまいで答えられないからな。どうしよう。好きな歌、好きな歌...
ふいに、再びぶわっと匂いが立ちこめた。
「水...」
耳元でモリヤの声が 耳元なのにとても小さい声が。
「水?」
ああ、水か。水、ものすごく飲むんだもんな。
しかし 水...の歌? 水... 好きな歌で水... 水... ウォーター H2O....
「ご、ごめん モリヤ... 自分で聞いといて思いつかない。水じゃないけどいい?」
香りが立つ。
「好きな歌をうたって。」
耳元で声。
「では」
オレは立ち上がり、モリヤのいるだろう方向をむいて 少し下がった。あんまり近そうだったので。そして歌った。
1番を歌い終わると....
音をたてて匂いが立つ。そんな気がした。すごい。家中に。
「3番まで歌っていい?」
「ああ。」
声が少し遠い。でも オレの向いている方向にいるようだ。
「オレは2番の歌詞が一番好き。この歌は旋律がとても好き。」
2番と3番と、オレは歌い終わって シンとした。
「ごめん」
もう一度オレは謝った。
「3番の歌詞にウォーターメロンて出てくるから この歌を思い出した。水とは関係ない。オレは昔この歌で ウォーターメロンがスイカだって知ったんだ。ハハハ。次はちゃんと考えてくる。水が出てくる歌。」
「.....」
「モリヤ?」
喋らないと どこにいるのか全く分からない。モリヤは見えているのかもしれないが。
ふいにドドドドと雨の強い音がした。どしゃ降りになったようだ。その瞬間 ものすごい匂いが押し寄せた。触れそうに濃い、密度の高い匂いが。
オレは驚いて後ずさったが 家は香りでいっぱいになった 気がした。そしてオレは 立っていられなくなった。
気がつくと うすぼんやりと部屋の中が見えた。
オレはむくりと起き上がった。
窓辺にモリヤが立っていた。窓に背を向けている つまり、オレの方を向いている。どうやら雨がやんで雲が晴れている。月光かな 星の光かな 窓から光がさしている。逆光のモリヤの表情は見えない。
オレはハッとした。
「オレ、寝てしまってた⁉ ごめん!」
立ち上がってモリヤの方へ近付いた。
「あれ? なんでだろう。歌うたった後、寝てしまったのか? 何しに来てるんだオレは。ごめんモリヤ。だいぶ寝てたかな。何時ごろだろう?」
あせってしまった。急に寝る? オレのバカ。
「9時頃じゃないかな。───泊まる?」
「えっ⁉」
泊まる⁉ そして9時⁉ 9時⁉⁉
「ああ!いや!か、帰らないと。家の人に泊まるって言ってないし、明日も学校あるし。しかし9時⁉ ほんとごめん!」
もう どうしよう。せっかくのモリヤのお願いだったのに。
「何も水本が謝ることはないよ。謝るのはぼくの方だ。ごめん。」
「? なんで? お願いを...オレ きけなかったんじゃ...」
「歌をうたってくれたよ。ちゃんときいてくれた。ありがとう。」
「あんなんで良かったの? 本当に?」
「───最高だったよ。水の歌を求めていたわけでもないしね。」
「あれ? そうなの?」
「帰るの? 水本」
「あ、うん。」
「雨も上がったしね。」
「うん。」
濡れた制服を、モリヤが掛けてくれていた。
「この服、借りて帰っていい?」
着ている服を指してオレは聞いた。
「どうぞ」
「ありがとう。」
オレは制服をハンガーから外して手に持った。
「モリヤは 明日は来る?」
「行くよ。」
よかった。オレは では、と扉に向かった。
「水本は 次回も来てくれるの?」
モリヤは窓辺に立ったまま聞いた。
「雨が降って モリヤが休んだら?」
「そう。」
「来るよ。次回も。」
モリヤはこちらを向いているが やはり表情は見えない。じっとオレを見ているようだけど。目玉が実際どこを見ているかは分からない。そのまま沈黙していた。オレはモリヤが動くか喋るかするまで、じっと待っていた。身動きもせずにしばらくした後、やっとモリヤは言った。
「では 雨の歌をリクエストしておくよ。」
「分かった。次来るまでに曲を考えとく。雨の歌ね。」
モリヤが窓辺から近付いてきた。
「今日はありがとう。」
「お礼なんて...オレは寝てただけ。申し訳ない。」
そうしてオレは扉を開けた。
「では明日。」
モリヤは昨日と同じ言葉を口にした。
「うん、また明日。」
オレはこの挨拶の言葉が一番好きだ。さよならでもなく ごきげんようでもない。また明日会えるという 約束の言葉。別れの挨拶なのに、嬉しい。
森の家を出て 少し歩いてオレは振り返った。
満月だった。月光に森の家がてらされている。"雨上がりの夜空に"の歌詞を思い出した。
でもオレは まんまるのお月様を見て、ホットケーキみたいだと思った。おなかが ぐーとなった。何も食べずに9時だものな。お腹もへる。モリヤは...大丈夫なのかな。又 水を飲むんだろうか...
美味しそうなお月様を背に オレは家路についた。
少し暖かい。夜だけど もう春だから。いいや 間もなく初夏というのかな。
鼻が麻痺するほどの強い匂いで もうずうっとモリヤの匂いがついてきていた。
モリヤが そばにいるよう。
その夜 オレは夢を見た。
夢の中でオレは、モリヤの家の床に寝ころがっている。寝ころがって 寝てしまっている。なのに 窓辺に立つモリヤの姿が見えている。雨がしぶきをあげて窓を打っている。真っ暗なのに モリヤが見える。眠っているはずなのに、目を閉じているはずなのに モリヤが見える。モリヤは真剣な顔をしている。そして両手を広げた。モリヤから香気が立ちのぼる。水蒸気のように かげろうのように。同時にモリヤから草木の芽が..... モリヤが芽吹く。発芽して モリヤが薄い緑におおわれる。香りはますます立ちこめる────
眩しくて 驚いて 目が覚めた。
朝日がさんさんと照っている。カーテンを閉め忘れて眠ったようだ。───モリヤの匂いがする。なぜ?
立ち上がって窓辺に近付いて分かった。窓辺に掛けた制服。これにモリヤの匂いが。まるで お香を焚き染めたように、匂いがついている。昨日 染み込んだんだ。モリヤの家で。だから オレの家まで匂いがする。すごい。──だからか。だから、あんな夢を。
制服はまだ少しだけ湿っていた。ドライヤーの風をあてて乾かす。
さらに匂いが立つ。制服が発芽しそう。
オレはハハハと笑った。芽吹かない 芽吹かない。
今日はいい匂いの制服で学校へ行く。ああ嬉しい。
オレは乾いた制服に袖を通しながら、次にモリヤの家に行った時に歌う、雨の歌を考えはじめた。