STOP ―やめときゃいいのに― (これも小川くん その12 )
モリヤを驚かせたもの。
高校入ってから初めて、テスト一週間前から真面目に勉強を始めた。いつもは全くの一夜漬けだったからな。当然、欠点のこともあった。けれども、今回ばかりは補習にかかるわけには、いかないのだ。俺が補習になったら、モリヤは嬉々として水本と2人きりで飯盒炊爨に行こうとするだろう。泊まりのキャンプを決行しようとするだろう。湧井は阻止するために、自分一人でも ついて行こうとするだろう。どちらになっても恐ろしい。
もちろん、そんな毎日毎日ものすごい勉強をするというわけではない。そんな能力は俺にはない。ただ一週間前から始めたという事実だけで、俺には快挙なのである。
テスト前日に夜中雨が降って、モリヤが休んだ。でもモリヤは約束通り、水本を家には呼ばなかったんだ。俺は本気で、心からホッとした。
もう あのモリヤの家に泊まった日から、俺は水本をモリヤの家に行かせることが、怖くてたまらないのだ。モリヤの心情を知れば知るほど、怖さは増していく。気持ちが強すぎる。水本を好きすぎる。
ただ──── 今のとこ、ギリギリセーフ。自分の、暴走気味の水本が好きな感情より、水本を守りたい気持ちが勝っているみたいだから。モリヤはSのくせに、そこんとこは すごいと思う。なかなかの精神力だと、思ってしまう。
けども、俺のことは好きでもなんでもないので、全感情をぶつけてくるし、セーブも遠慮もないから、もうマジ、怖くてしかたない。水本に言えない分、ぶつけられない分、俺には全てぶつけてくるもんだから、全くたまったもんじゃない。
けど··· 俺が はけぐちになっていて、水本へのあたりが弱まっているのなら、もうそれは、俺がガマンするしかないのだ。
さあ俺は、みごと補習にかからず、水本も飯盒炊爨のために すごくがんばったようで、クリア。湧井はいつも補習の心配はない。モリヤも··· テスト勉強を家でしないらしいのだが、欠点は取らなかったようだ。···テスト勉強をしないやつがいるとは···。モリヤはほんとに豪気だ。
そしてついに明日から夏休みに突入。いつもは大好きな夏休み。特に今年なんか、湧井と何して遊ぼうってワクワクが半端ないはずなのに ─────俺は、夏休みが来てほしくないとさえ思ってしまった。だって··· 夏休みは毎日会えない。水本に。そしてモリヤに。つまり、見張れないのだ。毎日会って、ずっと見てても心配なものを、ずっと会えないなんて、怖すぎる。俺が知らない間に2人っきりで会ったり、特にモリヤの家に水本が行ったり····されてはどうしよう。雨の日に···夜に··· 想像するだけで、じっとしていられなくなってしまう。毎日水本を誘ってやろうかとまで思ってしまったほどだ。···もちろん、そこまではできないが···。
ああ終業式···。もうこの際、通知表なんかに興味はない。···なんてウソ。俺はそんなに豪気じゃないのだ。一応開いて見てみる。うーん··· ギリギリ。体育だけはちょっといいのだが、受験に体育は関係ないしなぁ。そろそろそういう話題が出始める。いやだなー とか思っていて、ハッとした。モリヤがいない。おっと 素早いな。もう隣へ行ったか。俺も慌ててカバンを持って、隣の教室へ行った。ら、
案の定、モリヤは水本のそばに立っていて、俺の位置からはモリヤの顔は見えなかったが、水本は何か少し戸惑ったような表情をしていた···。俺がそっちへ向かって進んで行くと、湧井も歩いて来た。そして···
近付いて、驚いて、足を止めてしまった。モリヤの───── 水本の大好きなモリヤの匂いが、いきなり強く、立ち込めたのだ。湧井も立ち止まってしまっている。近付いたからモリヤの顔は見えている。嬉しそうな顔。水本と少し会話していたが、もう明らかにハイになっているのが分かった。雨が気分を高揚させる特殊体質だとは聞いている。今日は雨じゃないのに、なんでだ? 俺が、「ハイになってるな?」と言うと、モリヤは、「もうダメ、止められない」なんて言って、大きく笑った。 完全にヤバい。
それから裏山に行って、飯盒炊爨のことを4人で決めた。モリヤのハイは収まらず、むしろひどくなっていく。湧井もそれをビンビン感じてるみたいで、モリヤに対して少し攻撃的になっていた。でもこれは、湧井が悪いんじゃなくて、モリヤがいけない。俺たちの前で、堂々と水本の手を掴んでいた。そうしてハイなムード全開で、俺に止めたいかと聞いてきた。何が、とは聞かなかった。明らかだったからだ。高揚が、気持ちの暴走が、限界まできていると言ってるのだ。たのむから、そんな怖い質問を 俺に投げかけるのはやめてくれ!
俺は もう怖くて、無理矢理に水本を引っぱって公園を出た。俺がそうしなかったら、湧井がしそうな不安もあった。湧井は、もうこれ以上 モリヤを刺激したらダメだ。
そう思うのに、別れぎわ、湧井は水本を連れて行ってしまった。水本一人を帰せばいいのに。水本は引っぱられるままに。
しばらく俺とモリヤは、そこに立ったまま、2人を見送っていた。どんどん小さくなっていく後ろ姿。俺はチラリとモリヤを見た。モリヤはまだじーっと、2人の去った方を見ていた。やばいなァ。たのむから、湧井に嫌がらせしようなんて、思わないでくれよ···?
俺がモリヤをチラ見していると、不意にモリヤが バチッと俺に目を合わせてきた。真顔だった。と思うと フッと笑った。
「今のぼくは、冷静さを欠いている。」
怖いことを言う。
「しかし例え冷静になって考えたところで、やはり今のは おかしいと思わないか。」
「い··· 今のって何だ。」
「湧井サン。」
「わく·· わくいが何だよ?」
だから湧井〰〰 だから危ないって···
「湧井サンはぼくに、水本に触るなと言った。」
言ったね。言ったとも···。
「手を離せと言ったよ。」
言ったね···。
「なのに 小川が水本の手を掴んでも、何も言わないんだ。」
「····」
「ずっと腕を掴んでいたのに。」
「···そ、それは···」
「あげく、自分も水本の手を取って、一緒に帰って行ったよ。」
「····」
「ぼくだけが、ダメなの? おかしくない? なんで?」
「····」
おかしいともさ。だから答えられない。言葉につまる。でもモリヤは、そんなこと言いながら責めている風ではない。むしろ少し楽しそうに見える。それはそれで 怖いけど···
「今日はまだ昼だし、晴れてるし」
言葉につまる俺をよそに、モリヤは喋る。
「なのに水本を家に呼んではいけないなんて、どうして?」
···ああ··· だよな··· 俺たちが、阻止してしまった。水本が行くのを···。そりゃ怒るよな と思ってモリヤの顔を見るが、それが怒っている顔ではないのだ。俺は なんとか、必死になって口を開けた。
「今日は昼だし、晴れてるよ。」
うん? とモリヤはにっこりした。俺は怖さを払いのけるように、言葉を継ぐ。
「なのにモリヤは、なんでそんなにハイになってんだ?」
おや と言ってモリヤは笑った。
「質問返しか。それはずるい手法だね。」
ずるい? くそ 言い返せん。確かにそうだからな。
「ぼくは夏休みの存在意義が、よく分からなかった。」
「は?」
俺は顔や体から、汗がふき出していた。歩いてて止まったからなのか、キョーフからか、定かでない。汗をダラダラ流しながら、モリヤの言葉を反芻してみる。夏休みの存在意義? なんだそりゃ。
「夏休みなんて、要る?」
「はあ⁉」
俺は··· 不思議なものを見る目でモリヤを見てしまう。夏休みのない学校なんて、学校じゃない!
「なつ···」
俺はゴクンと一度ツバをのみ込まなければ、言葉が出なかった。喉がカラカラで。
「夏休みが要らないとでも···?」
「だから存在意義が分からないと言っている。」
はあ??? 俺はじいっとモリヤを見つめてしまう。あり得ない発言。
「学校とは勉強する所だろ。他にも学ぶべきことはあるだろうが。それだって来てこそだ。休みを ひとつきも取って、何の意味がある?」
意味?
「···暑いからだろ。」
くっとモリヤは笑う。
「勉強できないほどではないよ。エアコンのある教室も多い。」
「·····」
「ひとつき休まなければ、その分課程が早く終わるし、卒業の日が決まっているというのなら、その分多く学べばよい。違う?」
「····」
違うだろう?? 夏休みは青春のトキメキだ! 絶対必要不可欠な要素だ!! ·····ケド。···そうか。人と関わらないモリヤは、夏休みなんて家にじっとしてるだけのことなのか····。
「ぼくは、ずっと不思議に思っていたのだけど。」
「ぶ、部活動に入れば良かったんじゃないか?夏休みは大事な活動の場だぞ。」
モリヤは笑った。
「ぼくが?」
「····。」
興味ないか。人と交わる最たるものだもんな。
「今回、ぼくはとても驚いた。」
「何に···」
気持ち悪いほど汗が流れる。目にも入ってくるものだから、俺は手ではらった。
「暑いの?」
暑いだろう。なんでそんな涼しい顔をしているのか。ほんとにモリヤの生体はナゾだ。
「まあ 暑いか。」
モリヤはちょっと上を見た。
「真昼だね。太陽が真上にある。帰るか。」
「ちょっと待て。」
「ん?」
「な、何に驚いたんだ。」
目に汗が入る。俺は目をこすった。
「汗だくじゃないか。」
「いや··· ちょっと」
モリヤが俺を見て笑った。
「帰らないのか?」
いろいろ気になって、こんな状態で帰れない。
「も少し話を···」
目のあたりを手の甲でぬぐいながら俺が言うと
「小川が矛盾人間なのは承知してるけどさ。」
モリヤは涼しい顔をして笑っている。
「ぼくは高揚しているよ?」
「···知ってる。」
「高揚中のぼくは怖いんだろう?」
「·····」
「そんなに汗だくで、まだ話をしようと?」
「こ、こんな中途で終われん。」
「ふーん」
とモリヤはにっこりして」
「脱水してしまうよ。」
確かに。喉がかわいた。でも
「ぼくも水が飲みたいなあ。帰ろうよ。」
「いやだ。」
もう意地になってしまう。
「ほんとにめんどくさいよね、小川って。···小川だからじゃないのかな。みんなそう?」
さあ? 知らん。モリヤは笑いながら、ため息をついた。
「うち、来る?」
モリヤの家···。
「ああ、ただ、食べ物はないよ、野菜しか。どうする?」
「行く。」
しか、ないだろう。くくく とモリヤが笑って
「おなか鳴ってるじゃない。なんか買ってくる?」
いい案だ、モリヤ。俺は頷いた。
「ふーん?」
おもしろそうに そう言って
「じゃあ、ぼくは先に帰ってるから。」
と歩き出した。ザ・気を使わない男! という感じでモリヤは、振り返りもせず自分の家の方へ向かって歩いて行った。俺もため息をついて、袖でぐいと顔をぬぐってから、駅の方へ向かって歩き出した。何しろコンビニ。食いもん買って、モリヤん家だ。はあーっと、もう一度、大きくため息をついてしまった。全く何やってんだか。どうもモリヤと付き合うと、行きたくない方、行きたくない方へ、進んでいってしまう。
けどもまあ、今は昼。今日は晴れ。森の家も、真っ暗ではないだろう。怖さは半減のはずだ。この前の大雨の日の泊まりの時よりかは、随分と気も楽だった。何しろあの日は、死ぬほど心の中で恐怖とたたかって、いやだいやだ、戻りたくない戻りたくないと思いながら、もう本当に必死の思いで決死の覚悟で、アイスを買ってモリヤん家へ戻ったんだった。それに比べりゃ、今日なんか、全然マシ!!
コンビニはメチャメチャ涼しかった。嬉しい。汗がひく。昼メシはパンでいいや。俺は、焼そばパンとメロンパン、それとカレーパン、ついでにコーヒー牛乳を持ってレジへ向かった。
モリヤはサラダを食うんだろうか。野菜しかないって言ってた。ほんとに毎日、野菜ばっかり食べてんのかな。心はどうにも肉食系みたいだけどな。なんてことを考えながら、お金を払って俺はコンビニを出て歩く。モリヤん家に向かって。
ああ暑い。又、汗が出てきてしまう。夏休みが要らないか。全くすごいことを言う。考え方が常人じゃない。
─────今回ぼくはとても驚いた────
なんだろう。何に驚いたんだろう。きっと、これまでモリヤは、驚くことも少なかったに違いない。やっぱり水本のことだろうな。水本に驚かされたってことだろうな···。それのせいか? その驚きが、モリヤをハイにしてんのか···?? ────とにかくだ。とにかく、少しでもモリヤのハイを収めとかないと。だって明日から夏休みだ。いつ雨が降るか分からない。明日から毎日、あの森の家でじっと一人、今日のこのハイのまま過ごして、そして雨が降ってしまったら········· モリヤは一体、どんな状態になってしまうんだろう·····?
そんなことを考えていると、俺は自然、早足になっていた。モリヤの家に着いた時には、ハアハアいっていた。もちろん又もや汗だくだ。ああ、痩せていく···。日の光を浴びた、真昼の森の家。
「モリヤ!」
ど呼ぶと、扉がひかれた。どうぞと声がする。一歩入ると───··· 光に溢れたりはしていない。やはり、なんか明るくない。もちろん、暗いわけではないけれども。モリヤは家に入った俺を見て
「あああ。雨でもないのに。」
と奥へ入っていった。うん? 雨でもないのに 何? それは俺のセリフだよ。雨でもないのに、なぜそんなにハイなのか。雨でもないのに、なぜモリヤん家に来なきゃならなかったのか。
モリヤは手ぬぐいを持って戻ってきて、俺に渡した。
「ん? 何?」
「汗を拭けよ。雨に濡れたようだよ。」
俺は礼を言って、顔やら首やらを拭いた。そうなんだよモリヤって、意外な親切。
そしてモリヤは、座ればと言った。部屋の中がよく見える。ああ、ありがたい。俺は床に座った。なんでか床はひんやりしていて、とても気持ちがいい。クーラーもない家なのに、ちっとも暑くない。
ふーっと俺は、息を吐いた。
「モリヤ」
「うん?」
モリヤは窓辺に立って、瓶に入った水を飲んでいる。
「なんか食った?」
「いや?」
「おなか減ってないのか?」
「減ってない。」
···このあたりも、なぞの生体。
「小川は減ってるんだろう。食べれば?」
「···ああ。」
俺は、コーヒー牛乳を飲みながらパンを食べた。ペロッと食べてしまう。
モリヤは窓辺に立ったまま、こっちを向いている。おなかが落ち着くと、気持ちも少し落ち着いた。さあ、なるべくモリヤの中に渦巻く、ハイな要素を出してもらおう。話をするぞ。 ····怖いけど。
「モリヤは」
俺は口火を切った。
「夏休みはいつも何してるんだ?」
モリヤは立ったまま、瓶を手に じっと俺を見た。一瞬沈黙してから
「特に何も」
「···何もってことはないだろう。1ヶ月もあるんだぞ。」
ふっとモリヤは笑った。
「何もない。だから意味が分からないと言ったろう。夏休みの必要性が、ぼくには分からないと。」
「····」
何も··。何もしない···? 俺は··· モリヤをじいっと見てしまう。毎日、今みたいに窓辺に立って水を飲んでいるのか···
「···出かけないのか?」
「出かけない。目的がない。」
「···買い物は···」
「何もいらない。」
俺は家の中を見回した。今日はスミズミまでよく見えるが、本当に何もない。
「さ、さんぽは?」
くっとモリヤは笑った。
「しない。小川はするの?」
しない。俺は首を横に振った。
「ほ、本は読むだろう? 図書館とか、行かないのか?」
「行かない。」
即答なんだ。
「古典、好きなんだろ? 本、好きじゃないのか?」
「だいたい教科書で、こと足りるからね。あえて借りにゆかなくても。」
教科書! 読書は教科書···! 俺はなんだか苦しくなってきた。こんな何もない家で、一人ぼっちで どこにも行かず、ひとつきも過ごしているのだと、俺が思いたくない。想像してしまうと、苦しい。
「モリヤ趣味は⁉」
「しゅみ?」
モリヤはちょっとポカンとして、それからクスクス笑い出した。
「な、なんだよ?」
「小川って、ほんとにぼくに興味あるんだねぇ? だからぼくの全てを見せてあげようかって言ったのに。」
ああ 又嫌がらせをかけてくる。仕方ないか。ハイだからな。嫌がらせでも、喋ると少し出せるみたいだから。
「ぼくには趣味なんてないけれど。小川の趣味は何?」
俺の趣味? 趣味は寝ること、なんて小学校の卒業文集に書いたな、確か。趣味··· う··· 俺にも、趣味とよべるようなものはないな···
「水本の趣味って何だろう。」
俺が答えないことなんか、モリヤは気にしない。うっとりタイムに入っている。
「歌かなぁ。楽しそうに歌ってくれるものなァ。ああ··· しばらく水本の歌を聞いていない。早く···早く雨が降らないかなぁ····。」
ヒューーっと、うすい風がきた。モリヤの方から···。それは、モリヤの匂いの風だった。水本の好きな、大好きな、モリヤの匂い。まるで モリヤのうっとりが、風になったような···。
怖い。とても、まずいと思う。もし明日にでも雨が降って、水本がここへ嬉しそうにやってきたなら、もうきっと、モリヤの歯止めは無いも同然。───── ピンが飛んだ気がした ···って·、モリヤが水本に言っていた。何のことか分からなかったが、もしかして歯止めのことか? 歯止めのピンが飛んだってこと···? すでに もう、飛んでしまっているのか??
俺は思わず、息も止まる思いで モリヤを見た。モリヤも気付いたように俺を見た。
「ぼくは、とても驚いた。」
聞いたことのあるセリフ。ああ、そうだ。これが聞きたかったんだっけ。
「何に、驚いたんだよ···」
嬉しそうなモリヤ。歯止めが飛んで驚いたか?
「とても、驚いた。だって夏休みが楽しみだと思ってしまったから。」
···!! ああ! そうか····
「飯盒炊爨だって。そんなもの、やりたいと思ったこともない。キャンプなんて絶対ごめんだと思っていた。なのに───」
ああ···· それで、夏休みの存在意義の話を·····
「夏休みが近付くにつれ、どんどん気持ちが浮わついてきてしまう。テスト前に雨が降ったあの時よりも、どんどん高揚が増してゆく。今日はもう、だめかと思った───。」
だめ····· だめって··· なんだ·····
薄く明るいモリヤの家。暗くもないし、雨でもないのに、俺のドキドキが大きくなる。苦しい。
スイッと窓辺から、モリヤが近付いてきて目の前で ストンと腰を下ろす。
「こんなじゃ、眠れない。」
華やかな笑顔でモリヤは言う。
「どんどんどんどん高揚が増してゆく。会ってはまずいと思った。でも会わずに帰るなんてできない。そうしたら、とても都合よく口実があったんだ。」
「口実···」
「そう。口実。飯盒炊爨の日時を聞くというね。もちろん、」
モリヤは嬉しそうに笑って、俺を見てる。
「もちろん、小川に聞けばすむ話なわけだけど。そこは口実だから。」
ああ 嬉しそう···。
「でも、いざ水本の顔を見たら、口もきけないんだ。高揚が過ぎて。ぼくは心から驚いてしまった。」
口をきけなかった···· そこまで···
「しかも、さすがに水本も ぼくの高揚に気付いたのか···気付いた··というか、なんか変だと思ったていどかもしれないが、何かを感じたんだろうね、ぼくをじっと見るんだ。真面目な顔をして、ぼくに視線をあてる。」
うっとりすぎる···
「あんなきれいな、朝つゆのような瞳で、ぼくをじいっと見るんだよ···。それで··· 高揚しているのか、とか、だからまずいのか、とか、聞いてくる。」
ふふふとモリヤは笑う。
「他の誰も、そんなこと聞かない。高揚してるのは一目瞭然だろうし、だからまずいのに決まっている。けど水本にはそれが、他のみなほど分からない。とても単純な問として、ぼくに投げかける。曇りのない、キレイな瞳で。」
俺の心はザワザワとドキドキが強烈に入り混じる。
「ぼくはその問に、真摯に答えなければ、と思うけれど、どう言い取り繕っても ぼくの気持ちはよこしまだからね。そもそも水本によこしまな気持ちなんて伝わらない。理解、できないんだろうね···。」
うっとり言うセリフでもないと思うが。うっとりすぎてセリフの意味が入ってきにくいぞ。
「水本は─── 飯盒炊爨、嬉しそうだったなァ····。」
─────匂いが····· 充満する··· 苦しいほどに····
「····モリヤ!」
「···ん?」
口を開けると、モリヤの匂いが口にまで入ってくるようだ。
「ま、窓を 開けてくれ···」
「開いてるよ。」
うそだろ? 開いててこれか?
「どうした? 暑いのか?」
嬉しさを引きずった様子のモリヤが問う。
「いや··· ちょっと、玄関開けてもいいか?」
「ああ」
と言ってモリヤが立ち上がった。
「匂いか」
と言いながら、玄関の扉を全開にしたくれた。今日は、あまり風がない。すぐに空気が逃げてくれない。
「おや。風が通らないね。」
モリヤはそう言うと、家の奥へ入っていった。ほどなく、サーッと風がぬけた。奥の窓を開けたらしい。
ああ良かった。空気が入れ換わる。匂いが薄まる。俺は思わず深呼吸。
モリヤが戻ってきた。サンキューと礼を言うと、モリヤはおもしろそうにニヤリとした。
「そんなにきつい? 匂い。」
「う···· ああ···。そうだな。だいぶんきついな。」
「だろうね。」
とモリヤが座ったら、又強く匂いが立った。
「水本は匂いを逃がすと···」
思い出すようにそう言って、モリヤはため息をついた。匂いが、きつい。風が通っていなかったら、窒息しそう。
「とても不安そうに···した。」
匂いが、すごい。
「行かないで···」
うっとりモリヤ。もう最上級のうっとり。
「そんなコトバ、一生のうちに、この耳で聞くとは、夢にも思わなかった。」
···確かに。そんな、ドラマの主人公が言いそうな、又は言われそうなセリフ···。一生聞かない人の方が多いと思う。うっとりと中空を見ていたモリヤが、ふいっと俺の顔を見た。
「まだアイシテルは聞けてない。次回は絶対言ってもらおう。」
何、このうっとり? 何、この強烈な匂い⁉ 次回だって。次回って、次水本と会う時ってことだろ。雨が降ったらか。雨が降って、水本がこの家に来たら、モリヤは水本に〝愛してるって言って〞と言うんだ····· 俺は背中のあたりが、ぞわっとした。怖い───。
しかし、家に来る時は、〝大雨が降ったら〞だよな? なら、もしかしたら降る前に飯盒炊爨になるかもしれない。30日までには一度くらい雨も降るだろうが、大雨になるとは限らないのだ。もう俺は、なんだか必死でそんなことを考えていた。
モリヤはモリヤで、しばしうっとりタイムを楽しんでいたようだが、不意に
「そういえば」
と言った。俺はドッキリ心臓がハネ上がる。
「六条御息所、読んでくれた? どうだった?」
ろくじょうの··· 源氏物語か···。俺はつい、しかめっ面になる。
「うん? 読んでない?」
「···読んだ。」
「そう。どうだった?」
なぜに六条御息所に執着か?
図書室で借りた本を、しばらく忘れていたが、古典の時間の終わりに先生が俺に近寄ってきて、一週間の貸し出し期限がくるよと教えてくれた。まだ読めてないのなら延長するといい、と。俺は古典の先生に好感を持ってしまった。とても親切だ。で、延長した。そしてテスト勉強の合間に読んだ。これが普段なら、全く読む気もしないのに、テスト前だと読めてしまうのだ。逃避行動だね。そしてこれが又、意外におもしろくて(すごく簡略化してあるというのも、あったと思うけど)、すぐに最後まで読んでしまった。ただ───。···六条御息所···の何が気に入ったのか···俺にはよく分からなかったのだ。魅力のほどが、よく、分からない···。そしてそして、それよりも若紫!! 湧井の言ったことがよく分かった。ひどい。確かにひどすぎる。湧井は、光源氏が紫にしたことを、モリヤに重ねていた。なんて恐ろしい発想なんだ··· そして、でもそれは、言い得て妙···
「小川?」
おっと、しまった。一人グルグルに迷いこんでいた。
「えーと···正直、なんでモリヤが六条御息所をいいと言うのか、分からなかったな···」
「ん? そう?」
「うん···。まあ、とても省略した本を読んだから、そう詳しくは書いてなかったと思うんだけど。」
モリヤがクククと笑った。
「省略しようがしよまいが、六条御息所と言えばってところだから。どんな人だったよ?」
どんな···
「高貴な人だろ。貴婦人? 年上で教養があって、近付き難い感じの人。···モリヤ、そういうの、好きなのか?」
「ハハハ。そこじゃないんだなァ。」
うん? そこじゃない? どこだ? なにしろ短い本だから、一人の人を、そう詳しくは···
「六条御息所と言えば、生霊だよ。」
いきりょう··· ···ああ、そうか、光源氏の正妻を生霊となって、取り殺したのだ。────そこ⁉
「···ちょ··· まて、おまえ···」
ぞっとした。モリヤは··· モリヤは、六条御息所の気持ちが分かるなァ、と言ったのだ···!! 生霊になるやつの気持ち⁉ 俺は恐怖を隠せない目でモリヤを見てしまう。モリヤは、そんな俺を見てにっこりしている。そして
「六条御息所の想いは強いよ。」
だよな。生霊になっちゃうんだもんな!
「生霊になりたいなんて、思ってはないんだ。でも、なってしまった。我知らずってやつだよね。想いが強すぎて、想いが暴走してしまって、コントロールできなかったんだね···」
─────コントロール不能···。 言ってた! モリヤそう言ってた···!! それ⁉ そこ⁉ 生霊になって恋敵を取り殺してしまうほど好きな想いを、コントロールしきれないと。 そんな···怖いことを、俺に言わないでくれよ···。 そしてそれ。モリヤの中の恋敵、嫉妬の対象って、俺や湧井じゃないの? 俺はじりっと後ずさってしまった。モリヤが笑う。
「怖い? 六条御息所?」
六条の、じゃねえよ。おまえだよ怖いのは。
モリヤはクスクス笑って大丈夫だと言った。
「ぼくはまだ、生霊になったことはないよ。」
だって。当たり前だバカ。
「でもねえ」
うっとり継続中のモリヤ。
「これも初体験だったんだけど───」
「···な、なんだよ?」
もったいつけずにズバズバ言ってくれ。モリヤの〝間〞って、ホント怖いんだから。
「〝知らなくて良かった〞と思ってしまった。そんなこと思ったのは初めて。知らない方がいい、あえてそう思うことが、あるなんてね。」
「···なにを···?」
なんか怖い。何を言うつもりだ?
「あの日、水本が小川の家に泊まったことを。その時に知らなくて良かった。泊まっているその時に、もしもぼくが知ってしまっていたらと、考えると 自分で自分が怖くなる。」
と言ってモリヤは笑っている。俺の、俺の心臓は、超絶にバクバクだ。モリヤが、自分で怖い⁉ いったい、どういう状態だよ??
「し、しっ 知ってたら、ど、どうなっていたと、思うんだ?」
怖い。こんな質問するのも怖い。でも、黙ってられたら、もっと怖い。モリヤは俺を見て、黙ってニヤリと笑ってから
「だから 六条御息所。」
バクバク バクバク 苦しい··· 怖すぎ···
「魂、抜け出てたかもね。ハハハ」
ハハハじゃねえよ。もうマジ怖い···。
「小川は早くから寝てたんだよね。夢に出るっていう手もあるし、眠ってるんなら取り殺しやすそうだよね。」
笑いながら恐ろしいことを言うんじゃない! 冗談に聞こえないんだから!!
風は通っているのに、モリヤの匂いは、強く強く充満する。この匂いがしたら、恐怖を感じるようになりそう···。
····ちょっとまてよ? 夢に出るっていう手もあるし?? 俺は···モリヤをうかがい見た。怖くて真正面から見れない。 夢に···· 夢に、出たぞ────⁉ そうだよ あの日、水本を泊めた朝、モリヤが夢に────!!
「どうした? 恐い顔して。」
モリヤがにっこり笑って言う。いや、まさかだろ? たまたまだよな? 俺がモリヤと水本のことを考えすぎてたから、モリヤを怖がりすぎたから、俺の脳が見せた夢だよな?? と、必死で思うのに、俺の思考と関係なく、心臓はバクバクだ。ああもう倒れそう····
「し、し、知らなかったよな?」
出る声はかすれている。
「何を?」
モリヤは余裕の声。
「み水本が泊まってたことだよ···」
「ん? だから知ってたら生霊になってたかもって話だろ。生霊、出てないだろ?」
怖さで俺は、モリヤを睨みつけてしまう。モリヤはクスクス笑った。
「出た? もしかして。我知らず? ぼくが、水本が泊まってることを第六感で知ってしまってたとか、考えてんの? バカな小川。そこまで考えすぎたら、心労で死んじゃうよ。」
ほんとだよ、死んじゃうよ。けど
「だって夢···」
息も絶え絶えだよ俺は。
「うん?」
とモリヤはちょっと目を見ひらいて、それからあでやかに笑った────。
「夢に出てきたんだ? ぼくが、小川の夢に?」
心臓バックンバックン。
「それはステキだ。」
俺は心臓を押さえてうつむいた。まじ苦し···
「モ、モリヤ、悪いが水を···」
水飲んでマシになるのかは分からんが、何もしないでじっとしてられない。苦しすぎ···。
手に瓶を握らせてくれた。黙ってするのやめてくれ。でももうすでにバクバクしすぎて、びっくりしてんだが、新たなドッキリなどない。これ以上ドキドキできない。心臓大暴れ。俺は、ぐっと水を飲んだ。一気に流し込んだ。体の中、喉から下へ落ちてゆく冷たい水を感じる。俺は大きく息をついた。いくぶんマシになったか···
「そんなに怖がらせてるつもりは、ないんだけどなぁ。」
すげえ楽しそうな顔で俺を見てモリヤが呟いた。
何がだ どこがだ! こんなキョーフ体験をさせといて···!!
「水本は」
俺が瓶を握りしめて、心臓を落ち着けていると、又もモリヤが口を開いた。たのむ、これ以上怖いこと言わんでくれよ···。
「ぼくと会えると嬉しいと言ってくれた。」
「え···」
「小川が毎日の貴重さを教えてくれただろ?」
毎日の貴重さ、か···。むしろそれを教えてくれたのは、モリヤだと思うけど···。
「これでもぼくは、小川に感謝することも多いんだよ?」
ウソつけ! 嫉妬ばっかり。嫌がらせばっかり。
「水本に会えることが嬉しいから、学校行ったら毎日顔を見に行くと伝えると、なんと水本が、自分も嬉しいから会いに行くと言ってくれたんだ。」
ザバンと大きな波がきたように、匂いがよせてきた。
「そうして本当に、毎日会いに来てくれる。ぼくが休みさえしなければ、毎日顔を見ることができるんだ。すごいよね···。だから本当言うと、夏休みがくることは、ひどく つまらないことのはず。だろう? そうだろう?」
圧が···。匂いの圧が押し寄せる。俺は思わず頷いた。が、ちゃんと意味を考えても、確かにそうだよ。元々夏休みの存在意義にギモンを感じていたモリヤが、水本と会えなくなるのなら、夏休みをいっそ恨んでもおかしくない。
「ところがだ」
ああ 匂いの波が、又押し寄せてくる。本気で酔いそうだ···。
「すごいよ小川。飯盒炊爨の楽しみが、まさってる。」
「う···」
確かにすごいとボンヤリ考えながら、俺は立ち上がった。足どりがしっかりしないままに玄関の方へ向かい、外へ出た。
深、呼吸。ラジオ体操でも、ここまで深呼吸したことない というぐらい、俺は何度も深呼吸を繰り返した。深く、深く。そうして森の家を振り返った。扉は開けっぱなし。
でもきっと、こうして外の空気を吸って、再び扉の内に入ると、ものすごい匂いが立ち込めていることだろう。匂いにまで恐怖を感じる。でも、戻らないわけにもいかない。
モリヤは顔を出すことはせず、家の中にいる。
まだまだ明るく、晴れている。大丈夫。絶対大丈夫。今は闇の家じゃない。そう何度も俺は自分に言い聞かせ、それでもしばらく··· きっと大分長いこと、外に立っていた。なかなか戻ることができない。足が動いてくれない。
まだまだ明るく、晴れている。そう、もう一度 強く心で思って、空を見上げた。青空。きっと明日も雨は降らない。良かった。明日はモリヤと会わずにすむ。晴れたら水本の心配もしないですむ。
今日は1学期の最後の日。一年で一番嬉しい日。高2のど真ん中。受験には、まだ間があり、学校生活を楽しむことにも慣れた、もう本当に、人生規模で言っても〝3大・楽しい日〞に入りそうな日だと俺は思っている。····なのに────。何これ? 何今日⁉ 真夏の昼下がり。最も暑い時間に外で立ち尽くして、焦がされそうな太陽の日差しを浴びている。
モリヤと俺は、現在対極にいるんだな。モリヤは毎年この日、1学期終わりの終業式の日は、次の日からひとつきも無意味な休みが始まる、ものすごくつまらない日なのだ。しかし今回、今日に限っては、最高にハイになってしまうほど楽しい日だ。ただ··· 今ここにいるのが俺じゃなく水本なら、それはもう3大楽しいどころか、人生1ほどの超ハイ状態の舞い上がった1日になっていたかもしれない。そうしてそこまで舞い上がったら···· 行き着く先の恐ろしさ。水本がとんでもない目にあわされていたかもしれない。····なんて、俺は考えてしまう···。
うん、そうか、そこまで考えると 今日の日は俺にとっても最悪ではない。···よな⁉ 誰かそうだと言ってくれ···。どんどん自信がなくなっていく···。だいたい、とんでもない目ってなんだよ···? 俺は大きくため息をついた。驚いた。俺のため息に合わせたように、すわっと一瞬 強めの風が吹いた。それをきっかけ!と心に決めて、俺は森の家の玄関をくぐった。
モリヤは窓辺に立って、こちらを見ていた。──────あれ?
強い日射しのもとから入ったので、やけに暗く感じた。もちろん物が見えないほどではない。モリヤの表情も見える。口の端が笑ってるように見えた。俺はびっくり仰天して、周りをキョロキョロ見回してしまった。
「小川って本当におもしろいね。」
窓辺からモリヤの声がした。顔を見ると、さっきより笑顔になっている。
「そんなにフラフラになって、まだ戻ってくるんだ。」
「当たり前だろ。カバン置いてるし。帰ろうとしたわけでもない。」
「そういうことではない。」
「····」
そういうことではないな。なんか分かるけどでも
「···それよりも」
俺は靴を脱いで上がっていった。部屋の真ん中あたりまで進んで
「モリヤ」
とモリヤの方を向くと「何」と返事がある。
「匂いはどうした」
ふっと モリヤが笑う。
「ヘンな質問」
確かに。しかし、そう聞くより他はないだろう。匂いをどうした? なんでなくなってるんだ?? あんなに充満していたものが、たち消えてしまっている。────なんで⁉
「匂いは⁉」
なくなったらなくなったで怖いのはなんでだ?
「今はない」
簡潔にモリヤは返す。
「なんで!!」
怖さゆえの強い口調である。
「さあ····」
さあって···? そらっとぼけてるな⁉
「なんで⁉」
もう一度俺は言った。
「さあね。···あああ。」
モリヤがつまらなそうに、ため息をつくみたいにそう言った。
「なに? なんだよ?」
「近いうちに雨が降るとする。水本が家に来てくれる。···けど、水本はガッカリするだろうなぁと思ってさ。」
「なんで⁉ 何を?」
パニックぎみ。いかん 匂いごときで。しかも、匂わないことで。いいじゃないか、匂わないんならそれで!と自分にいい聞かすが、この不安は何だ?? 俺の不安をよそに、モリヤはハハハハ!と軽快に笑った。
「決まってるじゃない。匂いがしないからさ。ぼくの匂いがないと、水本は見るも明らかにがっかりするんだ。」
がっかりするんだ、と言いながら嬉しそうに笑うんだな。けど、そうなんだ。水本はがっかりする。モリヤの匂いがないと、とてもガッカリする。そして アレ?と思っても水本は、もうモリヤに近付いて匂いを確かめることができない────。俺が水本の肩を持って押して遠ざけただけで、水本は泣くほど傷ついた。────それは、モリヤに払いのけられたことのトラウマでだ。だから水本は、もうモリヤに近付かない。意識的には絶対近寄ったりしない。水本の気持ちを思うと俺も心が痛むけれど、でも〝近寄らない〞っていうのは、俺的にはすごく安心要素。ただ気がかりなのは···なんか、無意識的に水本は、モリヤに近付くことがあるようなんだな··· モリヤの話によるとだけど···。多分ウソではなく、そして理由は分からない。自覚なく色香に迷ってフラフラと·····だったりしないだろうな?···というのが俺の気がかり。
「────なんで、匂いが消えた?」
改めて聞いてみる。
「出せないのか?」
出してほしくもないのだが、やっぱり聞かずにおられない。モリヤは今度は、さあねとも 知らないとも言わず、クククと笑った。
「出してほしいの?」
「いいや。」
「だろうね。」
モリヤは窓辺に立っている。俺は部屋の真ん中に立っている。
「匂いはなくなった。高揚も収まった。もう帰れば?」
「·····高揚、おさまったのか?」
「もう平常だよ。───小川は、着実に目的を果たすね。」
目的···? ···そうか。モリヤの高揚を収めること。それが俺の目的だった。確かに。自分の力で目的を果たしたとは思っていないけど。
「···なんで、収まったんだ?」
「·····」
モリヤは答えずに、俺をじろじろ見た。
「··なんだよ?」
「本当に分かってないのか、と思って。」
「分からないから聞いてるんだ。」
···いや? 前にも聞いたぞ。どうしたら高揚が収まるのか。あの時は確か··· コントロール不能の内にたまっているもの···を出したら、みたいなことを···。具体的には何も分からなかったんだな俺には···。ああ、けど、喋ると早く出るみたいなことも言ってたか。喋ったから、出たのか? 全部出て、高揚が収まったのか? モリヤのことは、ホント、なんだかよく分からん。
「···と、とにかく、落ち着いたんだな···?」
「そう。」
「····モリヤ」
「ん?」
「匂い、な、」
「うん?」
「なくなると、モリヤ自身に何か影響はあるのか?」
「影響?」
「しんどくなるとか···」
「何も。」
そうか。匂い··· 一体なんなんだろう。本当にモリヤ自身からたっている匂いなのか···? 体から?? そして高揚すると匂いも強くなるとか? そんな信じられない特殊生体なんだろうか···
俺は部屋の真ん中に突っ立ったまま、黙ってモリヤを見ていた。モリヤも俺の方を見ていた。これも窓辺に立ったまま。
長く··· そのままいた。モリヤと2人でいると、軽い金縛り状態じゃないのか?と思ってしまう事態に、よく陥る···。そろそろ帰らなければ。このままずるずる、暗くなるまでいてはやばい。モリヤも、もう帰ればと言ってた。帰らなければ。
「モリヤ。」
「···おや」
おや?
「なんだよ?」
モリヤは クッと笑った。
「それはこっちのセリフだよ。呼んだのは小川だろ。」
「··そう、だけど··。おやって言ったろ? なんだよ?」
「なんとなく小川の次のセリフ···沈黙を破る言葉を予想していてね。」
なんの遊びだよ···。
「··ん? それが、はずれたってこと?」
俺、〝モリヤ〞って言ったよな? 一番当たりやすいセリフと思うけどな。
「そう。はずれ。」
「何て予想してたんだ?」
もう一度モリヤはクククと笑った。
「もう帰る。」
「····」
「〝モリヤ〞の次は、何て言うつもりだった? もしかして〝モリヤ、もう帰る〞?」
「···はずれだ。〝モリヤ、明日は何をする?〞が正解。」
「は? なんだそれ。それは当たらないね。」
「そうか? まあ そうかもな。で? 何をする?」
「別に何も。」
モリヤはつまらなそうに答えた。
「家にいるのか?」
「出かけないって、言ったよね?」
言ったけど···。
「あ、あさっては···」
モリヤはゆっくり、少しだけ首をかたむけた。
「小川」
真顔で口を開ける。
「夏休みは学校が休みだよ。」
····知ってるよ。
「あさっても夏休みだよ。」
···知ってるって。
「出かけない。ついでに言っておくと、しあさっても出かけない。まだ30日じゃないからな。」
「·····」
ふふふっと不意にモリヤは笑った。
「···なっ なんだよ?」
「小川って、ほんと ぼくに興味があるんだね。会えない夏休みの、毎日のぼくのことを知っておきたい?」
「···そんなこと、言ってない。」
···ただ、俺は、モリヤの光の部分が知りたい。夏休みに一歩も家から出ず、一人ぼっちで家の中でじっとしているだなんて、想像したくもない。どうか、違うと言ってほしい。しあさってまでは例えばそうでも、その次の日は 少しは出かけるとか、言ってほしいのだ。
「30日は、飯盒炊爨だ。」
俺が言うと、モリヤは そうだよと言った。
「30日以外で大雨が降ったら、水本がここへ来るんだよな?」
「だろうね。」
「それ以外の予定は?」
「小川」
モリヤはため息をついた。
「何もないと言ってるだろう。何? 何を言ってほしいの?」
「·····」
沈黙が森の家に満ちた。
「小川が言った以外の夏休みの予定は、ぼくにはない。それが全てだよ。もういいかい?」
「····」
「小川?」
「····分かった。」
モリヤは窓辺に立ったまま、じいっと俺を見ている。
「分かった。もう帰る。」
俺は言って カバンを取り
「今日のところは。」
と、付け足した。モリヤが ほんの少し顔を動かし
「ん?」
と言った。
「又 来る。いいだろう?」
「は?」
モリヤが驚いた顔をした。
「なんで? 何しに?」
「··つ·· つきあいのある者同志は、夏休み中、会ったりするものなの、だ。」
「···はぁ?」
「モリヤは!」
「え?」
「俺と付き合っていると言ったよな?」
「····まあ、そうだよ。」
「じゃあ、いいよな。」
「小川」
「いいな?」
「どうした?」
「····俺のがモリヤより常識があるよ。モリヤも前にそう言ってたよな?」
「言ったけど。」
「夏休み中、付き合いのあるもの同志が会わないのは、常識的じゃない。」
「常識的にいこうとも思ってはいないよ。急にどうした?」
「どうもこうもない。モリヤは今まで人と付き合いがなかったんだろ? だから夏休みも 人と会わなかった。今回は違う。水本とも俺とも付き合いがあるから、飯盒炊爨も行くし、その他の日も会ったりする。そういうことだ。」
「うん? ·······ああ、3人で会うということ? 水本が来る雨の日に、小川も来ようと言っているの?」
「なるほど、それもありだな!」
「何? 違うのか?」
珍しく、ほんとにモリヤが 分からないという顔をした。
「とりあえず あさって来る。」
なぜ明日でないのかというと、二日連続は俺の身がもたないからだ。身、というか、精神がな。
「明後日? 小川がここへ来るの? 一人で?」
「そうだ。午前か午後か、どっちにする?」
「来て何すんの?」
「····トランプとかしてもいいけど···」
「しない。」
だろうね。
「じゃあ 話を。」
モリヤは··· 少し沈黙した。じろじろ俺を観察するように見て
「ふ────~ん···」
と言った。直後に微笑。
「なら来れば。ただ」
俺はギクリとした。モリヤの〝ただ〞は、怖いぞ···? しかも、ここで黙る。
「ただ何だよ?」
にっこりとモリヤが答える。
「ただ、歓迎はしないよ。小川には、変な勇気があることは認めるけれどね。」
俺はぐっと言葉につまりながらも、ここも、だろうね とは思った。もとより、歓迎してもらえるとは思っていない。俺は扉まで進んでいって振り向いた。
「じゃあな。あさって···昼から来る。」
クッとモリヤが笑った。
「自らそんなしんどい約束をすることないのに。へんなの。明日、丸一日後悔するんじゃないの? まあ 気が変わったらやめにすればいい。連絡はいらないよ。」
キレイに笑ってモリヤは言った。
「俺はウソツキだけど約束は守るんだよ。」
モリヤの笑い声を背中に聞きながら、俺は森の家を出た。
ちくしょう。モリヤの言う通りだぜ。もう今から後悔している。明日丸一日、絶対しんどい思いをする。────けれども俺は、ここへ来るのだ。
次回 夏休み初日ぐらい小川くんだって楽しみたい。




