元・しゃっくりとマスク
「保井さん、どうしたの? 怪我したの?」
泣いている保井さんに、何があったのか全く分からない私は慌てて声をかける。
「阿部、さん……」
こちらに気付いた彼女は、ポロポロと涙を流しながら何かを訴えようとするけど、気持ちがいっぱいいっぱいになっているようで、口を開けては声を出さずにぱくぱくとして、また口を閉じてしまう。
どうしたのだろうと駆け寄り、近くの椅子に座ってから彼女のいるノーマの手すり部分に付いているパネルを見る。するとそこには、《捻挫・骨折》の表示があり、保井さんの足元にあるドーナツのような形をした機械から、彼女の右足に向けて、ふわふわと霧のようなものがまとわりついていた。
骨折だったらもっと痛がるというか、こんなに落ち着いてはいられないだろうと思うから、多分、彼女は捻挫をしてしまっているみたいだ。
状況を何となく把握したところで、秋月君が谷川君をベッドへと運び終えたのを認識し、やっちゃったと思う。おんぶ状態からベッドにおろすのは大変だろうから、手伝おうと思ってたのに。
少しガーンとなりつつも、私は仕方ないなと気持ちを切り替え、保井さんの方に視線を移す。
ポロポロと泣き続ける彼女に、どう声をかけようか悩んだ。私は未来ちゃんみたいに、彼女と接点が沢山あるわけではないから。
未来ちゃんが部活に顔を出すときに、一応体育館まで一緒についていって、見送ってから帰るようにしていたから、そのとき体育館にいたら頑張ってねと声をかけるぐらいで、教室では吉田さんや他の子と一緒にいることが多い彼女とは、あんまり話したことがない。
どうしようと思って秋月君の方をもう一度見るけど、彼の視線は谷川君の方を向いている。
少し心配しているような、伏し目がちで長いまつ毛が際立ったその顔は、とっても綺麗。邪魔にならないようにふわふわした黒髪を後ろでひとつに纏めているのも、襟足が凄くセクシー……ってそうじゃなくて!!
そう自分にツッコミを入れたときに、はっとする。
そうだ、キューブを使えばいいじゃない。『解放』の能力を使えば、少しはリラックスさせることができる。
自分が持っている熊の絵の鞄。その手持ち部分に小さなチェーンでつけているキューブを手に持つ。保井さんが不思議な物を見るようにしていたけれど、それはお構い無しにキューブを展開する。
聞きなれたキリキリ、チキチキというような形容しづらいその音を鳴らして左腕に張り付いたところで、私は最近よく使うひとつの言葉を唱える。
「【精神の解放】」
これは、私が秋月君や谷川君と一緒に研究所にいるときに毎回使っている技。これを唱えたからといって、目に見えて何かが変化する訳では無いけど、息詰まった空気や心の重みを軽くすることができるから、幾分かは気持ちが楽になるんじゃないかな。
保健室全体にリバレーションが行き渡ったのを確認して、これでよしと思って保井さんを見た私は衝撃を受ける。
「え、えぇっ! ややや保井さんどうしたのぉお」
ダメだ、普通に喋れない。
私が見た彼女の顔は、先程よりも激しくボロボロと泣いていた。リラックスして、逆に色々考えるようになってしまったのだろうか。大粒の涙を流して嗚咽し出す保井さんに、もうどうしていいかがわからない。
「っけた!」
「え?」
絞り出すように言った彼女のその言葉は、しゃっくりの音に邪魔されてしまって聞こえない。私はもう一度言ってもらおうと聞き返すけど、今度はそのしゃっくりが恥ずかしくなってしまったのか、また黙りこんでしまい、ひっく、ひっくという声だけが彼女から聞こえる。
どうしよう。何かいい方法があれば……。
「え、えぇと……。しゃ、【しゃっくり解放】?」
どうしたらいいかわからず、私は悩む頭を必死に回転させて、保井さんに手を当てて解放という言葉を付けるだけでしゃっくりが治るようなイメージを口にする。
ぶふっ
誰かが吹き出したような声が聞こえた。その声の先にいるのは、谷川君を心配そうに見ていた秋月君。なんだか私が言った『しゃっくり解放』を小声で連呼して小さく笑っている。
ネーミングセンスゼロのその名前が面白かったみたい。ほとんど見ることがない秋月君の笑ってる顔。……かわいい。
「阿部、それ効かないよ」
「え?」
聞き返したとき、丁度保井さんからまたしゃっくりの音が聞こえる。
「ひっく」
「キューブの力が及ぶのは、キューブを使っていた時にだけ。マダーじゃない保井さんに【しゃっくり解放】を使いたいなら、リバレーションと同じように、対象を『人』じゃなくて『空間』に指定してごらん」
「あ、そっかぁ」
しゃっくりが出なくなる空間になるということは、直接は効かなくても、間接的に保井さんのしゃっくりを治してあげられる! さすがだぁ。
助言のとおり、保健室全体に【しゃっくり解放】をかけてみると、大粒の涙を流したままではあるけれど、徐々に彼女のしゃっくりが治まってきた。
少しして、完全に治まった様子の保井さんは、溢れ出る涙を指で拭いながら言った。
「試合中に、こけた」
「あう……そっか。捻挫っぽいの?」
私は彼女が少しでも話しやすくなるように言葉を足す。
「うん……。治るまで2時間かかるって、私を連れてきてくれた世紀末先生が言ってた。そんなに時間がかかっちゃあ、試合に戻れないよ。だから、みんなに申し訳なくて……」
泣いて鼻声の保井さんを見て、そういうことかと理解する。
ノーマにセットされているパネルには、残り約1時間30分の表記がされていて、自然治癒させるよりも驚く程早いスピードで怪我は治るけれど、それでも彼女がバスケの試合に間に合うことは無いだろう。
それだけ話した保井さんは、体育座りで両膝に顔をうずめ、動かなくなってしまう。
うーん、どうしよう。
悩む私が目を向けるのは、やはり秋月君の方で。彼を見ると、珍しく目が合った。はっとなってぐるんと顔の向きを元に戻した私は、その瞬間にピンと閃く。
「秋月君!」
自分の座る椅子をガタンと音を鳴らして立ち上がった私は、彼の方を笑顔で見る。秋月君は、その瞬間に私の考えを読み取ったようで、心底嫌そうな、そして恨めしそうな顔をした。
「つちや……」
体育館へと移動した私たち。私の前を歩く秋月君は土屋君に助けを求めるような声で話しかける。なぜかって……私がお願いして、自由に歩けない保井さんをおんぶしてもらっているから。
「うお!? 秀、お前何やってんだ」
「こっちのセリフだよ……。僕、一体何やってるんだろう」
ぶつぶつ言いながらも、秋月君は優しく保井さんを体育館の壁際に下ろしてくれる。足に負担をかけないように、慎重に左足からゆっくりと。
「私がお願いしたの。保井さん、捻挫で試合に出られなくなっちゃって、申し訳ないって悲しそうにしてたから。せめて横で応援させてあげたいなと思って!」
「もう無理……土屋、あとは任せた」
体育館の壁にくっついて座った私と保井さんから距離を置いて、彼は土屋君の影に隠れるようにして蹲り、黙ってしまった。
「ごめん秋月、ありがとうね」
焦って言う保井さんに、数秒経ったあと彼はその体勢のまま、親指と人差し指だけを丸くつけた、おっけーマークを片手に作って見せた。
「……戦況は?」
顔をあげず、試合を見ることが出来ない秋月君が土屋君に聞く。
「んー、今回の対戦は勝てるけど、この先のこと考えるとちょっとヤバめかな。今、点差は全く問題なくバスケ部が勝ってるけど、相手側も下手なわけじゃないから、皆ある程度大きく動き回ってる感じ。決勝に使う分の体力まで削られていってるよ」
「そっか。ちなみに、土屋は?」
「俺たちは準決勝で敗退。まあしょうがない、相手チームに男バスの奴が2人入ってたからな」
「それは厳しいね」
そんな話をふたりがしている中、一際大きな歓声があがる。コート内を見てみると、試合残り時間は20秒。相手チームがシュートを外してしまったみたい。
ボールを取った吉田さんがゴールに向かってドリブルをしていて、左側から取られそうになるも、コートの真ん中ぐらいにいる未来ちゃんに振り向きざまにボールを投げる。
未来ちゃんはそのまま前に出るけど、左右囲むようにブロックに付かれて打てそうにない。だから、前に走りながらブロックを引き付けて、シュートをすると見せかけたところから、後ろを見ないで背中側にいる世良ちゃんにパスをした。
寸分狂うこと無く彼女に飛んでいくボールは、彼女たちのチームワークの証。キャッチしたボールはそのまま世良ちゃんのダンクによってネットに押し込まれた。
更に歓声があがって、そこで笛が鳴る。45対18で、未来ちゃん達バスケ部の勝利だった。
「……凄いね」
ぼそっと言った秋月君は、どの時点からかわからないけど、今の光景を見ていたみたい。ほんの少しだけ顔がコート内に向いていた。
両チームが礼を終え、彼女たちは次の試合メンバー達と交代でコート外に出てくる。吉田さんがふとこちらに気付いて指さして、皆と一緒にパタパタと走ってやってきた。
「保井! 大丈夫!?」
声をかける吉田さんに、保井さんが言う。
「ごめん、捻挫した」
「そっか……」
コートの方から試合を始める声が聞こえ、少しみんなの意識がそちらへ向けられる。暫くその様子を見てから、保井さんが重い口を開いた。
「でもね、私はバスケ部だけど別に特別上手いっていうわけじゃないし、何なら未来のほうが上手いから、この後のこともチームとしては大丈夫だと思ってるんだ」
保井さんは、そんな事ないと首を横にぶんぶん振る未来ちゃんと、皆を順に見て言う。
「問題なのは、私が抜けて、チームはこのまま3人になってしまうところ。前半後半どっちも10分ずつ、今みんな第2回戦が終わったんでしょ? で、 今やってるあのチームの第2回戦が終わったらその後に決勝。この試合を待ってる20分ぐらいは休憩できるけど……体力的に、結構キツイ試合になると思う」
申し訳ないとばかりに俯く保井さんの頬を、吉田さんが両手でぷにっと挟んだ。目をまん丸にして彼女を見る保井さんに、吉田さんは笑顔で言う。
「大丈夫! 体力ぐらいどうとでもなる。保井はそんな事は気にしなくていい。ただ、足にボールが当たらないようにだけ気をつけて、どっしり構えてくれてたらいいんだよ」
そこまで話した彼女たちに、女子コートからの笛の音が聞こえる。前半が終わるにしてはまだ早すぎるだろうと思って、時間を見ると、試合を始めてからまだ2分しか経っていない。
だけど、得点板はもう既に、37対0という脅威の数字をたたき出していた。
「何? なんの笛の音?」
不思議に思う私たちの方に、審判の先生が歩いてくる。そして言った。
「リタイアするチームが出た。今から決勝戦始めるぞ」
「……まじか」
さすがに吉田さんも動揺を隠せない。
20分程は休憩できると思っていたところに、まさかのすぐに決勝戦。しかも相手はまだ2分しか試合していなかったから、多分そこまで体力を使っていることもないと思う。
「休ませてはくれないのねぇ」
ふうとため息をつく吉田さんに、保井さんが可能性のある理由を述べる。
「私のハプニングで時間が遅れてたから、巻いていきたいんじゃないかな」
「んー、まあ何にせよ、勝つしかないね」
そう纏めた吉田さんは、皆をしゃがませて保井さんと世良ちゃんの肩に腕を乗せる。世良ちゃんは吉田さんと未来ちゃんの肩へ、未来ちゃんは世良ちゃんと保井さんの肩へと乗せ、円陣を組む。
「いくよ! バスケ部ファイッ!!」
「おーーっ!!」
気合いを入れ直した彼女たちは、3人でまたコートへと入っていく。その先にいるのは、私たちのクラスから出ているもう1つのチーム。瀬戸さんと須田さん。そして、キャップ帽に丸いメガネ、黒いマスクをした女の子。
バスケ最終戦。この試合に勝てば、バスケ部の優勝。絶対に絶対に、勝たなければならない試合。
緊迫する空気の中、彼女たちは自分の居場所を守るため、コートの真ん中へと向かう。
両チームが向かい合い、未来ちゃんの前にその謎の女の子が立ったとき、彼女は気付いてしまった。それが誰なのかを。
「……凛ちゃん?」
その声を聞いて、見学している私たちは揃って驚きの声を出す。
「やっほー未来ちー」
聞きなれた、その声と喋り方。
「ごめんね? 優勝するのはアタシらだよ」
着けている黒いマスクを外して、メガネを放り投げてニンマリと笑う凛ちゃんに、目を見開く未来ちゃんの顔がとても印象的だった。




