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ウワサのモリヤ  作者: コトサワ
15/48

惑溺

雨が降ったら、やっぱり水本はモリヤの家に行く。前回の出来事を、忘れたわけではない。水本の心には痛みが残っている。それでも水本はモリヤの家に行く。そんな水本の今回の森の家訪問は…?

先週雨が降ってモリヤの家に行った。その週末の日曜、モリヤとピクニックに行った。そして今週の今日、又 雨が降った。

終礼が終わったら モリヤがオレの教室に来てくれた。悲鳴のような歓声は 窓辺に鈴なりになった隣のクラスのやつら。でも それも毎度のことだと、結構慣れてしまう。

モリヤは オレの机の前に立って、にっこり笑って言った。

「帰ろうか。」

オレはうなずいて立ち上がった。すごい歓声。

カバンを持って立ち上がり、湧井さんの方を見た。湧井さんもこっちを見ていた。そして真面目な顔をして手を振った。オレは笑って手を振り返した。今日は大丈夫。"顔かして" じゃない。"帰ろうか" だから。オレはモリヤと連れ立って教室を出た。悲鳴があがる。一体何を考えてるんだろう。こんなことで 何かを発散してるのかな。

下駄箱の所まで付いてきてるやつがいたが、本降りの外までは出てこなかった。

オレとモリヤは 傘をさして歩いていく。

「モリヤ」

オレが声をかけると、モリヤはにっこり振り向いた。今日は機嫌が良さそう。とまどってないのかな。

「何?」

「日曜日、4人で遊びに行こうって 小川くんが言ってたよ。」

「おや。もう決めてた?」

「うん。モリヤが行ってもいいって言ってたって。ホント?」

「行ってもいいって言ったよ。計画次第って言ったつもりだったんだけど。小川はどこに行くって言ってた?」

「海か山って…。」

モリヤが笑う。

「そこはまだ決まってないんだ? 水本は行きたいの?」

「みんなが行きたいと思ってるんなら、オレはとっても楽しみだけど…。」

「そうか。なら行こう。」

「いいの?」

「どうして聞くのかな。」

「だってモリヤ あんまり人と出かけたりしないよね? 行きたいと思っていると思わなかったから。」

「水本が行かないんなら 当然行かないけどね。この前のピクニック、すごく楽しかった。小川と湧井サンのことは、ぼくは気にしないから。」

…気にしない? …どういう意味だろう…。

「…小川くんと湧井さんのこと、好き?」

「いいや。」

「えっ」

モリヤが又笑った。

「どうして驚くの? ぼくは別に、2人と友だちでもない。」

「…そ、そうか…。でも 小川くんとは同じクラスだし、中学の時も一緒のクラスなったことあるんだよね? それに この頃小川くんとは 話を…」

言いかけて 口ごもってしまった。話っていっても、小川くんはオレのことで 抗議に行ってたんだ。す 好きじゃ、ないか…。

「思いの外ね」

「え?」

「思いの外 小川はおもしろいと思った。あんな風に誰かと話したのは、水本以外初めてだったから 少し驚きがあったな。」

驚き、かあ…。でも 行ってもいいと思うんだ。そうか。別にそれでいいのかも?

「湧井サンも行きたいと言った?」

「"もちろん行く" と言ったよ。ちょっとびっくりしてしまった。小川くんだって 湧井さんだって、そんなに行きたがるとは思ってなかったから。」

「あの2人は行きたがると ぼくは思ってたよ。」

「へえ?」

「でも あの2人だって、ぼくのことは好きではない。」

「え⁉」

「行きたがるのは、見張るためだよ。監視目的。」

そう言ってモリヤは笑った。

「見張る? 何を?」

「決まってるじゃないか。ぼくが水本に悪いことしないようにさ。」

悪いこと⁉

「そんなことするわけないじゃないか。」

オレは笑わずに言ったが、モリヤは笑っている。

「あの2人は、すごく疑ってるよ。」

「ううん。」

オレは首を横に。

「確かに、オレが倒れたりケガしたりしたのを モリヤのせいって言った時もあったけど、もう疑ってないはずだよ。だって いちいち小川くんが、モリヤに話しに行っただろ。…モリヤには 迷惑をかけたけど、でも毎回小川くんは誤解だったと納得して帰ってくるよ。」

真面目に、一生懸命言った。それでも やっぱりモリヤは笑っている。

「いいんだよ 疑っても。むしろそれは当然だと ぼくは思っている。」

「なんで‼ いつも、とんだ濡れ衣じゃないか!」

モリヤは にっこりオレを見ている。

「水本」

「なに。」

「あの2人は 水本が大好きなんだよ。」

「…それは、知ってるけど…」

「だから しょうがないんだ。」

「‥‥‥」

「いいんだよ。ぼくは全く気にしていないし それに」

「…それに?」

「ちょっとでも腹が立ったら ぼくは小川に意地悪をして憂さ晴らしするから。」

「ええ⁉」

ハハハハとモリヤは笑った。じょ 冗談か…。びっくりしてしまう。

「あ」

「うん? どうした?」

モリヤが笑って聞く。本降りの雨の中 いい匂いが立った。嬉しい。今日も匂いは消えてない。エヘヘと オレも笑ってしまう。

今日は いい日になるといい。この前みたいのは どうしても避けたい。…多分、オレが変なこと考えて モリヤに近付いたりしなければ 大丈夫だと思うのだけど‥‥。

何度考えても どうしても答えはそこにたどり着く。オレが モリヤをつかんで顔を近づけたりしなければ、モリヤが怒る‥‥怒ってないって言うけれど 怒ってないにしても 急にオレを追い出したりは、しなかったはず。だって、そこまでは 機嫌が良かったもの。

さあ、雨の向こうに 森の家が見えてきた。

少し、形が変わったように見える。繁る葉っぱの具合かなあ。

モリヤが鍵を開けた。どうぞと戸を押す。オレは モリヤの顔をじっと見た。

「どうした?」

オレが戸の前で、モリヤを見て動かずにいたので モリヤが聞いた。

「具合はどう?」

オレはそう言った。モリヤは にっこり笑って

「とてもいいよ。」

それでもオレが 動かずにいると、

「機嫌もいい。さあ 入って。」

「うん‥‥」

オレは ようやく戸の内へ。戸が閉まると、やっぱり真っ暗…。どうしてこんなに‥‥

モリヤがオレの手から、閉じた傘を取った。

「あ、ありがとう。」

もう 見えなくなってしまったモリヤに、オレはお礼を言った。いつものように タオルを渡してくれて その次に着替えを渡してくれる。着替えると ようやく少し人心地。今日も少し暑いけど、モリヤの家はやっぱり何かひんやりしている。オレは いつものように、扉を入って右手にいた。森の香り。うっすらと。手探りで壁を確かめ、オレはもたれて座った。そう、壁に触ってたらいいんだ。自分の位置が分かって落ち着く。

しばらく2人とも黙っていた。気まずい感じはしない。雨音がしている。今はどしゃ降りではない。サーサーという音。きれいな雨音。オレはモリヤと出会って 雨が好きになった。 

「水本」

離れた所から、モリヤの声がした。多分 窓辺。これぐらいは オレにも分かるのだ。へへへ。

「うん?」

オレが返事しても しばらくモリヤは無言だった。あれ? 今 呼んだよな? この森の家は、不思議な空間だ。何か少し、全てが夢のよう。オレは、もう一度聞き返すことはせずに 黙っていた。名前を呼んだだけなら それでもいいや。聞き間違いなら それでもいいや。時間は いっぱいある。

オレは、黙って雨音を聞いていた。絶え間なくサーサーという音がしていて、合間に葉っぱに当たってはじかれている雨粒の音がする。これまで こんなに雨音に耳を澄ましたことなんてなかった。気にもしていなかった。

静かで、キレイな雨音がBGMで、外は暑いのにここはひんやりしていて、空気が清浄で、森のいい香りがして、真っ暗で、気持ちよくて、…寝てしまいそう。

声を出さずに オレは笑った。ダメダメ寝ては。モリヤに眠らされたことになってしまう。オレが ぐうたらで寝ているのに、きっと一度は疑いがモリヤにかかる。気持ちよくても 居眠り禁止。ハハハハハ。

「あ」

オレは思わず窓辺の方向を向いた。モリヤの匂いが 流れてきた。モリヤがまだ窓辺にいるかどうかは分からないけど。

良かった。今日は多分、ホントに機嫌がいいんだ。

───水本 自覚ある? だいぶん変なこと言ってるよ?────

匂いが モリヤの気分に反応しているみたいってオレが言った時、湧井さんにそう言われた。確かに 自分でも変だとは思うんだけど。でも、そんな気がしてしまうんだから しょうがないなあ。

「水本」

また窓辺の辺りから声がした。

「うん?」

オレも同じく答える。 

「水本は」

あ、次の言葉がきた。気のせいじゃなかった。

「ここへ来るの、嫌じゃなかったの?」

「?」

なんて意外な質問…。

「どうして??」

「だって、前回来た時 あんなことがあって ぼくは水本をひどく泣かせてしまったのに。」

「えっ⁉」

瞬間的に パーッと顔が熱くなった。

「オ、オレ、モリヤに泣かされてない…」

「泣かせてしまったよ。何度も…。」

「ち、違う! あれは… あれは オレが なんか 変で…」

声が小さくなってしまった。

「そ、それに、もう そのことは お 終わったことだし… モリヤこそ… まだ気になってた?」

「終わったこと、なんだ…」

ドキッとしてしまう。終わらせたら いけなかったのかな… でも… でもモリヤだって もうこの話は終わりって そうあの時言って… ピクニックの時は 全然そんな話 でなかったし‥‥

「だ、だめだった…?」

「いいや。不思議だっただけ。そう。ほんとに終わったことにしていいんだ。」

‥‥‥表情が見えないから 真意が分からない。勝手に終わらせるなってことなのか? 違うよね…?

「…モリヤ…やっぱり何か 怒ってるの…?」

「違うよ。」

即答。

「水本は‥‥‥すごいなあ…。」

「え?」

分からない。何を言ってるのか。何を言おうとしているのか…。

「ありがとう。」

モリヤの言葉とともに ふわぁっと匂いが舞った。うわあ いい匂い…。ああ、いやいや それよりも、

「なんのお礼?」

「水本へのお礼。」

「? そうじゃなくて‥‥」

モリヤが笑うのが分かった。

「日曜に行く場所は 小川が決めてくれるんだね。」

話題を変えてきた。

「そ、そうだと思うけど…。」

「水本が選んだ滝は とても良かったなあ。」

「! ほんと? …虹が見えなかったけど…。」

「見えなくてもいい。本当に良かった。あんなキレイな滝は 初めて見たよ。」

「ほんとう⁉ よかった‼ オレも、すごく楽しかった!」

「ぼくもだよ。又行こうね。」

「うん! 同じ所でいいの? 違う所探そうか。」

「どっちでもいいよ。水本が選んでくれるのなら どこでも。」

「…うん。探しておくね。」

よかった。滝は正解だったんだ。真水が好きなんだもんな。あ。

「モリヤ」

「ん」

「こんどの日曜、小川くんが 海か山って言ってたけど、海でもいいの? 塩水だけど…」

「いいよ。泳ぐわけでもないんだろうし。」

そうか。海開きもまだだしな。海の水飲むわけでもないし。

「そうだ、小川くんがね、分担があるって言ってたんだ。そんな話をしたの?」

「分担? 何の?」

「おにぎりの。」

「おにぎりの?」

あれ? 2人で決めてたんだよな?

「小川くんのおにぎりは湧井さんが、モリヤのおにぎりはオレが作って、小川くんとモリヤは 飲み物担当だって。…違った?」

一瞬 間があって、モリヤが笑った。

「そう 小川が言ったの?」

「うん。違う?」

「いいや。そんな話をしたよ。飲み物までは 言ってなかったかな。」

「そう? それでいいの?」

「いいよ。」

「おにぎりの具 変える?」

「同じがいい。」

「分かった。」

オレはにっこりした。おにぎり おいしいって食べてくれたもんな。そりゃ あんな滝のそばで食べたら、何でもおいしいに決まってる。だから明日、湧井さんと小川くんに おにぎり作って持っていくけど、教室で食べても あの時のようには、おいしくないと思うんだけど。

「オレ 明日おにぎり作るんだ。」

「ん? 水本のお昼ごはん?」

「というより 湧井さんと小川くん。」

「‥‥‥」

「ピクニックの話、した時に湧井さんもオレのおにぎり食べたいって言って。日曜に作ろうかと思ったんだけど、小川くんが分担って言ったから。」

「‥‥‥」

「だから明日、作ることにしたんだ。小川くんは、ついで。ハハハ。モリヤもいる?」

「‥‥‥」

あれ?

「いらないかな。」

そういえば モリヤってお昼、何食べてるんだろう。

「ぼくも、ついで?」

「んー。そうだね。モリヤのおにぎりのメインはピクニックだから。教室で食べても そんなにおいしくないだろうし。おいしくなかったら残念だから、ピクニックの時にしとくよ。」

「いる。」

「え?」

「ぼくも、ついででいいから作ってほしい。」

「ほんとに? いるのなら作るよ、もちろん。具を変える?」

「あの2人は 何の具?」

「何でもいいって言ったから 家にあるもので…。」

「じゃあ、ぼくは変えないで あの2人の具は違うものにしてくれる。」

「? どうして?」

「同じが嫌だから。」

「?? いいけど? じゃあ そうする。」

「うん。また水本のおにぎりを食べられるなんて、とても嬉しい。しかも普通の日に。ありがとう。」

「えへへ。そんなもので喜んでくれるなんて、オレも嬉しい。」

穏やかな会話。モリヤが ずっと窓辺で話してくれてるから、ドキドキしなくてありがたい。あ、また匂いが流れてきた。いい匂いだなあ。幸せ。

そういえば、小川くんも湧井さんも そんなにいい匂いとは思わないって言ってたな。なんでだろう。こんなにいい匂いなのに。単に好みの問題なのかなあ。とても不思議。

「小川くんがね、この前モリヤと話してた時に とてもモリヤの匂いがしたと言ってたよ。」

「うん。どんな匂いか知りたいって言うから、襟元を開けてどうぞと言ったら 鼻を近付けてきたよ。」

「えっ!⁉」

ドッキリしてしまった。

「水本ったら どうしてそんなに驚くの。」

「えっ、いや、あの… お 小川くんが 近付いてないって… 話してたら 勝手に匂いが立ったって、言ってたから…」

「へえ? そう言ったんだ? 近付いてきたよ。」

「‥‥‥」

‥‥‥襟元を開けて どうぞ‥‥

どうして‥‥ オレが近付いたら振り払ったのに 小川くんなら どうぞ、なんだ… ‥‥匂いが 戻る時に 制御がきかなくて危ないから、振り払って 追い出した、みたいなことを言ってたと思うけど そこんとこは、オレには 結局、よく意味が分からない。小川くんにどうぞと言った時は 匂いが戻る時じゃなかったから よかったってことなのか? なら、今なら、モリヤに近付いても、オレでも モリヤに近付いて 顔を寄せても、振り払われないってことなのか? ‥‥‥。 やっぱり できない。 ‥‥ふーん… 小川くんは 近付いて顔を寄せた。そしたら 匂いがした。

「水本? どうかした?」

「どうもしない。」

オレにはそんなこと してくれたことない。

…あれ? なんか、やきもちみたい。いかんいかん。小川くんに「ほらな」って言われてしまう。違うから。恋人枠じゃないから。そういうんじゃないんだ。そういうんじゃなくて。ホレタハレタではなくて。モリヤは‥‥。モリヤは‥‥‥‥ うーん‥‥

「水本?」

窓辺から 又、声。

耳元でもないのに 少しびっくりしてしまう。考えすぎていて。

「小川くんのこと好きじゃないなんて ウソじゃないか。」

自分でも思いがけない言葉が 口から出てしまった。

「どうして?」

「好きじゃない人にそんなことしない。」

「そんなことって?」

「…襟元を開けて どうぞ なんて…。」

「そうかな? それぐらい するんじゃない?」

「しない。」

‥‥‥いかんぞ。これは いよいよやきもち発言だ。そうモリヤに思われてしまう。…けど、湧井さんも やきもちやいたって言ってたな。オレのこと 友だち枠で好きでも、妬いたりするってことだ。じゃあ オレのやきもちも大丈夫かな。ホレタハレタにつながらないかな。湧井さんが妬いちゃったって言っても、オレは湧井さんに惚れられてるとは 思わなかったもんな。…言い方もあるか…。よし。ここはひとつ 誤解される前に、湧井さんの真似をして

「ごめんごめん やきもちやいちゃった。」

ハハハと笑って 言ってみた。少しがんばってしまったけど。

「うわ⁉」

すご‥‥ モリヤの… こ、こんなに離れてるのに(多分)‥‥

降ってくるみたい。押し寄せてくるみたい。濃密な、香気が…

「う…。」

濃度が強すぎて 香気が重… …息が、苦し…

「水本‼」

左の手首を ぐいとつかまれた。

「大丈夫か?」

大丈夫? 何が?

息、できた。すごい匂いが、酸素と一緒に入ってくる。すごい。オレの内部まで モリヤの匂いに染まってしまいそう。

「水本?」

左手首は持たれたまま。でも きつくじゃない。痛くない。

「水本… 返事して…?」

「…うん…」

ああ、目の前に モリヤがいる。見えないけど 確実にいる。手首持たれてるし。声がするし。匂いが、すごいし…。

あはは すごいや。やきもちやくことなかった。ああ。いい匂い。すごすぎる。

オレは 無意識に右手を伸ばした。少し 朦朧としている。なんでだろう。頭がはっきりしていない。夢の中のような…。ただ、とてつもなく、幸せ。

オレの右手が モリヤに触れた。ああ これは モリヤの顔。首…。

と 思った時 覚醒した。ハッとしてオレは、右手を引っ込めた。

しまった…

でも 完全に よけてしまえない。オレの左手首は、モリヤにつかまれているから。

「モ‥ モリヤ… オ、オレ… ご、ごめん…」

ああ… どうしよう…‼ 絶対に 絶対に 二度と同じ過ちは繰り返すまいと 心に誓っていたのに…‼

「ご、ごめんなさい…」

謝るしかない。でも 謝っても もう、遅いかも…

モリヤのため息が聞こえた。 もうだめだ‥‥

オレは いつ振り払われるのかと かたくなっていた。でも モリヤは、オレの左手首をつかんだままだ。オレは観念して 目をつぶっていた。つぶっていようが 開けていようが、見えはしないんだけど。

モリヤは まだオレの手首を離さない。なかなか振り払われない。振り払われるのが怖くて ドキドキしてしまう。

シュ───ッと音がするように さらに香気が舞う気がした。すごい。すごいけど… せっかくすごいけど 今はドキドキしてしまって、単純に喜べない。せめて 何か言ってほしい‥‥

「水本」

ビクウッとなってしまった。今 自分で 何か言ってほしいと思っていたというのに、言われて 飛び上がりそうになるとは…。

まぶたに何かが触れた。モリヤの 手??

オレは息もできないほど ドッキリしてしまって 顔を引いてよけようとするけれど、後ろはすぐに壁なので 頭が当たってしまってよけきれない。

「どうして 泣くの…」

オレはもう今は 目をいっぱいに見開いていた。モリヤの手が まだ目の下に触れている。

「…泣いてなんか…」

モリヤの指が オレの目の下をなぜた。

「ほら 涙が…」

「で  でてない…‼」

いや? 出てるのか? もうなんだか よく分からない。ドキドキして クラクラする。

「どうして 謝るの?」

「え⁉」

と言ったオレの声はかすれていた。声すらまともに出てくれない。

どうして?

「モ‥‥モリヤを触ってしまった… ごめん…」

「どうして触ってはいけないの?」

ええ???

「ぼくだって水本に触ってるよ。ほら」

言ってモリヤは オレの左手首を そっと握り直した。

「そ、そ、そうだけど でも オレは‥‥」

「…泣かないで…」

「ええ⁉?」

もうパニック状態で、わけが分からない。泣いてない 泣いてない 多分オレは泣いてない。多分… もう よく分からないけど‥ でも 泣くわけないんだ‥‥

「ああ…」

とモリヤが ため息のように言って 笑った。

「ぼくは 矛盾している…」

むじゅん??

モリヤは つかんでいた手首を離して、オレの手を握った。右手も左手も。フォークダンスの最初みたいに。いや、小さい子にするみたいに。

「触ってもいい。泣いてもいい。謝らなくていい。何も悪くない。ね?」

「‥‥‥」

モリヤが オレの手を握っている。オレのこと、振り払わなかった。帰れって、言わなかった。

「‥‥怒ってない?」

「怒るわけがない。ぼくの方こそ、又 手首つかんでしまった。アザにならなきゃいいけど。」

「…ならないよ。全然痛くつかんでない。」

「分からなかっただけかもしれないから。」

「ううん 大丈夫。‥‥まだ いていい?」

「もちろんだよ!」

良かった! ああ やっと少しホッとした。ほんとに もうだめかと思った。天国と地獄になるとこだった。天国… まさに天国だったなあ…。匂いの洪水。今までで一番すごかったかも…。

「あ‼」

しまった‼‼

思わず叫んでしまったオレの手を、モリヤがそっと離して置いた。

「どうした?」

心配そうに聞く。

「タオルを持ってくるのを忘れた‥‥」

ああ…! しまった‼ ほんとに失敗! もったいない。こんなに、こんなに盛大に 香ったものを…。前回 決めてたのに。タオルを2枚持ってこようと…。今思い出しても もう遅すぎる…。

「タオル? どうして? 何に使うの?」

「…匂いを…」

「え?」

「制服の、上着もベストも 着なくなってしまったから、モリヤの匂いを タオルに染み込ませようと思って…。持ってきて 掛けとこうと思ってたのに 完全に忘れてた…」

ものすごく ガッカリ。

「‥‥‥」

開襟シャツは 汗かいてしまったよなあ…。なんて残念な… 今年いちの 残念度だ。

「‥‥ぼくの、匂いを?」

「え?」

「匂いを 染み込ませるって…?」

「ああ… うん、モリヤの家に来た時ね、制服をいつも掛けておいてくれるだろう? それで モリヤの家で すごく香りが立つと、制服の上着とかベストとかに 匂いが染み込むんだ。帰り道でも 家に帰っても 匂いがする。次の日の朝になっても 学校に行っても。ずっといい匂い。ずっと‥」

ずっと モリヤがそばにいるみたい。っていう言葉はのみ込んだ。恋人みたいな言葉は禁止。

「だから この前来たときに、次回はタオルを持ってきて掛けとこうって 決めてたんだ。なのに…」

オレはバカだ。次回こそだ。次回こそ絶対だ。今日ほどの匂いが 立つかどうかは分からないけど…。もう 今日帰ったら、カバンに入れとこう。毎日持ち歩いとこう。そしたら絶対忘れない。

今もずうっと モリヤの匂いが立ち込めているのに、その匂いを揺らして 又 新たに匂いが巻き上がった感じがした。ああ…! すごい‼ もったいない…!

いいや。今はこの匂いを 全身に浴びとこう。思う存分、味わっておくんだ。せっかくの香気。

オレは上を向いて 何度もゆっくり深呼吸をした。

「…そんなに‥‥」

小さい声がした。

「え?」

「そんなに…か…。」

又だ。重ねて匂いが立つ。ふわあっと舞い上がるように。ああ… すごい…‼

天国。オレの天国だ。

天国… ボキャブラリーがだめなやつか? 天国、いいか? えーと 楽園? 極楽? 理想郷? ガンダーラ? ジパング 黄金の国‥‥ ワンダーランド、パラダイス?? ハハハ あやしくなってきたぞ。

ああだめ。頭がおかしくなりそう。いい匂いすぎて。幸せすぎて。今日来て良かった。雨降ってくれて ありがとうだ。大感謝。

ああ なんだか …なんだろう… お酒飲んだことないけど 酔っ払ってるみたいなかんじ…なのかなあ… 酩酊って多分こんな感じ。モリヤの香りに酩酊。気持ちいい。このまま眠ったら どれだけ幸せな夢が見れるだろう…。いやいや ダメダメ。居眠り禁止! 寝てしまうのも もったいないしね。

やきもちやいてごめん! 小川くん、オレが幸せを一人占めだ。

ゴクンと 少し離れたところで音がした。モリヤは又 窓辺に移動していたようだ。

「モリヤ…」

「うん?」

「水、飲んでるの?」

「うん。」

ゴクン。

「…調子、良すぎる?」

「良すぎる。困ってしまうほど。」

「困ってるの? 抑えないといけないほどに? 大丈夫‥‥?」

「うん。水で少し 抑えておくよ。」

「…良すぎて暴走しそうなのか? 暴走したらどうなるの?」

ふふふと モリヤが笑っている。

「オレがいるから抑えないといけないんなら、帰ってもいいよ? モリヤがしんどくなったら困るから…」

「水本が いなくなる方が困る。」

「ほんとう? そうなの? 無理をしたら嫌だよ?」

「うん、分かった。無理しない。でも暴走は、しないに越したことはないんだよ。だから水を飲んでおくね。」

そう言った後、ゴクンゴクンと音を立ててモリヤが水を飲んだ。

結局 暴走したらどうなるのかは、教えてくれなかった。前にも確か 聞いたけど、その時も答えは分からなかったんじゃなかったかな。言いたくないようなことなんだろうか。

「おなかすいた?」

とモリヤが聞いた。

「ううん。すいてない。」

なんだか香りで おなかいっぱい。満腹感がある。とても。

「あ、モリヤ すいたの、おなか?」

「いいや 全然。」

「そうだ。」

「何?」

「雨の日もオレ、おにぎり持ってこようか? そしたら2人で食べれるけど…」

「それはずるい。」

「え⁉ 何が⁉」

モリヤは笑った。

「ぼくが料理するのは 拒むじゃないか。では こうたいごうたいにする?」

「‥‥‥」

多すぎる…! 2回に1回食べさせてもらうのは、あまりに厳しい。

「そうしていい?」

「い、いや… だ、だってモリヤ、ほんとうに たまにって…そう、約束したよね…」

「うーん。その約束は まだいきてるんだ。ぼくだって作りたいのに。」

モリヤの声は、笑っている。

「う‥‥ じゃあ オレも、ほんとうにたまに…にする…から…」

「そうか。う~ん‥ それはそれで少し残念だなァ。」

なんだかモリヤ 楽しそうだな…。

「うん?」

とモリヤが言った。

「どうして笑っているの?」

と。モリヤこそ。オレは声に出して笑った。

「モリヤが楽しそうだから 嬉しいんだよ。でも、ごはん作ってくれるのは やっぱり本当にたまに、でお願いします。オレもそうするから。」

いい匂いが巻き上がる。

「ふふふ。じゃあそうする。残念だけど。でもぼくは本当は、水本が来てくれたらそれでいいから。」

へへへとオレは笑ってしまった。嬉しくて。嬉し照れ笑い。モリヤってば、その発言はちょっと恋人っぽいぞ。誤解を招いてしまうぞ。なんちゃって。オレしかいないんだから大丈夫。オレが誤解しなければ それでOK。

今日のモリヤの家訪問は とてもいい。とてもいい感じ。とにかく匂いがすごいし。そういえば 雨が強くなってないな。むしろ雨音が小さくなっている。今日は そんなに降らないんだろうか。‥‥やんでしまうのかな。やんだら‥‥帰れって言われるだろうか…。もう少し… いたいなあ‥‥。

モリヤは まだ窓辺にいるんだろうか。それなら当然 雨が弱まっているのも、気付いているだろうな…。

───────どうして‥‥

‥‥どうして 強い雨の日に、オレを家に呼ぶんだろう‥‥‥

────水本が来てくれたら それでいい‥‥

オレが来ればいいのか…? それだけで? う~~ん… やっぱり なんでなのか分からない。オレが ここに来たい理由は、明確なんだけどな。まずは 雨が降って学校休んでしまうほど調子がいいってどんななのか、知りたかった。けどそれは 結局今もまだ分からない。でもオレは 重要なことを知ってしまった。雨の日のモリヤの家では いつもの比でないほど、ものすごうく すさまじい香りの立つことがある。いつもより強い香りの立つ確率が とても高い。これは 来たいよな。絶対来たいに決まっている。でも オレの方は‥‥ もちろん、いい匂いなどしないし 暗くては目も見えないし 目が見えないと1人で何にもできないし あげく いつもモリヤに迷惑をかけている‥‥

「‥‥‥‥‥」

…考えれば考えるほど、ほんとにそうだな‥‥‥。やばい… なんか 落ち込んできた。自分ばっかり楽しんで。今日なんか死ぬほど幸せ満喫してしまった…。こんなに幸福感をもらっといて、オレって何にも返せないんだ。何か… 何か できないだろうか… ‥‥‥‥‥‥うわ‥‥ なんにも 思い付かない‥‥‥ とりあえず モリヤの家では、何にもできないしな‥‥ 暗くて動けないんだから…。

「何考えてるの?」

「ひゃあ」

言ってしまって オレは口を押さえた。又変な声を出してしまった。だから耳元はびっくりすると…。オレは声の側から じりじりとよけた。

「モモ モリヤ…」

「うん?」

モリヤの声は笑っている。

「モリヤは… えーと…」

「何か 聞きたいことがある? ようやく あやしさを追及する気になった?」

「うん? だからモリヤは、あやしくなんかないよ。でも 聞きたいことはあるんだ。」

「何?」

「えーと… その… オレ、いつも モリヤんちで何にもしてないよね…。あの、いいことは、って意味。騒いだり 迷惑かけたりはしてるけど、モリヤが喜ぶようなこと 何にもしてないなと思って…。モリヤ、どうしてオレのこと 呼んでくれるの?」

「‥‥‥また‥‥」

「え?」

「うん、いや。」

そう言ってモリヤは笑った。

「また意表をついてくるなと思ってさ。」

「意表?」

「ぼくはいつも喜んでいるんだけどな。分からない?」

「‥‥うーん… 機嫌いいなと思う時はあるけど、でもそれは オレのせいではないと思うし…。喜んでいる? 本当に? 何を?」

「そこかあ…」

モリヤは声を立てて笑った。おかしいこと言ったかなあ?

「他に山ほどあるだろうに…。」

モリヤは笑いながら言う。山ほどある… 何が?

「大体 ぼくがお願いして水本に来てもらってるんだよ? 来て下さいとお願いして いいよ、って来てくれているのに 喜んでいないわけがないじゃないか?」

オレは首をかしげた。

「そもそもなんで オレに来てほしいって思ってくれるの?」

アハハハハと モリヤが笑った。

「直接的すぎるよ。そこは聞かない方がいい。」

「え? どうして?」

「水本は…」

「うん?」

「いや、いいんだ。とにかく ぼくは、水本が来てくれることを喜んでいる。だから 何にもしてないとか思わなくていいんだよ。何かしてほしくて呼んでるわけでもない。」

「…そうなのか? …でも… オレばっかり 幸せをもらっていては、不公平のような気がするから…。」

「幸せ?」

びっくりした声でモリヤが言った。

「幸せをもらってるって? ぼくに⁉」

「え? そうだよ? 今日なんか 天国と思ったよ。」

「天国⁉」

モリヤが本当に驚いている。そのことに オレはびっくりしてしまう。

「何が? どこが?? ぼくの方こそ、何もしていない。泣かせてばっかりで…」

又顔に血が集まる。泣かされてないって言っても、ちっとも認めてもらえない。

「きょ 今日は泣いてないから…。そ、それよりも 今日は、今日本当にすごく匂いが盛大だった‼ モリヤ、自分で分かる? 本当にすごかったよ‼ オレ本当に天国と思った‼」

「匂い‥‥‥‥」

ス──────ッと 水が下から溜まっていくように モリヤの香りが充満してきた。今日は一体 どれほど香るんだろう。

「…ぼくの匂いで 水本は天国に行けるんだ? …お手軽だねえ…」

どんどん 匂いの水位が上がってくる。水位じゃないか。香位?

「お手軽じゃないよ。この匂いが こんなにすごく香るのはキセキなんだ。だって他には こんなことない。ここだけ。モリヤだけ。しかも いつもでもないし。奇跡で神秘の天国だよ。」

だめだ。溺れそう。オレは慌てて立ち上がった。でもだめ どんどん どんどん 香位は上がってきて、もう口もとまできてしまった。 溺れる─────! ‥‥溺れる? 香りに?? 香位が頭を越えた。 …息、できる? …これは… できて… ない─────

ゴ‥‥‼ と風がふいた。香気が波立つ。そして 押し流されるような気がした。ああ… 流れていってしまう… 行ってしまう…? モリヤ‥‥

「…モ …モリヤ…」

手が、つかまれた。左手、続いて右手。

「モリヤ…?」

「水本 大丈夫? 息、できてる?」

「う? うん。できてるよ… モリヤ…」

「うん?」

「モリヤ、行かないで…」

「‥‥どこにも行かないよ。どうした?」

「香りが… どこかへ行ってしまう。流れていってしまう… どうして…」

「流したからだよ。窓を開けて吹き流した。」

「どうして…?」

「強すぎたからだよ。危ないから。」

「もったいな‥‥」

オレは香りが流れていってしまう方を、振り向いた。振り向いたって 何も見えないのに。

「水本、しっかり… 足に力入れて」

そういや ふわふわしているな。立っているのにふわふわしてちゃあ 危ない。ぼんやり そんなことを頭の中で思っているけれど、ふわふわした感じは止まらず。モリヤに両手をつかまれたまま、オレは香りを追いかけて 香りの流れていく方向に、身をよじった。

「水本‼」

モリヤの力を感じた。オレの脇にモリヤの腕がすべりこんできて 支えられたような‥‥ でもなんだか どうもよく分からない。支えられてるのか かつがれてるのか そんな状態でオレは、ずるずると座り込んでしまったようだ。

「水本…。」

モリヤの声が聞こえる。

流れていった。香りは流れていったはずなのに、まだすごい匂いが立ち込めている。まるでモリヤから ザブザブと涌き出て、そうしてそのまま 窓の外だか扉の外だかに流れていってしまうみたいな。

「モリヤ…‼」

オレは 怖くなってモリヤを呼んだ。モリヤこそ危ない気がして。こんなに香りを出しちゃいけない。こんなに流してしまっては いけない。モリヤがなくなってしまう‥‥

「モリヤ‼」

「どうした? 水本、ぼくはここにいるよ。」

両肩に モリヤの手のひらを感じた。肩を持っているんだモリヤが。オレの手に モリヤの服が当たった。きっと胸の辺。オレも両手でそれをつかんだ。

「モリヤ もうだめだ。これ以上 匂いを流してしまっては… モリヤが 消えてしまう‥‥」

オレの肩を持つ手に 力が入った。

「水本…」

その間も ドクドク ドクドク モリヤの匂いは流れていく。濃い匂いが 流れていく。

「どうしよう… どうしたら止まる?」

オレの声は ふるえていた。

「心配しなくていい。ぼくは消えたりしないから。」

優しい声が聞こえる。

「大丈夫。水本、大丈夫だから。落ち着いて‥‥」

「でもこんな… こわい‥‥」

とめどなく匂いが出てきてしまう。こんなのは初めてだ。嬉しいのを とうに超えてしまっている。

「止めて‥モリヤ…!」

ぎゅうっと モリヤのシャツをつかんだ。でも、止まらない‥‥ どうしよう… どうしたらいいか分からない。

「怖くないよ水本。ぼくの言うことを、よく聞いて。水本 キンモクセイって知ってる?」

「キンモクセイ‥‥」

「そう。キンモクセイ。秋に咲く花。草花じゃなくて、木に咲く花。」

キンモクセイ… ああ。10月ごろに いきなり町をその香りでいっぱいにする花だ。オレンジ色の…

「知ってる…」

「あの花、ものすごく盛大に香るだろう?」

「…うん…」

「突然 香りのフタを開けたみたいに。カオリの大放出。ね?」

「うん…。」

「あっという間に花は落ちる。当然 匂いもなくなる。でも 消えてなくなるわけじゃない。次の年も又 驚くほどの匂いを振り撒く。そうだろう?」

「‥‥‥」

「同じではないけれど、そういうものだと考えて。ぼくの匂いも ものすごく出てしまっても、完全に消えてなくなったりはしない。」

「‥‥‥」

「匂いはなくならない。もちろんぼくも消えたりしない。ホラ、ちゃんといる。」

モリヤは 肩にあった両手を、オレの手にもってきて握った。オレは モリヤのシャツを離す。

ドクドク ドクドク

まだ匂いが こぼれ出てきている。そしてそれを、風が押し流す。オレの心臓も、ドクドクいっている。キンモクセイと同じと聞いても、怖さはなかなか退()いてくれない。オレは必死になって、つかまれた両手で モリヤの手をつかみ返していた。

モリヤのこと つかまえておかないと、モリヤごと匂いと一緒に風が持っていってしまいそうな気がして。怖くて────。

力が抜けない。オレは固まってしまったみたいに じっと、ぎゅっと、モリヤの両手をつかんでいた。

匂いは まだ止まらない。ドクドクドクドク… 一体どこまで‥‥‥ オレの心臓も ドキドキドキドキ 体は固まって動かないのに 心臓だけが、強く激しく動いている。苦しい…

「水本… 少し 横になろうか。」

「いやだ‼」

モリヤが少し笑った。

「どうして?」

「て、手を離したら どこかへ行ってしまうんだろう?」

ドキドキ ドキドキ

「行かないよ。ここに座っているから。」

「だって 分からない。オレには見えない。」

「絶対いるから。じゃあぼくのこと、つかんでいたらいい。」

そう言ってモリヤは そっとつかんでいるオレの手をはずした。力を入れて握っていたはずなのに、簡単にはずれてしまった。

「モリヤ‼」

「大丈夫。ほら、いるよ。」

言いながら 固まってしまっているオレを、床にそうっと倒した。

「モ…」

モリヤが オレの手のひらを持った。

「ここにいるから。少し眠って。落ち着いて。ぼくは水本が起きるまで ここにいるから。」

体が動かなくなっていた。オレはどうなってしまっているんだろう。変わらず匂いはドクドク、オレの心臓はドキドキ。苦しくて目をつぶった。でも

「寝るわけには いかないんだ。」

「どうして?」

座っているモリヤから、声が降ってくる。

「又 モリヤのせいになってしまう。オレは絶対寝ないんだ。」

ドクドクドクドク。ふふふとモリヤが笑う。優しい笑い声。

「大丈夫だよ。水本が寝ようと思って寝たのなら、誰もびっくりしないだろう?」

「‥‥そうか…。うん… そうだ。寝る気もないのに寝てしまうから 怖かったんだ。‥‥じゃあ‥‥ 大 丈夫…」

モリヤがギュッと 手をつかんでくれている。ようやく少し 匂いも 心臓も 落ち着いてきたかもしれない。もしかしたら 睡魔で分からなくなっただけかもしれないけれど。


しん とした暗闇の中で、目があいた。

しじま という言葉が浮かんだ。何の音もしない。暗闇で目をあいたまま オレはしばらくぼんやりしていた。

ふわっと匂いがした。

「あ‼」

オレは ガバッと体を起こした。右手を床に着いて。左手は‥‥ 手を、つないでいた。その方向を振り向く。

「おはよう。」

にっこりとした声とともに、香りが舞った。

「モリ‥‥」

そっと手が離された。シュワッと オレは赤くなってしまった。…手を… ずっとつないで‥‥。

「水本… 気分はどう?」

気分…?

「…どうも…。」

「なんともない? 気持ち悪くない?」

「…なんとも、ない…。」

「そう。良かった。」

香りがふんわり。

「水本、覚えている?」

「何を…?」

「眠る前のことを。」

眠る前…。オレ、寝てたんだ… どうして‥‥ なんだっけ。何があったんだっけ‥‥? ここは モリヤの家。オレ モリヤの家に来て… それで すごく すごく いい匂いがして 楽しくて… で‥‥ えーと‥‥ 匂いがどんどん 強くなって…

「‥‥モリヤが… 眠ったらって言って‥ オレ… 寝たらだめだと思ったんだけど 自分で眠るのは構わないって、モリヤが言ってくれた‥‥よね?」

「うん。」

「そうだなと思ったのは覚えてるけど‥‥ なんか記憶が はっきりしない… オレ、なんか変なこと、言った…?」

「いいや。天国の話は覚えてる?」

「うん。覚えてるよ。その後が‥‥」

少し ドキッとしてしまった。なんか モリヤのこと、つかんだような‥‥

「モ、モリヤ?」

「うん?」

「…オレ… モリヤを…つ、つかんだ? 又、触ってしまった?」

「ああ。つかんでたよ。」

「‼ ご、ごめん‼ よ、よく 覚えてないんだ… なんか ゆ、夢の中のようで… オレ なんで… あ、ああ、ごめん… 怒ってる? ごめんなさい… あっ」

オレの肩を、モリヤがつかんだ。オレは驚いて 息が止まってしまう。

「ぼくが こうやって水本の肩をつかんだから、水本はぼくのシャツをつかんだんだよ。ぼくの方が先。何も謝ることはない。もちろん怒ってもいない。」

「そ、そうなの…?」

なんで 記憶が、こんなにあやふやなのか…

「オ、オレ… なんで寝ようと思ったんだろう… 眠たかったっけ…」

「眠いというより 少し気分が悪そうだった。多分 香りに酔ったんだと思う。」

「香りに酔った?」

「そう。あまりに匂いが強すぎたんだね。ぼく自身、あの強さは初体験だった。」

「そ、そうなの? 大丈夫? モリヤ、体調は…」

「ぼくは大丈夫。ただ 匂いは、どんな匂いでも 強すぎると少し酔ってしまう。そういうものだよ。水本は ぼくの匂いに酔ってしまったんだ。ごめんね。」

「ほんとう? 匂いに酔ったりするかなあ? 大好きな匂いで…?」

「うん。いい匂いと思っても 度を超すとね。」

「ふうん…。でも モリヤが謝ることはないと思う。」

ふふふとモリヤが笑った。そして言った。

「水本 今日は泊まる?」

「えっ⁉ あっ‼ 今何時⁉」

「10時半ごろ。」

「ええっ⁉ 10時半?‼ うわあ 又やってしまった…! ごめん オレ、帰らないと…」

もう… オレのバカ…‼

「遅くなってしまったんだから 泊まってもいいのに。」 

にっこり笑っているような声でモリヤが言う。

「と、泊まるって 家の人に言ってないから…。それに…」

「それに?」

「明日の朝は おにぎり作らないといけないから。モリヤのも 作るからね。」

言って オレは立ち上がった。すでに どっちを向いているのか分からない。

「そうか。やっぱり帰るんだ。‥‥雨もあがってしまったしね。仕方ない。」

モリヤがそう言って、オレの背中に手をおいた。

「玄関はこっち。」

背中を押して 連れていってくれる。モリヤがしてくれるままに、カバンや制服を受け取り 靴を履く。傘を渡されたところで、重大なことに気が付いた。

「ああっ!」

「どうした?」

「ごめんモリヤ…。歌を、うたっていない‥‥!」

「ああ‥‥。」

モリヤはそう言って笑った。あれ? どうして?

「ごめんな。今、歌おうか?」

涙の歌。

「ハハハ。いいよ、今日はもう。次回の楽しみにとっておこう。」

「ほんとう? ごめん。ホントに何しに来てるんだか‥‥」

「充分すぎるほど楽しかったよ。これまでの人生一幸せな日だったかも。」

オレも笑ってしまった。人生一だなんて。モリヤったら。オレが落ち込まないように 言ってくれてるんだな。

「ありがとう。」

オレがお礼を言うと、モリヤが戸を開けた。

「今日も暗いね。送ろうか。手を引くよ?」

ええ?? 手を…?

「う、ううん。大丈夫。ありがとう。」

ふふふとモリヤが笑っている。これも冗談なのかなァ…。

「今日もいろいろ迷惑かけてしまったのに、楽しかったって言ってくれてありがとう。次回は 歌うよ。」

扉の外で 振り返ってオレがそう言うと、見送りに出てきてくれたモリヤが

「言ってあげたんじゃないよ。本当に楽しかったんだ。次回も とても楽しみにしている。では又明日ね。」

外は暗いけれど、家の中みたいに真の闇ではない。うっすらとモリヤの姿が見える。表情もにっこりしているように見える。

「うん。又明日。」

オレがそう言って歩き出そうとすると

「ああ、水本」

と、モリヤが引き止めた。

「うん?」

「明日から 少しの間 匂いが変わると思うけど、又戻るから心配しないでね。」

「そ、そうなの? …変わるって、分かるの?」

「分かる。でも 大丈夫だから。」

「‥‥‥分かった。」

モリヤが手を上げた。オレも答えて手を上げて、そして暗い道を歩き出した。

ほんとに遅くなってしまった。まだ電車はあるけど。12時とかになってなくて良かった。‥‥ほんとに モリヤの匂いに酔ったんだろうか‥‥。確かに ものすごく匂いがした、という気はするんだけど クッキリと覚えていないのが悔しい。

少し歩いただけで 汗が出てきた。モリヤの家はひんやりしていたけど 外はむし暑い。汗をかいたら ふわあっと匂いが立った。

「あっ!」

と 一人で叫んで立ち止まってしまった。モリヤの匂い…! まるで オレから匂いが立ったよう…‼ オレはモリヤに借りて着ているシャツの裾をめくって 顔に近付けた。

ああ‥‥‥‼ 

すごい…。あんまり匂いが染み込んだので、汗をかいたら匂いが 水蒸気とともに立ちのぼった という感じ。モリヤみたい。モリヤになったみたい。ああ なんてすごい…。タオルよりもむしろ良かったのかも。貴重なモリヤ体験…。幸せ…。

オレは幸せを 噛みしめ 噛みしめ 歩いて行った。明日、モリヤの匂いは 変わってしまうと言う。明日… このシャツを 制服の開襟シャツの下に着ていってやろうか。多少汗かいてても 1日くらい平気だろ。そうしたら、明日は一日中 モリヤ状態だ。

すばらしい思い付き! 嬉しい。なんて幸せな帰路───。



「水本こっちへおいで。」

と モリヤが言うから、オレは立ち上がって モリヤに近付いた。

深い水をたたえた川辺だった。水は 青く澄んで深い。ゆるやかに流れている。

「さあ」

とモリヤが 手を出した。

「手を引こう。」

とモリヤが言う。

「どうして?」

オレは首をかしげた。

「明るいから見えるよ?」

モリヤはふふふと笑う。

「だって 水本一人だと、浮いてしまうだろう。」

浮く?

「さあ」

と もう一度モリヤがうながすから、オレは分からないままに手を出した。その手を持って モリヤが川に向かって進んでいく。そうして静かに 水に足を踏み入れた。

「水に入るの?」

手を引かれながら オレが聞くと

「水だと思う?」

とモリヤが言う。川だもの。水だよね?

モリヤはずっと進んで行く。川は深くなっていく。水面があがってゆく。膝 お腹 胸…。肩… 喉…

「…モリヤ…」

モリヤは 止まらず進んで行く。オレは慌てて息を吸い込んだ。

口… 目… 頭…

水面は頭のてっぺんを越した。モリヤはまだ進む。泳ぐのではなく ずっと川の底を歩いて。

振り向いて 「見てごらん」 と目でオレに言う。美しい 水の中の世界。青く透明で ゆらゆらしていて 振り向いたモリヤがにっこり笑う。オレも笑い返したら 息を止めていたことを忘れてしまった。 あ、水が 口に入ってきてしまう… と思ったのに、入ってきたのは すばらしい香気だった。

いい匂い。モリヤが笑う。

モリヤの香気に満たされて オレは目が覚めた。部屋に 匂いがいっぱいになっていた。

こんなに気持ちのいい目覚めがあるだろうか。

こんなに幸せな朝があるだろうか。


口笛でも吹いてしまいそうな スキップでもしてしまいそうな心持ちで、オレは学校に着いた。

だって オレ、モリヤみたい。自分から あのいい匂いが立つなんて! 

下足場で 上履きに履き替えていると、ギャーッと聞こえた。このところ 毎朝ギャーギャー大騒ぎ。今日はまた激しいなと思ったけど、気にしてたら教室にたどり着けないので オレはいつものように教室に向かって つき進んで行った。ギャーギャーと聞こえる隙間に「水本おまえ…」とか「モリヤが…」とか、時々聞き取れる。耳が痛いぐらいの大騒ぎだ。やっとこさ教室にたどり着くと オレはホッとした。教室内にまでは付いてこない。誰が決めたルールなんだか。でもありがたい。

湧井さんが もう来ていた。しかめっ面で おはようと言ってきた。オレは笑って おはようと言った。

「モリヤが登校したみたいなのよ。」

と湧井さんが しかめっ面のまま言うから、オレは笑ってしまった。

「今日は雨降ってないから。」

とオレが言うと

「それで みんなが水本を待ってたみたいなの。」

と湧井さんは言う。

「どうして?」

「水本を問い詰めるんだって。」

「問い詰める? 何を?」

オレは廊下側の窓を見た。窓にも入口にも 違うクラスのやつらが、今日も鈴なり。問い詰めようとしているのか? でも それぞれが口々に何か叫んでいるもんだから、何言ってるのか さっぱり分からない。

「下品すぎて 口にするのもイヤ。」

怒ったように 湧井さんが言った。

うわあ… なんだか 怖いな。今日は一体 どんな下品なウワサが‥‥。

ひときわ歓声が高まったと思ったら 小川くんが入ってきた。

「水本 えげつないことになってるぞ。」

「‥‥‥」

えげつないって何?

「…お、小川くん おはよう…」

ああ 核心に触れるのが怖い。

「おはようさん。」

小川くんは 一呼吸おくようにそう言って、湧井さんを見た。

「湧井もおはよう。」

「おはよ。ウワサを伝えにきた?」

「モリヤの様子を伝えにきた。」

「えっ⁉」

と言ったのはオレ。

「モリヤ どうかしたの?」

「えげつないんだ。」

「モ、モリヤが えげつないって何? どういうこと??」

不安になってしまう。何があったのか。

「色気がえげつない。」

「ええ⁉」

色気がえげつないってなんだ⁉

「…超色っぽいってこと…?」

「超どころかよ‼ だから えぐいんだって‼」

えぐい 色っぽさって何⁉

「お、小川くん、見たの?」

「ああ。」

「い、色っぽかったの…?」

「えげつなくな。」

ひょ~~~~

オレは思わず教室の扉を見る。すかさず小川くんが オレの腕をつかんだ。

「行くなよ?」

「え…」

「だから今 水本が行ったらそれこそ、えげつない騒ぎになるって。」

「だって… 見たい…」

「昨日 ずっと一緒にいたんだろ? 昨日も色っぽかったんじゃないのか? 今朝急に あんなにならんだろうよ?」

「うん? いや… 昨日は別に色っぽいとかは…」

すっごい いい匂いはしたけれど。

「ほんとかあ? ‥‥昨日は どうだったんだよ?」

「え… だから 色っぽくなかったと…」

「色気の話じゃなくて。倒れたり ケガしたり しなかったのか?」

「うん。しなかった。ただただすごく いい匂いがして…」

オレはへへへと笑ってしまった。

「モリヤが すごく楽しかったと言ってくれた。」

「‥‥‥」

予鈴が鳴った。小川くんが

「じゃあな。」

と言って戻ろうとしたので、オレは慌てて言った。

「小川くん、お昼一緒に食べるよね。おにぎり持ってきたよ。」

小川くんは 振り返ってオレを見て、今日初めて笑顔を見せた。

「やった! 今日は 早弁OKだな。サンキュー水本。」

そう言って 教室を出て行った。

湧井さんを見ると 真面目な顔をしている。そしてポツンと言った。

「私も見たいなあ。」

「え? 何を?」

「えぐい色気のモリヤ。」

「え⁉」

「なんか 想像つかない。自分の目で見てみたい。」

「オレも! すごうく見たい。昼休みに一緒に見に行こうよ。どっちにしろ、オレ モリヤに用事あるんだ。」

「うん。じゃあそうしよう。一緒に見に行こう。」

そう言って、ようやく にっこり笑った。


なんか想像つかない と 湧井さんが言ったけど、ほんとにそう。オレにも全く想像がつかない。色っぽい なんて、オレ モリヤに感じたことないけどな。そんなわけで、今日も授業はうわの空。ハハハ。やっぱりオレ、日毎にバカになるかも。

けど‥‥ そんなに色っぽいんなら、モリヤって今 モテモテなのかなあ‥? 交際申し込みが 殺到してたりして…  オレは、ハッとした。もしも モリヤに恋人ができたら… もうオレとは、これまでみたいに付き合ってくれないかも。いや、付き合ってはくれないだろう。だってやっぱり、多くの時間は恋人に割かれるものだ。

えぇ~~? それはちょっと イヤかも‥‥‥。 いやいや そんなこと、考えちゃいけない。でもオレ、きっと その恋人に嫉妬するだろうなあ‥‥。


4時間目は古典の授業だった。

もちろんこの時間も オレはうわの空で、ボンヤリとモリヤの色気のこととか モリヤの恋人のこととか 考えていた。やきもちだって。バカなオレ。

モリヤの匂いに対して オレは贅沢になってるかもって この前思った。モリヤ自身に対しても オレは贅沢になっているのかもしれない。森の家に呼んでくれる、雨の日に呼んでくれる そのことを、とてもすごいことだと感じたのに。もう何度も家にあげてくれた その事実を喜んだらいいのに ああ呼んでくれたことがあって良かったと。なのに もう呼んでくれなくなる、となると、喜ぶ気持ちを忘れて 逆に悲しむなんて。オレの他の呼んでもらえる人に やきもちをやくだなんて。

「だけど これは 出逢わなければ良かった、ということではないでしょう。」

不意に先生の声が耳に飛び込んできた。驚いてオレは顔を上げた。授業は、百人一首をやっていた。黒板に 歌が一つ書いてある。

"逢ひみての後の心にくらぶれば昔はものを思はざりけり"

逢ひみての‥‥ なんだかその文字に オレは吸い寄せられる気がした。

もう 逢う前には戻れない。オレはモリヤに逢ってしまった。そして そう、逢わなければ良かっただなんて 絶対に、思わない。出逢えて 良かった。

たとえ この先、家に呼ばれなくなっていったとしても‥‥ たとえ モリヤの恋人に、とても嫉妬してしまったとしても‥‥。


「水本 行くよ。」

4時間目の終わるチャイムが鳴るが早いか、湧井さんがオレの席まで飛んできた。

ぼんやりしていたオレは、慌てて湧井さんと連れ立って 隣のクラスへ走った。急がないと、小川くんが来て 止められてしまうから。

隣の教室に入るなり、割れそうな歓声が上がる。さすがに ひるみそうになったが、湧井さんがずんずん進んで行くから オレも気を取り直して進んだ。モリヤの席まで。

「やあ。」

と モリヤがにっこりする。大歓声。湧井さんは 真剣な目でモリヤを見ている。オレも一生懸命モリヤを見た。観察するように。

‥‥‥色っぽい? えげつなく?

「だから なんで来るんだよ⁉」

小川くんが、自分の席からぶっ飛んできた。

「用事があったから。」

オレの声は周りの声に かき消される。でもモリヤは

「用事って何?」

と にっこりオレに言った。

「うん‥‥」

色っぽいモリヤが見たかった。のと、匂いを… 変わってしまっているはずの匂いを 確かめたかった。でも この距離では匂いは 感じられない。‥‥オレは、近付けない。これ以上は。

諦めて 手に持っていた物を、モリヤの机の上に置いた。

「おにぎり どうぞ。」

モリヤは、銀紙に包まれているおにぎりを見て オレの顔を見た。

「嬉しい。ありがとう。」

キレイな笑顔。と、ともに フワッと匂いが立った。‥‥本当だ。違う方の匂いになっている。

一瞬 周りが シンとなった。

驚いてオレは、周りを見回した。叫んだり ヤジを飛ばしたりしていたやつらが、息をのんでいるように見えた。

「水本、湧井、隣へ行くぞ。」

小川くんが、オレと湧井さんの腕を持って引っぱって歩いた。

オレはモリヤを振り返った。モリヤがにっこりと手を上げた。

ギャーッっと 堰を切ったように叫び声が上がった。

小川くんは オレたちをぐいぐい引っぱって、隣のオレたちの教室まで 止まらず進んで行った。


「もう… なんで湧井まで一緒になって…」

椅子に座って一息ついた小川くんが言った。

「見たかったんだもの。」

と湧井さんが真顔で言った。

「見たいって… モリヤをか?」

「えぐい色気のモリヤをよ。」

「‥‥‥どうだった?」

一瞬 小川くんと湧井さんは真顔で見つめあっていた。後、湧井さんがため息をついた。

「…えぐかったわ。」

「えっ⁉」

と 声を出してしまったのはオレ。小川くんは黙って湧井さんを見ていた。

「湧井さんほんとう⁉ モリヤ色気あった⁉」

「え?」

と言ったのは 今度は湧井さん。

「怖いくらいだったじゃない。人が変わったみたいだった。」

「ええ⁉」

「ちょっと待って。水本はそう思わなかったというの?」

「‥‥オレ、分からなかった…。匂いは違ってたけど…。」

「匂い…。そっちが私には 分からなかったわ。‥‥本当に 水本は、少しも色っぽいと思わなかったの?」

「‥‥‥‥いつも通りと思ったけど‥‥」

湧井さんと小川くんは 顔を見合わせた。

「‥‥湧井は、色っぽいと思ったんだ?」

なんだか真面目な顔をして、小川くんが言った。

「うん。驚いた。なんだろう、あれ…?」

色っぽい? えぐい色気? 分からない。そもそも色っぽいって何だ? 色気って何? 混乱してきたぞ…

「ドキドキしたのか?」

と、小川くん。

「ドキドキ…? う~ん… うわあって思った。こっち見ないでって感じ。人によるかもだけど、あの手の色気は 女子高生にはきついかも。」

「きついって何だ?」

「女子高生は、男子に色気より爽やかさを求めてると思うんだよね。(注)人による、だけどね。」

「ふうん?」

小川くんは、ちょっと不思議そうにそう言った。

オレは黙ってた。モリヤは、女子より男子に人気(にんき)ってこと? そしてオレは、どっちにしろ 色気自体を感じられない…。

「オレって 不感症なのかな。」

「うっ⁉」

と変な声を出したのは 小川くん。

「水本 そんなこと口にしちゃダメ。」

と真面目な顔で 注意したのは湧井さん。

「特にモリヤに言ってはダメよ。」

「‥‥言わないけど、どうして?」

「なんかモリヤ怖いよ。水本がそんなこと言ったら、確かめてあげようか とか言いそうじゃない。」

ガタガタッと 小川くんが椅子から落ちそうになった。

「大丈夫?」

オレがびっくりして言ったけど、小川くんも湧井さんも 何も言わなかった。

3人ともが、しばらく沈黙していたので オレはカバンからおにぎりを出した。全部で6つ。

「1人 2コだけど、足りるかなあ。」

オレが言うと、湧井さんが歓声を上げた。

「やったー‼ 水本ありがとう‼ うれし~!」

オレも へへへと笑ってしまう。

「普通のおにぎりなんだけど、でも味は みんな違うんだ。当てもんみたいだね。食べてみてのお楽しみ。」

「え~?? 楽し~っ‼ どうする? 小川くん、どれにする?」

ここでようやく小川くんも笑った。

「どれにするって、中身分からないのに?」

「でも選んで食べたいじゃない? 1コずつ取っていこうよ。」

ホントに嬉しそうに そう言ってくれる。モリヤも喜んでくれてたし、おにぎり作ってきて良かった。

順番に、おにぎりを1つずつ取っていった。銀紙に包んでいるから、ほんとに中身は何か分からない。

「オ?」

と小川くんが1口食べて言った。

「俺の、ツナだ! おお! おいしいぞ! 水本‼」

へへへ。

「あ! 私のはタラコだ! …ん? 明太子かな? おいしいおいしい!」

こんなもので こんなに喜んでくれるとは。ああ、嬉しい。

オレのは鰹節だった。みんなで食べると、教室でも おいしい。…モリヤも 一緒に食べれば良かったかなァ。モリヤは1人で食べているのだろう。誘えば良かった。絶対ごはんは1人より、2人の方が おいしい。

「モリヤは 何の具だったの?」

湧井さんが 思い付いたように言った。

「モリヤは 梅干しと昆布。」

「この中にある?」

「ない。」

「どうして?」

「…モリヤが、別がいいって…。」

「??どうして??」

「‥‥さあ…?」

又 湧井さんと小川くんが顔を見合わせている。

そうだなあ。どうして同じがイヤだなんて、モリヤは言ったんだろう。

「おっ 今度のはちりめんじゃこだ。」

と小川くんが言った。

「え⁉ いいなァ! 私 ちりめんじゃこ好きなんだ。一口ちょうだい。」

言って、湧井さんが 手を出す。

「え? いいけど… 俺 かじってるぞ?」

「別にいいよ。」

湧井さんは 小川くんの食べかけのおにぎりを取って、一口食べた。

「おいしい! 水本これ、水本が一人で作ったの? お母さんに 手伝ってもらった?」

「ううん。ご飯は炊いてもらってたけど。にぎったのはオレだよ。」

「へー! おいしいよ! 絶妙の味付け。おにぎり屋さんできるよ。」

ハハハ。おにぎり屋さんだって。オレ、まだ将来何の仕事したいかとか 考えてないもんなァ。でも おにぎり屋さんは、さすがに難しそうと思う。

「へへへ ジャーン! 私のは、ゆかりまぶし!」

嬉しそうに湧井さんは言って

「一口あげる。」

と小川くんに差し出した。

「お、いいのか?」

小川くんは言って、パクパクッと2口食べた。

「あ! 一口って言ったのに!」

とか湧井さんが言って、小川くんは笑ってる。仲良しだなあ。

「水本の最後の1コは何?」

湧井さんが興味津々聞いてくる。

「なめたけー。」

「なめたけ⁉ ハハハ そんなの食べたことない。」

「あげようか? まだかじってないし。」

「え⁉ いいの? あ! じゃあ、私のクリームパンと交換してくれる?」

「クリームパン持ってるんだ? やった! 嬉しい。わらしべ長者だね。」

「そんないいもんじゃないよ。おにぎりの方が上等。ハイ。」

そう言って、クリームパンをくれた。オレは こっちのが嬉しい。湧井さんは

「おお~ なめたけ、おいしいよ!」

と言って ペロペロっと半分食べて、残りを小川くんに差し出した。

「半分欲しいでしょ あげるー。」

「ほんとか! サンキュー!」

楽しい昼食になった。

昨日 遅くなったけど帰って良かった。

‥‥‥‥今日は泊まる?─────

って言ったな。モリヤ。

───遅くなってしまったんだから 泊まってもいいのに──

‥‥‥‥。あの時は、遅くなって焦ってしまって 深く考えてなかった。泊まる? ‥‥森の家に…?

にわかにドキドキしてきた。何を、今さら‥‥。けどモリヤ、本気だったのかな…。それとも、いつもの冗談だったのかな‥‥? モリヤのコトバは 時々真意が分からない。あの森の家に、泊まるなんて どんなだろう‥‥‥。寝室ってあるのかな。それとも あのいつもの部屋に、お布団を敷くのだろうか。お風呂はどんなだろう‥‥。‥‥お風呂も… 真っ暗だと、入れないな‥‥。

「水本?」

オレは ハッとして顔を上げた。

湧井さんが、いや、小川くんも、オレをじっと見ていた。胸が ドキンドキンいってる。モリヤの家で 声かけられた時みたいにびっくりしてしまった。

「どうしたの? 何考えてる?」

「あ… ご ごめん。な、なんでもないんだ。」

オレは へへへと笑ってごまかそうとしたけど、心臓はまだ ドキンドキンいってる。

「モリヤのこと考えてたんでしょ。」

「えっ‼」

ドキンドキンだ。うわ どうしよう 赤くなってしまった。

「思い出したら やっぱり色っぽいと思った?」

と小川くんが言う。

「ち、違う。色っぽいなんて思ってない。むしろ ほんとにどうしてオレには分からないんだろうと思う。」

「ふ~ん。」

と小川くん。

「‥‥実は感じてるけど、水本の気持ちが "色っぽい" という言葉の形をとってないだけじゃないの?」

って湧井さんが言った。

「‥‥感じてない。」

やっぱり不感症なんだオレ。みんなが感じる色っぽさを 感じられないなんて。

「うん、いい、いい。色気なんか、感じない方がいいんだから。」

小川くんが話を切ろうとしたけど、湧井さんが

「どうして?」

と聞いた。

「…色気なんか感じちゃったら、2人っきりで遊びにくいだろ。」

「そうかしら。」

そうかしら? 心の中で、湧井さんの口マネをしてみた。キャー色っぽい!と思ったら、2人っきりで遊びにくいのかな。これまで誰に対しても "キャー色っぽい!" と思ったことないから、よく分からない。

「湧井さんは小川くんのこと、色っぽいって思ったことある?」

「えっ⁉ 私が、小川くんを??」

湧井さんはびっくりした顔をして 小川くんを見た。一瞬見た後、ぶっと吹き出した。

「なんだよ。失礼だな。」

と小川くんが文句を言う。

「だって」

アハアハ笑いながら湧井さんが反論した。

「だって色っぽいだって。水本ったら そんなこと思うわけないじゃない。」

あ 反論になってなかった。

「そうなの?」

「バカだな水本。高校生男子は色っぽいことの方が珍しいんだぞ。」

小川くんの反論。

「じゃあモリヤは珍しいの?」

「珍しいから こんな大騒ぎになってんだよ。」

「そうかあ…。」

「あ」

湧井さんが、何か思い出したみたいに立ち上がった。自分の席に戻って、カバンを取って戻ってきた。

「ハイ。」

と小川くんに本を渡す。

「お。」

と小川くんは受け取った。

「サンキュー。」

「何の本?」

てオレが聞くと

「宮沢賢治」

と湧井さんが言った。

「珍しいね。なんで急に宮沢賢治なの?」

オレが聞くと 湧井さんが教えてくれた。

「小川くんが貸してくれって。洞熊学校を卒業した三人っていうの。水本、知ってる?」

「知らない。オレが知ってるのは、小学校の教科書に載ってた "クラムボンはクプクプ笑ったよ" っていうやつと、銀河鉄道の夜ぐらい。ん? カプカプだったかな? あ、もう1コあった。全部は覚えてないけど印象的な言葉。"あめゆじゅとてちてけんじゃ" これも宮沢賢治だよね?」

「オ~ 水本、文学的~~」

って湧井さんが笑った。オレも笑った。

「全然文学的じゃないよ。教科書に載ってたやつばっかりだ。」

「俺、どれも覚えてないや。」

と 小川くんが言った。

「なんで急に読もうと思ったの?」

オレが聞くと、小川くんは黙った。

「モリヤに読んでみろって言われたんだって。」

代わりに 湧井さんが答えてくれた。

「えっ⁉ モリヤに⁉ モリヤ、宮沢賢治好きなのかァ。知らなかった。」

そんな話したことない。いいなァ 小川くん。

「妬くなよ。そんなんじゃない。」

見透かしたように小川くんが言った。そんなんじゃない。では、どんなん?

聞くより先に予鈴が鳴った。

「おっと 戻ろう。湧井、本サンキュー。」

言って小川くんは、自分の教室に帰っていった。

「水本はモリヤと、文学の話がしたいの?」

「ううん。そんな高尚なことじゃない。モリヤの好きなものは 知りたいけど。」

「水本…」

湧井さんが ため息をついた。

「うん?」

「今度、直接聞いてごらん。何の本が好きって。」

「うん。聞いてみる。モリヤは多分、即答。宮沢賢治なのかなあ。なんで小川くんに薦めたんだろう。おもしろいから読んでみてっていう、世間話だろうか。」

「そんな話するほど 仲がいいとも思えないけど。まあそれも、本人に聞いてみるといいよ。水本は 好きな本あるの?」

「えーと…」

ここで 本ベル。オレたちは 慌てて席に着いた。

好きな本かァ…。又もや あやふやなオレは答えられないな。そんなに読書家でもないしなあ。もしモリヤが 宮沢賢治が好きというなら、オレも読んでみよう。


放課後、又 小川くんがやって来た。

「小川くん」

オレはすぐに 声をかけた。昼休みに聞き忘れたことがあったから。

「日曜 どこ行くか決まった?」

小川くんは答えずに、真顔でオレの席までやって来た。

「どうかした?」

オレが聞いても、小川くんは黙っている。湧井さんもやって来た。

「何? なんかあったの?」

と湧井さんも聞く。

「出たんだ モリヤの発言が。」

「モリヤの発言?」

オレは ハッとして、窓を振り返った。廊下側の窓。鈴なりなんて かわいらしい表現は似合わないほどの顔が覗いていた。ぎゅうぎゅうだ。しかも大騒ぎ。

「…何を言ったの?」

湧井さんが真面目な顔をして聞いた。

「今日のはひどい。一人がモリヤに言ったんだ。水本と夕べ何があったのか、たのむから教えてくれと。そしたら」

「そしたら?」

あくまで真面目な顔で 湧井さんが促す。

「その前に 今朝のウワサは知ってるか?」

「私は知ってるよ。超下品なウワサ。」

「水本は?」

「…聞いてない。」

「それはな、ただのウワサだろう。真実ではないやつ。水本の超絶テクニックと モリヤのSプレイが朝まで拮抗して 続いていたというやつ。」

「…最低。」

怖い顔をして 湧井さんがつぶやいた。オレは言葉も出なかった。超絶テクニックって何? Sプレイ?? 一体 誰が言い出すんだ。

「で? モリヤはなんて?」

怖い顔のまま、湧井さんが聞いた。

「真実だろうから 怖い発言。"夕べ、ぼくのせいで 水本は天国に行けたそうだ"。」

湧井さんは キッとオレを見た。小川くんもオレを見て言った。

「"天国"って言ったんだろう水本。なんでそんなこと言ったか教えろよ。」

「え‥‥‥ て‥‥ 天国と思ったから…」

「状況を言え。モリヤが何して天国だ。」

「何したってわけじゃないけど… いい匂いがしたから…。いい匂い天国。昨日はホント すごかったんだ。」

天国って言ったらいけなかったのか? 正直な気持ちだったんだけど…。

「‥‥‥‥水本が言ったのは」

湧井さんが 睨むようにオレを見て言った。「超キレイなお花畑を見て、天国みたいにキレイだね って言うようなもんだったんでしょ。」

キレイな お花畑…。

「…そ、そうかな…。うん… そうかも。とても美しい世界と思ったから。自分でも ボキャブラリーが貧困だとは思ったんだけど…。」

「ああ…。いや、モリヤの変換能力が 見事なんだよ。」

そう言って小川くんは、大きなため息をついた。

「日曜は 晴れそうだぞ。」

2回目のため息とともに 小川くんはそう言った。

「ホント⁉」

「…嬉しそうだな。」

「嬉しいよ? みんなでピクニックだもの。」

小川くんは嬉しくないのかな…。行きたいって言ったくせに?

「私も楽しみだな。」

湧井さんが笑わずに言った。

「超楽しみ。」

ちっとも楽しみでない様子で 湧井さんが言う。無表情に続けて

「どこ行くか決まったの? 海?」

「おう。駅で待ち合わせでいいか?」

「いいよ。そういや、モリヤとも最寄りが同じよね。水本はどうする?」

「同じとこ来るよ。学校行くのと一緒だね。」

「水本」

小川くんも真面目な顔をしている。

「まさかモリヤを家まで迎えに行こうと思ってるか?」

「う?」

思ってた。

「え⁉ どうして? どうして水本がモリヤの家まで迎えに行くの⁉ 駅を通りこして わざわざ??」

もう怒ってるみたいに 湧井さんが言う。

「なんでか言ってみな? 普通そんな発想はないんだぞ。」

小川くんは逆に 優しい感じでそう言った。

「‥‥いっつも…」

「うん?」

「モリヤの家に行くのは いっつも雨の日だから… 晴れた朝のモリヤの家を、見たいと思って‥‥。」

は───っと 小川くんがため息をつく。

「べ、別にいいだろう? オレが ちょっと家を早くに出るだけのことなんだから‥‥」

「じゃあ私も見たい!」

「え⁉」

「ふむ。なら、いっそ待ち合わせ場所を モリヤの家の前にすればいい。」

「ええ⁉」

「それでいいよな、湧井?」

「いいよ。そうしよう。」

「ちょ、ちょっと待って…。」

「何か 問題でも?」

と小川くんが言う。

「も、問題なんてないけど…」

「ならいいじゃないか。それとも 先に2人きりで会って、いちゃいちゃしようと思ってんのか?」

「‼ 小川くんっ‼」

なんてことを言うんだ。

「冗談だよ。そんなことないんだから いいだろ。」

「…モ、モリヤに聞いてみる…。」

オレが そう言った時、ものすごい歓声が 廊下側から上がって、オレの声はかきけされてしまった。歓声の間を縫うようにして入ってきたのは、モリヤだった。湧井さんは モリヤを睨んでいる。モリヤは スーッとオレの前まで歩いてきて、そしてにっこり笑った。歓声が 静まる。

「水本、一緒に帰ろう。」

くっきりとモリヤの声が 教室に通った。

「う、うん。」

オレは返事をして、湧井さんと小川くんの顔を見た。湧井さんはモリヤを睨んでいる。小川くんは オレを見ていて 行け、と手で合図した。オレは カバンを持って立ち上がり

「じゃあ…」

と2人に言った。にっこりしたまま モリヤは歩き出す。オレも、モリヤに付いて歩いた。

その途端 耳をつんざくような歓声が上がる。窓に取り付いていた人々は すごい歓声を上げながら、でも オレたちに付いてこようとはしなかった。不思議な現象…。

校舎を出るころには、みんなの声はほとんど聞こえなくなっていた。モリヤがオレを振り向いて

「話の途中だった? 誘いに行って良かったかな?」

と にっこり言う。

「全然大丈夫。日曜日の待ち合わせ場所決めてたんだ。」

「そう。決まった? 駅?」

モリヤが聞く。にっこりと。

「うん… それが‥‥ モリヤの家の前でって…」

「ぼくの? どうして? 電車に乗って行くのではないの?」

「電車に乗って行く。」

「じゃあ みんな、遠回りになるんじゃない。」

「そうなんだけど…。…ごめん、オレが モリヤの家に迎えに行くなんて言ってしまったから、じゃあみんなも って、なってしまって…。モリヤ、嫌だったら変えるから。オレ、小川くんと湧井さんに言うよ。」

モリヤは ハハハと笑った。

あ。違う方の匂い。ふわっと流れてきた。

「別にぼくは構わないよ。水本も来てくれるんだろう?」

「もちろんだよ。」

前回のピクニックの朝も 森の家に迎えに行った。朝の お天気の日の森の家は、又 雨の日とは違った かぐわしさがあった。オレはぜひ又、朝に行きたいのだ。

待ち合わせ場所なんかになるのはイヤかなと思ったんだけど、モリヤが いやな顔をしなくて良かった。

「日曜、晴れそうだって。」

オレが言うと やっぱりモリヤはにっこりして、

「そう。楽しみだね。」

と言った。

「モリヤ、楽しみ?」

湧井さんも 小川くんも 行きたいと言ったわりに、楽しみなように見えなかった。口では楽しみと言っていたけれども。

「とても楽しみだよ。楽しみでないわけがない。水本は楽しみじゃないの?」

オレは 首を横に振った。

「ものすごく楽しみ。こんなに楽しいことが目白押しで、どうしようかと思うくらい。」

モリヤが笑った。

「そんなに楽しいことがあるの?」

うん、と オレはうなずいて、

「先週、雨が降ったから モリヤの家に行っただろ。その週末、モリヤとピクニック行った。昨日また雨が降ってモリヤの家に行って、そして日曜日に みんなでピクニックだよ。すごくない? こんなに幸せが続くと 怖くなるね。」

モリヤが立ち止まって オレの方を向いた。

もう学校も出てしまっている。ポプラの並木道だった。モリヤの、違う方の匂いが シューッと音を立てるように香った。

「そんなことが 怖いほどの幸せなの?」

「うん。人生で、いいことと悪いことは プラスマイナス(ゼロ)になるって聞いたことある。こんなに幸せ続いたら… この幸せと同等の不幸なんて、オレ耐えられないかも。」

言ってて ほんとに怖くなってきた。

「実は、ぼくも幸せなんだ。水本がそれほど幸せと感じているなんて 正直思ってなかったけど。」

「え…。ほんとう? モリヤもそんなに楽しいと思ってた?」

「ぼくは はっきり言って、水本以上に幸せを感じていたと思う。」

「ううん。絶対オレの方が上。でも嬉しい。オレだけじゃなかったなんて。モリヤも そう思ってくれてたなんて。」

ふふふとモリヤは笑う。

「水本の言うように 人生はプラマイ(ゼロ)なんだとしたら、ぼくたちには この幸せの次に不幸が訪れるのかな。」

もう一度、モリヤは笑った。

「いいじゃない。」

「え⁉ どうして⁉」

「不幸が来るとしたら、ぼくと水本に同等に来るんだろう? だって2人ともが 自分の方がより上と思えるほど幸せだったんだから。2人ともに不幸が来るんなら いいじゃないか。2人一緒なら、それはそれで楽しいかもしれないよ。」

ええぇ?? すごい。そんな考え方…。

ああ、そうか。2人なら幸せは2倍に 不幸せは半分に、というやつか。なるほど。

オレも モリヤを見てにっこりした。

「ほんとうだね。」

モリヤから又 匂いが立った。

「水本、気になってたんだけど。」

「何?」

又 歩き出して、モリヤが言った。

「水本から匂いがするのは どうして?」

「あ‼ モリヤのとこまで、匂いしてる?」

オレはそう言って、へへへと笑ってしまった。

「この下に、モリヤに借りたシャツを着てる。あんまり いい匂いが染み込んでいて、洗うのもったいなかったから。」

これも オレの超幸福の要因の1つ。オレから モリヤの匂いが立つなんて これを幸せと言わず何と言おう。

天国…。

───夕べ ぼくのせいで、水本は天国に行けたそうだ────

そう。その通り。‥‥‥夕べ‥‥天国に‥‥ ‥‥‥うん?

「あっ⁉」

立ち止まってしまった。…これって‥‥ もしかして すごくエッチな意味にとれるのでは‥‥???

「どうした?」

と モリヤが聞く。ハッとして オレはモリヤを見た。音がしたかと思うぐらい、バッとオレは赤面してしまった。でも モリヤはあくまでにっこり

「どうした? 何か思い出した?」

「あ… う… い‥いや‥‥」

言葉が出ない。聞いた人は 下ネタにとったのかな。違うのに…。小川くんも そう思って言ったのかな…。だから どうして天国なんてって、そう聞いてきたのか‥‥。

そうか。何も言わなくても 下ネタウワサのオンパレードなのに、下ネタを思わせるワードを出したりしたら そりゃえらいことになるわな‥‥。不用意な言葉の選択だったか…。でもじゃあ なんと言えば良かったんだろう…。

「水本」

立ち止まったまま 下を向いてしまっていた。名前を呼ばれて 驚いてモリヤを振り向く。

「何考えてるのか、教えて。」

「‥‥‥」

優しい笑顔のモリヤに 何と答えていいのか分からない。オレの不用意な言葉が、下ネタの連想を誘発してしまいました、と でも…? そんなこと、言えるわけない。オレは何も言えないで、又 下を向いてしまう。

「水本」

「…う…」

「おにぎりありがとう。おいしかった。とても。」

オレは モリヤに振り向いた。

「あれも ぼくにとって、大きな幸せの1つ。」

‥‥幸せ。おにぎりが…。そんなこと言ってもらうと、オレも また幸せが増えてしまう。

「本当はね、水本」

モリヤがキレイな笑顔で言う。

「幸せと不幸せは、プラマイ(ゼロ)ではないと ぼくは思っている。」

「え…?」

「幸せって 実体がない。もちろん 不幸せも。」

「うん…。でも すごく感じる…。」

オレがそう言うと モリヤはとても、とてもにっこりした。

「うん そう。感じるものだよ。だから人それぞれ。ぼくは思うんだけど、水本が言った幸せは、多分他の人には ちっとも幸せじゃないよ。」

「えっ‼ そんなこと、ないと思う。」

うふふとモリヤは、とても嬉しそうに笑った。匂いも舞う。もちろん もう1つの方の匂い。

「ううん。そうなんだよ。だから一般的に言えば 水本は幸せじゃなかったから、この後不幸になることもない。」

「‥‥だって… 幸せだった…。」

「それは 水本の感じる力のすごさなんだよ。」

「感じる力…?」

「幸せを 感じとる力。だから水本が とても幸福と感じていることは、他の人ならば むしろ不幸にあたることもある。水本には一生 不幸は来ないかもね。」

「ええ‥‥?」

そんなこと あるだろうか。あの幸福が、他の人には感じられないなんて…。

…あ。ちょっとまてよ。モリヤが言うのが本当なら、オレ 不感症じゃないや。ハハハ。やったー。

「嬉しい。嬉しいから、モリヤの言うことを信じる。怖がるのやめる。じゃあ モリヤもだよね。モリヤにも 不幸せは来ないってことだよね。」

「ふふふ。どうだろう。ぼくの方は 本当に幸せだったからなあ。」

モリヤは笑ってる。オレも笑った。

「オレだって 本当に幸せだったと思った。一緒だよ。」

モリヤから、あっちの匂いが ふわあっと立つ。オレはさっき、急激に赤くなったりしたからだろうか、暑くなって オレからも、これはいつものモリヤの匂いが立つ。

「うわぁ…」

オレは 目を見開いた。匂いなんて見えないのに。でも 周りを見回してしまう。

すごい。初めての匂い。2つの匂いが混ざり合った、とても、とても いい匂い‥‥。

「ああ… どうしようモリヤ…」

オレは中空を見て笑ってしまう。

「どうした?」

「また幸せになってしまった。気のせいじゃない。絶対幸せ。」

でも モリヤの言ったことを信じるならば、一般的には幸せじゃなくて プラスじゃないから、この後マイナスは来ない。すごい説だ。こんなに幸せいっぱいなのに 不幸せは来ないだなんて‼

ハハハハ 天国‥‥‥‥  シュン‼ て、聞こえた気がした。音とともに オレは真っ赤になってしまう。いけない。天国は 危ないワードだった。そんなことないのに。ほんとは全然、そんなことないのに。キレイな言葉なのに。血の移動が激しすぎて クラっとした。

「う… わ…」

オレから モリヤの匂いが。血とともに 体温も変化したからか? 汗が出る。それ以上に 匂いが立つ。

オレはモリヤを見た。どうしてか モリヤが心配そうな顔をしている。モリヤが笑ってくれないと モリヤから匂いが立たない。2つの匂いが混ざると これが又いい匂いなのに。

「水本」

なんだか 水の中で声がしているみたい。

モリヤが 笑っていない。今日はずっとにっこりしてたのに。どうしてそんな 心配そうな顔を…。

「水本、ゆっくり座って…」

声が、遠いなあ‥‥。こんなに近くにいるのに…。なんだか力が入らない。モリヤに寄りかかるように座り込んでしまったようだ。…ようだ、なんて…。自分の行動なのに。ひどく ボンヤリとしている。

「飲んで。」

モリヤがオレの口元に何かを近付けた。瓶かな。水の? とても涼やかな液体が 喉を通っていく。


「水本‼」

クリアな声が、耳に飛び込んできた。

オレはパチンと はっきり目を開けて見た。湧井さんが、走って来た。その横に小川くん。

「どうしたの⁉ こんな道ばたに座り込んで何? 倒れたの⁉」

最後の方は モリヤに向かって言っていた。

モリヤはオレを支えるように、隣に座っていた。

「え⁉ あれ⁉ なんだ?」

オレは もたれている状態から、体勢を戻した。なんでオレ、座り込んでるんだ? モリヤにもたれて…。 シュワッと顔が赤くなる。頭はクラッとなる。

「水本、ちょっと動かないで。」

モリヤがオレを支えた。

「少し 今日は暑い。軽い脱水症状かも。今 水飲んだから、少しじっとしてたら 良くなると思う。」

モリヤが言う。もう遠くない。すぐ近くの声。

「‥‥ほんとう? 水本 今日調子悪かったの?」

湧井さんが、しゃがんでオレを覗きこむ。

「ううん…。そんなことないんだけど… さっき頭に血がのぼったりしたからかな…。変な汗が出た気がした。」

「大丈夫? 吐きそう?」

心配気な声で湧井さんが 聞いてくれる。

「大丈夫。ちょっと頭がふらっとしただけ。気持ち悪くない。」

「水本‥‥」

湧井さんが オレの手を取った。

「どうしちゃったの? 前は倒れたことなんて なかったじゃない。‥‥病院行った方がいいんじゃない?」

病院⁉ オレは驚いて、湧井さんの手を 握り返してしまった。

「そんな。大袈裟だよ、病院だなんて。」

オレは湧井さんに笑ってみせた。

「ちょっとした脱水症状っていうのが当りかも。オレ今日、そんなに気にしては 水分とってなかったし。」

「でももしかしたら、」

湧井さんは とても真面目な顔で、オレを見て言った。

「最近 何度も突然寝てしまったり、倒れたりする原因も、病院行ったら分かるかもしれないよ?」

その後、しばらく しんとなった。

「オ、オレ、もう大丈夫だから。湧井さん、引っぱってくれる?」

と、オレは笑いかけた。湧井さんは しゃがんだ姿勢から中腰になった。

「水本、ゆっくり。」

モリヤがオレの背中に 手をあてて言う。湧井さんが、そっと手を引っぱって立たせてくれた。

うん、平気。

「ありがとう。ごめんね心配かけて。本当に大丈夫。帰ろう。」

歩き出そうとして

「あ、カバン」

思い出して 見回した。モリヤが オレのカバンも持ってくれていた。

「持ってあげる。家まで送ろう。」

「えっ⁉」

「いいわ!」

湧井さんが モリヤを見て言った。

「私が送るから。」

そう言って、モリヤに手を出した。カバンをかせと。

モリヤは一瞬黙った後、カバンを差し出した。

「じゃあ そうしてもらおうかな。誰か付いていたらいいのだから。」

湧井さんがカバンを受け取ると、モリヤはオレを見た。

「水本、ホントに大丈夫? ちょっと歩いてごらん? ゆっくりね。」

オレは言われた通り、ゆっくり歩いた。そして

「なんともないよ。大丈夫。モリヤ ごめん。いつも迷惑かけて。」

「迷惑なんか かけられてないよ。一度も。」

モリヤがにっこり笑ってくれる。

「では ぼくは先に行くね。水本はゆっくり歩くんだよ。又明日ね。」

オレの目を見てモリヤは優しくそう言って、でもオレが引き止める前に くるりと振り向いて歩いて行ってしまった。オレが思わず追いかけようとすると、ぐいと腕をつかまれた。

「モリヤも言っただろ。水本はゆっくり歩け。」

小川くんだった。恐い顔をしている。その顔で言った。

「水本 おぶってやろうか。」

「えっ⁉」

みんなでオレを驚かすなァ。

「なんで⁉ ‥‥冗談?」

「冗談なもんか。おまえは今、倒れてたんだから 普通の発想だろ。」

「だから大袈裟だって。倒れてない。ちょっと ふらっとしただけだ。…分かった。ゆっくり歩くから。」

そう言って、道の先を見ると もうモリヤの姿はなかった。

小川くんは、湧井さんの手から オレのカバンを取って歩き出した。ゆっくりと。オレも、ありがとうと言って小川くんに付いて行く。湧井さんはオレを気遣うように 隣を歩いてくれていた。申し訳ない。みんなに心配かけてしまった。オレ、暑さに弱かったかなあ? そんな自覚はなかったけど。

歩きながら思い出した。モリヤに宮沢賢治が好きなのかと、聞くのを忘れていた。せっかく幸せいっぱいだったのに オレは何をやってんだか。

駅に着いたので、オレはここからは一人で大丈夫と言った。小川くんと湧井さんは ここが最寄りの駅だから。電車には乗らないんだ。でも2人は 分かったとは言わなかった。

「一人では帰せないわ。」

と湧井さんが言った。

「家まで送ってやる。」

と小川くんも言う。オレは思わず にやっとしてしまった。

「深窓の令嬢じゃあるまいし。」

オレが言うと 小川くんもにやっとした。

「確かに令嬢ではないけどな。でも今のおまえは、病弱なぼっちゃんてとこだ。つべこべ言わずに送られろ。」

「そうだよ水本。」

と湧井さん。

「途中で倒れたらどうすんの。」

大丈夫なのに。気分も体も どっこもおかしくない。そうだよな。どうしてさっきは…。なんの予兆もなかったのに。

断りきれなくて 3人で電車に乗った。申し訳ないけど、ちょっと楽しい。送ってもらうなんて 初めてだ。オレを座席に座らせてくれる。うーん。病弱なぼっちゃんか。初めて言われてしまった。元気だけが取り柄だったのに。

座ってるオレの前に立って つり革を持っていた小川くんが

「水本は そんなんでピクニック行けるのか?」

と聞いた。オレはギョッとして

「絶対行く!」

と勢い込んで言った。

「行きたいかどうかじゃなくて、行けるかどうかを聞いてるんだぞ。」

「行けるよ! 大丈夫って言ってるじゃないか。」

「水本の大丈夫は信用できない。」

そんな…。

「でも…」

湧井さんが真面目な顔をして言った。

「水本が 寝たり倒れたりするのは、決まってモリヤといる時よ。」

「‼ 違う! 関係ない!」

「そうかな。」

「そうだよ。モリヤは関係ない。だって どうして? 学校出てから モリヤはオレに触れてもいない。モリヤが原因のわけがない。」

「私が見た時は 触ってたよ。」

「それはっ それはオレがふらっとして、座り込んだからだ。モリヤのせいで ふらついたんじゃなくて、ふらついたオレを支えてくれたんだ。本当だ。」

「確かに、触れもせず モリヤが何かできるはずもないと、俺も思うぞ。」

小川くんが冷静に言った。湧井さんも、それ以上 言わなかった。

ああもう…。オレのバカ‼ オレがふらついたりするから、又モリヤに疑いがかかってしまった。ちゃんと水分とって、ちゃんとごはん食べよう。普通に食べたり飲んだりしてるつもりだったけど、気をつけないと。そして早く寝る! これだ!


駅までじゃなく、本当に2人は家まで送ってくれた。

そんなに オレって信用ないのかなあ。オレがそう言うと、小川くんがそれだけじゃないと言った。

「もし家までおくらず帰って、水本が途中で倒れでもしてみろ。俺たちは一生、モリヤに嫌がらせされる。」

ハハハとオレは笑った。モリヤがそんなことするわけない。小川くんが冗談言ってると思ったんだ。だけど小川くんは笑わなかった。

「湧井まで嫌がらせされたら たまらん。」

なんて言う。湧井まで?

「‥‥小川くん 嫌がらせなんか、されてないよね?」

小川くんは オレをちらっと見た。無言。…ええ??

「小川くん、モリヤに嫌がらせされたの?」

と湧井さんが聞いた。

「されてない。」

小川くんは否定した。オレはホッとする。そりゃそうだろう。モリヤが嫌がらせなんて、するわけないもの。

「じゃあどうして そんなこと言うの?」

「‥‥しそうだろ。モリヤ。」

「しそうじゃないよ。」

間髪入れずにオレは言った。でも湧井さんが

「しそう… モリヤ…。」

なんて言うんだ。

「そんなことモリヤはしない! 想像でそんなこと言ったらいけないよ。日曜日 一緒に遊びに行くのに…。」

オレは一生懸命に言った。だってモリヤは 楽しみ、と言ったんだ。せっかく楽しみにしてるのに。

「‥‥そうね。」

気をとり直すように湧井さんが言った。

「うん。一緒に遊びに行くんだもんね。ごめんごめん。もう こんな話はやめとこうね。じゃあ小川くん、私たちは帰ろう。水本、バイバイ。」

「う、うん バイバイ。あ、ありがとう こんなとこまで送ってくれて。ごめんね。」

「どういたしまして。謝んなくていいのよ。じゃあね。」

湧井さんは そう言って、後ろに振り向いた。

「小川くんもありがとう。ずっとカバン持ってくれて。じゃあ、明日ね。」

「オ、オオ…。」

小川くんは カバンをオレに渡してくれて、でもすぐには振り返らず 黙ってオレを見た。それから

「もしも明日、又倒れたりしたら ピクニックはナシだからな。」

「えっ⁉」

「当然だろう。万一倒れても 隠すなよ。」

口をぱくぱくしてしまった。言葉が出なかった。

「じゃあな。」

と言って 小川くんは振り向いて歩いて行った。湧井さんも歩きながら、オレを振り返って見ていた。心配そうな顔で…。



次の日 オレは、よく食べて よく飲んだ。よく寝てもいた。カンペキ。倒れるわけない。

昼休みのお弁当の時、湧井さんがオレを見て笑った。

「今日は 気合い入ってるね。」

「うん。倒れるわけにいかないからね。ピクニックナシなんてたまるもんか。」

くすくすと湧井さんは笑う。

「そうだね。行こうね、ピクニック。」

「うん! 絶対行く。‥‥オレ、ホントに楽しみなんだ。」

「知ってるよ。」

湧井さんは、笑って言う。それから いたずらっぽく

「でも 泳がないのに、海行って何するんだと思う?」

「うん? …み、見るんだろうね。」

ハハハと湧井さんは笑う。

「そりゃ見るでしょう。4人で海行って、ボーッと眺めてんの?」

「おぉ? 何も考えてなかったな。考えといた方がいいか…。ビーチボールとか持っていく?」

ククク… 湧井さんはずっと笑ってる。

「モリヤがビーチバレーなんかすると思う?」

「‥‥しなさそうだね…」

全然イメージできない。

「…砂の城でも作る? それならモリヤもやるかも…」

「確かに。」

やっぱり湧井さんは笑って

「でも 小川くんが参加しないとみた。」

「‥‥そうかも…。」

「ハハハ 困ったね。」

ちっとも困った風でなく、湧井さんが言う。

「あ! いいこと思い付いた!」

オレが言うと湧井さんは なあにと聞いてくる。

「へへへ 内緒にしとこう。日曜日のお楽しみだ。」

「へー。私に隠し事をするとは 生意気な。」

なんて言って湧井さんは笑ってる。

良かった。もう心配してない。オレが心配かけすぎて、昨日の帰り 湧井さん笑ってなかったもんな。


ちょうど お弁当を食べ終わった時、小川くんがやって来た。

「やっぱり ウワサが出た。」

ウワサも もう日常。廊下側窓の鈴なり人々も もう日常。いい加減 飽きそうなものと思うのに、ちっとも収まらない。

「もう 驚かないわよ。」

なぜか湧井さんは、威張って言った。

「果たしてそうかな。」

小川くんは にやっとして言った。

「でもまあ 今日のは少し、マシとも言える。」

まし…かァ…。

「どういうの?」

おそるおそる聞いてみた。

「ついに道バタで情事!」

「‥‥‥」

ここで笑えたらいいんだけど…。

「でもそのモリヤのSぶりに ついに水本は耐えられず、俺に乗り換えて逃げた というね。」

「なんてバカバカしいんだろう。」

湧井さんが、しかめっ面で言う。オレは言葉も出ない。なんでモリヤがSなんて… 一体、誰が言い出したんだろう…。昨日だって、とても いたわってくれた。Sどころか、とても優しい。モリヤが ウワサなんて気にしないっていうのが 救いだけど。

「‥‥モリヤは… なんか言ってた?」

「言わない。今日は笑ってもない。ただ」

「ただ… 何?」

「今日も色気が 半端ない。何人か吸い寄せられてたぞ。」

「…す… 吸い寄せられるって… 何…?」

「言葉通り。モリヤを見て フラフラッと寄っていってしまうんだ。」

「よ、寄っていって どうなるの?」

「どうにもならん。ただただ、モリヤを近くで じーっと見てるんだ。」

「気持ちわる!」

と言ったのは 湧井さん。オレはちょっと茫然。

「俺は アレに似てると思ったなァ。」

小川くんは、なんだか一人で納得している。

「アレって何よ?」

と湧井さんが聞く。もちろん オレも聞きたい。

「アレだよ。食虫植物っていうやつ? 匂いで虫をおびきよせて 罠に落とすんだ。落ちたら もう出られない。」

「ウツボカズラね。」

食虫植物⁉

「ええ?? 何が? モリヤが?」

どういう意味?

「そう モリヤが。」

と小川くんが答える。

「抗えないもののように 吸い寄せられてた。」

吸い寄せられる‥っていうのが今一よく分からないが。

「似てるってなんだよ? モリヤは 罠をかけたりしないだろ。」

「いやいや水本。罠っぽいじゃないか。」

罠っぽい? なんだそれ。

「水本だって 思いっきり匂いに吸い寄せられて、完全に落ちてるだろ。」

「落ちたりしてない!」

予鈴が鳴った。

「おっと体育。水本、行くぞ。」

小川くんがなんと言おうと オレは落ちたりしてないのだ。体操服をつかんで オレは小川くんを追った。

隣の教室に入るなり ああもう! 耳が痛い。全く 何を言って騒いでるのか、識別もできない。そのギャーは無視して、オレはモリヤを見た。モリヤも こっちを見ていた。オレは席まで歩いていく。吸い寄せられたんじゃない。ちゃんと自分の意思で近付くのだ。

「おはよう。」

と オレが言うと、モリヤはにっこりせずに

「あの後 なんともなかった?」

と言った。

「なんともないよ全く。むしろ今日なんか いつもより元気。」

オレがそう言うと、モリヤはやっと笑った。

「良かった。おはよう。いや、もう昼だね。」

あ、昨日と同じ。いつものモリヤの、じゃない方の匂いが舞った。

不思議なことに モリヤがこう言ったとたん、耳をつんざくばかりだったギャーという声が、一瞬にして収まった。でも それぞれの行動に移ったとかいうのではなく、ただ モリヤを注視しているようなのだ。

つくづく 不思議な現象…。

「水本、来い。」

と小川くんが オレを引っぱって、窓際に連れていく。そのとたんに又、騒ぎが発動する。なんのスイッチなんだろう。

今日は少し薄曇り。でもとても むし暑い。オレはもう モリヤのシャツを、洗濯に出してしまった。さすがに オレの汗まみれ。汗の匂いになってしまっては、モリヤの匂いに気の毒だ。だいたい、モリヤのシャツだしね。あんまり汚してしまってはいけない。‥‥すでに オレの汗まみれなんだけど…。

ああ 昨日は幸せだったなあ。モリヤ体験してしまった…。そして 新発見もあったのだ。モリヤの匂いと、あの違う方の匂いが混ざったら これまた絶妙ないい匂いになるということ。でも、この現象は起こりにくい。だってモリヤは一人しかいないから。だから ホントに昨日のは、貴重な体験だったのだ。

「水本見てみろ。」

ぼんやり着替えてたオレに小川くんが言ったので その指さす方を見ると、モリヤの周りに人垣ができてた。

「アレ⁉ モリヤどうか…」

オレが行こうとするのを、小川くんが腕を持って引き止めた。

「モリヤはどうもしない。色香に吸い寄せられてんだ。」

「ええ⁉ アレ、そうなの⁉」

「ああ。少し様子が変だろ? 無言だし。」

確かに。誰も何も言わず、ただ モリヤを見ているようだ。

人垣が揺れた。モリヤが動いたのだろう。

「水本 行こう校庭。」

小川くんが言った。

「う、うん…」

モリヤの周りは人垣ができたまま、校庭に向かって動いていくようだ。

「…すごいね… なんであんな…」

「食虫植物みたいだろう?」

「‥‥‥」

確かに、ものすごく不思議な現象ではあるけれど、オレは首をかしげる。"罠"ではないよな…?誰もひどい目に合ってないんだから。


体育の授業の終わりに先生が言った。来週から水泳が始まると。よしっ‼

いやしかし待てよ… モリヤの匂い、戻るのかなあ…。



次の日も、その次の日も、オレはよく寝て よく食べて よく飲んだ。

土曜の放課後、小川くんがやって来た。ギャーだ。よく声を潰さないもんだ。小川くんが そっちをチラリと見ながら オレの席へ。

「アレ、よく文句出ないな。」

「あの大騒ぎのこと?」

と言ったのは 湧井さんだ。

「ああ。特にこのクラスは、隣よりおとなしいだろ。女子がよく うるさいって文句言わないよな…」

不思議そうに言う小川くんに、湧井さんが答えて言った。

「女子を巻き込んでいないことと 教室内には入ってこないこと それと」

湧井さんは、にやっと笑った。

「ウワサの内容が、結構女子に受けてるのよ。」

「ええ⁉」

驚くのは いつもオレ。

「なんで⁉ どこが⁉ 湧井さんは 怒ってる時多いよね?」

「私は水本の友だちだから 腹が立つのよ。傍観者には、おもしろいらしいわ。」

ええええ??? 女子の好きそうな話とも思わないけど…。だって、下ネタだよ?

オレの驚いた顔を見て、湧井さんはアハハと笑った。

「水本は純だから知らないのよ。女子だって 下ネタ好きの子はいるし、なにより ボーイズラブが好きよ。」

ボーイズラブ??? ひー

オレは 教室を見回した。まだ たくさん女子が残っている。おとなしくしているけど 確かにこっちを見てる子も多い。ウワサに興味が? ほんとう?

「明日、8時でいいか?」

小川くんが言った。

「早いんだね。」

とオレ。

「暑くなりそうだろ? 早い方がいいと思って。ま、どっちにしろ 暑くはなるけどな。昼メシ食べるんだから。」

「うん いいよ。8時な。モリヤの家の前。」

早いのは 全然いい。早く会える方が嬉しい。

「そうだ 小川くん、宮沢賢治読んだ?」

ふと思い出して聞いてみた。

「ああ。」

「おもしろかった?」

小川くんは 首をかしげた。

「湧井の言った通り、なんかブキミな話だったな。」

「ブキミな話? 宮沢賢治って フシギなファンタジーじゃないの?」

「ふふふ 甘いぞ水本。」

湧井さんが言った。

「注文の多い料理店、知ってるんじゃない?」

「…聞いたことあるげど、内容までは…。…ブキミなの?」

「あれも怖い話だよ~。」

小川くんも へ~~っと言っている。

「ブキミな話、モリヤ好きなのかなァ…」

「水本、聞いてないの? モリヤに。」

と湧井さんに聞かれて、オレはうなずいた。

「聞くの忘れてた。」

「そっか。じゃあ明日聞いたらいいね。」

窓辺が揺れた。人の声で。

「あ、モリヤ。」

と小川くんが言った。

大騒ぎで揺れる窓辺など気にもせず、モリヤはこっちへ近付いてきた。オレの前にピタリと立ち止まると

「明日の時間を聞きにきた。」

と にっこりして言った。

「あ! そ、そうだね。それを言っとかないと。8時だって。8時にモリヤの家の前。いい?」

「もちろん。水本、一緒に帰ろう。」

「だめよ!」

オレがうなずく前に、湧井さんが止めた。

「まだ話が終わってないの。水本は私と一緒に帰る。モリヤは、悪いけど今日は一人で帰って。又、明日ね。」

早口で一気にそう言った。モリヤは かすかに目を見開いて、そしてやっぱり にっこり笑った。

「分かった。一人で帰ろう。では 水本、明日8時ね。」

「う、うん。明日。ごめんね。」

モリヤは微笑んだまま くるりと振り向いて教室を出て行った。

「わ、湧井さん、話って何?」

すぐ済むのなら 追いかけようと思って、オレは慌ててそう言った。

「話なんかない。」

湧井さんは真面目な顔で言って

「水本をモリヤと2人で帰すのは 心配だったから。」

と言った。

「今日倒れたら、ピクニック行けないもんね。」

なんて言う。

「…だから…!」

モリヤのせいじゃないって、言ってるのに‥‥。

「水本は今日、私たちと帰ったら倒れない。でもモリヤと2人きりで帰ったら 倒れるかもしれない。そういうことよ。」

「‥‥‥‥」

バン! と小川くんが、オレの肩を叩いた。

「明日、朝っぱらから会えるんだから いいじゃねーか! 2人で存分にしゃべればいい。な⁉」

「う‥‥‥」

オレは モリヤが去った教室の扉の方を見やった。当然もう、モリヤの姿はない。せっかく誘いに来てくれたのに、申し訳ないと思ってしまう。

「湧井」

小川くんが 真面目な顔をして湧井さんに声をかける。

「何?」

「あんまりモリヤに突っ掛かるな。」

「あら。」

湧井さんは 小川くんをまっすぐに見て

「突っ掛かってなんか いやしないわ。水本のリスクを減らしたいだけよ。小川くんだって 2人で帰るのは止めたかったんじゃないの?」

「そりゃそうだけど。でも ずっと2人になるのを阻止するわけにも いかないだろう。」

「もちろんそうだけど 今日倒れたら 明日の水本のお楽しみが奪われてしまうのよ。せめて、それはさけたいじゃない。」

「それでも。湧井は、そういうことをモリヤに言わない方がいい。とにかく モリヤを刺激するな。」

「私は 言いたいことは、はっきり言うわ。刺激したっていいじゃない。」

「しないでくれ。前にも言ったろう。モリヤは危険だ。」

「そうかしら。」

小川くんが そうだと言うのと、オレが そんなことないと言ったのは、ほとんど同時だった。小川くんは オレを見た。オレも 小川くんを見た。

「分かった。」

オレが口を開けかけたのを、小川くんが止めた。

「今日は、こんな話はやめとこう。明日は楽しいピクニックだからな。」

「そうよ。水本の楽しみが 半減したら可哀想よ。」

「う‥‥」

なんだか えらく、子ども扱いされてる気がした。

「俺は湧井のおにぎりが、超楽しみだな。」

小川くんが にやっと笑って言った。

「おっ、期待されてるんだ?サンドイッチにしようかなぁ。おにぎり屋さんの水本に対抗しても、勝ち目なさそう。」

湧井さんも笑って言った。ははは、とオレも笑ってしまう。何言ってんの湧井さん。湧井さんの作ったおにぎりの方が おいしいに決まってる。

「サンドイッチでもいい?」

なんて、湧井さんは小川くんに聞いている。

「いいよ。湧井が作ってくれるんなら、なんでもいい。」

おー。仲良しなとこ 見せつけてきたな? オレは、ふふふと笑ってしまう。

2人がオレのこと心配しすぎて、なんだかモリヤとギクシャクしてるように見える。だけど モリヤはいつだって、悪くなんかないのだ。

明日。初めて、みんなで過ごす。モリヤがオレ以外の人と遊ぶのは、多分これも初めてだ。誤解が すっかり解けますように。ちゃんと一緒に過ごせば、絶対 誤解だったと分かるはず。ウワサばっかりで モリヤのこと、よく分かっていないから オレの変な行動で誤解されたんだ。

オレは 2人に向かって

「本当に明日のピクニックを楽しみにしてる。」

と明言した。小川くんが

「バカだな。」

と言った。続けて湧井さんが

「とっくに知ってるよ。」

と 笑った。

次回、ピクニックは小川くん目線でお送りします。

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